仏教思想
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仏教思想の基本

精進(しょうじん):正しい努力に関して

 以下のテキストは、2022年夏期セミナー特別教本『宗教と政治の問題と和の思想 精進(しょうじん):正しい努力の教え』第1章として収録されているものです。

教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

 

1.はじめに

ヨーガ・仏教のいろいろな教え・法則であろうと、心理学の理論・心理療法であろうと、心身の向上に役立てて幸福になるには、単に、頭で学んで知識を増やすだけではなく、それを身に着けるまでの努力がなければ、あまり役に立たないことの方が多い。これは、実際に学びに入った人が実感することだと思う。

私たちの幸福・不幸や、心や体のあり方は、その日常の思考・感情・性格・体の使い方・行動の仕方・周辺の環境などが深く関係しているが、それらのほとんどは、その都度、自分の意識が自分の意思で選択しているようで、実際には、習慣的に無意識的に(無意識の脳活動に主導されて)行われている。これが心理学の研究によっても確認されている。

そのため、自分を良い方向に変えていくということは、これまでの悪い習慣を修正して、良い習慣を形成するという側面がある。こうして、今まで知らなかった良い知識を頭で吸収することと、それを心身において身に着けること(良い習慣にすること)は異なるのである。


2.仏教の精進の教え

仏教には、精進という言葉があり、これは日常用語にもなった。

精進は、元は梵(ぼん)語(ご)のビールヤ(vīrya)の漢訳の仏教用語である。「勤(ごん)」「精勤(しょうごん)」などとも訳される(日本大百科全書(ニッポニカ)「精進」の解説より)。

精進の元の意味は、①ひたすら仏道修行にはげむこと、また、その心のはたらき、などである。

それから転じて、②一定期間、言語・行為・飲食を制限し、身をきよめて不浄を避けること。物忌みすること、③一般に、魚や肉類を食べないで菜食すること。また、その料理、④一所懸命に努力することを意味するようになった(精選版 日本国語大辞典「精進」の解説より)。

われわれの日常用語では、④の意味で使われることが多いことは、ご存じの通りである。

仏教教義の中では、仏祖釈迦牟尼がその最初の説法で説いた「八(はっ)正道(しょうどう)」という実践徳目(実践課題)の一つである(正精進(しょうしょうじん))。

また、その後に釈迦が説いた、四(し)正(しょう)勤(ごん)、五(ご)根(こん)、五(ご)力(りき)、七(しち)覚(かく)支(し)などの教えでも説かれる。

さらに、釈迦の死後に発展した大乗仏教における基本的な実践徳目(実践課題)である「六(ろく)波(は)羅(ら)蜜(みつ)」の一つにもあげられて、重視された。


3.正精進(しょうしょうじん)・四正勤

先に述べた釈迦は、その最初の説法で説いた八正道の八つの実践徳目の一つとして、「正精進」(パーリ語: sammā-vāyāma 梵語: samyag-vyāyāma)を説いた。これは、具体的には、「四(し)正(しょう)勤(ごん)」を意味すると解釈される。

四正勤(パーリ語: cattāro sammappadhānā)とは、同じく釈迦が説いた「三(さん)十(じゅう)七(しち)道(どう)品(ぼん)」の教えの一部である。4種の正しい努力のことを意味する。これは、「四(し)精(しょう)勤(ごん)」「四(し)正(しょう)断(だん)」「四(し)意(い)断(だん)」とも訳されることがある。

四正勤の具体的な内容は、以下の通りである

①断断(だんだん) - すでに生じた悪を除くように勤める
②律(りつ)儀(ぎ)断(だん) - まだ生じない悪を起こさないように勤める
③随(ずい)護(ご)断(だん) - まだ生じない善を起こすように勤める
④修(しゅ)断(だん) - すでに生じた善を大きくするように勤める

パーリ語の仏典における釈迦牟尼の説法を紹介すると以下の通りである(パーリ仏典, 相応部 道相応, 44 Magga Saṃyutta, Avijjāvaggo, Sri Lanka Tripitaka Project)

Katamo ca bhikkhave, sammāvāyāmo: idha bhikkhave, bhikkhu anuppannānaṃ pāpakānaṃ akusalānaṃ dhammānaṃ anuppādāya chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati. Uppannānaṃ pāpakānaṃ akusalānaṃ dhammānaṃ pahānāya chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati. Anuppannānaṃ kusalānaṃ dhammānaṃ uppādāya chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati. Uppannānaṃ kusalānaṃ dhammānaṃ ṭhitiyā asammosāya bhiyyobhāvāya vepullāya bhāvanāya pāripūriyā chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāvāyāmo.

比丘たちよ、正精進とは何か。 未発生の不善(akusalānaṃ)は、これが生じないよう、比丘らは関心を持って努力し精進(ヴィーリャ)することである。 発生した不善は、これを解消するよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。 未発生の善は、これが生じるよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。 発生し成された善は、これが拡大するよう、比丘たちが関心を持って努力し精進することである。 比丘たちよ、これを正精進と呼ぶ。

ここでいう「悪」(akusala)と「善」 (kusala)とは何かというと、経典の解釈書(論蔵)においては、一般的に、「悪」(akusala)は、仏教が説く三つの根本的な煩悩である「三毒」を意味している。

三毒とは、①貪(とん)(lobha、貪り)・②瞋(じん)(dosa 怒り)・③癡(ち)(moha 無智)を意味している。そして、「善」(kusala)は、その反対で、①無(む)貪(とん)(alobha)、②無(む)瞋(しん)(adosa)、③無(む)癡(ち)(amoha)を意味している。


4.四正勤の教えから学べる智恵:慢心・油断の戒め

四正勤の教えをよく見てみると、単に善を増やし、悪を減らす努力をするというだけでなく、今生じていない善を生じさせるように努めたり、今生じていない悪が生じないように努めたりするといった努力を強調しているのが、一つの特徴である。これは、一言で言えば、慢心・油断を戒める内容だと思う。人の努力を鈍らせる最大の要因の一つは、確かに、慢心であり、油断であると思う。それは、向上欲求とは逆のものである。

しかしながら、人は、労苦をともなう努力・向上よりも、安楽・堕落に流される傾向がある。そのため、ある程度努力して幸福になると、その後は努力が鈍り、その結果、元の木阿弥になることがよくある。その際に出てくるのが、「自分はもう努力を続けなくても(増やさなくても)大丈夫だろう」という慢心・油断だと思う。

そして、この慢心・油断は、自分と他人を比較して、自分を他人よりも上に見るときに生じやすい心の働きでもある。例えば、律儀断(まだ生じない悪を起こさないように勤める)は、悪をなすことを予防する心構えであるが、他人との関係にあてはめて解釈すれば、自分はなしていないが、他人がなしている悪行を見ては、それに単に軽蔑・見下しの心を持つのではなく、自分の反面教師と見て、自己の戒めにせよ、という意味合いがある。

また、随護断(まだ生じない善を起こすように勤める)も、他人との関係にあてはめて解釈すれば、他人に生じているが、自分には生じていない善行(とそれによる幸福)を見たときは、それを妬むのではなく、自分の見本・教師として学んで見習うことが大切であるという意味合いがある。こうして、四正勤は、自己向上のために重要である他人からの学びを示唆するものでもある。


5.積み重ねの重要性:善がさらなる善をもたらす

また、「まだ生じない善を起こすように勤める」という努力と、「すでに生じた善を大きくするように勤める」という努力という、二つの努力が合わせて説かれていることは、この二つには関連性があるからだと私は思う。すなわち、今できる善をコツコツ続けて増やす努力をしていくことが、今はできない善も未来にできるようになることを助けるということである。

これは、最初は小さな善も、それを慢心・油断せずに、やめることなく続けて、少しずつ大きくするうちに、大変大きな善になるという道理を示していると思う。逆に言えば、最初は小さな悪も、慢心・油断によって、それをやめずに続けて、徐々に大きくしているうちに、大変大きな悪になる。

これは、継続的な努力の重要性、良い習慣の形成の重要性を示していると思う。仏教の教えで言えば、繰り返された善行や悪行によって生じる善い業(カルマ)や悪い業の力の重要性である。また、科学的に言えば、慣性の法則である。ロケットは、最初はゆっくりと浮上していくが、エンジンの噴射を続ける中で、時間とともに徐々にスピードを上げ、最後には猛烈なスピードで宇宙空間を飛ぶことになる。


6.六波羅蜜(六つの完成)の精進の教え

次に大乗仏教の基本的な教えであり「六波羅蜜(六つの完成)」の中で説かれている精進の教えについて学んでみよう。チベットの高僧ケツン・サンポ氏によれば、その精進には3つの精進があるという。すなわち、「鎧の精進」「実行の精進」「飽くなき精進」である。

まず、「鎧の精進」とは、仏道修行を始める際の精進で、「仏道修行の目的である悟りなどを自分が達成できるのだろうか」といった不安を、勇気をもって振り払って、思い切って修行を始める努力のことである。

次に、「実行の精進」とは、仏道修行の開始を明日に延ばすことなく、今日すぐに開始することである。すなわち、よく言われる、今日できることを明日に延ばすなということだ。ケツン・サンポ氏は、ある高僧の言葉に、「人の一生は、一瞬ごとに死に近づいていく、今日できることを明日に延ばしていては、人は死の床でうめき続ける生を送る」というものがあると述べている。

また、「忙しいから仏道修行のような新しいことができない」と考える人たちに向けて、「人の世俗の業は、子供の遊びに似て、手を染めればいつまでも続き、やめようと思えばすぐにやめられる」「実行の精進とよばれているものはその決心に関わっている」と述べて、時間の問題ではなく、自分の中の決心の問題だとしている。

最後の「飽くなき精進」とは、仏道修行を始めて、どこまで行っても、「もうだいぶ進んだ、もうこれくらいでいいだろう」などと思うことなく、飽くことなく、精進を続けることである。これについては、後に詳しく述べることにする。


7.実行の精進から学ぶ智恵:先延ばしにする悪習慣の問題

今日できることを明日に延ばさずに今日実行するという実行の精進は、ある意味で、よく言われることであるから、当たり前のことのようにも思えるかもしれない。「思い立ったら吉日」「善は急げ」というのも同じ意味だろう。

しかし、このように実践できるかと言えば別の問題だろう。この実践が難しいのは、ある意味で、私たち人間の本能に関係しているから、仏教的な表現で言えば、根本的な煩悩に関係しているからだと思う。

具体的には、私たちは、幸福にはなりたいが、「楽に幸福になりたい」し、「早く、少ない努力で、幸福になりたい」と思う。しかし、実際には、「ローマは一日にして成らず」、「急がば回れ」というように、価値のあるものこそ、一朝一夕にはならず、長期間の継続的な努力が必要だ。これに対して一生の時間というものは、思ったよりも長くはなく、「光陰矢の如し」というように、人生の時間はあっと言う間に経ってしまう。

そして、落とし穴が、「今日ではなく明日からやればいい(悪いことは、明日からやめればいい)」という考えである。この落とし穴は、そう思う本人は、嘘をついているつもりはないのだが、多くの場合、実際には、「明日からやればいい」というのが最初にあるのではなく、「今日はやりたくない」という怠け心が最初にあって、それを正当化するために、「明日からやればいい」という考え方が、自分に対する一種の言い訳として浮かんでいるのではないか。

だとすると、どうなるか。「明日からやればよい」と思った時から一日が経って、その明日が今日になっても、また再び「今日はやりたくない」という昨日と同じ気持ちが持ち上がってきて、再び「明日からやればよい」という昨日使った言い訳を繰り返し、また先延ばしになる可能性がある。

そもそも、人の心・体・行動には習慣性があるから、「今日やりたくない」と思って、今日やらない行動をとれば、それが習慣となって、再び明日以降も繰り返される可能性がある。そうして毎日、明日に先延ばしする習慣が付けば、いつまで経ってもやらないままとなり、そのうち(何かの言い訳を自分にして)完全に忘れていってしまう可能性がある。

習慣の力は大きいので、先延ばしにすることを繰り返し、その習慣が深まっていくと、実行することはますます難しくなる。これを考えると「思い立ったら吉日」というのは、意味のあることだとわかる。思い立った日に実行するのではなく、それを下手に(怠け心で)先延ばしにしていると、その習慣の力で、実行することがより難しくなる面があるからだ。

 

 

 

8.努力の実行ができるのは今日・今この時だけ

今日できることを明日に延ばさない実行の精進を、別の視点で考えてみよう。それは、私たちが生きているのは、今日である、ということだ。言い換えれば、私たちが努力できるのも、今日の今の瞬間である。

昨日や明日については、考えることはできるが、考えることはできても、昨日しなかった努力をしたことにはできないし、明日なすべき努力を今日のうちから計画することはできるが(計画することは良いことだが)、それを実行することはできない。言い換えれば、明日や昨日は、私たちの頭の中にある概念であって、実在するのは、今日・この瞬間だけである。

そして、人は、昨日を含めた過去を後悔して苦しむことがあるが、後悔ばかりしている人は、今現在において、過去の失敗の反省に基づいて自分を改善する努力をしてないことが多い。同じように、人は、明日を含めた未来の不安で苦しむことがあるが、不安ばかり抱えて悩んでいる人は、未来に幸福になるために必要な、今現在の今日の努力には集中できていない。

言い換えれば、今現在・今日の努力に集中できている人は、後悔や不安にあまり悩まないものだと思う。逆に言えば、後悔ばかりしている人、ないしは不安に悩んでばかりいる人は、自分でも気づかないうちに、その背景に、今日の努力を積み重ねることを妨げる怠け心があるのではないだろうか。

そして、過去の後悔と未来の不安は、セットになっている。後悔ばかりして、反省と改善の努力をしない人は、自ずと自分が向上していく見通しが持てず、自信がなく、卑屈が強く、未来に不安を抱えることになる。こうして、後悔・卑屈・不安はセットになり、その背景には、今現在の努力が乏しいこと、怠け心がある。卑屈や不安の背景に、「それを取り除くための努力をしたくない」という怠け心が隠れている。


9.飽くなき精進から学べる智恵:焦らず弛まず努力を続ける

次に、飽くなき精進について、より詳しく述べる。これは、仏道修行を始めてどこまで行っても、「もうだいぶ進んだ、もうこれくらいでいいだろう」などと思わず、飽くことなく精進を続けることである。飽くなき精進に関する経典の言葉として、以下のような言葉が述べられている。

「まるで、ゆったりと流れ続ける大河のように、完全なる仏性(悟り)を得るまで、貴方はゆったりとして飽くことなく、修行に打ち込んでいくのである」

「ヤク(ウシ科ウシ族の動物)は自分の少し先にある草を見つめながら、草を食べながら進んでいく。仏道の修行も、そのようでなくてはならない。いつもこれで十分などと安心することなく、少し前方を見つめながら、着実に前進を続けなければならない」
「もう修行の必要はない、と思うこと自体が、まだまだ修行を必要とするという証拠だ」

飽くなき精進の教えは、第一に、継続的な努力の重要性を説くものだ。「ローマは一日にして成らず」「急がば回れ」というように、何事も本当に価値があることは、一朝一夕には成らない。

特に心身・人格の向上、意識の改革といったことが目的の場合は、継続的な努力が必要なことは、科学的に明らかだと思う。人の心の働きは、その体と密接不可分であることが、最新の心理学や脳科学の研究の進展によって、ますます明らかになってきた。例えば、心の働きに直接的に関係するものが、人の感情と直接関係する脳内神経伝達物質を含む脳の神経ネットワークだろう。

一方、人の体の細胞が更新されて入れ替わるためには、平均して数カ月かかるといわれている(細胞によって長短がある)。また、その細胞を構成する分子が、体全体において完全に更新されて入れ替わるには数年(一説に7年とも)かかるともいわれている。これは、「石の上にも三年」という格言と関係するのではないかと私は思う。だとすれば、何かの努力を始めて、それにともない、心や体が変わっていくためには、継続的な努力が必要である。

脳科学者の中野信子氏は、脳の神経細胞は何歳になっても新しいものが生まれるが、それは使われないと(鍛えられないと)定着しないために、何かの精神的な努力をなす場合は、数日といった短い期間に無理な努力をするのではなく、少なくとも数カ月間、毎日継続的な努力をすることが望ましいとしている。継続的な努力は、毎日生まれる新細胞が望ましい形で定着することを助けるが、短期間の努力では、定着する脳細胞はごく少数にとどまるから、脳のあり方を大きく変えられないのだろう。


10.焦らず弛まずコツコツ努力を続ける重要性

継続的な努力の重要性に加えて、飽くなき精進の教えから学び取れるニュアンスは、焦らず弛まず、努力することである。経典の言葉を引用するならば、以下のようになる。

「まるで、ゆったりと流れ続ける大河のように、完全なる仏性(悟り)を得るまで、貴方はゆったりとして飽くことなく、修行に打ち込んでいくのである」
「いつ、どこにあっても、貴方は必要とするだけの食べ物を食べ、惰眠を貪らず、緊張しすぎるのでもなし、リラックスし過ぎるのでもない状態で、心を統一して、精進に励むように」

ところが、私たちは、焦らず弛まずコツコツ努力することが、意外と苦手である。というのは、何を努力するにも、「できるだけ早く達成したい」という欲求があるからだろう。達成感は喜びとなるから、「それを早く得たい」と思うのである。また、これと本質的には同じことだろうが、強い不安を抱えている場合などにも、それから早く逃れたいがために、焦ってしまうこともあるだろう。

しかし、この心の働きを突き詰めて考察すれば、「地道な辛抱強い努力なしに、早く楽に幸福になりたい」という心の働きだろう。すると、これは一種の怠惰が背景にあると言うこともできる。

そして、焦りを背景として、一時的に無理な努力をする場合も多い。しかし、結果は出ないままに、そうした努力は長続きせずに終わってしまう。いわゆる三日坊主である。これは、本当の精進・正しい努力のあり方ではないだろう。

また、この逆に、実行の精進で述べたように、人は、「一定の達成を得た」と感じると、慢心に陥り、油断してしまって、努力が鈍ることがある。この背景としては、人には皆、「自分が優れていると思いたい」という自己愛があって、「努力を続けなくても自分は大丈夫だ」という慢心・油断が生じるのだろう。しかし、地道な努力の積み重ねが大きな成果を生むのと同じように、油断の積み重ねも大きな苦しみをもたらすことになる。

こうして、さまざまな背景によって生じる焦りと弛み、無理と怠惰の双方を避け、焦らず弛まず、無理せず怠けず、コツコツと努力を続けていくことが大切である。


11.努力の仕方に関する仏陀の中道の教え:緊緩中道

また、先ほど紹介したように、経典では、「まるで、ゆったりと流れ続ける大河のように、貴方はゆったりとして飽くことなく、修行に打ち込んでいくのである」とか、「緊張しすぎるのでもなし、リラックスしすぎるのでもない状態で、心を統一して、精進に励むように」と説いて、緊張しすぎることなく、弛緩しすぎることもなく、努力を続けることを強調している。

この点に関して、仏教の重要な思想に、中(ちゅう)道(どう)という思想がある。その一つは、体をひどく痛めつける苦行主義と快楽を貪る快楽主義という両極端の修行の仕方を排除して、そのどちらにも偏らずに、中道の修行に励むというものである。これを苦楽中道という。現代的に解釈すれば、自分の体を痛めつけるような生き方・修行の仕方(苦行主義)は避け、健やかに生きるに必要なものは確保しつつ、それ以上は欲張らずに、快楽を貪ること(快楽主義)を慎むといったほどの意味になるかと思う。

これに加えて、仏陀は、瞑想修行の努力の仕方に関しても、中道の教えを説いたと解釈されている。その要点は、瞑想において、力んで緊張しすぎることなく、弛緩しすぎることなく、バランスを取って実践しなさいというものだ(緊(きん)緩(かん)中(ちゅう)道(どう))。

仏陀は、その際に、「ギターの弦は、きつく張れば切れてしまうが、弛みすぎれば音が出ない」という巧みな表現を使って、力むあまり瞑想がうまくできていない弟子に対して、緊張と弛緩のバランスを取って瞑想に励むように説いたという。

この緊張と弛緩のバランスをとるという考えも、先ほど述べた、焦らず弛まず、無理せず怠けずの精神と、本質的に同じことではないかと思う。焦っていると、無理するし緊張しすぎる。逆に、弛みすぎて怠けるならば、努力にならない。


12.努力を助ける智恵:苦しみに喜びを見出す

さて、努力の行為は、一面において労苦・苦しみである。しかし、その労苦が、自分の成長と未来の幸福をもたらすとか、他人の幸福をもたらすという、本質的ないし長期的な幸福・喜びをもたらす場合に、努力の行為になるのだろう。このことを言い換えれば、苦しみに喜びを見出す賢明さ(仏教が説く智慧)が強ければ強いほど、精進・努力ができることになることを示している。

ユダヤ人強制収容所に収容された経験を持つフランクルという精神科医・心理学者が提唱した、ロゴセラピーという心理療法の理論では、人は、生きる意味を見出すことができれば、幸福に生きることができ、そうでなければ、幸福に生きることができないと説く。特に、苦しみに意味を見出すことができれば、苦しみにも耐えることができるという。

フランクルは、強制収容所の極限状態の中で、絶望して自殺する人、ますます自分勝手になる人、そして、思いやりを持つ人などを見た。その中で、体力の優劣よりも、生きる意味を持っていた人が、多少体力が劣っていても生き残ったという。これは、苦しみに耐えて生き延びて、果たすべき何かの目的があった場合もあるが、それに限らず、その苦しみ自体に意味を見出すことが含まれる。それは多くの場合、その苦しみによる自分の精神的な成長、他者への思いやり・慈悲といったものに関係しているという。

また、大きな災難から立ち直るための「レジリエンス」の心理学(レジリエンスとは、立ち直る力)においても、立ち直る力の強い人は、ものの考え方が多様・柔軟で、苦しみを、視点を変えて喜びと考え直す能力が高いという。これは、切り替え、リセットする力とも表現できる。これは、苦しみの裏に喜びがあると説く仏教の思想と同じである。

また、精神科医の樺沢(かばさわ)紫(し)苑(おん)氏によると、病気の回復が早い人は、病気になった自分を拒絶せずに素直に受け入れ、むしろ感謝する傾向が強いという。例えば、病気を契機に、これまでの生き方を振り返って反省して改善するなどである。


13.仏教の苦楽表裏の思想

仏教の思想を学ぶと、苦しみは煩悩が原因とされる。煩悩とは、間違ったものの見方(痴=無智)を原因とした貪りや怒り(貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち))などであり、これを一言でいえば、無智によって、間違った執着をしたり(欲張りすぎ)、間違った嫌悪をしたり(嫌がりすぎ)して、自分で苦しみを招くということである。

よって、逆に、苦しみの経験が、その原因の煩悩を和らげて悟りに向かう仏道修行に入る契機となるという教えがある(苦あって信あり)。さらに、苦しみの経験は、自分だけの苦しみではなく、この世の人の苦しみの経験であり、それを縁として、同じ苦しみに嘆く人々を救おうとする慈悲の源になるという教えもある(観音菩薩の誕生の説話など)。

悟りや慈悲という仏教的な視点ではなく、一般的に言っても、苦しみは視点を変えると喜びになる。例えば、他者からの批判は、それによって、自分では気づかなかった自分の問題を知って、それを反省改善して、成長するきっかけとなる。また、理不尽・不合理な批判であれば、それに動じずに冷静に対応すれば、それを見ている第三者の評価は逆に上がることになる。逆に、全く批判されない場合は、自分の問題点がわからないばかりか、批判しても無意味であると思われ、他人に見捨てられている場合もある。

病気は、上にも述べたが、自分の従来の生き方を顧みて、それを反省・改善することができる機会となる。また、自分を支える他者や、自分の体自身への感謝のきっかけとなり、人間としての幅を広くすることもある。さらに、一つくらい持病があった方が、体をいたわるために、長生きをするという経験則がある(一病息災)。逆に、体力自慢は、体に無理をかけやすく、早死にしやすいともいう。

経済的な困難は、質素倹約の智恵や習慣を身につけたり、お金の価値の理解を助けたりする。それによって、お金を浪費せずに、お金を有意義な目的に活かすことができるようになる。逆に、いくらお金があっても、長い人生の中では、それを浪費してしまって借金を負う場合もある。

そして、さまざまな失敗・挫折の経験は、それに諦めずに努力を続ける人には、「失敗は成功の元」というように、最終的な成功にたどり着くための貴重な経験・ステップであり、智恵を深めるものである。この背景には、失敗なく、簡単に達成できるものは、さほどの価値はないという道理がある。失敗・困難という苦しみは、逆に言えば、取り組んでいる課題に価値があることを示している。

こうして、苦しみの裏には、さまざまな喜びを見出すことができる。


14.困難・苦しみを乗り越える努力が脳の発達・進化を促す

さて、最新の脳科学によると、困難を乗り越えるために立ち向かうときに、人の脳は、訓練され、機能が向上するという。その際、脳は、普段のリミッターを外して全力で活動するのである。

というのは、脳にとって、困難とは、直ちにはその問題の解決法がわからないものだからである。そのため、巷で流行った脳トレゲームなどは、すぐにその答えがわかってしまうために、脳の訓練・機能向上には、実際にはあまり役に立たないという。

ただし、困難があれば、どんな場合も脳が発達するかというと、そうではない。困難によって潰れてしまった人の事例があるように、困難に際して、心がそれを乗り越えようとすれば、脳はフル活動して、成長するものの、心がそれを諦めてしまうと、脳は活動をやめて、そのため退化してしまうのである。

そして、脳は、そもそも、鍛えなければ30~40代で老化を開始するという。そして、長寿社会では、高齢者の精神・知能の疾患の増大が問題になっている(認知症は、90代は8割。老人性うつ・自殺、感情暴走などの問題)。

この要因の1つに、高齢期の多くの喪失体験(仕事・社会的な地位、配偶者・友人・交友関係、自宅・生きがい等を失う)がある。最近は、高齢者に限らないが、単身者の増大、孤独の問題が、精神疾患・認知症・集中力などの知力の悪化の問題をもたらしている。

この老化は、脳の前頭葉(人間らしい脳)から始まる。前頭葉は、理性・感情制御・意欲・想像力・新しいものへの意欲などを司る。すなわち、老化は気(意欲)から始まるのである。すなわち、脳や体を使う意欲が減退し、それを使わない、鍛えないために、記憶力などの他の脳の機能が老化する(「記憶力が悪くなった」と感じる前に、脳や体の使い方が減っている)。

一方、脳は、何歳になっても新しい神経細胞が生まれることが発見されている(1997年に発見。それまでの脳科学の常識を覆す大発見とされる)。ただし、脳を鍛えない場合は、その新しい神経細胞は、定着せずに消えてしまうのである。

そのため、アルツハイマー病で脳の一部が損なわれても、他の脳の部分がそれを補うように発達して認知症を発症しない高齢者や、膨大な記憶が必要な職業では(例えばイギリス・ロンドンのエリートタクシードライバー)、その記憶の訓練の前後で、脳の機能(神経ネットワーク)だけでなく、その外形まで大きく変化するという事実が発見されたという。

こうして、困難や苦しみを乗り越える努力を前向きに行うことは、脳を発達・進化させて、長期的な幸福をもたらすのである。


15.「老年的超越」状態の超高齢者の至福感も、困苦を乗り越えた結果

1990年代に、「老年的超越」現象が発見され始めた。それは、超高齢者の一部が、悟りの境地を得ているような現象である。

彼らは「今が一番幸せ」と言う。そして、健康状態に満足し病苦がなく、今日生きられることに感謝し、死の恐怖がない。人間関係も不満・孤独感・寂しさがなく、逆に他者への感謝や無償の愛、さらには、万物とつながった感覚(宇宙意識)を持つ人もいるという。そして、人生で起きたいろいろな事には(困難・苦しみを含めて)、全て意味があるという考えを持つことが多いという。

この老年的超越の状態の人は、その定義によって異なるが、超高齢者の数%から2割ともいわれる。しかし、その人たちは、順風満帆な人生ではなく、別離・病苦など多難な人生を乗り越えてきた人に多いことがわかっている(それに加えて、より高齢な人に多い)。

すなわち、さまざまな困苦を前向きに乗り越える中で、(特に感情を制御する前頭葉などの)脳機能が(若い時よりもさらに)向上したのではないかと思われる。よって、老年的超越を研究している高齢者心理学者は、人間には、思春期に続く第二の心理的な発達(脳機能の発達)が、高齢期にあり得るのではないかとしている。

これは、今後の人類の可能性として、従来の常識を覆し、加齢とともに幸福が増していく「尻上がりの人生」があり得ることを示している。思春期に、大人になる「理性」が発達し、高齢期には、理性の極致の「悟性」を得る人生である。

そして、仏教の思想では、仏道修行は、この尻上がりの人生をもたらすものであると説かれている。仏教では、老・病の苦しみは、その苦しみから解放される悟りの境地に向かうことを修行者に促すものであり、その意味で、悟りに導く仏の御使い(みつかい)とも説かれる。そして、死というものは、身体から解放されて最高の悟りを得るものだという思想がある。その象徴として、80歳の高齢で死ぬ寸前まで、智恵に富んだ教えを説き、平安で堂々とした大往生(入滅・涅槃)を果たした釈迦牟尼自身の人生がある。


16.努力できるという自信を得るいくらかのコツ

先ほど多少述べたが、レジリエンス(立ち直り)の心理学から、努力をする上で役に立つ自信の身につけ方をいくつか紹介する。何かの努力をする前に、それが「できない」と思ってしまっては、なかなか努力はできないからである。

第一に、最初から無理に大きな目標・課題を立てずに、まず、頑張ればできる小さな目標・課題を設定して、それを着実に実行しながら、少しずつ、目標・課題を大きくしていくことである。実行できれば、それが自信になり、それが継続されるうちに、心身が徐々に向上していくからである。

一方、最初から、無理に大きな目標・課題を立てて実行しようとすると、短期間は頑張れたとしても、長続きしない場合が多く、そのため、自信を失ってしまう可能性がある。これについても、焦らず弛まず、無理せず怠けずの原則がある。

第二に、他の成功体験をいろいろな形で学ぶことで、「自分も達成したい」、「自分も達成できる」という意欲と自信を強めることができる。ただし、他に対する妬みが強すぎる場合は、他の成功体験を自分の励みにすることができない場合があるので、妬みには注意するべきである。

そのためには、自分と他人を比較しすぎずに、優れた他人は、自分の見本・教師であり、劣った他人も自分の反面教師と考えて、「自分の学びの対象、自分の導き手である」と考えるのが理想である。他への妬みや見下しは、自分の学びや努力に逆行する面がある。

 

17.先を見すぎずに、毎日毎日の努力に集中する

努力を継続することの重要性を説いたが、その場合、「今後、どのくらい長く努力をすればいいのか」ということを考えすぎてしまって、努力がしにくくなることがある。これは何かの労苦・苦しみに耐える場合もそうである。

例えば、いつ終わるとも知れない高齢の親の介護の労苦のあまり、子供が親と無理心中をはかる例があるが、これに対して、ある禅の高僧は、「一体いつまで続くのか」と先のことまで考えることをやめ、一日一日を区切って考え、毎日毎日、その日の務めを果たし、その日の休みを取ると考えて、淡々と生きるならば、気づいてみれば、介護が終わる日がやってくると助言している。

これは、仏道修行における「飽くなき精進」の教えにも通じる。先ほど紹介した経典の言葉の中に、「まるで、ゆったりと流れ続ける大河のように、完全なる仏性(悟り)を得るまで、貴方はゆったりとして飽くことなく、修行に打ち込んでいくのである」というものがある。大河の水は、毎日毎日、焦らず弛まず、ゆったりと一歩一歩進んでいくが、そうしているうちに、気づいてみれば大海に至るのである。これを言い換えれば「なすべきことをなして天の時を待つ」という感覚だろうか。

これは、先ほど述べた、「努力できるのは、今日・今である」という視点とも関係する。これを言い換えれば、今日・今だけ努力すればいいのである。ところが人は、「これからどのくらい努力しなければならないのか」と思って、今日・今の努力の労苦だけではなく、遠い未来までの労苦まで、苦しむことがある。さらには、未来の労苦に加えて、過去の努力不足を後悔して、苦しむこともある。

こうした未来や過去に苦しむことは、不必要なことである。遠い未来までの労苦ではなく、今日の労苦にのみ、耐えればいいのである。過去の努力不足についても、それを反省して、改善の努力をしているならば、その今の努力に集中して、忘れてよいのである(今の努力に集中すれば、自ずと忘れるものである)。


18.目標を立て粘り強く努力する力を強める感謝や慈しみ:展望的記憶

最新の脳科学の理論によれば、人の脳には、社会脳(自分の中の神)という機能があり、利他の心・行動(感謝・慈悲)によって、幸福ホルモンが出て、過剰な敵意・攻撃・不安・恐怖によってストレスホルモンが出るという。

幸福ホルモン(エンドルフィン・オキシトシン・セロトニン)は、幸福感・心身の健康・知力・実行力・人間関係を改善し、過剰なストレスホルモン(コルチゾール・アドレナリン)の分泌は、逆に、心身の不健康・知力・実行力・人間関係を悪化させるという。科学的に見ても、「情けは人のためならず」「人を呪わば穴二つ」であることがわかる。

そして、幸福ホルモンは、記憶を司る脳の海馬を活性化し、記憶力を高め、ストレスホルモンは、逆に、海馬を委縮させて、記憶力を低下させるという。さらに、この海馬の機能には、過去の記憶を保持・再生することだけではなく、未来に関する展望的記憶という機能があり、この機能が強い場合は、人生にヴィジョンを持ち、目標を立てて、それに向かって粘り強く努力をすることを助けるという。

こうして、脳科学の視点から見て、感謝や慈しみの強い人は、心身の健康・知力・人間関係が改善するとともに、粘り強く努力する能力=精進の能力も高まることがわかる。そして、仏教が説く重要な実践徳目・実践課題である慈悲と智慧(智恵)と精進は、一体となって高まっていくことがわかる。

また、京都大学の藤井聡教授の心理学的な調査の結果では、幸福になる人(幸運に見える人)は、利他心の強い人であることが判明したという。利己的な人は、短期的には、効率的に自分の利益を得ることがあるが、長期的には、不幸になることが判明したという(認知的焦点化理論という)。これは、利他心の強い人は、その人を幸福にしようとする多くの人によって、長期的には、幸福がもたらされるからだという。利己的な人は、その逆であろう。

そして、人が、何かに向かって努力することを考えた場合も、自分の努力自体が、よく考えれば、さまざまな他によって支えられているものであるから、利他的な人こそ、多くの人の支えによって、努力を深めていくことができるということになると思う。


19.自と他の優劣の比較の問題と、精進・努力

心理学によれば、現代社会は、自己愛型社会といわれ、自分が他と比較して勝っているか否かで、幸福・不幸を感じるという。競争社会が、これに拍車をかけていることもあるだろう。

一般には、劣等感・自己に対する不満は、それを挽回するための努力を促す面がある。しかし、優劣にとらわれすぎた場合は、逆に努力ができなくなり、さまざまな歪んだ心や行動の問題を作り出すことが知られている。

具体的には、第一に、劣等感を感じることを嫌って、他から引きこもってしまうパターン(劣等コンプレックス)である。この場合は、当然、努力することはやめてしまい、徐々に退化・老化する。

第二は、無理に優越感を感じるための行動に出るパターン(優越コンプレックス)である。例えば、ことさら他人を貶めたり、他人に責任転嫁をしたりする。また、他人から見れば有難迷惑の行為を働いたり、優越感を感じる妄想にのめり込む(これは、詐欺にあったり、陰謀論にはまったりする原因にもなる)。また、勝利のために、裏で不正行為に手を出すなどである。これでは、明らかに健全な努力はなされえない。

また、脳科学的に見れば、優越感を求めるあまり、他に対する攻撃的な心や行動が強まると、上記のストレスホルモンが過剰に分泌されて、自分の心身・知力、そして、目標を立て粘り強く努力する力(展望的記憶)を損なうことになる。こうして他者との優劣にとらわれすぎると、いろいろな意味で、健全な努力ができなくなるのである。


20.他との優劣の比較にとらわれすぎず、切磋琢磨による皆の成長を重視する価値観

本来、優劣とは、単なる比較の結果であり、比較の対象が変われば優劣は逆転する。さらに、短所と長所は、裏表の面があって、自分より劣っている一面だけを見て、他者をあなどってはいけない。自分より劣っている者を反面教師として学んだり、その長所をあなどらずに、学び取ったりする必要がある。

しかし、人は、それを怠ることが多い。というのは、「他より自分が優れている」という優越感の自己愛に溺れてしまい、いわゆる慢心に陥って努力を怠るようになり、その結果、堕落・落下する。逆に、他より劣っていても、劣等感に没入せずに、自分の成長を重視するならば、自分より優れた者を、見本・教師として見て学んで成長することができる。また、自分と同じく劣った者の気持ちを理解して助ける、優しさ・慈悲という優れた徳性も培うことができる。

仏教思想でも、他との優劣の比較、優越感・劣等感にとらわれすぎる限り、優れた者と劣った者は、時とともに、容易に入れ替わると説く(六道輪廻の思想など)。

こうして見ると、人は、他に勝ることばかり重視せず、自分が成長する(ための努力を続ける)ことを心掛け、何かの競争的な構造の中に自分があったとしても、それによる他との切磋琢磨を通して、皆が互いに成長することを重視することが重要だと思われる。

これは、競争の本来の意味とは、勝って幸福になり、負けて不幸になる者を決めることではなくて、全体が向上するための切磋琢磨であるということに立ち戻ることでもある。


21.禅の説く「今ここの」教え

禅の教えに、「今ここの」というものがあるとよく聞く。今ここの悟り、今ここの幸福といったほどの意味ではないかと思う。

人は皆、「今よりもっと」「他人よりもっと」と際限なく何かを求めて、幸福になろうとするが、仏教の教えから見ると、そうして際限なく求めてばかりいては、逆に、さまざまな意味で苦しみ、時とともに苦しみが増えていくのが人生である。

具体的には、求めても得られない苦しみ、得て執着したものを失う不安や失う苦しみ、皆が求め奪い合って憎しみ合う苦しみなどを避けることはできない。さらに、老い病む中で、ますます得られにくくなり、失うものが増え、他には奪い負けることが多くなって苦しみは増え、最後は、死んで全てを失う苦しみを経験する。

こうした生き方は、絶えず、「まだまだ足りない」という不満と、「未来にもっと欲しい」という欲求と、「それがかなわないのではないか」という不安を抱えている。絶えず不満と不安を抱えながら生きているから、充足している、満ち足りている時が一日もなく、一瞬たりとてない。人は、今この時に生きているが、こうした生き方では、今この時を楽しむこと、今この時の幸福を感じることができない。そのまま一生を終える恐れさえある。

結果として、皆さんは、最近、一瞬でも満ち足りた瞬間を経験したことがあるだろうか。私がこの質問をした数十名の人には、一人も、「したことがある」という人はいなかった。場合によっては、生まれてこの方、そうした瞬間の経験の記憶がない人も多いかもしれない。

これは、前に述べたように、多くの人が、無意識的に、絶えず、過去の自分と今の自分、今の自分と今の他人の優劣を比較して、「今よりもっと」、「他人よりもっと」と、際限なく恵み(比較に基づく一種の優越感)を求めているからである。このことを心理学では、現代人の幸福は、自己愛が充足されるか否かによって左右されると表現することがある(自己愛型社会)。

しかしながら、瞑想を含めた私の経験では、人は、自と他の区別と比較を超えた、安定した大きな心にたどり着いた時にこそ、真の幸福・充足を感じるものだと思う。その時には、「自分が幸福になるためになすべきことが実現した」という実感をともなうと思う。

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