仏教思想
ひかりの輪の仏教思想をお伝えします

21世紀の社会のための仏教・宗教哲学

親子問題の克服と仏陀の智慧

以下のテキストは、2012年夏期セミナー特別教本『悟りの教えと現代の諸問題 親子問題、鬱病、自殺』第2章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。


1 親子問題は諸問題の根源

   現代社会のさまざまな問題の原因を探っていくと、親子問題に行き着くという見方がある。人にとって、親子関係は初めての人間関係である。そして、「三つ子の魂百まで」というように、幼少期・青年期の体験が人生全体に及ぼす影響は大きい。よって、親子関係のあり方が、他の人間関係にも大きな影響を与える可能性がある。よって、親子関係における心の問題・課題があれば、それを解決・改善することは非常に重要である。

   特に、親子関係は、最初の上下関係である。よって、人生における他の上下関係、すなわち学校の教師、会社の上司、一部の妻の夫との関係、そして、自分が所属するあらゆる組織・集団のトップ・上層部との関係、宗教団体の信者と教祖の関係、市民・国民としての政府・政治家との関係にまで、影響を及ぼしている(投影されている)と考えられる。


2 真に大人になる過程

   さて、親子関係の問題を考える前に、どのように変化していくのが健全な親子関係なのかを考えてみたい。もちろん、そのパターンに当てはまらないものが、不健全であると解釈するのは適切ではない。人は、親子関係における不備を、人生の中で、他の方法によって埋め合わせる能力を持っているからである。よって、それを踏まえながら、分析してみよう。

   親子関係の変化とは、言い換えれば、子供が大人になっていくプロセスであろう。乳幼児のころは、子供は親に絶対的に近い依存状態にある。子供は親なしでは生きることができず、自分と親が中心である「狭い世界」を体験している。ある心理学の理論では、この段階の子供は、親と自己を、神と神の子のように絶対視しているとする。自分が何か欲すると、すぐにそれを満たしてくれる万能の存在(親)が現れるように見え、3歳前後で自我意識(他人とは別の自分)が芽生える前までは、その親と自分の区別さえ定かにはついていない。

   その後、自我意識が芽生えて、第一反抗期を迎える。親と自分の区別が生じ、親とは違った存在である自分=自我が確立されていく。さらに十代に入って、第二反抗期を迎える。親に対してさまざまに依存していた状態から、親以外の人々との交わりの中で、親とは違った自分の考え方・価値観・生き方が生じ、第一反抗期で芽生えた自我が、第二反抗期では、確立に向かう。

   ただし、いつまでも単純に親に反抗しているならば、真に成熟した大人になったということができるかは疑問である。十分に成熟した大人になるには、親も自分も、同じ多くの人間の一人であり、長所も欠点もある不完全な存在だと認識することである。

   そうすると、親の良いところには感謝しつつ、親の過ちについても、不完全な人間の一人として許しやすくなる。親が自分を傷つけたとして恨みを持つばかりではなく、親の過ちの背景にあるものが、親の人間としての苦しみ・弱さ・無知・未熟にあると洞察していく。そして、場合によって(理想としては)、そういった要素は、同じ不完全な人間として自分にも(潜在的には)あると気づく。

   さらに、自分も、親と対等の一人の人間として、いつまでも親ばかりに負担をかけずに、自立して生きていくべきだと自覚が生じる。そして、自立ができると、その後は、自分が親側に回って、他を育む責任があると自覚する段階に至る。子供から親側に回るのである。なお、他を育むとは、一般的には、自分の子供を生み育てることだが、そうでない場合は、縁のある次世代やなんらかの自分の後進、年齢に関係なく未成熟な人たちの育成を担う。

   そして、この自覚の背景には、理想としては、親に対する感謝に基づく恩返しの心がある。自分が親に辛抱強く育ててもらったことに対する感謝に基づき、自分も同じように、子供や次世代を辛抱強く育むという恩返しの心である。

   こうして、今までのプロセスをまとめると、①親への依存(親と自分の絶対視)→②親への反抗(自我の芽生えと進化)→③親と自分の相対化→④感謝や許しを伴う自立→⑤親側に回って恩返しというプロセスがあると思うのである。


3 現代社会の親子問題:親への感謝・尊敬の減少

   しかし、ここで、「理想としては」と書いたのは、現代の社会では、親に対する感謝・尊敬が、著しく低いという問題があるからである。特にこの日本においては、そうである。世論調査によると、子供の半数以上が親を尊敬・信頼しておらず、しているのは三割強であるという結果もあり、諸外国に比べても低い。この場合は、親への感謝に基づいて、その恩返しとして、自分も親と同じ他者の養育の義務・責任を担うという意識が不足する可能性がある。

   この点に関連して、他者への感謝と、他者への愛(慈愛)は深い関係があるという考え方がある。自分が他に支えてもらっている、愛してもらっているという自覚=感謝は、自分の他者に対する愛につながり、その恩返しとして、他者に奉仕する心を作るものだろう。なお、ここでの愛は、親が子供の養育に要する愛であるから、「長期間の忍耐を伴う無償の愛」である。

   これは、宗教的に言えば、仏陀の慈悲、神の博愛などと性質がよく似ている。実際に、大乗仏教の教えでは、仏陀がすべての衆生を救おうとする大慈悲の心を説くが、その心に近づくためには、親の子供への愛をモデルにする場合が多い。具体的には、自分の親が、いかに自分を愛してくれたかを思い起こした上で、今生では親ではない者たちも、無数の過去世では自分の親だった生があると考えて、すべての者たちを過去世の親としての恩人であると瞑想するのである。こうして、すべての者を恩人と見て、その恩を思って、すべての者への愛を育み、その恩に報いようと考え、すべての者を苦しみから救う利他行(菩薩道)の実践をすることを決心する。

   こうして、大乗仏教が説く衆生済度の菩薩道・利他行の修行においても、「感謝と恩返し」という構図が明確である。よって、他者の愛の恩に感謝して、その恩返しとして、今度は自分が他者に奉仕していく、というパターンは、人間としての人格の成熟・向上の上で、極めて基本的・根源的・普遍的な道理ではないかと思われる。

   これをわかりやすく言えば、父親としてか母親としてかは別にして、自分が柱になる(大黒柱になる)という決意であろう。こうして、人類は、親から子供に、前世代から次世代にと、この感謝と恩返しの心の連鎖を経て、愛と奉仕というものを伝播してきたのである。


4 親子問題が少子化の一因では

   しかし、この21世紀の現代社会において、少なからず、この愛と奉仕のリレーが弱体化しているのではとも思われる。少子化の問題がいわれるが、この原因は、マスコミでよくいわれるように、将来の経済的な不安によるものだけなのであろうか。20年前までの高度成長期やバブル期などと比較するならば、そうかもしれないが、明治以降の日本の近代全体から見れば、今よりも経済的な困難や将来不安が大きかった時期もあったことは明らかだ。

   しかし、そうした発展途上国でさえあった時期にさえ、出生率は今より高かったであろう。もちろん、諸条件が大きく違うので、単純な比較はできない。しかし、根本的な問題として、子供・次世代を辛抱強く育むことへの責任や、価値の自覚が乏しくなったのではないか。そして、さらにいえば、そうする自信が乏しくなったのではないだろうか、というのが私の仮説である。

   この視点に基づいて、親などへの感謝と、それに基づく恩返しの実践が、現代社会において、どのように損なわれているのかについて、考察してみたいと思う。


5 親への感謝を妨げる要因:戦後社会の心の隙間

   次に、親への感謝を妨げる要因を考えてみよう。第一に考えられることは、戦後日本社会の基本的な価値観である。まず、その前に、戦前・戦中の思想を考えてみよう。

   その時代は、大日本帝国・国家神道の体制の下で、日本は神の国で、国父たる天皇は神の末裔の現人神(あらひとがみ)であり、それにならって、家長である父親や学校の教師・校長先生には強い権威があった。子供たちは、その思想の下で、天皇のみならず、自分を生み育んだ親、教師、国を尊び、自らもその神の国の臣民・子孫としての自尊心を形成した。

   このタイプの思想の場合、自分を生み出したものへの尊重と、自分自身の価値が完全にセットになっている。自分を生み出したものは、神の国とその王と臣民であり、よって、生み出された自分も、神の国の臣民であるとなる。よって、人が本質的に欲求する自分の価値=自尊心に基づいて、親・教師・社会・国家への尊重が自動的に形成されるのである。

   こういった仕組みは、神の化身を自称する宗教団体と、それに帰属・帰依する信者の間にも見られる精神的な構造である。いったん、自分たちの教祖と集団が、神の集団であると妄信してしまうならば、自分が、選ばれた神の民(選民)として自尊心(厳密には虚栄心)を非常に強く充足できるために、あとは、その自尊心(虚栄心)の充足を維持するために、その教団(ないしは宗教国家)の立派な信者(臣民)として必要とされる行動を求められれば、それが客観的には相当に苦行的なことであっても、選民たるに必要なこととして、それに励む仕組みができあがるのである。

   とはいえ、こうした仕組みには大きな弊害があることは、第二次世界大戦の結末や、こうしたタイプの新興宗教・カルト宗教の状態を見れば、一目瞭然である。自分たちだけを神の集団と信じるのは、根拠なき妄信であるばかりか、外部社会を尊重せず、その価値を強く否定することになり、排他的・攻撃的にもなる。神の集団と摩擦するものは、必然的に悪魔の集団となるからだ。

   よって、我々は、こうした妄信・選民思想ではなく、自分を生み出した親や社会に対する感謝と、虚栄心ではなく健全な自尊心を見出すための、「新しい道」を見出さなければならないだろう。


6 戦後社会の競争主義の弊害

   しかし、戦後日本社会は、この新しい道を十分に見出せていない。大日本帝国の虚栄心の充足が完全に崩壊し、その代わりに導入された価値観は、個人主義、自由主義、資本主義、競争主義、経済主義、会社主義などである。国家のために、個人の自由を抑圧する全体主義的な体制に替わって、個人の自由が尊重される社会になったのは良かったが、その中には、自分を生み育む者たちへの感謝・尊敬を培うための土台となる思想は見あたらない。

   その代わり、資本主義・競争主義の価値観の中では、現状に不満を抱き、「今よりも、もっと」と求め、自分と他人を比較し、「他人よりも、もっと」と求めることが重視される。この不満と競争は、まさに感謝と逆行する思考の枠組みである。感謝は、与えられているものの大きさを見ることによって生じるが、不満は、与えられているものは当然のこととして、与えられていないもの、得ていないものを見て生じる意識である。

   さらに競争主義は、自他を比較して、他に勝ってこそ価値があるという価値観である。よって、自分の親と他人の親を比較したり、自分の親を一般的な親の基準・イメージなどと比較したりして、評価することにもなる。これは、親や教師の方が、それぞれの子供の評価を他の子供との比較=偏差値によって行うのだから、自業自得といえなくもないが、子が親を、親が子を比較=偏差値で評価する時代だ。

   この場合、たいていの親がなしている養育上の莫大な自己犠牲は、「親だから当然」の一言で、評価されない可能性がある。そして、子供が親を評価するのは、何か特別なことをしてもらったという印象がある時のみとなり、親なりに精一杯やっていても、例えば他の親と比較して、それを下回る場合には、恨みさえ抱くという結果になりかねない。

   偏差値・相対評価を超えて、親が子になすことを見れば、死の危険さえはらむ出産から、乳幼児の際の24時間の拘束への忍耐、そして、20年以上にもわたる体調の良い時も悪い時も含めた、年中無休で毎日提供される衣・食・住や、教育・学習・娯楽の機会、そして、精神的なケアを含めた、物心両面の無条件・無償の奉仕など、本当に膨大なものがある。これは、偏差値・相対評価には馴染まないことは明らかだろう。

しかし、競争社会、偏差値・相対評価の世界では、子供も親も、それぞれが「自分なりに精一杯努力したか」ではなくて、他との比較や、一般的な基準・イメージとの比較で、評価される。子供も親も、自分たちで気づかないうちに、競争社会の価値観に犯されて、努力が評価されるのではなく、他と比較して優位であるかどうか、すなわち「勝利という結果」が求められているのではないか。

   しかし、他と比較して、良い子・悪い子、良い親・悪い親と評価することは、本来の親子関係には馴染まないものだろう。なぜならば、親子関係は、基本的に、条件付きの愛ではなく、「無条件の愛」「無償の愛」の典型であるべきだと思うからである。親は、自分の子供というだけで、他の子供との比較なしに、子供を愛し、子供も自分の親というだけで、他の親と比較せずに、親に感謝するのが自然であろう。この無条件の愛の原則に基づいて、親が子供に無償の奉仕をなし、その後、子から親に、それが恩返しされるのである。

こうして、「今よりも、もっと」「他人よりも、もっと」という、資本主義・競争主義の価値観が、親子関係を脅かしているのではないかと懸念される。その中では、当然のこととして、多くのものに感謝せず、他と比較して少なければ、逆に恨むことさえある。

   さらには、感謝よりも不満・怒りが多い意識状態の中で、仮に親に叱られるなどすれば、それを愛の鞭と解釈する智慧や忍耐力は働かずに、自己を否定されたとばかり思い込んで、長らく恨むという可能性も増えていくだろう。


7 親側の問題を考える前に

   これまでは、子供の親に対する感謝の不足の問題を取り上げてきたが、次に、親側の問題を取り上げたい。子供が親になっていくのだから、子供にゆがみがあって、そのまま親になれば、親側にも問題があることは疑いない。ただし、その前に、何が親側の過ちで、何が子側の過ちではあるかを慎重に検討する必要がある。

   ゆがんだ視点で親を見ていると、感謝すべきことを恨んでいる場合もある。自分の家の経済状態を考えず、「他の親と比較して、おこづかいが少なかった」と恨みを持つ人もいれば、客観的に見れば、親が怒るのが当たり前のことをしているのに、自分の過ちは思い出したくないために、すっかり忘れてしまって、親にひどく叱られたことだけを根に持っている等の事例がある。

   そして、幼少期・青年期は、多分に記憶が不正確である。主観的な印象ばかりが残って、客観的な事実と一致していない場合も少なくない。そういったことには十分注意するべきである。


8 自分の親への感情が、親になった自分に跳ね返る

   さて、次に、親側の問題について考えてみよう。まず、自分が子供として親に持った感情が、親になろうとする自分、ないしは親になった自分に跳ね返ってくる可能性があることである。自分が親に対する十分な感謝がなければ、感謝に基づく恩返しの気持ちも弱いということになる。親が自分を育てるために、いかほどの困難に耐えたか、という認識がなければ、自分が自分の子育てに忍耐する気持ちが十分に持てるだろうか。

   人の能力というのは、気持ち次第の部分が相当にあると思う。客観的には相当につらいことでも、皆がやっていること、やれていることは、たいてい自分もやるものだが、皆がやっていなければ、なかなかできるものではない。よって、「自分の親が自分自身にこうしてくれた」という認識は、自分も同様にする責任があり、「そうできた親の子供として、同じようにできるはずだ」という気持ちが、無意識的にであっても生じるものではないだろうか。こうして、親に対して正しく感謝することは、自分が親として子供を育てるときの目に見えない力になるのではないだろうかと思う。


9 親の過ちをいかにして許すか

   次に、親側に問題がある場合に、子供としてどうしたらよいかについて考えたい。まず、先ほど言ったように、子供の認識が偏っているのではなくて、本当に親側の問題であることを確認する必要がある。しかし、そうした上で残る、明らかな親の過ちについては、それを許す智慧を持つのが、自分自身が大人になることであろう。

   そのためには、第一に、自分も親も、多くの不完全な人間の一人であるという客観的な事実を受け入れることである。すなわち、親も自分も、長所も短所もあり、功も罪もなし、親に完全は期待できず、親に間違いがあっても仕方がない(人間の家族として自然な)のだという認識である。これは決して親を否定したり、見下したりすることではなく、親にしてもらったことには正しく感謝しつつ、親の過ちを許すことである。

   これは、親という人間をより深く理解することでもある。それまでのように、「親はこうしてくれなかった、自分を傷つけた」として恨みを持つばかりではなくなって、「親も一人の欠点もある人間」と位置づける中で、親の過ちの背景にあるものが、自分に対する根拠のない悪意ではなくて、ないしは表面的には自分への怒り・不満があるにしても、根本的には、親の中の苦しみ・弱さ・無知・未熟にあると気づく。

   そして、場合によって(理想としては)、そういった要素は、同じ不完全な人間として自分にも(潜在的には)あると気づき、その意味では、親への感謝を保ちつつも、親の人格の一部は反面教師となる。その子供である自分が、同じ問題を潜在的に共有する可能性があるからである。

   こうして、子供の頃は、前に述べた心理学によれば、あたかも親が絶対神で、自分を神の子と位置づけ、親と自分を平等に見てはいないが、大人になる中で、親と自分を平等に見るようになる。そして、親という存在を正しく理解する中で、感謝と許しとともに、親の長所や欠点が、その子供である自分の潜在的な長所や欠点である可能性に気づき、親と自分のつながりを正しく悟るのである。

   そして、親と自分を特別視・絶対視する意識から、親も自分も多くの不完全な人間の一人と気づく。親と自分を相対化することは、自己中心的な意識から抜けることでもある。その意味でも、これは本当に大人になることであろう。よって、親の過ちを許すことができない場合は、依然として、親と自分を特別視する、未成熟な意識が隠れている可能性がある。

   客観的に見れば、過ちをなすのは、自分の親だけではない。世界の中には、自分の親以上の過ちをなしている親が無数に存在する。にもかかわらず、自分の親の過ちは許せないというのは、その背景に、気づかないうちに、自己中心的な甘えがあるからではないか、ということである。


10 誇大自己症候群という心理学理論

   心理学の理論に、誇大自己症候群という人格障害のタイプがある。通常、幼少期の子供は、親と自分を絶対視しているが、その後、大人になるプロセスで、徐々に、自分も親も相対化していく。しかし、子供の時に親に依存する経験が不足していると、このプロセスがうまく進まずに、大人になっても、自分を相対化できず、特別視する場合があるという。これを誇大自己症候群という。いわゆる自分を特別視する誇大妄想の精神状態である。

   この理論では、望ましい発育のプロセスは、幼少期に親にほどよく依存し、自己特別視の願望を満たすことができた上で、大人になる過程で、徐々にそれを脱却していくことらしい。それができずに、親への依存と自己特別視の欲求を満たせないままに大人になると、その欲求の渇きが残ってしまうというのである。


11 競争社会やメディアが作る自己特別視の願望

   私は、この心理学の理論をすべて信じているのではない。私の経験からは、この理論とは違う理由でも、自己特別視の欲求が生じることがあると思う。例えば、子供の時に親の無条件・無償の愛を得ることができずに育つと、自分を無条件に愛することができず、そのために、競争社会の中では、もっぱら他と比較して自分が特別である場合だけ、自分に価値を感じる可能性がある。

   また、メディアの影響も大きいように思う。特に、40年から50年ほど前から、漫画やテレビのアニメや特撮番組などで、選ばれた若者が、超人に変身したり、超能力を発揮したりして、壮大な悪との戦いにおいて、特別な活躍をする内容のものが流行した。その中には、ウルトラマン・仮面ライダー・ヤマト・ガンダム・エヴァンゲリオンなどのように、社会現象になったものも少なくない。これらはフィクションであるとはいえ、明らかに誇大妄想的であり、かつ闘争的な内容であることは間違いない。

   さらに、精神世界系の雑誌や一般の書籍やテレビ番組などで、超能力、UFO等の神秘現象、世界を支配する陰謀、世紀末のハルマゲドン・世界戦争の危機の予言などが、大々的に宣伝された。その中でも、ユリ・ゲラーやノストラダムスの大予言などは、これまた社会現象になったものが少なくないが、超能力者になるとか、宇宙人にコンタクトするとか、世紀末を救う存在になるといった願望は皆、妄想的であることは間違いない。

   そして、私自身の場合を分析するならば、小学生の時に、父親が浮気で別居した前後から、学業において競争に勝つことに相当の精力を注ぐようになった。それとともに、超能力やUFOといった精神世界に関心を持って、先ほどのようなアニメや書籍を好むようになったのである。よって、無償の愛を感じられない家庭の現実の中で、競争やフィクションの世界に没入し、自己特別視の願望の充足を求めたのかもしれないと思う。


12 誇大妄想と被害妄想のセット

   もちろん、「この世界で特別な存在でありたい」という気持ちは、誰もが持っている。しかし、誇大自己症候群が問題になるのは、それが現実的な願望ではなくて、明らかな誇大妄想を形成する場合である。また、誇大妄想は、セットで被害妄想も発生しやすい。本来は偉大な自分を認めない周囲の方が極めて不当であるという認識である。

   そして、オウム真理教の麻原教祖は、この誇大自己症候群の典型であろう。麻原の場合は、自分がキリストであるのに、それを認めず否定する社会はキリストを弾圧する悪業多き魂であり、戦わなければ教団はつぶされる運命であり、戦うならば一教団にもかかわらずキリストの集団であるがゆえに勝てる(可能性がある)という誇大妄想と被害妄想に陥ったのである。

   麻原のように重篤なケースは、特に幼少期の親子関係に特に深い傷があるのかもしれない。実際に麻原は視覚障害者であり、自分の意に反して、親元から離されて全寮制の盲学校に入れられるなどして、親への恨みが強かったといわれている。

   それに加えて、本人に通常とは違った認識・体験が多いことが、その原因になる場合もあると思う。すなわち、精神世界的にいえば、神秘体験・霊的体験である。客観的に見れば、それは(すべてではないにせよ)幻想・幻覚・幻聴を含む精神病理の体験である。しかし、本人(や本人の信者)にとっては、それを通して、自己(や教祖の)絶対性を信じ込んでしまうような体験である。

   そして、この誇大自己症候群の場合は、自分を特別な存在にしてくれる対象があると、それに絶対服従するが、そうでないと見ると、誰も尊敬しないという極端な傾向を持つ。自分が特別だという欲求を満たしてくれる(ように見える)存在にしか、価値を見出さないからである。麻原は、自分を救世主と予言するシヴァ大神(という自分の中の妄想体験)に帰依した。インドやチベットの宗教指導者については、自分を特別視しないと知ると、尊敬をやめてしまった。そして、親については、地獄や餓鬼の世界に落ちる低い存在と位置づけたのである。


13 苦しみを喜びに転換する智慧

   これまでは、親の過ちを許す上で、親と自分を相対化して、親も不完全な人間の一人であり、過ちの背景には、親なりの苦しみ・弱さがあって、自分も潜在的にはそれを共有していると気づくことについて述べた。とはいえ、親との傷が大きい場合には、この許しの考え方だけでは、なかなか前向きになれない場合もあるだろう。そこで、仏陀の智慧から、もう一つ別の智慧を紹介したい。

   それはまさに、伝統的な仏陀の智慧であって、苦しみを喜びに変えていくというものである。どんな苦しみにも裏には恩恵がある。それに気づくことができれば、苦しみが減り、苦しみを与えた存在への恨みも和らぐ。例えば、親のせいで自分は不幸になったという、親への恨みや被害者的な感情と、自分に関する卑屈を引きずることを避けることができる。

   では、苦しみにはどんな恩恵があると考えるのだろうか。これは、智慧の分だけ恩恵があり、言い換えれば、無限である。しかし、多くの場合に当てはまるいくつかの公式をあげれば、例えば以下の通りである。


14 苦しみは自分を鍛える愛の鞭

   第一に、苦しみは多くの場合、その人の進歩・鍛錬のための試練となる。何の苦しみもなければ、温室育ちとなり、社会に出ると潰れる人間になりかねない。

   例えば、親に、自分や自分の考え・生き方を否定・批判される人は少なくない。しかし、それを乗り越えてこそ、自分の成長もあり、強い自分、大人の自分になることができる。そして、社会に出た後にこそ頻繁に訪れる、自分が否定される状況にも耐える準備ができる。

   逆に、最近の若年層の中に、子供の時に親から全く叱られたことがないため(親が子供を叱ることができない)、忍耐力が極めて乏しく、ちょっとしたプレッシャーでうつになるケース(新型うつとも)が多発しているという。これでは一生、親のすねをかじるか、社会福祉に依存するしかなくなる。言い換えれば、自分でも気づかないうちに、過去の苦しみが、今の自分の忍耐力を形成しているのである。

   なお、否定・批判には、およそ二種類のものがあって、一つ目は正しい批判、すなわち、自分の問題点の適切な指摘である。これは、「今の自分を誉めてほしい」という欲求には辛いものだが、未来の自分をより良くするためには絶対に必要である。そこで、「どんな人間も不完全なのだから、全く批判をされないことは、逆に恐ろしいことだ」と考えれば、批判を恩恵と感じることができるだろう。すなわち、今誉められることよりも、成長して未来に真の評価を得ることの方が大切だと考え、今の賞賛ばかりにとらわれているから、味方を敵と錯覚するのだと気づくことである。

   これは一つの例であるが、仏陀の教えでは、人のすべての苦しみは、自分や自分のものに対する執着・とらわれによって生じていると説く。そして、とらわれのために行き詰まって苦しむと、ある段階で、とらわれの不利益に気づき、それを放棄できるようになって、苦しみから解放されると説く。こうして、苦しみは、とらわれを超える智恵(智慧)につながるものなのである。

   二つ目は、間違った批判・否定である。これは相手が無智であり、そのために否定している場合である。しかし、これも自分の見方一つで、恩恵と考えることができる。

   というのは、親・先輩・他人に否定されても、それに負けずに進んでいく経験をしてこそ、本当の意味で、正しく強く生きていくために必要な精神力や智慧を培うことができるからである。その意味では、たとえ自分が正しかったとしても、それを否定される経験がないことは、長い人生を考えれば、逆に恐ろしいことではないだろうか。

   そもそも、人類の歴史の中で、どんな時代も完全ではなく、あらゆる時代で、新しい世代は、何かしら古い世代と闘って、それを乗り越えて、新しい時代を作ってきた。前世代は、最初からは、次世代の新しい道を認めない(認めることができない)のが普通であり、新しい世代は、それに負けずに乗り越えなければならない。

 

15 苦しみがとらわれを解消する源になる

   これに関連して、再びとらわれを超える智慧について述べたい。それは、何か重要なことを達成するには、辛抱・忍耐・継続的な努力が必要であり、「すぐに成功したい、認められたい」というのは、間違ったとらわれだということだ。本当の幸福は、苦しみを超えたところにあるということである。

   例えば、「ローマは一日にして成らず」、「失敗は成功のもと」、「急がば回れ」、「若いうちの苦労は買ってでもしろ」、「かわいい子には旅をさせよ」といったさまざまな格言は、皆これを表していると思う。

   過去の偉人の話でも、これはよく出てくる教訓だ。ナチス・ヒトラーに打ち勝った第二次世界大戦の英雄である英国首相チャーチルは、「真に成功する能力とは、意欲を低下させることなく、次から次へと失敗を経験する能力である」と語り、彼の有名な言葉は、「決して、決して、決して諦めない」であった。

   発明王エジソンは、1000回目の実験で白熱電球を発明したとされるが、エジソンは、その前の999回の失敗については、「失敗ではなく、これでは成功しないと知った成功へのステップだった」と語った。本田技研の本田宗一郎も、「人はすぐ成功を求めたがるが、私にとっては、99%が失敗と自己反省であり、成功は残りの1%である」という趣旨のことを語っている。自動車王のフォードは、成功するまで4回倒産、5回失敗した。ディズニーランドの創業者も、創業する前に、自分の考えを妄想的だと否定され、その後、3回倒産した後に成功した。大統領になったリンカーンも、最初は選挙に8回連続落選したという。

   逆に、すぐにできたこと、すぐに成功したこと、すぐに認められることの延長上に、真の達成や幸福があったためしがあるだろうか。世の中には、すぐに成功したように見える人もいるが、それを長く維持するとなれば、その過程には、人知れず、相当な困難があるものだろう。また、「すぐに認められたい」と考えて、常に親が敷いたレールの上を歩こうとしても、実際にそうできるわけでもないし、それで親が幸福を保証できるわけでもなく、後悔が残るだろう。

   これを仏教的に表現すると、人は皆、不完全であり、最初は何が正しい道かがわからないという無智の悪業があり、これに対して、エジソンが言ったように、いろいろな困難・失敗・苦しみを経験することで、無智の悪業を清算すると、智慧が生じて、真の幸福・達成の道を悟るのである。よって、苦しみは、まさに幸福へのステップなのである。


16 苦しみの経験こそが慈悲の源

   第二に、自己の苦しみがあってこそ、他の苦しみを理解する慈悲の心を培うことができるということがある。自分に苦しみのない人は、実体験がない分だけ、どうしたって他の苦しみを理解する上では劣る。そして、この慈悲の心は、仏教では、真の幸福をもたらす最高の宝とされ、仏の心とされる。実際に、前章で述べたように、真の幸福は、今以上に求めたり、他に勝ったりすることばかりではなくて、他と分かち合い、他を愛することで得られるものであり、その意味でも、慈悲の心こそ、幸福への最大の宝だろう。

   逆に、苦しみの経験が乏しいと、他の苦しみを理解する慈悲の心を培うことはできない。それは、現実の人間関係をいろいろな意味で損ない、場合によっては、破滅を招く場合さえある。典型的な例が、フランスの民衆がパンさえなくて飢えていた時に「パンがないならケーキを食べればいいのに」という暴言を吐き、殺されたという王妃のマリー・アントワネットである。彼女は、名誉・血筋・美貌・才能・財産・権力などの一切に恵まれていたために、逆に、人として最も重要である慈悲の心を欠いていたのである。

   この意味で、苦しみに負けずに、それを慈悲の源として逆活用できるならば、苦しみが多いほど、慈悲深い、本当の意味で幸福な人間になることができる。実際に、大乗仏教で最も篤い信仰を集めている観音菩薩は、慈悲の化身ともされているが、苦しみの連続の生涯の果てに、「この苦しみを縁として、他の苦しみを救っていこう」と決心した結果として、生まれたとされる。

   これは、親子関係での傷も同じである。親にひどく人格を否定されたとか、暴力を振るわれたという一般的な事例から、最近では、虐待、ネグレクト、近親姦といった、犯罪ともいうべき事例までよく聞かれるが、自分の苦しみを通して、同じような経験をした他の苦しみを理解し、その苦しみを和らげようとする慈悲の心を培うことができるという視点からは、いかなる傷も、自分の慈悲の心という宝に転換できる道である。よって、仏典では、「苦しみに感謝しよう、私を真理に導いてくれた苦しみに、敵対者に感謝しよう、私を真理に導いてくれた敵対者に」という聖句もある。


17 反面教師は貴重な学びの対象

   第三に、苦しみを与えた親を反面教師と見る智慧である。親に過ちを見て、「自分は決してこうならない」と決心するケースは少なくない。これは、親と自分は別の人間だという視点からではなく、その親の子として、自分も一つ間違えば同じ過ちをする可能性があることを無意識的にも感じ取っているからこそ、強く決心するのだろう。

   そして、親でなくても、人間は誰しも皆、無智で弱い一面があるから、身近に何かの悪行をなす反面教師を見て、他人に迷惑をかけ、自分を不幸にするさまをよく知ることができる場合と、身近には反面教師がおらず、自分が初めて、ある悪に誘惑された場合では、同じ悪を回避する力は、相当に違ってくるのではないだろうか。

   いや、謙虚になって考えてみるならば、反面教師がいることによって、かろうじて同じ悪を回避することができるのが、人間というものではないだろうか。実際に、人類は、過去の歴史の過ちを教訓=反面教師として、現在を生きている。古代から現代まで、人間は実に多くの過ちをなしてきたが、今でこそ極悪とされていることも、過去には皆がやっていた時代があるのだ。

   こう考えると、見方によっては、親の過ちは、親が自分に身をもって、悪行の不利益を教えているとも解釈でき、それによって親への怒りを静めることができるだろうし、場合によっては感謝さえわいてくるのではないだろうか。

   そして、大きな目で見るならば、親子を含めた人間・人類とは、感情面でいえば、否定・軽蔑して争うことも多いが、その一方で、実際には、互いの良い点と悪い点を互いの教師・反面教師として学び合って、一体となって、進化・成長してきた面が多々あると思う。古代と現代を比べれば、人類は、特定の民族に限らず、全体として、大きく進化しているのである。こうして、親子を含め、人々は、一体となって成長するというのが真実なのである。

   「万人が一体として成長する」という人間観を含めて、「万物は本質的につながって一体である」という世界観は、第一章で解説したように「一元の思想」と呼ばれ、ひかりの輪では、これを「輪の法則」とも呼んでいる(輪が、万物が一体・平等の象徴だから)。これは、「万物が相互に依存し合って存在する」と説く仏教の縁起の法などにも通じる。その仏教では、仏陀や仏法のシンボルが法輪(法の車輪)である。


18 親からの苦しみを超えて真の自立へ

   さて、苦しみを喜びに変える智慧をいくつか述べてきたが、この苦しみを喜びに変える智慧とは、親からの完全な自立を意味する。すなわち、親が間違った行為をしようが、自分は不幸にはならないという人生を作るからである。親の間違いで、自分が一生不幸になるのであれば、それは、まだ親の影響下である。親の被害者であると主張はできるが、人生の敗者にほかならず、幸福ではない。

   そして、仏陀の智慧から見れば、いつまでも「親のせいで自分が不幸である」と考えることは、自分の努力を怠っていることを隠すものであって、怠惰・甘えにほかならない。それは、まだ親の影響下にあって、真に自立した大人になっていない。真に大人になるとは、「自分の幸福は、自分の智慧と努力で得る」という意志が確立することであり、親の被害者として人生の敗者にならずに、自分の人生を自分で決める智慧者になることだ。

   そして、これは、親との関係に限らず、自分の人生の不幸や幸福、成功も失敗も、本質的には、他人ではなく、自分の努力で決まる(決めることができる)という考えである。そして、私が思うに、仏教などのインド思想が説く自業自得という言葉の本当の解釈ではないかと思う。

   では、これまで述べた、親に関係する苦しみを乗り越えて、智慧や慈悲に転換していく術についてまとめておこう。

① その苦しみは、親の愛に基づくもの(愛の鞭)ではなかったか。

   子に(快)楽を与えるだけが親の愛ではない。
   苦しみを与える親の方がもっと辛いのでは。

② 親の過ちだったとしても、親も不完全な人間の一人であるならば、それを許すべきではないか。

   親が、一人の人間として、その時に抱えていた苦しみがあったのではないか。
   その苦しみ・弱さは、子供である自分の中にも存在する要素なのではないか

③ 親からの苦しみは、視点を変えれば、自分を鍛え、智慧と慈悲の源となるものでないか。

   親の否定・批判は、自分を改善したり、強くしたりしたのではないか。
   親の過ちも、自分の反面教師ではないのか。
   親のせいで不幸になるのではなく、自分の努力で幸福になるのではないか。


19 親子関係の問題の類型について

   次に、今まで述べてきたことを含め、親子関係の問題に関して、それをいくつかの側面・ケースに分けて、まとめてみたい。これは、すべての問題を網羅したのでなく、その一部であろうが、ある程度の整理にはなるかと思う。

   第一に、依存の対象の親がいなかったケースである。これは、親が他界したというだけでなく、なんらかの理由で親元を離された場合もある。また、片親がいない場合、ないしは親が離婚したので片親に育てられた場合というのも、このケースに含まれる可能性がある。さらに、実際に親はいても、自分が思う通りには依存できなかった印象がある場合も、広い意味では、このケースに含まれる可能性がある。

   この場合、親に対する不満・恨みが生じる可能性がある。しかし、前に述べたように、親への感謝の実践は、それに努めようとすれば、視点を変えることで、いかようにも可能なものである。例えば、親が他界した場合は、子を残したままこの世を去ることになった親の無念を思い、親代わりとして育ててくれた人の労苦に感謝することができる。また、他界していなかったとすれば、子供を手放さざるを得なかった実の親の苦しみを理解することが重要だろう。

   また、片親がいるケースでは、養育の苦労を一手に引き受けた片親の労苦に感謝することや、離婚だった場合では、自分のもとを去った方の親も養育費の支払い等の労苦を背負っていれば、それをよく考え、感謝の心を持つことに努めたい。

   そして、前に述べたが、このケースの中で、場合によっては、自分を特別視する意識が、大人になっても修正されない可能性があるという。この問題を克服するためには、自己を多くの人間の中の一人として相対化する必要がある。そのためには、自分を支えたさまざまな存在への感謝などを通して、万人が助け合って存在していることを理解し、万人を平等に尊重していく訓練が必要であろう。

   第二に、親に対する反発・怒り・恨みが、大人になっても残るケースである。これには、いろいろなパターンがあるだろうが、子供の時から親に酷く傷つけられた場合や、反抗期以来、考え方の違いなどから親との敵対的な関係が続く場合などがあるだろう。

   また、逆に長らく親に従順だったのが、ある時から一転して反発に転じる暴発的なケースが少なからず見られる。これは、支配的傾向の強い親のもとで、子供側の親によく見られたい欲求などから、長い間、子供が自分の欲求を抑圧する中で、徐々に蓄積された親に対する恨みが、一気に爆発する場合などとされる。

   そして、こうした場合は、自分も親も多くの不完全な人間の一人と理解する、成熟したものの見方によって、親にしてもらったことには感謝しつつ、親の過ちについては許すことができる。その中で、親の人としての苦しみを理解し、それが自分にもある要素だと理解すれば、親の過ちを自己の反面教師として生かすことさえできる。また、親に傷つけられたことは、必ずしも自分の価値を損なうものではなく、さまざまな意味で自分を鍛えたり、智慧や慈悲を深めたりする機会となるといった恩恵があると気づくことも有効である。こうして、親に感じた苦しみによる怒り・恨みの影響を超えるならば、本当の意味で自立した大人となることができる。

   第三に、親への依存が継続する場合である。これは、親の支配欲と子供の依存心が強く、子供が体は大人になっても、依然として、親への精神的・物質的な依存を続ける場合である。すなわち、子離れせぬ親の支配欲と、親離れせぬ子供の依存・甘えにより、不健全な相互依存=共依存の関係が形成されている。なお、これは、宗教の教祖と信者に似ており、実の親に依存できなかったり、反発したりした結果として、宗教の教祖のような他者を理想の依存対象として、親代わりに求める構造がある。

   この場合は、人は誰もが神の化身ではなく、親も教祖も自分も皆が、長所も短所もある人であって、万人が皆等しく尊いことを学ばなければならない。そのように親や教祖から自立して、支配されていた間に関して、してもらったことへの感謝と親の過ちへの許しに努めるのである。

   ただし、最近の問題としては、親への依存が継続するケースの中で、親が子供を適切に訓練できず、親子が友達同士のような関係でしかなく、親への尊敬が非常に乏しく(同様に教師等への尊敬も乏しい)、子供が自立して生きるに十分な強さを獲得できないままになって、親に精神的・経済的に依存し続ける場合がある。

   この場合は、まず親自身が、どのように教育してよいかわからない、基本的な指針がない問題や、(自分自身の体験などを通して)子供を叱ることで嫌われることを嫌がる傾向などがあれば、そういった問題を解消する必要があると思われる。


20 親子問題はすべての人間関係の問題の源

   前にも述べたが、親子関係の問題は、すべての人間関係の問題の源だとも考えられる。親子関係は、人にとって最初の人間関係であり、最初に接した人間に対して、自分が形成した心の働きや見方というものは、他の人間を見る場合にも、相当な影響を与える可能性がある。いわゆる「三つ子の魂百まで」ということである。

   これまで見てきたことからまとめるならば、例えば、他に対する感謝が多いか少ないか、感謝に基づく奉仕(恩返し)の意識が強いか弱いか、怒り・恨みが多いか少ないか(他者への理解が深いか浅いか)、迷惑をかけたという反省の心が深いか浅いか、自己を特別視している=自己中心的か、自他を平等につながった存在として、自己を相対化しているかなどである。

   そして、前にも述べたように、子供の時に親に対する依存の機会が乏しかったり、親に対する反抗・反発から抜けきっていなかったりして、感謝と許しによる自立が果たされていないままだと、その人は、親代わりに、他の人に依存する場合がある。自立していない意識が、親の代わりに依存の対象とするのは、例えば、学校の教師や、女性の場合は結婚した夫、社員として会社の上長、信者として宗教の教祖、国民として国家・政治家などだろう。

   この場合の課題は、依存と反抗を超えて、感謝や許しの心を持って、自立することである。そして、感謝に基づく恩返しの心を持ち、他を育む側に回っていくことである。そして、現在の社会では、こうした人格的な成長の不足が、親子・家庭問題から、会社・宗教・国家の問題までにわたって、非常に重要な問題の根底にあると思われる。


21 内観法:親などへの感謝を深める自己内省法

   ここでは、ひかりの輪が、親など他者に関する健全な感謝の心をはぐくむ自己内省法として導入している「内観」についてご紹介したい。ひかりの輪では、その外部監査委員のお一人が、この内観法の権威の大学教授であり、各支部で内観セミナーを開き、ご指導いただいている。なお、内観は、その源は、日本の伝統仏教宗派にあるとされるが、その後一切の宗教色を脱して、わが国発祥の科学的な自己内省法となり、学会もあり、国際的にも普及しているものである。

   なお、内観の詳細としては、一般のものとしては、例えば、前記の外部監査委員の方が書かれた冊子『内観への誘い』を参照されたい(ひかりの輪の各支部で頒布または閲覧に供している)。また、ひかりの輪のテキストとしては、過去に『内観、唯識、縁起のエッセンス』(2009年ゴールデンウィークセミナー特別教本)があるので、あわせて参照されたい。

   ここでは、そのあらましをざっと説明すると、内観とは、親をはじめとする家族・親族・近しい友人知人の一人一人について、幼少の頃から今現在に至るまで、だいたい数年単位の期間に区切って、(親などに)してもらったこと、してかえしたこと、迷惑をかけたことについて、なるべく正確に思い出していくという訓練である。

   この内観法の意味合いは、親に対する感謝・理解(許し)を増大させることなどがあるが、その背景として、人は、このようにしっかりとした内省の機会を持たなければ、どうしても自己中心的な、偏った、不正確な視点から、これまでの自分と親の関係をとらえている問題がある。

   すなわち、してもらっていることは、親として当然のことだと一切感謝せず、して返したことは非常に少ないにもかかわらず、自分の主観で相当にしたつもりになっており、迷惑をかけたことについては、相当にあるのに(相手が親だからとして)忘れて反省していない。

   特に、幼少期・青年期は、やはり知的・精神的な能力が未成熟であるから、その当時の(親に対する)認識・印象・判断は、非常に不正確であったり、偏っていたりする場合が少なくない。よって、大人になった今の時点で、落ち着いて見つめ直して見ることが、バランスを取り戻す上で役に立つ。

   また、前にも述べたが、「今よりもっと、他人よりももっと」といった、現代社会の資本主義・競争主義の影響を受けて、「親だから当然」とか、「他の親もしていること」として、多大な恵みがあっても感謝せずに、してもらっていないことばかりを見て不満を抱くことが多い。また、他の親と比較して、自分の親がしてくれたことが少なければ、親の抱える事情・困難は考えずに、恨みさえする場合もある。

   一方、自分では、「親のために、こういったことをしてあげたはず」と思っていても、客観的には、それは自分のためにしていることも多い(例えば親の言うことを聞いて勉学に励んだことなど)。また、迷惑をかけたことは非常に多いが、それも「親だから」として自覚がないことが多いものである。

   しかし、こうした親の労苦は、実際に自分が親側の立場に立って見るならば、相当なものであることが、容易にわかるものばかりである。一般に、出産=死の危険、乳幼児期の24時間の拘束、20年にもわたり、休日がなく年中無休で、毎日の衣・食・住や、勉学・教育の機会から、精神的なフォローまで、物心両面にわたる無償の奉仕など、そのすべてが大変な労苦である。

   よって、内観では、「親だから」という固定観念や、他の親と比較するといったことを排除して、偏差値・相対評価ではなく、絶対値で、事実として、親にしてもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたことを思い出すのである。

   言い換えれば、人は、現代社会の風潮の中で、親をはじめとする他人について、気づかないうちに、偏った甘えた自己中心的な視点から見ている可能性が高い。そして、親以外の他人にも同様の精神的な傾向が生じる。そこで、内観は、そういった偏り・ゆがみを排除し、公正公平な視点から、親をはじめとする他人を評価する訓練ということができると思う。

 

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