ひかりの輪の「輪の法則」とは
1 「ひかりの輪」とは何か
ひかりの輪は、仏教思想や心理学をはじめとする、東西の思想哲学の学習教室であり、その学習・研究に基づいて、「輪の思想・法則」ないしは「一元の思想・法則」と呼ぶ思想を提唱している。輪の思想とは、一言で言うならば、万物・森羅万象が、輪の如く繋がっていて一体である(かつ等しく尊い)と見る思想・世界観である。
そして、ひかりの輪は、その思想によって、個々人をさまざまな苦しみから解放し、人と人や、人と自然の調和を促進して、より幸福な未来社会を作ることに貢献することを目的としている。一言で言えば、輪の思想などによって、様々なレベルでの調和を広げていこうとする団体と言ってもよいだろう。
この一元法則は、太古から育まれてきた人類の普遍的な道理・真理である。輪の思想は、日本では縄文時代まで遡り、和(輪)を重視した聖徳太子の思想もそうであり、それゆえに、日本文化の中核にある思想である。また、日本に限らず、世界に広がっており、法輪を象徴とする仏陀の法も、道教の陰陽・太極の思想も、ヒンドゥーの思想も、輪の思想の本質がある。
なお、「ひかりの輪」という団体名は、団体の発祥の経緯となった、聖地で体験された「太陽の周りの虹のひかりの輪」などに由来している。「ひかり」は、無智の闇を照らす精神的な智慧の光、すなわち、教えという意味があるから、ひかりの輪とは、輪の教えという意味が含まれている。
2 輪の法則とは
輪の法則とは、万物が輪のように繋がって一体であると説く、さまざまな教えの総称である。そして、輪の法則を言い換えて、一元法則ということがある。一元法則とは、万物が一つの根元を有し、本質的に一体であることを意味している。なお、単純にすべてが同じであるという意味(単一論)ではない。
ひかりの輪において、最も中心的な一元法則は、「三悟の(一元)法則」と呼ばれている。それは、万物に感謝する教え、万物を尊重する教え、万物を愛する教えである。それに次いで、「三縁の(一元)法則」がある。それは、万物が相互に依存しあって存在し(縁起)、同根であり、循環しているという三法のことをいう。
3 三悟の一元法則とは
三つの悟り(三悟)とは、万物に感謝する、万物を尊重する、万物を愛するという三つのことである。その三悟の一元法則は、本質的には一体で、言い換えると、同じ普遍的な道理を三つの視点から見たものである。この三悟の一元法則については、過去の特別教本で詳しく述べてきたので、詳細はそちらを参照されたい。今回は、その要点を以下に一つずつ、簡潔にまとめておく。
(1)万物に感謝する教え--苦楽の輪を悟る
万物に感謝する教えを簡潔にいえば、欲楽と苦しみが輪のように一体であり、欲楽の裏に苦が、苦の裏に楽があると知って、万物を恩恵と見て感謝し、すべての衆生と苦楽を分かち合う大慈悲の実践をする、というものである。
まず、人は、自分だけの喜び(欲楽)を求めて貪っても、さまざまな苦しみを招くことになる。欲望は際限がなく、貪り求めても満ち足りないが、とらわれ・執着を生じさせるので、求めても得られない苦、得たものを失う苦、奪い合う敵対者を作る苦などが生じる。こうして欲楽はさまざまな苦しみをもたらす。
一方、苦しみは、その背景に何らかのとらわれ・執着があるから生じるものであるために、それに慣れるならば、とらわれ・執着が弱まって、苦しみではなくなっていく。その結果として、より広い条件で、幸福でいることができるようになる。
また、苦しみの経験は、特に法則を学んでいる者には、智慧や慈悲の源となる。苦しみの経験によって、欲楽の裏に苦しみがあると悟る智慧が生まれる。さらに、他の苦しみを理解し、取り除く力を育むことも助ける。苦しみが、智慧と慈悲の源となるのである。
こうして、欲楽が苦しみを、苦しみが楽をもたらし、欲楽と苦しみは、輪のように循環して一体となっているのである。
さて、こういった楽と苦の循環は、欲楽を求める場合には生じるが、利他の行為による喜びの場合には生じない。よって、仏教では、これを真の楽(真楽)と呼ぶこともある。この利他の実践とは、簡潔にいえば、他の幸福を助け、他の苦しみを取り除き、他と苦楽を分かち合うことである。
この実践をする者は、他と幸福を分かち合う中で、自ずと、自らの欲楽にとらわれて他と奪い合いをするなどの苦しみはなくなる。その一方で、他の幸福を助けることは、他が支えている自分の幸福も支えることになる。
また、他と苦しみを分かち合う中で、自分が苦しみに強くなる。他の苦しみは自分の潜在的な苦しみ(未来の苦しみ)であるから、それは、自分の未来の苦しみを取り除き、苦しみに強くする。こうして、他を利することは自己を利することであり、自と他の幸福と不幸は一体である。
よって、仏教思想は、真の幸福(真楽)に到る道として、万物を一体と見る智慧(智恵)に基づいて、万人・万物と苦楽を分かち合う大慈悲(四無量心)の実践を説くのである。
以上の考察に基づいて、正しい生き方を考えると、以下のようになる。
①欲楽を貪らず、今ある楽・幸福に気づいて足るを知り、それを支える万物に感謝する。
②苦しみが、智慧と慈悲の源と知って感謝する。
こうして、苦楽を含めた万物が恩恵と知って、万人・万物への感謝と恩返しの心を持つ。
③感謝をもって、万人・万物と苦楽を分かち合う(=大慈悲の)実践をする。
以上をまとめていえば、万物への感謝と分かち合い(知足と大慈悲)の実践ということもできるだろう。
これらの教えを仏教用語で表現すると、自分や自分のものにとらわれずに(自我執着を滅し)、無我や空の悟りの境地に到るとともに、すべての衆生への慈悲の心(四無量心)を体得するということになる。自分にとらわれず、すべての衆生を愛する意識を培うのである。
この自我執着の根本は、「自分」という存在に対する執着である。誰もが自分の生に執着するがゆえに、老い、病み、死ぬことを恐れる。よって、生・老・病・死を含めた人間の苦しみを仏教では四苦八苦という。しかし、悟りに到った仏道修行者は、必ず死ぬ運命にある無常な生への執着を超えて、老い病み死ぬことへの恐怖をも超えた無我の境地に到達する。これは仏教で説かれる高度な悟りの段階だが、しかし毎日のコツコツとした修行実践の延長上にある。
とはいえ、仏教思想は、生を軽視することはない。むしろ人間としての生は、宝のように貴重なもので、それを大切にして、悟りを達成し他者を救済するべきであると説く。そして、生への執着を超えているがゆえに、恐怖なく天寿をまっとうすることができるのである。
(2)万物を尊重する教え--善人・悪人の輪を悟る
万物を尊重する教えを簡単にいえば、善人と悪人はまったく別々の存在ではなく、本質的には輪のように繋がっていると知って、慢心や卑屈を超えて万人を平等に尊重し、さらには、万人を学びの対象と見て感謝して、大慈悲の実践をすることである。
今、善人とされている者も、慢心を抱いて、悪人とされている者と自分を区別して、内省の心を欠くと、悪人に堕することになる。一方、悪人とされている者も、正しく反省して努力すれば、未来には善人になる。
こうして、自と他を区別し、善人と悪人を区別する限りは、善人と悪人は輪のように循環(輪廻)してしまうことがよくわかるだろう。逆に、謙虚な心をもって、両者を区別しない者は、善人から悪人へと循環(輪廻)していくことはなくなるのである。そして、仏教では、すべての人々・生きものが、今はどうあれ、未来においては仏陀になる可能性(仏性)を有していると説き、謙虚になって万人・万物を尊重することを説く。
なお、これとまったく同じ内容の教えを、観音菩薩(如意輪観音)の化身とされる聖徳太子が、その「十七条憲法」の第十条において説いている。それは、「自分だけが聖人で他は愚かであるということはなく、人は皆賢くもあれば愚かであって、それは耳の輪のようなものである」というものである。ひかりの輪では、「和の思想」で有名な太子の十七条憲法は、その土台に「輪の思想」があると考えている。
また、悪人とされる者も、善人とされる者も、その者だけの原因・力によって、それぞれが悪行や善行をなしているのではない。そもそも、悪人も善人も、人は皆、自分だけの原因・力で生まれ育つのではなく、親から生まれ、その後の環境の影響を受けて育ち、いうなれば、この社会・大自然・宇宙全体によって作られたものである。
こうして、善人を形成した社会は、その一部に悪人を含み、同様に、悪人を形成した社会は、その一部に善人を含んでおり、悪人と善人は、社会・宇宙の一部として、本質的には輪のように一体になって繋がっている。
よって、自と他を区別せずに、悪をなす者を慢心によって嫌悪するのではなく、自分の中の潜在的な悪を投影する存在=反面教師と見ることが重要である。また、同様に、善をなす者を妬むのではなく、自分の教師・見本と見ることも重要であり、善人・悪人を含めた万物を、自分の教師・反面教師、導き手・鏡と見て、尊重・感謝するのである。
そして、単に他を鏡と見て学ぶだけでなく、他の悪行とそれによる苦しみを、自己の苦しみと考えて悲しみ、それを取り除く手助けをする。他人が悪行を脱却することを手助けするならば、自分が未来に同じ悪行に陥ることを未然に防ぐことができる。また、他人の善行・幸福を手助けすれば、他人に支えられている自分の幸福も増大することになる。
こうして、他の苦しみを取り除くことは自己の苦しみを取り除くことであり、他の幸福を助けることは自己の幸福を助けることになる。他を利することは自己を利することになる。これが仏教思想の説く大慈悲の実践である(大慈悲の慈とは、他に幸福を与えることで、大慈悲の悲は、他の苦しみを悲しみ、それを取り除くことである)。
以上の考察に基づくならば、正しい生き方を考えると以下のようになる。
① 万物を平等に(未来に仏陀になる可能性を有する存在として)尊重する。
② 万人の善行・悪行を自己の教師・反面教師と見て学んで感謝する。
③ 感謝をもって、他の善行・幸福を助け、他の悪行・苦しみを取り除く、大慈悲の実践をする。
まとめていえば、万物の尊重と感謝に基づく分かち合いの実践である。そして、慢心を抱かず、謙虚な智慧をもって、万物を尊重する実践をする者が、真の善人(=仏教的には菩薩という)となっていく。
(3)万物を愛する教え--自と他の輪を悟る
万物を愛する教えを簡単にいえば、自と他を含めた万物が、輪のように循環して一体であると知って、自と他を区別せずに、他の幸福・不幸を自己の幸福・不幸と考え、大慈悲の実践をし、真の自己が無限の宇宙であることを悟ることである。
まず、自と他を含めた万物は、輪のように循環して一体となって存在している。例えば、人は、両親を含めた万物・大自然から生まれ、死んでは、自分は、他人を含めた万物・大自然に戻っていく。これは、太陽や地球といった星も同じであり、大宇宙から生まれ、大宇宙に戻っていく。この循環を繰り返している。
体について注目すれば、他者が死んでは、それが自分の体の一部となり、自分が死んでは、それが他者の体の一部となる。また、生きている間も、自分と他者・外界の間では、その体を構成する分子が絶えず交換されており、自分だけの体の分子などない。
また、体に加えて、思考・感情の面でも、自分だけで作った思考や感情などはなく、生まれてからずっと、他者から吸収した言語・知識・情報に基づいてそうしており、自と他の間で絶えず影響を与え合っている。こうして、自分だけの体も思考も存在せず、自と他を含めた万物は、物心両面で、互いの要素を交換・循環させながら、一体となって存在しているのである。
さらに、仏教等が説く輪廻転生説に基づけば、人は死んでは生まれ変わり、生まれ変わっては死ぬという生と死の循環の中にいる。この意味でも、今生において、自分と他人とを区別して、(今生の)自分だけを愛して執着しても、それは死によって無常に消え去っていくものであるから、空しい結果となる。なお、大乗仏教は基本として、何度も生まれ変わる中で、遠い未来ではあるが釈迦牟尼のようにすべての生き物は悟るという輪廻の思想を持つ(なお、釈迦牟尼は輪廻を絶対視しなかったと言われるが、その後にできた大乗仏教は、ヒンドゥー教の思想も影響も受けて、輪廻が中心教義の一つとなった)。
これらの思想に基づいて、正しい生き方を考えると、以下のようになる。
① 自他を含めた万物は、輪のように循環し一体であると知る。
② 他の幸福・不幸を、自己の幸福・不幸と考え、大慈悲の実践をする。
③ 老い、病み、死ぬ無常な自我ではなく、無限の宇宙全体が真の自己であることを悟る
(宇宙意識)。
まとめていえば、万物が一体であると見て、分かち合い、万物と同化する実践である。
さて、釈迦牟尼が説いた中核の教えとして、「縁起の法」がある。それは、「我があるがゆえに、彼があり、彼があるがゆえに、我がある」という教えである。大乗仏教では、これを解釈して、「万物は相互に依存しあって存在し、他から独立した固定した実体を持つものはない」と説いた。また、これに関連して、固定した実体がないことを「空」であるというが、よって、この世の一切は空であると説く。
そして、特に、私たちが「私」と呼んでいるもの、すなわち、心や体で構成される自我存在には固定した実体がなく、老い病み死んでいく無常なものであるから、それに過剰に執着するべきではないと説くのが、無我の教えである。
この教えは、真の自己とは、本質的には一体である無限の宇宙であると言い換えることもできる。これを梵(ぼん)我(が)一如(いちにょ)ともいう(自己の本質と宇宙の根本原理が同一であること)。また、これを宇宙意識と表現することもできる。真の自己を強調するのは、仏教よりも、ヒンドゥー、ヨーガの教え・表現である。
なお、縁起の法と輪の法則は、両者とも、万物が繋がって一体であると説いている点で、本質的に同じものである。本質が同じであるせいか、縁起の法を中核とする仏法は、興味深いことに、法輪(ダルマチャクラ、法則の車輪の意味)というもので象徴される。仏教の教えを説くことを、法輪を転じると表現するのである。
また、輪は円に通じるが、日本語では、円は縁と同じ発音であるところも興味深い。輪・円・縁はすべて、何かと何かが繋がっているという概念である。この縁という概念は、ご存じの通り、日本文化に深く浸透しているものである。
4 「輪」が象徴するさまざまな重要な事柄
さて、ひかりの輪において、「輪」という言葉が象徴しているものは、①「輪の法則」や、その悟りの境地だけではない。それは、②宇宙や宇宙の創造原理、さらには、③仏教の根本的な実践体系までを示している。
まず、輪は、「宇宙」も象徴している。輪は、丸い・円という意味を含むが、この輪や円は、さまざまな思想において、宇宙を象徴することがある。例えば、仏教における曼荼羅は、仏の悟りの境地や、真理や宇宙を象徴したものだが、その元の意味は円である。また、禅においても、円相というものがあるが、これも悟りの境地・真理・宇宙を象徴する。
ここで、悟りの境地と真理と宇宙が、同じ一つの輪・円という象徴で表されるのは、悟りの境地が、自と他が一体という輪・円の真理を体得して、心が宇宙と一体となった境地であることに関係しているのだろう。
また、古代人にとっては、宇宙と輪は、不可分のイメージだっただろう。星々が回転する夜空を見ても、太陽が回転する昼間を見ても、宇宙は輪・循環・回転するものだった。現代では、地球も太陽も銀河系も回転することが知られている。そして、大乗仏教の経典では、宇宙の根本原理を「時の輪」=周期的な運動・循環であるとした。
さらに、輪は、「車輪」という三次元的な意味がある。日本語でもそうだし(『広辞苑』など参照のこと)、サンスクリット語で「輪」を意味する「チャクラ」も、車輪という意味がある。先ほども述べたが、仏法の象徴の法輪・ダルマチャクラは、法則の車輪という意味である。
そして、この車輪は、それをパーツに分解すれば、棒状の軸とそれを包んだ形となる輪の合体であり、これをこの世を構成する「女性原理・男性原理」の象徴と見る思想がある。
例えば、縄文時代のストーンサークル(環状列石)などである。この世の万物は、棒状の軸とそれを包んだ形となる輪が象徴する男性原理と女性原理の合体によって創造されたとし、その両者が本質的に一体であると解釈する宗派もある。
なお、道教でも、「陰陽」と呼ばれる男性原理・女性原理が万物を展開しており、両者は同根であるとする(両者の根元は「太極」と呼ばれる)。ただし、道教では、棒状の軸とそれを包んだ形となる輪の合体物ではなく、円の形をした太極図によって、その思想を象徴する(円の中に、陰と陽を組み合わせて表現している)。
最後に、大乗仏教においては、この両者が「智慧(智恵)」と「方便」という、仏陀の境地に到るための二大要素を象徴している。具体的には、方便を男性原理と見て、棒状の法具(金剛杵)で表す。智慧を女性原理と見て、輪状の法具(金剛鈴)で表す。
ここで、女性原理である智慧は、空の悟りを示している。男性原理である方便は、手段という意味である。これは、空の悟り=智慧を得るための手段である。言い換えると、実践法、特に、利他の手段、功徳を積む手段を中心とした実践法を意味する。よって、車輪=棒状の軸とそれを包んだ形となる輪は、悟りの境地と、悟りを得る手段・実践法を象徴している。
そして、智慧と方便は不離一体とされる。方便=修行法の実践が深まると、智慧が深まるだけでなく、智慧が深まれば、また、方便=修行法の実践が深まるということである。そして、智慧と方便の同時一体の体得が、仏陀の境地とされる。
こうして、輪とは、円・車輪・循環などに通じ、①私たちが学ぶべき一元の法則と、それを体得したときの悟りの境地に加えて、②この宇宙全体やその根本原理、③さらには宇宙の創造原理としての男性原理・女性原理(陰陽)、さらには、④悟りとそれに到る修行法の関係という根本的な修行実践の体系まで、さまざまな重要な概念を包み込んでいるのである。