仏教思想
ひかりの輪の仏教思想をお伝えします

輪の思想・一元思想:究極の真理

新年号「令和」と十七条憲法:和と輪の思想

以下のテキストは、2019年GWセミナー特別教本『仏陀の覚醒の思想と脳科学 「令和」の和と輪の思想』第3章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

 

1.新年号「令和」は、十七条憲法の和の思想を重視した結果

新年号「令和」の考案者とされる国文学者の中西進氏によれば、新年号は、日本の精神的な支柱ともいうべき聖徳太子の十七条憲法の和の思想を重視した結果であるという。

読売新聞(2019年4月17日)によれば、以下の通りである。

新元号「令和」を考案したと有力視されている国文学者の中西進氏は(中略)「元号の根幹にあるのは文化目標」とした上で、令和の「和」について「『和をもって貴しとせよ』を思い浮かべる」と述べ、十七条憲法の精神が流れているとの考えを語った。 

中西氏は、自ら考案者だとは明言しなかった。しかし、「元号は文化」と考える中西氏は、604年に聖徳太子が制定したと伝えられる十七条憲法の平和精神を重視。「大和の心」は万葉にも流れ、平和憲法にもつながるものだとした。 

政府は「令和」や他の元号案の考案者を明らかにしていないが、関係者の間では、令和の考案者は中西氏だとの見方で一致している。

さらに、読売新聞のインタビューの中で、中西氏は、以下のように語っている。

(令和の「和」は)聖徳太子が作った十七条憲法の第一条「和をもって貴しとせよ」を思い浮かべます。(中略)(十七条憲法は)1400年前くらいにできた平和憲法です。604年に制定される前まで、あの当時の日本は、朝鮮半島で泥沼の戦争をしていた。その戦いを停止した時期にできたのが、十七条の憲法です。 

だから、「安部さん、あなたも十七条の憲法の一部を年号にしなさいと」とも、考案者の一人はひそかに思っていた。僕の名前に限りなく近い人間が考えた(笑)。

「令」とは何か。辞書で引くと、善いという意味です。(中略)善は、まず言葉として美しいし、儒教の最高の理念でもあります。そして、第二に、令は律なりという定義がある。法律の律です。

 

2.太子の和の思想は、輪の人間観に立脚:十七条憲法から

さて、聖徳太子の十七条憲法における和の思想は、ひかりの輪が重視する「輪の思想」に立脚し、分かちがたく結びついたものである。

まず、十七条憲法では、最初の第一条で「和をもって貴しとなせ」と説いて、仲良くすること、争いのないことを強調している。そして、重要なことは、この和の精神の根拠として、第十条に、万人平等主義的な人間観・思想が説かれており、それを「輪」という言葉で喩えているのである。

具体的には、

「自分だけが聖人で、他が愚かであるということはない」、

「人は皆賢くも愚かでもあり、それは、耳の『輪』に端がないようなものである」、

「(他に)憤ってはならない」

などとしている。

そして、最後の第十七条に、重要なことを決める際に皆で話し合う衆議の重要性を説いている。これもまた、輪に象徴された平等主義的な人間観に基づく民主主義的な思想である。

こうして、十七条憲法は、全体として、輪の人間観に基づいて、慢心や自我執着と、それによる他者への軽蔑・怒りを捨てて他を尊重し、和や衆議を重視せよという内容になっているのである。

そして、この聖徳太子の「ワ」(輪と和)の思想は、ひかりの輪の思想と非常によく似ている。特に、この第十条の教えは、後で詳しく述べるひかりの輪の提唱する「輪の思想」の一部であり平等主義的な世界観である「優劣の輪の教え」そのものである。

また、ひかりの輪が重視する大乗仏教の世界観は、優劣の比較が強い現代の競争社会と違って、万人平等主義的な思想である。聖徳太子も、仏教を篤く信仰し、十七条憲法の第二条で「篤く三宝を敬え」と説き、大乗仏教の経典を解釈している。

その思想には、全ての人々・生き物が仏性(未来に仏陀になる可能性)を有するという平等主義の思想がある。また、偶然の一致であろうが、古くから仏教の教えの象徴は、法輪(法の車輪・ダルマチャクラ)とされており、輪は仏教の教えの象徴でもあるのだ。

いや、より正確に表現すれば、そもそも日本には、仏教伝来よりはるか以前の太古から、平等主義的な人間観・世界観である「輪」というものが根本的な精神としてあって、それが太子にも染み込んでいて、外来の思想である仏教は、その日本伝統の思想との共通点があったから、日本文化の中に溶け込むことができたのではないだろうか。よって、太子は、仏教の言葉ではなくて、日本古来の万人平等の思想の象徴である「和」と「輪」という言葉を用いたのではないか。

また、中西氏は、新年号において、「和」を修飾する「令」という言葉の意味として、「辞書で引くと、善いという意味です。(中略)善は、まず言葉として美しいし、儒教の最高の理念でもあります。そして、第二に、令は律なりという定義がある。法律の律です。」と述べている。だとすれば、令には「善法」という意味があるとも解釈できるのではないだろうか。

そして、太子にとっては、輪に象徴される日本古来の思想であって、仏教の思想でもある平等主義的な人間観に基づく平和・調和の思想こそが、まさに「善法」であっただろうし、その意味で、令和の真の意味は、「善い法に基づく平和・調和の実現」と解釈できるのではないだろうか。

また、日本に仏教を導入した聖徳太子は、日本の伝統的な思想を無視して仏教を導入したのではなく、両者をマッチングさせて、両者の共通点を強調して、それを導入したのではないかと思う。いわゆる和魂漢才(和魂洋才)・和洋折衷である。

そして、その後も、この傾向は続き、日本の仏教は、万人平等主義の輪・和の思想に合わせて、すべての生きものに仏性(未来の仏陀になる可能性)を認める大乗仏教の考え方が主流となった(これを「一切衆生悉(しつ)有(う)仏性(ぶっしょう)」などという)。

さらには、インドの大乗仏教さえも超えてしまって、生きもの以外の万物・山や川や草や木にまで、仏性を認める日本独自の解釈を生むことになった(山川草木悉(さんせんそうもくしつ)有(う)仏性(ぶっしょう)〔悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)〕)。これは、八百万(やおよろず)の神などとして、大自然すべてに神性を認める神道にも見られる。

そして、その源は、仏教や神道の歴史をはるかに超えて遡り、縄文時代の輪の精神や、それに基づく精霊信仰などの原初的信仰にあると思われる。

 

3.ひかりの輪と聖徳太子の輪の思想

なお、聖徳太子は観音菩薩の化身とされているが、さまざまな形態を有する観音菩薩の中で、「輪」を象徴とした「如意輪」観音菩薩の化身とされている。こうして、輪を象徴とする観音菩薩の化身である太子が説いた「輪」の教えが、偶然にも、ひかりの輪の「優劣の輪」の教えと同じ内容だったのである。

また、繰り返しになるが、十七条憲法が、その全体として、第十条の「輪」の平等主義的な人間観・世界観に基づいて、第一条の「和」を重視する構成となっていることも、ひかりの輪の活動目的と全く同じ表現となっている。

具体的には、ひかりの輪の公式サイトには、「新団体『ひかりの輪』では、...すべての人々...の間には、...輪のような繋がりがあり、皆が助け合って生きることが、大切だという...ことを『輪』という言葉で表現したのです。...こうして、新団体『ひかりの輪』は、21世紀の社会で、...人と人の和合・助け合いが進み、...さらには、人類と大自然・地球との調和が深まることを願っています。」と明記されている。

これらは意図的に一致させようとしたのではまったくなく、ひかりの輪発足から4年を経た2011年になって聖徳太子の十七条憲法を精査して気づいたことである。不思議なことであるが、日本民族として共有するDNAの影響であろうか。

 

4.日本の「和の思想」は、縄文の「輪の思想」から

さらに、「輪」は、日本民族の根本思想でもある。繰り返しになるが、日本の文化の根本には、和の思想があるが、実は、この和の思想の源が、輪の思想であり、それは縄文時代まで遡るという識者の見解がある。

その前に、まず、日本人は、自分たちのことを「ワ」と呼び続けてきた。『魏志倭人伝』には、日本人・日本国が、倭人、倭の国と表現されている。これは、当時の日本人が自分たちを「ワ」と呼び、それを聞いた中国人が、それに漢字の倭を当てたというのが有力である。

そして、日本人は一人称に、同じように、我、我々、私など、ワという言葉を当てている。これはどうやら日本語のルーツとなった言語から来たようである。

ワは、日本を表す言葉として今も残っている。国の名前は、倭から大和(やまと)に変わったが、「やまと」に当てられた漢字には、和=ワが入った。さらに、和洋、和食、和室と、日本のものを和=ワという音・言葉で表し続けている。

そして、冒頭に述べたように、この倭・我・和などの漢字が当てられたワという言葉の語源は何かというと、一説に、「輪」・「環」ではないかという。それは、縄文時代の集落の形状が輪であったことから来るということである。

いわゆる、環状集落、環状列石(ストーンサークル)と呼ばれる縄文時代の居住形態である。輪の中に広場があり、集会その他の共同活動が行われたのではないかと推察されている。

そして、この輪の居住形態は、単に集落の物理的な形態を意味するだけではなく、万人が平等で一体という共同体の運営理念の現れであり、ここに、今現在も依然として根強く残っている、和を重んじる日本文化の源があるという説である。ここからは、日本のワの文化の源流は、聖徳太子の十七条憲法が始まりではなく、縄文時代の輪状の集団生活に源があるということになる。

 

5.「和の国」は「輪の山」から、大和政権の発祥地は三(み)輪(わ)山(やま)

さて、ここで参考までに、もう一つ不思議な、輪と和の合体がある。それは、倭の後に、日本の国の名前となった「やまと(大和)」についてであるが、この語源にも、なんと、輪が関係している。

やまと(大和)や、やまたい(邪馬台)の語源は、山の麓(ふもと)であるという説があるが、具体的には、大和政権の発祥地になった奈良県の三輪山の麓とされているのである。こうして大和は、三輪山から生まれ、和の国が、輪の山から生まれたことになる。

また、この付近は、学問的に大和政権の発祥の地とされているが、最近は、当地にある纒(まき)向(むく)遺跡の発掘による新発見が相次ぎ、それをさらに遡って、卑弥呼の邪馬台国の地としても非常に有力になりつつある(すなわち、邪馬台国畿内説=大和朝廷の前身がそのまま邪馬台国であるという説)。

 

《関連資料1》縄文時代の輪の思想

1「『わ』の思想の源流-十七条憲法以前の和の思想-佐倉哲」

http://www.j-world.com/usr/sakura/japan/origin_of_wa.html

2「環状集落に見る円の思想」(武光誠氏『一冊でつかむ天皇と古代信仰』〔平凡社〕)

3「森の思想」「循環の思想」(梅原猛氏の著書『「森の思想」が人類を救う』〔小学館〕、

梅原猛氏、稲森和夫氏『人類を救う哲学』〔PHP研究所〕など)

 

《関連資料2》 聖徳太子「十七条憲法」(第一条、第十条、第十七条)

■第一条:和の重要性

一に曰わく、和を以って貴しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

〔現代語訳〕

一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就するものだ。

■第二条:仏教・三宝の尊重

二に曰わく、篤(あつ)く(あつく)三宝(さんぽう)を敬え。三宝とは仏・法・僧なり、即ち(すなわち)四生(ししょう)の終帰(しゅうき)万国の極宗(ごくしゅう)なり。何れ(いずれ)の世、何れの人かこの法を貴ばざる。人、尤(はなは)だ悪しきもの鮮(すくな)し、能く(よく)教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってかまがれるを直(なお)くせん。

〔現代語訳〕

心から三宝を敬いなさい。三宝とは仏と法理と僧侶のことです。生きとし生けるもの最後に行き着くところは、どこの国でも究極の宗教です。どの時代でも、どんな人でも仏教を尊ばないものは無い。人間に悪い者は少ない。良く教えれば正道に従う。仏教に帰依しないで、何で曲がった心を正すことができようか。

■第十条:平等主義的人間観--人は皆賢くかつ愚か=万人に仏性あり、万人は皆凡夫

十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違(たが)うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖 (いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙 (おこな)え。

〔現代語訳〕

十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。

■第十七条:衆議の必要性

十七に曰わく、それ事は独り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もし失(あやまち)あらんことを疑う。故に、衆とともに相弁(あいわきま)うるときは、辞(ことば)すなわち理(ことわり)を得ん。

〔現代語訳〕

十七にいう。ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。

 

6.「大和魂」の真の意味--和魂洋才(和魂漢才)

ここでは、「輪(和)」の思想に関連して、「大和魂」という言葉と、その本来の意味について述べたい。

今現在の大和魂という言葉のイメージは、第二次世界大戦の軍国主義、突撃精神、無理な精神主義などであろう(その象徴の敗北した軍艦が戦艦大和)。しかし、大和魂の本来の意味は、外国の文化等をそのまま受け入れるのではなく、日本の実情に合わせて応用する力などを意味するものだった。歴史的には、源氏物語にある「和魂漢才」という言葉が始まりとされる。漢才とは中国からの才能などを意味して、これが、後には「和魂洋才」となったのである。

そもそも、和という言葉には、①おだやかなこと、②なかよくすること、あらそいのないこと、という意味に加えて、③(二つのものを)調和させること(二つを混ぜ合わせること)といった意味がある。そして、この調和は、中庸・バランスと深く結びついており、この点においても、中道・中庸を重視する仏教の思想と通じるものがある。

 

7.「十七条憲法」に見られる和魂漢才

そして、輪と和の思想を表現した聖徳太子の「十七条憲法」は、まさに和魂漢才の精神に基づくものだと私は考えている。

まず、太子の時代に至るまでの日本の歴史的流れは、縄文時代は、前にも述べたとおり、輪と和の時代(平等的な共同体と戦争のない平和な社会)であった。しかし、弥生時代から、大陸の文化が入り、それは、上下の区別=王権と戦争の文化が特徴となった。

そして、その結果として、太子の十七条憲法は、縄文以来の日本列島の民族の伝統である輪と和の文化と、大陸から来た王権と戦争の文化の折衷=和魂漢才であった。

具体的にいうと、前に紹介したように、第一条・第十条・第十七条では、和・輪・衆議の重視などが説かれている。これは縄文時代以来の伝統的な輪の思想である。

しかし、その一方で、第二条は、渡来文化の仏教を重視し、仏・法・僧の三宝を敬うことを説き、第三条は、日本の王である天皇に従うことを説いている。三宝の中で、仏と法は別にしても、僧を敬うことや、天皇に従うことは、万人平等主義の輪の思想とは異なった、渡来の文化であろう。

 

8.日本の天皇の特異な性質

こうした、和魂漢才・和洋折衷の思想の結果として、日本の天皇は、中国の皇帝と違って、(宗教的)権威・象徴ではあっても、権力者では必ずしもなかった。権威と権力の両方を兼ねた絶対権力者ではなく、その意味で、天皇による独裁色は弱く、王の平等性が高かった。

実際に、聖徳太子の時代自体が、実務権力者が摂政である聖徳太子や蘇我馬子などであり、天皇は推古天皇という女帝であった。そして、卑弥呼を含めて、日本が女帝を受け入れたのは、女性が男性と違って権力者になりにくいという安心からではないかという説もある。

その後も、日本の歴史では、天皇・朝廷という宗教的な権威は維持されたまま、貴族や将軍が実際の権力を有する状態が続いた。天皇・朝廷も絶対権力者ではないが、時の権力者である貴族・将軍も、なるべく独裁を避ける傾向があった。

明治体制になり、天皇が憲法上は宗教と政治の双方の権力を有しても、実際の政治の実務に関与せず、「君臨すれども統治せず」という原則があった。そして、昭和以降はまさに象徴天皇制の時代となった。

この日本の天皇のあり方が、他の国の王室と違って、約2千年もの間、同じ王室が続いた背景だともいわれている。他の国では、統治者・権力者が変わる際には、従来の王室は滅ぼされる必要があったが、日本には、それがなかった。

なお、思想家の吉本隆明が述べているが、日本の歴史上、単に権力者ではなく、天皇を打倒して、自分がこの国の宗教的な権威=現人神になろうとした人物は、ほとんど見られず、オウム真理教の麻原彰晃は極めてまれな例である(自分が日本のキリストになる予言をし、自らを神聖法皇と名付け、天皇・皇居に対するテロ構想も有していた)。あとは、可能性として、織田信長に、その傾向があったのではないかという説がある。

 

9.真の大和魂・真の和魂洋才が必要な21世紀の日本

さて、こうして大和魂という言葉は、本来は和魂漢才・和魂洋才の意味を持っていたが、第二次世界大戦を通して、そのイメージがひどく歪められた。戦後は、大和魂という言葉は非常に誤解され、日本の主流思想ではなくなってしまった。

そして、それと同時に、その本来の意味である和魂漢才・和魂洋才の精神も、戦後の日本社会では、徐々に失われつつあるのではないかと思う。すなわち、時代を追うにつれて、日本は、欧米文化(特にアメリカの文化)を自国に合わせて咀嚼することなく、そのまま輸入しつつあるのではないか。これは、現在の21世紀の日本に住む私たちの心身に、多大な影響を与えている。

その例として、戦後の昭和期の日本の社会には、平等主義である輪・和の思想の反映ともいうことができる経済体制があったが、今は市場原理主義の導入の下で、崩壊しつつあるということがある。

いわゆる、戦後の昭和期の、終身雇用制・年功序列という平等な雇用体制が、平成に入って、米英中心の弱肉強食・市場原理主義の経済体制の導入などによって、なくなった。そして、勝ち組・負け組という言葉に見られるように、人々の間に、競争とそれによる優劣の区別・貧富の差が強まり、幸福な勝ち組と不幸な負け組という社会の分断が深まりつつある。

それは心の問題に繋がり、負け組の自己否定・絶望からの自殺・欝病の増大を作り出している。そして、勝ち組の方もじつは同様で、慢心・独善からの突然の没落(例えばバブルの崩壊など)などの問題を作り出していると思う。

ここで、私は、現代社会に必要な和魂洋才という意味での、本来の大和魂の実践が必要ではないかと考えている。欧米の競争原理が世界規模で展開されて、日本社会にも浸透する中で、なおかつ日本独自の文化である「輪と和の思想」、すなわち万人を平等に尊重して和合する精神を維持する智慧を見いだすことである。

社会主義の試みが失敗に終わって、資本主義という競争原理に基づく社会を否定することが、少なくとも直ちには非現実的であったとしても、その中で、人の精神と社会の調和を守るために、私たちなりに十分な工夫をして、それに対処するのである。

 

10.競争社会を愛で生きる--和魂洋才の実践

その一つの例として、私は、「競争社会を愛で生きる」という日記エッセイを書いたことがある。それは、仏教的な、一元的な思考に基づいて、どういったものの考え方をして、どういった実践をすれば、競争社会の中で、万人への尊重や愛を失わずに生きることができるかについて述べたものである。それによって、社会の分断を和らげることも意図している。

その要点をいえば、まず、競争の本来の意味とは、互いの切磋琢磨を通じて、全体の幸福・成長を実現する手段であって、勝って幸福になる者と、負けて不幸になる者を選別することではないということである。しかし、現在は、全体の成長・幸福という目的を忘れ、本来は手段である勝ち負けというものが目的化してしまっている。

これを改めるならば、勝った者は、自分が今あるのは、負けた者との切磋琢磨を含めた、全体の支えによってであって、決して自分だけの力によってではないことを絶えず謙虚に認識するべきである。

そして、慢心に陥らないようにして、全体への感謝を忘れず、その恩返しとして、負けた者を含めた全体を慈しみ、苦楽を分かち合うことである。そうせずに、慢心に陥れば、自分を支えていたものが崩れて、中東の独裁者やバブルが崩壊した際の金融エリートのように、没落することになる。

また、負けた者も、競争の本来の意味は、全体の成長・幸福であり、勝者と敗者というのは形上のことであると考えるべきである。そして、真の勝者は、切磋琢磨によって向上した全体であること、すなわち勝者と敗者を含めた全体であると認識することである。

そして、勝者に対して、彼らが先頭に立って全体を引っ張り上げた面があることを認識し、素直にその価値を認めて称賛しつつ、同時に、勝って上に立つことばかりに人の価値や役割があると錯覚してはならない。

勝者の立場にとらわれずに、優れた他人を支えるという立場・役割や、自分の敗者としての経験を活かして、他の敗者の苦しみを理解して、正しく助ける(ともに勝者を妬み憎むという堕落をするのではなく)といった役割にも、勝者と同じだけの価値があることに気づくべきである。

こうして、他を活かすこと、他を助けることができるようになれば、それは集団・組織・国の中で非常に貴重な存在となる。今の世の中では、皆が他に勝とうとし、実際に勝つ人も少なくないが、他を活かす、支える資質を持つ人は、逆に少ないからである。

その結果として、そういった人たちこそ、将来において、真に人の上に立つ存在(真の勝者)となる可能性がある。「分裂すればできることはほとんどなく、団結すればできないことはほとんどない」という言葉があるが、人は勝者であっても、自分一人の力でできることは実際にはほとんどなく、逆に他を活かして支えるなどして団結すれば、できないことはほとんどない。

これとは逆に、単に勝った者を妬み、自らは卑屈になって努力をやめるならば、せっかくの自分の役割・価値を見失ってしまい、その結果として、全体がレベルダウンすることになる。こういった人は、妬みや卑屈の内奥に、じつは努力を嫌がる怠惰を抱えている場合が少なくない。

 

11.大日本帝国の間違った大和魂

さて、オウム真理教も、『宇宙戦艦ヤマト』などのパロディを使ったりして、「ヤマト」という言葉に縁があった。しかし、その教えと活動は、大日本帝国と類似していた。

オウム真理教の「グルへの帰依」に基づく一連の事件への突っ込みも、大日本帝国で用いられた誤った大和魂の精神と似ている。それは、天皇を現人神として、日本は神国だと信じ、軍国主義で、排外的で、合理的ではない無理な精神主義や突撃精神である。戦艦大和の特攻などは、オウム真理教の突っ込みと似た感じがする。

そして、このオウムに投影された大日本帝国の誤った大和魂に対して、オウムを乗り越えんとするひかりの輪の立場から見るならば、日本人が、真の大和魂の精神をよく理解することが、大日本帝国の過去を十分に乗り越えることだと感じられる。

真の大和魂とは、大日本帝国の戦艦大和のイメージではなく、大和=大いなる和という漢字が表すとおり、日本の本来の思想である、和と輪の精神を中核としたものでなければならない。それは、万人・万国の尊重と、それに基づく平和の実現である。

宗教・思想的にいえば、日本だけが神の国なのではなく、日本が神の国ならば、世界万国も同じように神の国として尊重するといった精神である。それが、本来の日本の輪の精神であり、それを失わずに、外国文化を摂取するのが、真の大和魂であろう。

言い換えれば、明治から第二次世界大戦の日本の思想は、日清戦争・日露戦争などの成功による慢心のためか、日本だけが神の国といった側面が強くなり、気づかないうちに、欧米の思想の模倣になってしまったのではないかと思うのである。

具体的にいえば、欧米は、キリスト教的な思想に基づいて、植民地侵略を神の明白なる天命として正当化し、侵略対象を自分たちと同じ平等な人間と見なさなかった。これと同じように、明治政府は、欧米の強さが、その植民地侵略を正当化するキリスト教の信仰にあると考えて、日本にも同じものを欲し、天皇を絶対神・現人神とする国家神道の体制を作り上げていったとされる。

しかし、欧米の植民地支配は、日本の敗戦とともに、戦後まもなく崩壊したのであって、決して優れたものでも、強い文化でもなかった。第二次大戦は、連合国であろうと、枢軸国であろうと、キリスト教や国家神道やナチズムといった宗教・思想によって、自国を特別視して侵略を正当化し、結果としては自滅・敗北したのである。

これは、万人平等主義の和・輪の思想を根底に持った、聖徳太子や天武天皇以来の日本本来の天皇の意味合いとは違ったものである。輪の思想とは、日本だけが神の国というのではなく、世界のすべての国が神の国という思想のはずである。

 

12.東洋と西洋などの二極をバランスさせる思想

さて、和魂洋才・和洋折衷などで表される真の大和魂のものの考え方は、競争原理などの西洋の思想にそのまま染まることでもなければ、完全に拒絶するものでもない。それは、東洋と西洋の適切な融合・折衷・バランスを重視する思想である。例えば、その一例が、先に述べた、競争原理を否定せずに、いかに万物の尊重・平等の原理を守るかということである。

この二極をバランスさせる思想が、仏教にはある。まず、釈迦牟尼の中核の教えが、「中道」という教えである。それは欲楽にふけるのでもなく、無理な苦行にも陥らず、楽にも苦にも偏らないという思想である。

さらに、大乗仏教における「智慧と方便」という思想がある。智慧と方便は、大乗仏教において、仏陀の境地に到るための二つの重要な要素であるとされている。そして、両者のバランスが重要であり、仏陀はこの二つを同時に一体として体得しているとされる。

まず、智慧とは、万物が他から独立した固定した実体を持たず(空であり)、一体であるという悟りの境地(空の悟り)のことである。これは現世から離れる(現世を超越する)精神的な傾向である。

一方、方便とは、智慧の境地に近づくための修行法であり、特に、利他の手段、功徳を積む手段のことを指している。これは現実の生活の中で行う実践であるから、現世に近づく精神的な傾向である。方便とは手段という意味がある。

そして、この智慧と方便の考え方は、先ほど述べた「競争社会を愛で生きる教え」に活かされている。本来は、社会全体の幸福は一体であり、皆が幸福になったときに一人一人も本当に幸福になるのが真実(=智慧)である。そして、勝者と敗者を分ける競争のシステムとは、その全体の幸福を実現するための「方便・手段」であって、それ自体が目的ではない。

こうして、東洋思想(輪・和)と西洋思想(区別・競争)や、智慧と方便といった、二つの原理の融合は、ユング心理学などにも見られる。その中では、男性原理と女性原理が、それぞれ善悪を分けて悪を浄化する機能と、善悪無差別にすべてを受容する機能とに位置づけられて、その両者の融合が、最高の精神的な発達段階としている。これをわかりやすくいえば、厳しさと優しさの双方があって、真に人を育てる愛となるといってもよいだろう。

また、道教にも、「陽と陰」という二極があって、その両者のバランス・融合を重視する思想がある。陰陽とは、火と水、男性と女性、西洋と東洋、光と闇、浄化と受容、厳しさと優しさなどである。

 

13.「二極一元論」

さて、この二極を本質的に一体と見て、両者のバランス・融合を重視する思想をひかりの輪では、「二極一元論」と呼んでいる。そして、この二極は、陽と陰、男性原理と女性原理といった二極の思想と関係している、

そして、「輪」というものも、「円い」という意味だけではなく、「車輪」という意味があり、この車輪をパーツに分解すれば、軸と輪の部分に分かれるが、軸が男性原理(男性性器)、それを包む形となる輪が女性原理(女性性器)であって、両者が合体した姿ということもできる。

この男性原理と女性原理のシンボルは、様々な宗教・文化に見られる。智慧と方便を象徴する大乗仏教の法具である金剛杵と金剛鈴や、縄文時代の環状列石(ストーンサークル)の形状にも共通して現れている。

そして、環状列石などの遺跡は、日本の縄文時代に限らず、環太平洋文明全体に広がっているという説もある。その意味で、「輪」の思想とは、日本の根本思想 であるとともに、まだ戦争のなかった頃の太古の人類の共通の財産ではないだろうか。それが、極めてよく保存されているのが、日本という国ではないかと思う。

 

14.日本に期待したい精神的な向上・進化

最後に、ひかりの輪が、日本の国土に触れつつ再発見してきた輪の思想に基づいて、21世紀の日本には期待したい、精神・思想・国家理念といった面での再生・向上・進化とは何かと問われるならば、以下のようなものだと言ってもよいだろう。

第一に、正しい意味での和の国(輪の国)、大いなる和の国(大和国)としての再生。和=輪の思想に基づく国家観は、ナショナリズム・国粋主義ではなく、万国・万人が平等に尊く一体という思想であり、外交領土問題・集団的自衛権などの安全保障問題が言われる昨今、非常に重要ではないかと思われる。
第二に、正しい意味での大和魂(和魂洋才)の再生である。真の大和魂とは、和魂洋才=東洋と西洋の融合などに本質がある。例えば、欧米の市場原理主義の競争社会を単に輸入するのではなく、輪(和)の思想(=慈悲)を維持しつつ、それを活かしていく能力が重要ではないか。
第三に、宗教界の再生である。日本の仏教や神道の伝統宗派は、形骸化したといわれて久しい。また哲学の世界も、哲学の歴史の研究・学習が中心となり、現在の社会のための新たな思想を創造する力が失われていると言われる。
そこで、日本伝統の和・輪の思想の再生を含め、心・精神の豊かさ・向上に資するような、思想哲学・宗教の分野の再生・改革を期待したい。また、仏教界においては、鎌倉新仏教の展開以来、本質的な改革はなされなかったと思われるので、令和新仏教・21世紀新仏教といったものの展開を期待したい。

 

15.ひかりの輪の「輪の思想」とは

ひかりの輪は、仏教思想や心理学をはじめとする、東西の思想哲学の学習教室であり、その学習・研究に基づいて、「輪の思想・法則」ないしは「一元の思想・法則」と呼ぶ思想を提唱している。輪の思想とは、一言で言うならば、万物・森羅万象が、輪の如く繋がっていて一体である(かつ等しく尊い)と見る思想・世界観である。
そして、ひかりの輪は、その思想によって、個々人をさまざまな苦しみから解放し、人と人や、人と自然の調和を促進して、より幸福な未来社会を作ることに貢献することを目的としている。一言で言えば、輪の思想などによって、様々なレベルでの調和を広げていこうとする団体である。
前に述べたように、この一元法則は、太古から育まれてきた人類の普遍的な道理・真理である。輪の思想は、日本では縄文時代まで遡(さかのぼ)り、和(輪)を重視した聖徳太子の思想もそうであり、それゆえに、日本文化の中核にある思想である。また、日本に限らず、世界に広がっており、法輪を象徴とする仏陀の法も、道教の陰陽・太極の思想も、ヒンドゥーの思想も、輪の思想の本質がある。

なお、「ひかりの輪」という団体名は、団体の発祥の経緯となった、聖地で体験された「太陽の周りの虹のひかりの輪」などに由来している。「ひかり」は、無智の闇を照らす精神的な智慧の光、すなわち、教えという意味があるから、ひかりの輪とは、輪の教えという意味が含まれている。

 

16.ひかりの輪の「輪の法則」とは

ひかりの輪が提唱する「輪の法則」とは、万物が輪のように繋がって一体であるという輪の思想に基づいた、さまざまな教え・法則の総称である。そして、輪の法則を言い換えて、一元法則ということがある。一元法則とは、万物が一つの根元を有し、本質的に一体であることを意味している。なお、単純にすべてが同じであるという意味(単一論)ではない。

ひかりの輪において、最も中心的な一元法則は、「三悟の(一元)法則」と呼ばれている。それは、万物に感謝する教え、万物を尊重する教え、万物を愛する教えである。それに次いで、「三縁の(一元)法則」がある。それは、万物が相互に依存しあって存在し(縁起)、同根であり、循環しているという三法のことをいう。

 

17.三悟の一元法則とは 

三つの悟り(三悟)とは、万物に感謝する、万物を尊重する、万物を愛するという三つのことである。その三悟の一元法則は、本質的には一体で、言い換えると、同じ普遍的な道理を三つの視点から見たものである。この三悟の一元法則については、過去の特別教本で詳しく述べてきたので、詳細はそちらを参照されたい。今回は、その要点を以下に一つずつ、簡潔にまとめておく。

(1)万物に感謝する教え--苦楽の輪を悟る 

万物に感謝する教えを簡潔にいえば、欲楽と苦しみが輪のように一体であり、欲楽の裏に苦が、苦の裏に楽があると知って、万物を恩恵と見て感謝し、すべての衆生と苦楽を分かち合う大慈悲の実践をする、というものである。

まず、人は、自分だけの喜び(欲楽)を求めて貪っても、さまざまな苦しみを招くことになる。欲望は際限がなく、貪り求めても満ち足りないが、とらわれ・執着を生じさせるので、求めても得られない苦、得たものを失う苦、奪い合う敵対者を作る苦などが生じる。こうして欲楽はさまざまな苦しみをもたらす。

一方、苦しみは、その背景に何らかのとらわれ・執着があるから生じるものであるために、それに慣れるならば、とらわれ・執着が弱まって、苦しみではなくなっていく。その結果として、より広い条件で、幸福でいることができるようになる。

また、苦しみの経験は、特に法則を学んでいる者には、智慧や慈悲の源となる。苦しみの経験によって、欲楽の裏に苦しみがあると悟る智慧が生まれる。さらに、他の苦しみを理解し、取り除く力を育むことも助ける。苦しみが、智慧と慈悲の源となるのである。

こうして、欲楽が苦しみを、苦しみが楽をもたらし、欲楽と苦しみは、輪のように循環して一体となっているのである。

さて、こういった楽と苦の循環は、欲楽を求める場合には生じるが、利他の行為による喜びの場合には生じない。よって、仏教では、これを真の楽(真楽)と呼ぶこともある。この利他の実践とは、簡潔にいえば、他の幸福を助け、他の苦しみを取り除き、他と苦楽を分かち合うことである。

この実践をする者は、他と幸福を分かち合う中で、自ずと、自らの欲楽にとらわれて他と奪い合いをするなどの苦しみはなくなる。その一方で、他の幸福を助けることは、他が支えている自分の幸福も支えることになる。

また、他と苦しみを分かち合う中で、自分が苦しみに強くなる。他の苦しみは自分の潜在的な苦しみ(未来の苦しみ)であるから、それは、自分の未来の苦しみを取り除き、苦しみに強くする。こうして、他を利することは自己を利することであり、自と他の幸福と不幸は一体である。

よって、仏教思想は、真の幸福(真楽)に到る道として、万物を一体と見る智慧(智恵)に基づいて、万人・万物と苦楽を分かち合う大慈悲(四無量心)の実践を説くのである。

以上の考察に基づいて、正しい生き方を考えると、以下のようになる。

①欲楽を貪らず、今ある楽・幸福に気づいて足るを知り、それを支える万物に感謝する。

②苦しみが、智慧と慈悲の源と知って感謝する。こうして、苦楽を含めた万物が恩恵と知って、万人・万物への感謝と恩返しの心を持つ。

③感謝をもって、万人・万物と苦楽を分かち合う(=大慈悲の)実践をする。 

以上をまとめていえば、万物への感謝と分かち合い(知足と大慈悲)の実践ということもできるだろう。

これらの教えを仏教用語で表現すると、自分や自分のものにとらわれずに(自我執着を滅し)、無我や空の悟りの境地に到るとともに、すべての衆生への慈悲の心(四無量心)を体得するということになる。自分にとらわれず、すべての衆生を愛する意識を培うのである。

この自我執着の根本は、「自分」という存在に対する執着である。誰もが自分の生に執着するがゆえに、老い、病み、死ぬことを恐れる。よって、生・老・病・死を含めた人間の苦しみを仏教では四苦八苦という。しかし、悟りに到った仏道修行者は、必ず死ぬ運命にある無常な生への執着を超えて、老い病み死ぬことへの恐怖をも超えた無我の境地に到達する。これは仏教で説かれる高度な悟りの段階だが、しかし毎日のコツコツとした修行実践の延長上にある。

とはいえ、仏教思想は、生を軽視することはない。むしろ人間としての生は、宝のように貴重なもので、それを大切にして、悟りを達成し他者を救済するべきであると説く。そして、生への執着を超えているがゆえに、恐怖なく天寿をまっとうすることができるのである。

 

(2)万物を尊重する教え--善人・悪人の輪を悟る

万物を尊重する教えを簡単にいえば、善人と悪人はまったく別々の存在ではなく、本質的には輪のように繋がっていると知って、慢心や卑屈を超えて万人を平等に尊重し、さらには、万人を学びの対象と見て感謝して、大慈悲の実践をすることである。

今、善人とされている者も、慢心を抱いて、悪人とされている者と自分を区別して、内省の心を欠くと、悪人に堕することになる。一方、悪人とされている者も、正しく反省して努力すれば、未来には善人になる。

こうして、自と他を区別し、善人と悪人を区別する限りは、善人と悪人は輪のように循環(輪廻)してしまうことがよくわかるだろう。逆に、謙虚な心をもって、両者を区別しない者は、善人から悪人へと循環(輪廻)していくことはなくなるのである。そして、仏教では、すべての人々・生きものが、今はどうあれ、未来においては仏陀になる可能性(仏性)を有していると説き、謙虚になって万人・万物を尊重することを説く。

なお、これとまったく同じ内容の教えを、観音菩薩(如意輪観音)の化身とされる聖徳太子が、その「十七条憲法」の第十条において説いている。それは、「自分だけが聖人で他は愚かであるということはなく、人は皆賢くもあれば愚かであって、それは耳の輪のようなものである」というものである。ひかりの輪では、「和の思想」で有名な太子の十七条憲法は、その土台に「輪の思想」があると考えている。

また、悪人とされる者も、善人とされる者も、その者だけの原因・力によって、それぞれが悪行や善行をなしているのではない。そもそも、悪人も善人も、人は皆、自分だけの原因・力で生まれ育つのではなく、親から生まれ、その後の環境の影響を受けて育ち、いうなれば、この社会・大自然・宇宙全体によって作られたものである。

こうして、善人を形成した社会は、その一部に悪人を含み、同様に、悪人を形成した社会は、その一部に善人を含んでおり、悪人と善人は、社会・宇宙の一部として、本質的には輪のように一体になって繋がっている。

よって、自と他を区別せずに、悪をなす者を慢心によって嫌悪するのではなく、自分の中の潜在的な悪を投影する存在=反面教師と見ることが重要である。また、同様に、善をなす者を妬むのではなく、自分の教師・見本と見ることも重要であり、善人・悪人を含めた万物を、自分の教師・反面教師、導き手・鏡と見て、尊重・感謝するのである。

そして、単に他を鏡と見て学ぶだけでなく、他の悪行とそれによる苦しみを、自己の苦しみと考えて悲しみ、それを取り除く手助けをする。他人が悪行を脱却することを手助けするならば、自分が未来に同じ悪行に陥ることを未然に防ぐことができる。また、他人の善行・幸福を手助けすれば、他人に支えられている自分の幸福も増大することになる。

こうして、他の苦しみを取り除くことは自己の苦しみを取り除くことであり、他の幸福を助けることは自己の幸福を助けることになる。他を利することは自己を利することになる。これが仏教思想の説く大慈悲の実践である(大慈悲の慈とは、他に幸福を与えることで、大慈悲の悲は、他の苦しみを悲しみ、それを取り除くことである)。

以上の考察に基づくならば、正しい生き方を考えると以下のようになる。

① 万物を平等に(未来に仏陀になる可能性を有する存在として)尊重する。

② 万人の善行・悪行を自己の教師・反面教師と見て学んで感謝する。

③ 感謝をもって、他の善行・幸福を助け、他の悪行・苦しみを取り除く、大慈悲の実践をする。

まとめていえば、万物の尊重と感謝に基づく分かち合いの実践である。そして、慢心を抱かず、謙虚な智慧をもって、万物を尊重する実践をする者が、真の善人(=仏教的には菩薩という)となっていく。

 

(3)万物を愛する教え--自と他の輪を悟る

万物を愛する教えを簡単にいえば、自と他を含めた万物が、輪のように循環して一体であると知って、自と他を区別せずに、他の幸福・不幸を自己の幸福・不幸と考え、大慈悲の実践をし、真の自己が無限の宇宙であることを悟ることである。

まず、自と他を含めた万物は、輪のように循環して一体となって存在している。例えば、人は、両親を含めた万物・大自然から生まれ、死んでは、自分は、他人を含めた万物・大自然に戻っていく。これは、太陽や地球といった星も同じであり、大宇宙から生まれ、大宇宙に戻っていく。この循環を繰り返している。

体について注目すれば、他者が死んでは、それが自分の体の一部となり、自分が死んでは、それが他者の体の一部となる。また、生きている間も、自分と他者・外界の間では、その体を構成する分子が絶えず交換されており、自分だけの体の分子などない。

また、体に加えて、思考・感情の面でも、自分だけで作った思考や感情などはなく、生まれてからずっと、他者から吸収した言語・知識・情報に基づいてそうしており、自と他の間で絶えず影響を与え合っている。こうして、自分だけの体も思考も存在せず、自と他を含めた万物は、物心両面で、互いの要素を交換・循環させながら、一体となって存在しているのである。

さらに、仏教等が説く輪廻転生説に基づけば、人は死んでは生まれ変わり、生まれ変わっては死ぬという生と死の循環の中にいる。この意味でも、今生において、自分と他人とを区別して、(今生の)自分だけを愛して執着しても、それは死によって無常に消え去っていくものであるから、空しい結果となる。なお、大乗仏教は基本として、何度も生まれ変わる中で、遠い未来ではあるが釈迦牟尼のようにすべての生き物は悟るという輪廻の思想を持つ(なお、釈迦牟尼は輪廻を絶対視しなかったと言われるが、その後にできた大乗仏教は、ヒンドゥー教の思想の影響も受けて、輪廻が中心教義の一つとなった)。

これらの思想に基づいて、正しい生き方を考えると、以下のようになる。 

① 自他を含めた万物は、輪のように循環し一体であると知る。

② 他の幸福・不幸を、自己の幸福・不幸と考え、大慈悲の実践をする。

③ 老い、病み、死ぬ無常な自我ではなく、無限の宇宙全体が真の自己であることを悟る(宇宙意識)。

まとめていえば、万物が一体であると見て、分かち合い、万物と同化する実践である。

さて、釈迦牟尼が説いた中核の教えとして、「縁起の法」がある。それは、「此(これ=煩悩)があれば、彼(かれ=苦)があり、此がなければ、彼がない、此が生ずれば、彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す」という教えである。大乗仏教では、これを解釈して、「万物は相互に依存しあって存在し、他から独立した固定した実体を持つものはない」と説いた。また、これに関連して、固定した実体がないことを「空」であるというが、よって、この世の一切は空であると説く。

そして、特に、私たちが「私」と呼んでいるもの、すなわち、心や体で構成される自我存在には固定した実体がなく、老い病み死んでいく無常なものであるから、それに過剰に執着するべきではないと説くのが、無我の教えである。

この教えは、真の自己とは、本質的には一体である無限の宇宙であると言い換えることもできる。これを梵(ぼん)我(が)一如(いちにょ)ともいう(自己の本質と宇宙の根本原理が同一であること)。また、これを宇宙意識と表現することもできる。真の自己を強調するのは、仏教よりも、ヒンドゥー、ヨーガの教え・表現である。

なお、縁起の法と輪の法則は、両者とも、万物が繋がって一体であると説いている点で、本質的に同じものである。本質が同じであるせいか、縁起の法を中核とする仏法は、興味深いことに、法輪(ダルマチャクラ、法則の車輪の意味)というもので象徴される。仏教の教えを説くことを、法輪を転じると表現するのである。

また、輪は円に通じるが、日本語では、円は縁と同じ発音であるところも興味深い。輪・円・縁はすべて、何かと何かが繋がっているという概念である。この縁という概念は、ご存じの通り、日本文化に深く浸透しているものである。

 

18.「輪」が象徴するさまざまな重要な事柄

さて、ひかりの輪において、「輪」という言葉が象徴しているものは、①「輪の法則」や、その悟りの境地だけではない。それは、②宇宙や宇宙の創造原理、さらには、③仏教の根本的な実践体系までを示している。

まず、輪は、「宇宙」も象徴している。輪は、丸い・円という意味を含むが、この輪や円は、さまざまな思想において、宇宙を象徴することがある。例えば、仏教における曼荼羅は、仏の悟りの境地や、真理や宇宙を象徴したものだが、その元の意味は円である。また、禅においても、円相というものがあるが、これも悟りの境地・真理・宇宙を象徴する。

ここで、悟りの境地と真理と宇宙が、同じ一つの輪・円という象徴で表されるのは、悟りの境地が、自と他が一体という輪・円の真理を体得して、心が宇宙と一体となった境地であることに関係しているのだろう。

また、古代人にとっては、宇宙と輪は、不可分のイメージだっただろう。星々が回転する夜空を見ても、太陽が回転する昼間を見ても、宇宙は輪・循環・回転するものだった。現代では、地球も太陽も銀河系も回転することが知られている。そして、大乗仏教の経典では、宇宙の根本原理を「時の輪」=周期的な運動・循環であるとした。

さらに、輪は、「車輪」という三次元的な意味がある。日本語でもそうだし(『広辞苑』など参照のこと)、サンスクリット語で「輪」を意味する「チャクラ」も、車輪という意味がある。先ほども述べたが、仏法の象徴の法輪・ダルマチャクラは、法則の車輪という意味である。

そして、この車輪は、それをパーツに分解すれば、棒状の軸とそれを包んだ形となる輪の合体であり、これをこの世を構成する「女性原理・男性原理」の象徴と見る思想がある。

例えば、縄文時代のストーンサークル(環状列石)などである。この世の万物は、棒状の軸とそれを包んだ形となる輪が象徴する男性原理と女性原理の合体によって創造されたとし、その両者が本質的に一体であると解釈する宗派もある。

なお、道教でも、「陰陽」と呼ばれる男性原理・女性原理が万物を展開しており、両者は同根であるとする(両者の根元は「太極」と呼ばれる)。ただし、道教では、棒状の軸とそれを包んだ形となる輪の合体物ではなく、円の形をした太極図によって、その思想を象徴する(円の中に、陰と陽を組み合わせて表現している)。

最後に、大乗仏教においては、この両者が「智慧(智恵)」と「方便」という、仏陀の境地に到るための二大要素を象徴している。具体的には、方便を男性原理と見て、棒状の法具(金剛(こんごう)杵(しょ))で表す。智慧を女性原理と見て、輪状の法具(金剛(こんごう)鈴(れい))で表す。

ここで、女性原理である智慧は、空の悟りを示している。男性原理である方便は、手段という意味である。これは、空の悟り=智慧を得るための手段である。言い換えると、実践法、特に、利他の手段、功徳を積む手段を中心とした実践法を意味する。よって、車輪=棒状の軸とそれを包んだ形となる輪は、悟りの境地と、悟りを得る手段・実践法を象徴している。

そして、智慧と方便は不離一体とされる。方便=修行法の実践が深まると、智慧が深まるだけでなく、智慧が深まれば、また、方便=修行法の実践が深まるということである。そして、智慧と方便の同時一体の体得が、仏陀の境地とされる。

こうして、輪とは、円・車輪・循環などに通じ、①私たちが学ぶべき一元の法則と、それを体得したときの悟りの境地に加えて、②この宇宙全体やその根本原理、③さらには宇宙の創造原理としての男性原理・女性原理(陰陽)、さらには、④悟りとそれに到る修行法の関係という根本的な修行実践の体系まで、さまざまな重要な概念を包み込んでいるのである。

 

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