仏教思想
ひかりの輪の仏教思想をお伝えします

仏教思想の基本

仏教とヨーガの思想の根幹と実践の基本

以下のテキストは、2018年夏期セミナー特別教本『仏教・ヨーガの根幹の思想と実践 ポスト平成の思想と神秘体験の科学』第2章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。


1.ヨーガの本来の意味

「ヨーガ」の原意は、体操ではなく、心のコントロールである。ヨーガの根本経典とされる『ヨーガ・スートラ』には、厳密な表現で「心の作用の静止・制御」とされており、「(日常的な)心の働きを止滅すること」などと解釈される。すなわち、(日常的な)思考や感情といった心の働きを静止させた状態であり、それは、究極的な心の安定と集中の状態である。

ヨーガは、「牛馬にくびきをつけて車につなぐ」という意味の動詞(ユジュ)から派生した名詞で、「結びつける」という意味もある。つまり語源的に見ると、普通は自分の思いのままにならずに動き続ける心を牛馬に例えて、牛馬を御するように、心を制御するということを示唆している言葉である。


2.ヨーガの本来の目的

ヨーガの本来の目的について、『ヨーガ・スートラ』では、「ヨーガとは心の作用を止滅することである 」(『ヨーガ・スートラ』1-2)」、「その時、純粋観照者たる真我は、自己本来の姿にとどまることになる」 (『ヨーガ・スートラ』1-3)」と説いている。こうして、ヨーガは、心の作用を止滅して、「真我」の本来の姿に至ろうとするものである。

ここで「真我」とは何かというと、サンスクリット原語はアートマン(Ātman)であり、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。これは「最も内側 (Inner most)」を意味する サンスクリット語のアートマ(Atma)を語源としている。

よって、真我は、個の中心にあって、認識をするものであるが、知るもの(主体)と知られるもの(客体)の二元性を超えている。すなわち、主体と客体、自と他の区別を超えた意識である。

ヨーガは、心の作用を止滅して、この真我の意識状態に至ろうというものである。
そして、この状態は、インド哲学が説く人生の究極の目的とされる輪廻転生からの「解脱(モークシャ)」を果たした状態でもある。よって、心の働きを止滅して、解脱を果たすことが、ヨーガの目的であるということができる。

また、真我(アートマン)は、宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとされる(梵(ぼん)我(が)一如(いちにょ))。ウパニシャッドと呼ばれる経典では、アートマンは不滅であり、生存中は人の体の心臓のところに宿るとされている。


3.ヨーガの古典的修行体系:八段階の修行

『ヨーガ・スートラ』に示された古典ヨーガは、主に観想法(瞑想)によるヨーガである。そのため、体操を含んだ後期のヨーガに比較すれば、静的なヨーガである。

そして、その具体的な実践方法は、アシュターンガ・ヨーガ(八階梯のヨーガ)といわれ、以下の通りである。

①ヤマ(禁戒) してはならないことを示した戒律
②ニヤマ(勧戒) するべきことを示した戒律
③アーサナ(座法・体位法) ヨーガ体操と瞑想座法
④プラーナーヤーマ(調息法・調気法) 呼吸法による気(プラーナ)の制御
⑤プラティヤーハーラ(制感) 感覚・五感の制御
⑥ダーラナー(凝(ぎょう)念(ねん)) 一点に対する精神集中
⑦ディアーナ(静慮) 集中の拡大
⑧サマディ(三昧) 超集中状態(主体と客体の合一)

仏教では瞑想のことを「禅定」というが、禅定とは、「禅」と「定」の複合語であって、禅が、上記のディアーナ(静慮)に由来する言葉で、ディアーナが音訳されて、ゼンナとなり、禅になったものである。定は、上記のサマディ(三昧)に由来する言葉で、サマディが音訳されて三昧となり、それを意訳して定となったものである。

そして、禅=ディアーナは、静慮と訳され、定=サマディは、三昧=超集中などと訳されるので、心が静まった深い集中状態を意味するが、仏教でも、禅定は、瞑想による心の安定・集中を意味する。そして、これは、心の働きの静止・制御を意味するヨーガの本来の意味とも非常に近い。


4.仏教の本来の意味:仏陀とは目覚めた人

仏教とは、文字通り、仏=仏陀・ブッダの教えである。ブッダとはサンスクリット原語で、目覚めた人、覚醒者、覚者といった意味がある。これを言い換えると、智慧を得た人という意味である。

仏教開祖のゴータマ・シッダッタは、その最初の説法(初転(しょてん)法輪(ぼうりん))で、この教えは、目を開かせ、智慧を生じさせ、心の寂静、涅槃(悟りの境地)などを与えるとした。

智慧とは、物事をありのままに見る認識力であり、仏教用語でいえば、縁起や空の道理を理解することである。

縁起とは、一切の事物が他から独立しては存在せず、相互に依存しあって存在していること(万物相互依存)であり、空とは、一切の事物が他から独立した固定した実体を持たないことを意味する。縁起と空は本質的には一体の概念であり、相互に依存しあって存在しているから、一方が変われば他方も変わり、固定した実体がないということである。

縁起や空といった難しい概念を使わずに、智慧を分かりやすく表現するならば、物事の全体を認識する力、物事を俯(ふ)瞰(かん)する力とでも表現することができる。

それは、自分だけではなく、自分と他人のつながり・相互依存を把握する力であり、物事の今現在だけではなく、それが移り変わっていく未来まで把握する力などを含む。

よって、智慧とは、仏陀の無我の教え(他から独立した私・私のもの・私の本質といったものはない)や、無常の教え(物事は移り変わる)を理解する力とも表現できる。

よって、完全な智慧を得た仏陀は、世界の全時空間に合一しているなどとも説かれることがある。意識・心の視野が広大無辺に拡大した状態である。よって、この智慧は、仏陀の広大無辺な愛の心である大慈悲・四無量心と一体である。智慧と慈悲は、仏陀の二大徳性ともいわれる。


5.智慧の対極の無智

一方、仏陀ではない普通の人(凡夫)は、精神的に目覚めていない者(夢者)ということになる。そして、普通の人は、智慧を獲得しておらず、物事をありのままに見る力がない。これを無智(痴)という。

よって、無智とは、智慧がない、縁起や空の道理を理解していない、万物の相互依存性・固定した実体の欠如を理解していない、物事の全体を把握する、俯瞰する力がない、無我や無常の教えを理解していない状態ということができる。

結果として、無智によって、自分と他人のつながりと物事の無常性を理解しないがゆえに、自と他を区別して自己を偏愛し、自分と自分の物を際限なく欲求して(貪り)、それを阻むものに対して怒ることになる。これが無智から貪りと怒りが生じるプロセスであり、無智・貪り・怒りを心の三毒(貪・瞋・痴)という。

こうして智慧と慈悲、無智・貪り・怒りがセットである。


6.初期仏教の修行の目的:苦しみを取り除く

仏教の修行の目的は、仏陀の最初の説法(初転(しょてん)法輪(ぼうりん))に説かれている四(し)諦(たい)の教えに明らかである。四諦とは以下のとおりである。

①苦(く)諦(たい):この世は苦である。一切は苦である。
②集諦(じったい):苦は煩悩によって生起する。
③滅諦(めったい):煩悩を滅すれば苦は滅する。
④道(どう)諦(たい):煩悩と苦しみを滅する道は八正道である。

ここで、この世は苦である、ないし一切は苦である(一切皆苦・一切行苦)という教えの中の「苦」の原語であるドゥッカは、単純に苦痛という意味ではない(仮にそうだとしたら、この世には明らかに苦痛と快楽の双方がある以上、この教えは合理的ではないことになる)。

それは、不安定な、困難な、望ましくないといった意味がある言葉である。よって、このドゥッカという言葉は、どんな喜びも時とともに変化する不安定なものであり、自分の思いのままにすることは困難であり、それにとらわれることは望ましくないといったほどの意味があると思われる。

そして、この四諦の教えから明らかなように、仏陀の教え・修行の目的は、苦しみの原因を明らかにした上で、苦しみを取り除くことである。


7.苦しみの原因は煩悩であり、その根源は無智である

そして、苦しみを取り除くために、苦しみの原因を見ると、それは煩悩であると仏陀は説く。この苦と煩悩の心理的な因果関係が、仏陀が説いた最初の「縁起の法」である。

後に縁起の法の概念が複雑化・拡大したため、この最初期の縁起の法を「此(し)縁性(えんしょう)縁起(えんぎ)」と呼ぶことがある(一方、先ほど述べた万物が相互依存であることを意味する縁起の法は相(そう)依(え)性(しょう)縁(えん)起(ぎ)と呼ばれる)。

そして、先ほど述べた通り、仏陀によれば、煩悩の根源は無智であり、無智から始まって、貪りや怒りをはじめとする様々な煩悩が生じる。そして、無智を根本として、貪りや怒りといった様々な煩悩、様々な執着・とらわれが生じると、それによって様々な苦しみに至る。

そのプロセスを十二の段階に分けて詳しく説いた教えが「十二縁起の法」と呼ばれるが、ここではその詳細は省略する。


8.人間の苦しみ:四苦八苦・三苦

そして、仏陀・仏教が説いた人間の苦しみとは、四苦八苦や三苦という教えに説き明かされている。

四苦八苦とは、

①生
②老
③病
④死と、
⑤求不得苦(ぐふとくく:求めても得られない苦)
⑥愛別離苦(あいべつく:愛する者と別れる苦)
⑦怨憎会苦(おんぞうえく:憎しみの対象と会う苦しみ)
⑧五蘊盛苦(ごうんじょうく)ないし、五取蘊苦(ごしゅうんく:一切にとらわれることの苦しみ)である。

ここで、生老病死の中の「生」の苦しみとは、出産は母子ともに危険で大きな苦しみを伴い、またどのような子供が生まれるか定かでないといった苦しみを指している。

そして、そうして生まれても、必ず老い・病み・死ぬという苦しみがある。残りの四つに関しては、何かにとらわれて求めても得られない苦しみがあり、得て執着したものを失う苦しみがあり、求める限りは奪い合い憎み合う苦しみがあり、よって、一切のとらわれは苦しみであるといった意味がある。

また、三苦という教えは、苦苦(くく)・壊苦(えく)・行苦(ぎょうく)であり、苦苦とは、心身の苦痛そのものである苦しみであり、壊苦とは、喜びであるものが壊れる時の苦しみである。行苦については、この「行」は(一切の)存在という意味であるから、一切の存在がドゥッカである(不安定で、困難で、望ましくない)という意味であり、一切の存在の無常性による苦しみを意味する。

以上をまとめれば、仏陀は、①苦しみの原因は煩悩であり、②それを詳しくいえば、無智によって貪り・怒りといった煩悩が生じて、様々なとらわれが生じる結果として、四苦八苦や三苦といった苦しみが生じるから、③無智を解消するための智慧を培う修行をすべきであると説いたのである。


9.智慧を得る道程:三学・八正道

そして、智慧を得る具体的な実践法として説かれたのが八正道であるが、その要点は「三学」という教えに集約される。この三学とは、仏教の要となる三つの学習修行の実践項目であって、①戒(戒律を守る)、②定(禅定=瞑想の実践)、③慧(智慧)である。すなわち、戒律を守って、瞑想を行い、智慧(悟り)を得るということである。

これは、仏教の最も基本的な修行の体系である。そして、三学の教えよりも、より細かく修行の実践課題を表しているものが八正道や、それを含めた七科(しちか)三十七(さんじゅうしち)道品(どうぼん)と呼ばれる修行体系であるが、それらすべてに共通する基本的な修行体系が三学である。


10.ヨーガと仏教の修行体系・目的の違い

ヨーガと仏教の修行の体系や目的の違いは、ここまで見てきたことからわかるように、ヨーガは禅定(=瞑想による心の安定と集中)に終わるが、仏教はそれに終わらず、禅定によって、物事をありのままに見る智慧を得ようとする点である。

この禅定と智慧は、仏教の要となる概念であり、別の表現では、止と観(サマタとヴィパッサナー)という。心が静止すれば、物事をありのままに見る(観る)ことができるという意味である。そして、禅定と智慧、止と観は、相互依存の関係にあって循環しており、①瞑想による心の安定と集中(禅定・止)を努めて深めれば、物事をありのままに見る力(智慧・観)が深まり、②同様に、物事をありのままに見ることに努めれば(智慧・観)、禅定・止も深まる。

一方、ヨーガには、アーサナ(座法・体位法)やプラーナーヤーマ(調気法)といった身体行法が瞑想の準備段階として説かれている点が、仏教と比較した場合の特徴となっている。ただし、仏教の中でも密教の宗派は、ヨーガとの交流・混合が進み、ヨーガの身体行法が多分に取り入れられているものがある。

そして、日常の行動をコントロールする戒律が、瞑想の土台になっている点は、ヨーガと仏教の共通点である。


11.ひかりの輪の修行の四つの柱

さて、初期仏教・ヨーガの修行の重要な目的が、前にも述べた通り「心のコントロール」であるが、そのための手段に関して、ひかりの輪は、初期仏教・大乗仏教・ヨーガなどの古今東西の修行法を総覧して、以下の四つにまとめあげている。

①教学:教えを学ぶ→思考・想念の浄化
②功徳:戒律の実践→日常の行動の浄化
③行法:身体行法→身体の浄化
④聖地:自分の身を置く環境の浄化

この教学・功徳・行法・聖地は、上に示した通り、思考・行動・身体・環境の浄化を意味する。そして、心は自分の意思では、直ちにコントロールすることはできないものだが、この四つは心と深くつながっており、この四つを浄化・コントロールすることで、間接的に心を浄化・コントロールすることができるのである。


12.環境の浄化:自分の体の外側の要素の浄化

(1)住環境:自分の身を置く環境

①自室:整理整頓・掃除・換気、心が落ち着く視覚・聴覚・嗅覚の情報。
仏画・自然写真、クラシック・瞑想音楽・聖音、瞑想香・アロマ
②野外の自然に親しむ:理想は特段浄化された気の場所(パワースポット)

(2)飲食物

①バランスがとれた自分の体質に合ったもの:極端な食養学は盲信しない。
②避けるべきもの:食べすぎと冷たい物の取りすぎ。

(3)衣服

①体を締め付けず、気の流れを阻害しないもの。
②伝統的な瞑想補助ツール:①貴石(個人に合ったもの)②仏教法具

(4)人間関係

①何事も学びは個人よりも、切磋琢磨する集団の方が進みやすい。
②他人の言葉・行動から学び、さらには心から以心伝心で学ぶという思想。
③釈迦の教え:①良き友と交わる ②サンガ:仏道修行者の集いの重視
仏教の三宝:ブッダ(仏)・ダルマ(仏の教え)・サンガ


13.日常の言動の浄化

(1)心が安定する言動を選択し、不安定にする言動を避ける。

心理学の選択理論:感情は選択できないが、行動・思考は選択できる。

(2)仏教をはじめとする各宗教には、日常行動を規定する戒律がある。

三学の教え(戒・定・慧)が説くように、戒律を守る生活が、心の安定と集中をもたらす瞑想の土台となる。
心の安定をもたらす行為が善行(功徳)、その逆の行為を悪行(罪)と解釈される。

(3)健康的な生活習慣も、日常の言動の浄化(戒律)の一部である

①住環境を整える(上記の通り)
②適度な運動をする(有酸素運動。ヨーガのアーサナ・プラーナーヤーマなど)
③適切な飲食(上記の通り)
④規則的な睡眠(夜更かしを避ける)
⑤入浴(下記の通り)
⑥良い姿勢・呼吸(下記の通り)
⑦気の流れを阻害しない服装(上記の通り)

良い生活習慣は、生活習慣病や精神的な病気を回避し、健康・長寿・若さを保つことにも役立つ。


14.身体の浄化

(1)仏教・ヨーガ・気功などの身体行法

①アーサナ(体位法・座法):体をほぐし、気の流れを改善、座法を安定化。
②プラーナーヤーマ(調気法):気の流れを改善し、心の安定・集中力を高める。
③その他:クリヤヨーガ、気功法、歩行禅(歩行瞑想)

(2)入浴:体をほぐし、血流・気の流れを改善する

入りすぎは禁物、温泉は古来仏教僧の聖地(その後大衆化された)。
時間がなくシャワーの場合、多少熱めで十分に浴びる。

(3)真言(マントラ):心が安定する言葉を唱える

これに関連して、巻末の参考資料の「身体心理学」の研究結果が示す通り、体の使い方と心の状態には、深い関係があることがわかっている。その一部は以下のとおりである。

①筋肉の状態:筋肉を弛緩させると、リラックスし、ストレスが減少し、免疫力が増大する。
②呼吸の状態:腹式呼吸で長く息を吐くと、心拍・血圧が低下、ストレスが減少する。
③姿勢:うつむきの姿勢はネガティブな気分、背筋を伸ばすと前向きになる。
④発声:アー音は開放的な気分、ウーン音はゆったりした気分、ウン音は温かい気分をもたらす。

 

15.思考の浄化

(1)思考と感情・心は深く連動しており、習慣化・自動化している。

心理学の認知療法が説くように、否定的な思考とそれに連動する否定的な感情の習慣がある。
自動思考・自動感情。

(2)心が安定するものの見方(=仏陀の教え)を体得することが重要である(仏陀の智慧=正見を得る)。

止と観の教え:心が静まると物事が正しく見える。正しくものを見れば心が静まる。

(3)仏陀の教えを学ぶ際の注意

単に知識として吸収せずに、その是非をよく吟味して、論理的に十分に納得した上で修習する。
そして、絶えず法則を思念する(正念の教え)。

(4)思考の浄化=智慧の獲得の3つの段階

①知識の学習:教えを学んでいるが確信していない。
②論理的な理解(推理智):教えの正しさを論理的に確信。
③瞑想による直観:教えを瞑想による直接体験で体得。


16.瞑想直前の準備

瞑想を行う場合、いきなり行うのではなく、以下の準備を心がける。

(1)環境の浄化:瞑想する場の掃除・整理整頓・換気により、気の流れをよくする。

加えて、心が静まるような仏画・聖音・瞑想香を用いた霊的な浄化が望ましい。

(2)適度な運動を行う(例えば上記のアーサナなど)。

(3)姿勢を整える。以下の三つの点に注意する。

①座法:安定した座り方(できればヨーガの座法)。
背筋を真っ直ぐにして、肩などの体の力を抜く。
②手印:手の組み方。合掌・定(じょう)印(いん)など各種ある。
緊張しているか眠気があるかなどによって選択。
③目・視線:しっかり開ける、半眼、目を閉じるなど各種ある。
緊張しているか眠気があるかで選択する。顔は下を向きすぎないように。

(4)呼吸法を行う。


17.瞑想の際の注意点

(1)真言瞑想や読経瞑想の時の注意点

三密加持といわれ、①身(身体)、②口(言葉)、③意(意識)の3点において、仏陀に近づくようにする。身体においては、上記の通り、座法、手印、目・視線などにおいて正しい姿勢を保ち、言葉においては、真言・読経をしっかり唱え、意識においては、仏陀・仏陀の教えなどを思念する。

(2)瞑想のタイミング

朝起床後に瞑想すれば、1日全体の心や行動が、エゴ・煩悩から離れた、よいものとなりやすい。「初めよければ」ということ。普通の人は、寝ている間は意思が働かないから、朝起きた直後は、エゴ・煩悩が生じている。

また、夜眠る前に瞑想すれば、その日の心や行動の汚れを、その後の睡眠や翌日に持ち越さずに済み、よい睡眠状態(=瞑想)を得ることができる。その日1日を反省する機会にも。

(3)瞑想による智慧と煩悩の解消

瞑想による心の安定と集中は、物事をありのままに見る力=智慧・悟りを与える。そして、この智慧が強まるほど、無智・貪り・怒りという3つの根本煩悩が和らぎ、他の煩悩も和らいで、苦しみが解消していく。

人の苦しみの根本原因である根本的な煩悩(三毒)は、無智・貪り・怒りである。これを言い換えれば、智慧が生じると、自分の苦しみが、①貪り(欲張りすぎ)、②怒り(嫌がりすぎ)、③無智(間違った見方・今の自分さえよければという怠惰など)が原因であることに気づいて、それを解決・解消することができる。

(4)感謝の瞑想は覚醒の扉となる

感謝の瞑想を深めて広げていくならば、①自分の得ている恵みの膨大さ、②自分の苦しみの裏にある恩恵、③自分の慢心・罪、④恩返しとしての利他の実践の重要性、⑤万物が一体である真理などに目覚める(気付く・悟る)ことができる。この詳細に関しては、2018年GWセミナー特別教本『ポスト平成の新しい生き方・感謝の瞑想:仏陀の覚醒の扉』を参照されたい。


18.心のコントロールの様々な恩恵

(1)精神的な苦しみの解消、心の安定・幸福、苦しみに対する強さを得る

究極的には、苦しみを喜びに変える生き方を体得し、仏陀の智慧・慈悲に近づく。

(2)健康・長寿・若さ(仏教・ヨーガの修行と健康長寿の深い関係は第1章を参照)

究極的には、強く良い気の流れによる身体的な快感を得る(仏陀の至福の身体・内的歓喜)。

(3)知性の向上:感情に流されない合理的な判断力

究極的には、静まった心に生じる直感力・インスピレーション(仏陀の智慧)を得る。

(4)人間関係の改善:感情の暴走・奪い合い・憎み合いの解消

究極的には、広く深い感謝と恩返しの心に基づく仏陀の利他心・慈悲・菩薩道の体得。

(5)長期的な有意義な自己実現

①上記の心の安定・高い知性・健康・良い人間関係は、幸福の資源とされる。
これによって、長期的な自己実現:時(=天)を味方に付けた生き方ができる。
②人生の前半は、学力・体力・容姿・財力などで負け組でも、心身の健康長寿を得て、
後半は逆転して、最後は悟り(老年的超越)に至る人生が可能となる。

 

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