仏教思想
ひかりの輪の仏教思想をお伝えします

21世紀の社会のための仏教・宗教哲学

仏教の幸福哲学:心が作り出す幸不幸

以下のテキストは、2016年GW特別教本『新しい幸福と成長の哲学』第1章として収録されているものです。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

 


1 一般的な幸福観

一般には、「今よりもっと」「他人よりもっと」と、何かの喜びを求めて、それを得ることで幸福になると考える。しかし、実際には、多くの場合、必ずしもそうできないので、人は苦しむ。求めても得られず、むしろ失う場合もある。求めれば奪い合いが深まるから、他と苦しめ合う場合も多い。結果として、「求めても得られない幸福という苦しみ」が生じる。言い換えれば、「逃げようとしても逃げられない苦しみ」が生じる。


2 苦と楽は表裏という思想

このことを仏教の説く人の心の仕組み(仏教の心理学)に基づいて、もう少し詳しく分析すると、「苦と楽は表裏である」という道理があることがわかる。

第一に、「楽の裏に苦がある」ということである。例えば、人は、何かの幸福を得ても、ずっと満足することはなく、それに飽き足りなくなって、もっと欲しくなる。特に、他と比較して、「自分も他人と同じように欲しい」、さらには「他人よりも欲しい」と思う。先ほど述べたように「今よりもっと」「他人よりもっと」ということである。こうして、健やかに生きていくに十分なものを得ていても、それ以上に欲求する。

しかし、こうして果てしなく欲求すると、様々な苦しみを招く。そもそも、際限ない欲求自体がストレスである。求めても得られない苦しみが生じる。さらに、得たものさえ失う苦しみがある。そして、求めるほど、他との奪い合いは激しくなり、それによって苦しむこともある。

第二に、第一と逆に、「苦の裏の楽」がある。苦しみは、後に様々な幸福に繋がる面がある。人は、苦しみがあるから努力し、成長する面がある。苦しみが自分を鍛えて成長を促すのである。
そして、究極的には、苦しみは、仏教的な悟り・慈悲の原動力になる。というのは、すべての苦しみは、「私」と「私のもの」に過剰に執着すること(自我執着)によって生じるので、(仏教的な悟りの教えを知る者にとっては)苦しみを体験することは、自我執着を弱めて悟りに近づこうとする動機を強めるからである。

さらに、苦しみの体験こそが、悟りの終着点である慈悲の心を培う上で役に立つ。自己の苦しみの体験が、他の苦しみを理解して慈悲を培う土台となるからである。


3 仏教的な幸福観:苦楽に頓着せず、分かち合う幸福

苦楽が表裏であることを踏まえ、仏教が説く「真の幸福」とは何かと言うと、楽を過剰に貪らずに、足るを知って、他者と楽を分かち合って、幸福になることである。この「足るを知る」とは、今ある多くの恵みに気づいて感謝し、その恩返しとして他と楽を分かち合うとも表現できる。

その意味で、これは、①今ある幸福に気づくこと、②他者と幸福を分かち合うことによる幸福である。言い換えれば、「(今ある幸福に)気づく幸福」と「分かち合いの幸福」である。言い換えると、感謝と分かち合いの幸福、知足と慈悲の幸福である。

一方、「今よりもっと・他人よりもっと」と幸福を求めることは、現状への不満に基づいて、他者から奪い勝って、幸福を得ようとするものである。言い換えると、「(今ないものを)未来に求める幸福」であり、「奪い勝つ幸福」である。不満と奪い合い、貪りと奪い合いの幸福である。
そして、仏教的な幸福観では、苦しみに対しては、苦しみを過剰に厭わずに、苦しみの裏にある喜びに気づいて、苦しみを喜びに変えて幸福になる。これは、苦しみにも感謝することに繋がる。

さらに、これに基づいて、他者の苦しみに関しても、それを分かち合うことによって、他者だけでなく、自分も幸福になると考える。よって、楽とともに苦しみをも分かち合って、苦楽を分かち合うことで幸福になるとする。

一方、一般的な幸福観では、苦しみに対しては、それからなるべく逃げようとして、その中で、他者と苦しみを押し付け合う面がある。楽を奪い合い、苦しみを押し付け合うのである。

なお、仏教が説く慈悲とは、まさに他と苦楽を分かちあうことと表現できる。慈悲の慈は、他に楽を与えることとされる。悲は、他の苦しみを(自己の苦しみのように)悲しみ、それを取り除くこととされる。こうして、慈悲とは、苦楽の分かち合いにほかならない。そして、仏陀の持つ大慈悲の心とは、すべての人々・生き物に対する慈悲である。


4 仏教的な幸福観・生き方の恩恵

上記の仏教的な幸福観、すなわち、楽を過剰に貪らずに足るを知り、苦を過剰に嫌がらずに喜びに変え、他者と苦楽を分かちあう幸福観・生き方には、気づきにくいが、実際には、様々な重要な恩恵がある。

第一に、心の安定と広がりである。苦楽に過剰に頓着して、一喜一憂しないために、心は安定している。また、他と楽を奪い合わず(苦を押し付け合わずに)、分かち合うので、心が広がる。これは、自分と他人の真の幸福が一体であると気づいて、自と他(の幸福)を区別しないため、心が広がるとも表現できるだろう。

第二に、深い智恵(智慧)、すなわち、物事を正しく認識する力が生じる。合理的な判断力や直観力などが生じる。心が安定していると物事を正しく見ることができる。波立つ感情に左右されずに、合理的な判断ができる。さらに、心が静まっている時にこそ、直感が働きやすい。

第三に、健康・長寿をもたらす。心が安定し、ストレスが少なければ、ストレスを原因とした悪い生活習慣による様々な病気(生活習慣病)、心因性の病気、そして、免疫力の低下を防ぐことができる。

また、東洋医学の思想で言えば、心が安定して広がっていると、体の中の目に見えないエネルギー(気)の流れがスムーズになり、心身の健康をもたらす。逆に、気の流れが悪い所が病気になる(そもそも「病気」という漢字の意味は、病気が「病んだ気の流れ」によって生じることを意味している)。

第四に、良い人間関係をもたらす。これは、他と奪い合わず、苦楽を分かち合う生き方をするのであるから、自明であろう。

さらに、仏教的な生き方は、こうした様々な恩恵を得つつ、継続的な地道な努力によって、(他者・全体のために)有意義な事柄をなす人生を送ることができる。


5 仏教的な幸福観と競争に関して

他と幸福を奪い合わないとする仏教的な幸福観は、必ずしも競争を否定するものではない。なぜならば、競争には二つのタイプがあるからである。ないしは、競争する人の姿勢には、二つのタイプがあるからである。

一つ目は、互い・全体が向上する切磋琢磨としての競争である。これは、仏教的な幸福観と矛盾せずに合致する、他者・全体への愛・慈悲の実践と解釈できる。

実際に、切磋琢磨が全くなければ、馴れ合い・腐敗・堕落・怠惰などで、皆で悪い方向に行く場合も少なくない。この意味で、競争による切磋琢磨により、お互いの良い所を見て学び合う機会や、お互いの問題点を指摘し合って解消し合う機会を得て、互いの努力を深めることは有意義だろう。
二つ目は、自分が勝つことだけを目的とした競争である。これは、他に勝ったり負けたりして、互いの成長を図るのではなく、自分の勝利だけを至上とする姿勢である。これは、優越感を満たすことだけが目的とも表現できるだろう。

これは、仏教的な幸福観とは合致しない。他の勝利を憎み、他者・全体への愛は育たない。負けた場合は、卑屈・妬みに苦しむ。よく勝つ者でも、長い間には、落ち目があり、それに苦しむ。老化のため、勝つ力は、誰でも尻すぼみである。

さらに、勝利至上主義は、競争自体を損なう。負けることを強く嫌がって、競争自体を避ける場合がある。これでは、切磋琢磨し合う者(競争の参加者)が減る。優越感を満たす欲求が強いと、そうできない場合には、強い劣等感が生じる。別の問題として、競争上のルール違反、不正行為をなす者が出る。嘘・偽装・盗作・中傷など。これは、本来の切磋琢磨による成長・向上を妨げる。現代社会の競争に多いのではないだろうか。

 
6 幸不幸を含めた全ては心の現れ

「苦楽は表裏であって、苦楽の分かち合いが真の幸福の道」と説く仏教の教えを言い換えれば、「苦しみは煩悩から生じ、真の喜びは慈悲から生じる」ということになる。

そして、この教えの土台には、「苦楽、幸不幸は、自分の心が作り出す」という思想がある。これは、心の持ち方、視点、価値観を変えれば、より幸福を感じることや、不幸・苦しみを和らげることができるということである。

そもそも、仏教では、幸不幸に限らず、「全ては心の現れ」とも説く。実際に、私たちが感じる「外界」とは、実際には脳内の情報であって、外界を直接に感じたものではない。外界の刺激は、感覚器官が、脳に伝える信号を出すきっかけにはなるが、脳が感じるもの自体ではなく、信号を受け取った脳は、関連した情報を瞬時に引き出し、それら全体を私たちは感じている。

この際、それが良いとか悪いとか、楽であるとか苦であるといった印象も生じる。こうして、私の脳・意識・心が、いろいろな解釈を加えている。よって、同じものを体験しても、異なる人には、異なった体験・印象が生じる。人によって、同じものに対する良し悪し・苦楽の印象も異なる。こうして、一人に一つの宇宙(の体験)がある。私たちが「外界」と呼ぶものは、「自分の脳・心の中にある外界」の体験である。

これは、一部において、自分の夢の中に現れる他人が、自分の意識が作った他人にすぎないことと似ている面がある。現実の体験も夢の体験も、脳内の情報の体験である点は違いがないからだ。目に見えるものは「目の前」にあると感じられるが、実際には「目の後ろ」にある脳内の情報である。そのため、現実と同じほどリアルな夢を見る場合もある。

こうして、「外界」と呼ばれる体験が、自分の意識の中の体験であるならば、自分の意識・考え方・心の持ち方・視点などを変えることで、その「外界」の感じ方を大きく変えることができると仏教は説く。具体的には、喜びを感じなかったものに喜びを感じることも、苦しみを感じたものに喜びを感じることもできる。以下にいくつかの事例を挙げて、これを説明する。

 
7 貪りを捨て、感謝の心を持つと、大きな喜びが生じる

人の心には、際限のない欲求(貪り)がある。どんなに得ても、満足せず、もっと欲しくなる。すでに得たものは、どんなに多くても、当然のものとなって、飽きてしまう。特に、他人と比較して、「他人と同じように得たい」、「他人よりももっと得たい」と感じる。自分と他人がともに多くを得ていても、お互いの間の差に意識が集中し、「(他よりも)もっと欲しい」と感じるのである。これは「優越感を満たしたい」という欲求が背景にあるからだろう。

そのため、我々の住む「21世紀の日本社会」は、客観的に見れば、「人類史上最も恵まれた社会」と言っても過言ではないが、ほとんどの日本人には、「最も恵まれた社会」のようには感じられていないだろう。毎日見る日本社会の印象は、大して変わり映えせず、楽しいこともあるが、いろいろ嫌なこともあるといった印象だろう。人によって、楽しいことが少なく、嫌なことが多いと感じているかもしれない。

しかし、客観的には、今現在の他の国々と比較しても、世界最高の長寿、突出した安全性、有数の豊かさがある。さらに、現在の人類が生まれて以来30万年の間に、一説では5000億もの人類が生まれたともいわれるが、その5000億の中で、僅かに70億のみが、21世紀に生き、1億3千万のみが、21世紀の日本社会に生きている。

仮に、イエスや仏陀の時代の人々が、現代日本にタイムトラベルしてきたら、これこそが、極楽浄土・千年王国と思うかもしれない。科学技術と物資の豊かさ。人種・民族・性・階級による差別や、暴力の支配を否定した平等主義・民主主義の社会と、その中で育った人々の意識や言動。それは、高度な科学と高徳の人々が集う仏教伝説の理想郷である「シャンバラ」とさえ、映るかもしれない。

言い換えれば、様々な物資・技術・思想・規範・制度など、私たちの日常は、先人の血と汗の結晶によって作られた膨大な贈り物に満ちている。私たちが、得ているものを当然と見る貪りの心を捨てて、得ている恵みの大きさに気づこうとする感謝の心を持てば、21世紀の日本社会は、貴重な宝に満ちた世界と感じられるのではないだろうか。

この意味で、外界に恵みを感じる時は、私たちは、「感謝」という「心の豊かさ」の投影を見ているのではないだろうか。逆に、外界に不満ばかりを感じる時は、私たちは「貪り」という私たちの「心の貧しさ」の投影を見ているのではないだろうか。


8 幸福を求めても得られない苦しみに対して

多くの人が、幸福を求めても、なかなか得られないという苦しみを抱えているだろう。しかし、幸福は心が作り出すという視点から見れば、それも、心の持ち方が問題なのである。具体的には、例えば、以下のような問題がある。

(1)とらわれ過ぎている

すでに述べたように、苦しみの原因として、過剰な欲求・とらわれがある。よって、「それなしではいけないのか」、「多くの人々がなしで生きているのではないか」と自問するとよいのではないか。

ただし、これは、「いかなる欲求も捨て、何もしなければよい」と主張しているのではない。何か有意義で重要な事柄を実現しようとする場合でも、とらわれ過ぎない方が逆にうまくいくからである。

とらわれ過ぎると、心身が緊張して、最善の思考・行動が妨げられる。そうした場合は、とらわれを減らすとうまくいく。前に述べたように、心が静まると、物事を正しく見ることができるし、最善の行動ができる。

よって、そうした時は「あまりうまくやろうと思わない方がうまくいく」と自分に言い聞かせるとよいだろう。これは、格言で言えば、「急がば回れ」、「果報は寝て待て」、「笑う門には福来たる」、「急いては事をし損じる」、「勝つと思うな、思えば負けよ」といったものに通じるものである。

(2)すでにある幸福を見ようとしない

今は得ていない幸福を、未来に得ることが幸福だとばかり考えている。言い換えると、感謝が少なく(足るを知らず)、自分よりも恵まれている人ばかり見て(妬み)、恵まれていない人のことは考えない(慈悲に乏しい)。
2

1世紀の日本社会が、客観的には人類史上最も恵まれた社会であるように、実際には、(自分も他人も)得ている幸福の方が、まだ得ていない幸福よりも膨大である。しかし、これに気づいて感じることはない。というのは、常に「今よりもっと」「他人よりもっと」と求めて、「皆が得ているものは当たり前だ」と思っているからである。これは貪りの心が生じさせる苦しみである。

(3)他の幸福を喜びとしない

常に自分が(他よりも)幸福になることばかりを考えている。「自分の幸福は喜びだが、他の幸福は妬ましく、自分には苦しみだ」と思い込んでいる。言い換えれば、「幸福は、自分と他人の間で奪い合うもの」とばかり考えている。

しかし、実際には、「他の幸福を自分の喜びとする」という幸福がある。言い換えると、「広く温かい心による幸福」とも表現できるだろう。そして、これには非常に多くの恩恵がある。
まず、広い心自体が、生理的に心地良いものである。そして、これには、他との奪い合いがなく、分かち合いがあるから、精神的な安定や健康、さらには、良好な人間関係が得られることになる。

また、これは、加齢とともに失われる幸福ではなく、心の訓練を続ければ、死ぬまで増大していく喜びである。そして、自分は1人だが、他は無数に存在するから、自分の幸福だけを喜びにするよりも、はるかに多くの(無数の)喜びを得ることができる。

(4)分かち合うものこそ、最高のものと気づいていない

「他人より多くを得ることが幸福だ」と思い込んでいるために、実際には「他と分かち合っているものこそ、最高のものである」と気づくことができない。自分のものだけを喜びとし、他人のものは妬ましく思う中で、共有しているものの価値・喜びを見失っているのである。

実際には、この世界で最も価値があるものは、自分のものも他人のものも、自分も他人もすべてを含み、生み出し、包んでいる、宇宙、地球、大自然の万物であろう。その素晴らしさ・価値を感じることができない。

逆に、宇宙万物に比べれば、極めて卑小であって、さらに長続きしないものが、自分や他人の財産・地位・名誉である。しかし、そうしたものが、自分のものか、他人のものかに関して、滑稽なほどに、一喜一憂している。言い換えれば、真の幸福(=万人と分かち合っているもの)に気づいていないため、偽りの幸福を追い求めて、苦しんでいるとも表現できるだろう。


9 「逃げられない苦しみ」という悩みに関して

次に、逃げられない苦しみに悩んでいる場合である。苦しみがあっても、逃げることができれば、そうすればよいし、たいていの人は、すでにそうしているだろう。しかし、人生には、なかなか逃げられない苦しみがある。

これに対しては、心の持ち方・視点を変えて解消することが唯一の対処法である。逆に言えば、「心の持ち方が、苦しみを作り出している」と考えるのである。具体的には、例えば、以下のような心の問題が、苦しみを作り出す。

(1)実際よりも悪いと考えている

苦しみを増大させる一つの要因は、実際よりも、苦しみを過大視すること。実際よりも悪いと考える。例えば、何か嫌なことを経験する時だけでなく、する前も、した後も「嫌だ」と思い、そのため、合間なく、ずっと苦しむなど。「苦しみが永続し、合間がない」と感じる。

実際には、苦しみは、時とともに消えていくものだし、生じたり消えたりと合間もあるものである。これは、(苦しみを過剰に)嫌悪するために生じる苦しみである。

よって、「それは、それほど悪いのか」と自問するとよいのではないか。

(2)良い面もあることに気づかない

先ほど述べたように、苦しみの裏側には喜びがあり、苦しみは、人の努力・成長をもたらす。仏教的な悟りの原動力や慈悲の土台にもなる。言い換えると、目先は苦しみであっても、その先には様々な恩恵がある。

しかし、このことに気づかずに、苦しみは、「悪い」とばかり考えてしまう。同じように、目先の喜びに対しては、その先にある苦しみに気づかずに、それに流されてしまう。

よって、「それは、良い面もあるのではないか」と自問するとよいのではないか。

(3)必要な面があることに気づかない

全く苦しみがなければ、本当の努力・成長はできないだろうし、悟り・慈悲を培うこともできないとすれば、全く苦しみがないことは恐ろしいことであり、一定の苦しみは、人に必要なものだろう。ところが、私たちは、無意識的に、「苦しみは、なるべくない方がよい」と考えてしまう。

よって、「(この苦しみは)必要なのではないか」「自分の抱えている苦しみは多すぎるのか、それとも少なすぎるくらいなのか」などと自問するとよいのではないか。

なお、仏陀の教えは、苦行主義を否定している。言い換えれば、苦しめば苦しむほどよいとは主張していない。快楽主義も苦行主義も否定する。これは、楽にも苦にも偏らない中道とされる。


10 各種の苦しみの裏にある喜び・恩恵の事例

次に、批判、失敗・挫折、経済苦、病苦といった、よくある苦しみに関して、その裏側にある恩恵を意識する瞑想について述べる。

(1)批判

全く批判がなければ、必要な反省・成長ができるか。自分の欠点全てを自分で気づくことができるか。批判は、反省・成長に必要であり、将来の称賛をもたらす。さらには、自己愛を弱め、悟りに近づく機会も与える。

(2)失敗

全く失敗・挫折がなければ、本当に成功できるか。真の成功とは、失敗とその反省・改善の努力から生じるのではないか。失敗は成功の元であり、すなわち、成功へのステップである。

(3)経済苦

全く経済苦がなければ、本当に豊かになれるか。経済苦は、質素倹約の智恵を生み、その意味で、浪費を解消し、安定した豊かさをもたらす。また、経済苦の体験は、貧しい人たちへの慈悲や、自分のものに執着せずに、宇宙万物を自分の本当の宝とする悟りの境地の土台となる。

(4)病苦

全く病苦がなければ、本当に健康になれるだろうか。何か一つ病気があると、体をいたわり長生きするが(一病息災)、健康自慢の人は、過信のため、早死にする場合が多いという。さらに、病苦の時こそ、自分一人で生きているのではないと気づき、他者への感謝・謙虚な心が芽生えることも多い。さらに、老いや死の苦とともに、自我執着を越え、悟りの境地に至る助けになる。


11 敵と友も心が作り出す

人にとって、最大の苦しみの対象の一つである「敵」という存在も、自分の心の持ち方が作り出す面がある。すなわち、心の持ち方によって、友が敵に見えるし、逆に敵を友と見ることも可能なのである。以下に、その事例を挙げる

(1)妬み:優れた他者(仏)が敵(悪魔)に見える

「自分が一番になりたい」、「独占したい」という欲求が強いと、優れた他者は、妬みのために、自分の邪魔・敵に見える。その場合は、本来は自分を幸福に導く仏陀のような人でさえ、悪魔のように見えてしまう。

しかし、純粋に自分が向上・成長して幸福になろうとすれば、優れた他者こそは、自分の見本となり、向上・成長に不可欠である。良き切磋琢磨の相手である好敵手は、敵ではなくて、最大の助力者・最大の友ともなり得る存在である。

(2)怠惰:自分を批判する者は全て敵と見える

批判は辛いが、自分では気づかない自分の問題点を知って成長する機会を得る場合もある。実際に、他人は、自分の成長を期待して、批判する場合も少なくない(逆に言えば、批判されなくなったら、見捨てられているのかもしれない)。また、たとえ理不尽な批判であっても、自分の精神力・忍耐力を鍛える機会として活かすこともできる。

よって、向上心が強ければ、自分を批判する者が、「自分の成長の助力者」と見えるが、怠惰と未熟な自己愛が強いと、「敵」と見えやすいことがわかる。

(3)コンプレックス:いろいろな人が敵に見える

コンプレックスが強い場合、「他人が自分を嫌っている」とか、「不当な扱いをしている」と、すぐに考えやすい。一種の被害妄想である。すると、多くの人を敵と見やすくなってしまう。これは、劣等感・自己嫌悪・卑屈が背景にあって、それが、他への過剰な嫌悪に繋がるという心理構造である。

(4)悟りの心:憎むべき敵さえも、仏に見える

自分を憎む敵対者も、悟りを求める者には、悟りへの重要な助力者・原動力になる。というのは、自分が、自我執着を弱めるならば、敵対者による苦しみも弱まるからである。

よって、いにしえの仏道修行者は、敵対者を重要な修行課題としてきた。悪魔さえも、自分の悟りを促す、仏の化身・仏法の守護神と見る瞑想や、仏陀と父母と敵対者をすべて平等に愛する瞑想もある。

こうして、心の持ち方によって、仏が悪魔に見えることもあるし、逆に悪魔が仏に見えることもある。


12 苦しみを和らげる仏教の三毒の教え

前に述べたように、仏教は、苦しみは煩悩が作り出すと説く。そして、煩悩の中には、三つの根本的な煩悩(三毒)があるという教えがある。その三毒とは、貪り・怒り・無智などと訳される(貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち))。

よって、日常生活でいろいろな苦しみを感じた時に、「この三毒が原因ではないか」と自問してみることは有益である。そして、自分に思い当たる節があれば、苦しみが和らぐだろう。具体的には、以下のように自問・瞑想するのである。

(1)貪り=欲張り過ぎ

貪りとは、過剰な欲求、欲張り過ぎである。あれやこれや求め過ぎれば、得られない場合の苦しみや不安は増大する。よって、苦しみを感じている時に、「(本当に必要なものではないのに何かを)欲張り過ぎていないか」と自問してみるとよいだろう。これは、前に述べた、とらわれ過ぎによる苦しみと同じである。

(2)怒り=嫌がり過ぎ

怒りとは、よりわかりやすく言えば嫌悪であり、嫌がり過ぎである。よって、苦しみを感じている時に、「(それを苦しみだとばかり考えて、何かを)嫌がり過ぎていないか」と自問してみるとよいだろう。これは、前に述べた、苦しみの過大視や、苦しみを悪いとばかり考え、その裏の良さ・必要性を理解していない場合と同じである。

(3)無智=怠け過ぎなど

無智は、三つの根本煩悩の中でも、さらに根本的な煩悩である。すなわち、貪りと怒りも、無智から生じている。それは、物事をありのままに見ることができない(縁起や空を理解できない)ために、自と他の幸福を区別し、苦楽表裏を理解せずに、「自分だけが早く楽に幸福になろう」とする意識状態である。そのため、無智は怠惰を含んでいる。

よって、苦しみを感じている時に、「(その原因が)何か必要な努力を怠っているからではないか」と自問して、思い当たる節がないかを考えてみるとよいだろう。というのは、人は、最初は、必要な努力を認識していても、怠惰によって、それを実行したくない場合、それを忘れてしまい、その後は、なぜ苦しんでいるのかが、わからなくなるからである。

【※この教本の目次・購入は、こちらから】
ひかりの輪
 👆参加ご希望の方はこちら
一般の方のために
上祐史浩・ひかりの輪YouTubeチャンネル
ひかりの輪の広場
活動に参加された方の体験談
ひかりの輪ネット教室
ひかりの輪ネットショップ
著作関係
テーマ別動画

テーマ別の動画サイトです

 

 

水野愛子のブログ「つれづれ草」
水野副代表のブログ
広末晃敏のブログ「和の精神を求めて」
広末副代表のブログ
外部監査委員会
アレフ問題の告発と対策
地域社会の皆様へ