仏教思想
ひかりの輪の仏教思想をお伝えします

輪の思想・一元思想:究極の真理

大乗仏教の瞑想:シンボル瞑想

以下のテキストは、2022年GWセミナー特別教本 『瞑想法の総合解説 心身の健康から悟りの境地まで』第4章として収録されているものの一部です。教本全体にご関心のある方はこちらをご覧ください。

 

1.はじめに(省略)

 

2.シンボル瞑想という概念

シンボル瞑想とは、真言瞑想などの瞑想の本質を踏まえた上での、ひかりの輪オリジナルの概念である。ここでの(聖なる)シンボルとは、悟りの境地に近い意識状態を引き出すようなもので、主に五感の対象となるものである。その主なものとして、視覚的なシンボル・聴覚的なシンボルなどがある。また、五感の対象に加えて、体の形・姿勢にも一部、シンボルがあると解釈している。

さて、シンボルは必ずしも仏教に限らず、すべての宗教において、その宗教の聖なるシンボルがあるということができる。その中で、例えば、拝んで心が静まるような仏像・仏画は、視覚的なシンボルであり、密教で用いられる曼荼羅もそうであろう。

自ら唱えることで心が静まる効果のある言葉(仏教・ヨーガのマントラ・真言)は、聴覚的な(字音の)シンボルである。また、嗅ぐことで心が静まる効果のある瞑想用のお香があれば、それも嗅覚的なシンボルということになる。

こうして、シンボルは、宗教芸術と結びついている面がある。特に仏教の密教などは、その瞑想・悟りのために密教芸術を発展させ、さまざまな仏画・仏像・曼荼羅・金剛(こんごう)杵(しょ)や金剛(こんごう)鈴(れい)といった法具を生み出したことで知られる。


3.シンボルは決して崇拝対象ではない(宗教的な概念ではない)

しかし、ここで特に強調しておきたいことは、ひかりの輪の「シンボル」という概念は、仏教やその他の宗教における崇拝の対象と、異なる概念である。シンボルは、あくまで、それに人間が触れることによって、その人間の中に、より高い意識、より悟りの境地に近い、静まった広がった意識などを生じさせるものであって、それ自体は、神や仏ではない。

仏画・仏像・曼荼羅は、神や仏ではなく、宗教芸術品であって、木や金属や紙にすぎない。しかし、それが感覚器官等の身体を通して人の心身に好ましい影響を与えるものである。いかに優れたシンボルとしての効果を発揮する仏像があったとしても、その仏像自体を、仏として崇拝することは、一種の偶像崇拝の宗教・信仰であって、ひかりの輪の思想と異なるものである。


4.人類共通の普遍的なシンボル

こうして各宗教には、それぞれの聖なるシンボルがあるが、精神科医・深層心理学者のカール・ユングは、人類普遍の聖なるシンボルがあると主張した。ユングは、人類が民族・人種によらず、共有している集合的無意識や元型(アーキタイプ)といった概念を提唱した。

この元型とは、夜見る夢のイメージや象徴を生み出す源となる存在であり、集合的無意識の中で仮定されたものである。元型の像(イメージ)は神話的で、人類の太古の歴史や種族の記憶に遡るように考えられる。

主な元型としては、①意識の中心の自我(Ego)の元型、②心(魂)全体の中心として仮定される「自己」(Selbst)の元型(宗教的には「神の刻印」などと見なされる)、③女性の心の中の理性的な要素の元型で、男性のイメージでよく認識される「アニムス」、④男性の心の中の生命的な要素の元型で、受容的特徴を持ち、女性のイメージでよく認識される「アニマ」、⑤全てを受容し包容する大地の母としての生命的原理を表す「太(たい)母(ぼ)」(グレートマザー)、⑥太母と対比的で、理性的な智慧の原理を表す「老賢者」などがある。


5.人類普遍の聖なるシンボル:円・輪・マンダラ

そして、ユングは、世界の諸宗教・諸文化を調査研究する中で、人類普遍の聖なるシンボルの一つとして、円・輪・マンダラという概念を見出した。マンダラは、丸いという意味で、ユングがマンダラと見なすものは、輪の形状を持っている。

そして、ユングの研究を見ると、マンダラ・シンボルの中に、光の輪があることがわかる。光の輪というのは、ユングの主張をだいぶ簡略化した表現であるが、中心に太陽・月・星などがあって、その周囲に輪が描かれ、中心からはスポーク上の光なども描かれたものである(詳細は参考資料を参照)。


6.不変のシンボル:光の輪

さらに、ユングも発見したように、仏像・仏画やキリスト教美術などで、神仏や聖人の体から発せられる光明を視覚的に表現した光輪(光背・後光ともいう)がある。そして、これは、宗教全体で普遍的なものであると考えられており、仏教以前のゾロアスター教のミスラ神などにも見られ、ネイティブアメリカンの権威者や戦士が頭に着ける羽根冠も、元来は放射光状の光背を表していると伝わっている。

これに関連して、光の輪の形をとる大気光学現象の一つとして、太陽の周りに現れる虹色の光の輪があり、英語ではハロと呼ばれる。このハロは、キリスト教美術などで、イエス・マリア・十二使途・天使と共に描かれる光の輪を指す言葉と同じである。また、ひかりの輪の団体名の由来の一つが、その創設メンバーが、聖地を巡って瞑想する中で、重要な気づきとともに、この太陽の周りの虹の光の輪を見ることが不思議と多かったという経緯である。

もう一つの光の輪の形をとる大気光学現象としては、太陽等の光が背後から差し込み、影の側にある雲粒(くもつぶ)や霧粒(きりつぶ)で光が散乱され、見る人の影の周りに、虹と似た光の輪が現れるものがある。よくブロッケン現象といわれるが、英語では、光輪を意味するgloryともいわれる。そして、日本では、これを御(ご)来(らい)迎(ごう)などと呼び、影を阿弥陀如来、周りの光の輪を仏の後光として、聖なるイメージをもって解釈された。


7.太陽とその光は、人類普遍の根元的な聖なるシンボル

そもそも、光自体が、さまざまな思想や宗教において、超越的な存在者のシンボルであった。古くから宗教に光は登場し、より具体的には、太陽と結びつけられることが多かった。古代エジプトの神のアメン・ラー、太陽神があり、プラトンは、光の源である太陽と最高原理「善のイデア」とを結びつけた。

『新約聖書』では、イエスが「私は、世にいる間、世の光である」(ヨハネ福音書 9:5)と語り、キリスト教世界の思想にさまざまな形で影響を与え、しばしば光が正義、闇が悪のたとえとして用いられた(グノーシス主義などでも)。

仏教では、光は、仏や菩薩などの智慧や慈悲を象徴するものとされた。また多くの主要な仏陀・菩薩が、太陽・光と結び付けられている。釈迦牟尼は太陽族の末裔とされ、大日如来はまさに太陽の仏であり、弥勒菩薩はその由来がミトラ教の太陽神であり、阿弥陀如来も別名を無(む)量(りょう)光(こう)仏(ぶつ)、薬師如来も正式な名称は薬(やく)師(し)瑠(る)璃(り)光(こう)如来といい、その脇侍は日光菩薩である。観音菩薩も光(こう)世(ぜ)音(おん)菩薩という別名があり、光に結び付けられている。

さらに、神道でも天界の総帥であり、皇祖神として最も重要な位置づけを持つ天(あま)照(てらす)大神(おおみかみ)も太陽の女神である。そもそも、どの宗教の思想ということなく、日本人は、太陽をお日様と呼び、お日様を拝むと言い、太陽に向かって手を合わせる伝統的な習慣がある。


8.太陽信仰やシンボルとしての太陽の背景

この背景としては、古代から人類全体にとって、太陽とその光は、自分達が経験する自然の中で圧倒的なエネルギーと運動を持った最大の現象であるとともに、自分達の生命・生活を支えるこの世界の中で最も重要な存在であるから、太陽とその光に対する信仰があったと思われる(いわゆる太陽信仰)。

その圧倒的な存在感は、世界の中心・絶対者・神・王というイメージを形成したであろう。加えて、古代人にとっては、自分たちに生命を与えるものが神と認識されるのが自然だろうと思われる。日本語でも、「命」という文字は、神棚の前で神のお告げを聞く人をかたどったものだという。命とは神が与えるものという解釈である。

なお、地動説を発見した近代の人類にとっては、太陽の位置づけは、古代よりもさらに大きく増して、地球は、太陽を中心として、その周りを周っている多くの惑星・無数の天体の一つにすぎず、直径にして、その約100分の1の大きさの天体となったことはご存じのとおりである。

そして、神や仏の重要な属性である万物への愛と大いなる叡智が太陽とその光に象徴されることも、同じく、ごく自然なことだったと思われる。万物に降り注ぐ陽光は、すべての生き物を温めてその命を支えるから、自ずと神や仏の万物への愛・博愛・大慈悲の象徴となる。

また、人は、その光によって、世界の万物を目で見て、よく知ることができるから、自ずと神や仏の全知・智慧の象徴となったのだろう。なお、太陽・光・火と、陰陽のセットで信仰されたのが、太陽が沈んだ後に夜空を照らす月、そして水ではないかと思われる。日本語の神=カミは、火と水に由来するとの説もある。


《参考資料1》円の象徴(『人間と象徴』C.G.ユング著 河出書房新社より引用)

円はいろいろと多面的な心の全体性をあらわしており、そこには人間と自然全体とのあいだの関係まで包含されるのである。原始人の太陽崇拝や近代宗教、あるいは神話や夢、さらにはチベットの僧が描いたマンダラや都市計画図といったものにみられる円の象徴であれ、(中略)常に、円は、生命の唯一の至上の重要な側面--つまり生命の究極的な全体性を指し示している。(中略)

インドや極東の美術のなかで、4つまたは8つの方向性を持つ円は、一般的に宗教的なイメージとして、瞑想に役立つ道具でもある。(中略)これらのマンダラは、聖なる力と関係を有している宇宙を表現したものである。(中略)円形のマンダラが持つ意味(中略)これらは、意識と無意識とを大きくそのなかに含み持つ心の全体性、すなわち自己をあらわしている。(中略)

抽象的な円は、禅の絵図にも描かれている。有名な禅僧の仙厓が描いた「円」と題する絵について、ある禅の老師は次のように述べる。"禅宗では、円は悟りをあらわす。円は人間の極致の状態を象徴しているのだ。"

抽象的なマンダラは、ヨーロッパのキリスト教芸術にも見られる。そのなかで最もすばらしいものに、教会の大会堂の円(えん)花(か)窓(まど)がある。円花窓は、人間の自己を、言わば宇宙の平面に移しかえたものだ。(中略)その他、宗教画にあるキリストの後光や、キリスト教の聖者たちもマンダラとみなすことができる。(中略)

非キリスト教系の芸術では、こうした円は"太陽の輪(sun-wheels)"と呼ばれている。この太陽の輪は、車輪がまだ発明されていない新石器時代の岩壁の彫刻にまでさかのぼってみられる。


《参考資料3》マンダラ・シンボルの形態的要素
                                        (『個性化とマンダラ』 C.G.ユング著 みすず書房より引用)

1.円ないし球、または卵の形。
2.円の形は花(薔薇、水蓮--サンスクリット語ではパドマ)あるいは輪として描かれる。
3.中心は太陽・星・十字形によって表現され、たいていは四本、八本ないし一二本の光線を放っている。
4.円、球、十字形はしばしば回転しているもの(卍)として描かれる。
5.円は中心を取り巻く蛇によって、円状に(ウロボロス)または渦巻き状に(オルフェスの卵)描かれる。
6.四角と円の組み合わせ。すなわち四角のなかの円、またはその反対。
7.四角または円形の城・町・中庭(聖域)。
8.眼(瞳孔や虹彩)。
9.四角の(および四の倍数の)形姿のほかに、きわめて稀ではあるが、三角や五角の形姿が現れる。それは以下に見るように「歪んだ」全体像と考えられる。


《参考資料4》光背(光輪)(ウィキペディアより)

光背(こうはい)とは、仏像、仏画などの仏教美術や、キリスト教美術などにおいて、神仏や聖人の体から発せられる光明を視覚的に表現したものである。後光とも呼ばれる。仏教美術における光背は、インド仏教では頭部の背後にある頭光(ずこう)に始まり、その後体全体を覆う挙(きょ)身(しん)光(こう)が生まれた。仏教が東伝するにつれて、頭と身体のそれぞれに光背を表す二重円光があらわれ、中国仏教や日本仏教において様々な形状が発達した。日本では胴体部の背後の光背を身光と呼んでいる。

形状による分類として、光を輪であらわした円光(輪光)、二重の輪で表した二重円光、またそれら円光から線が放たれている放射光、蓮華の花びらを表した舟形(ふながた)光背(舟(ふな)御(ご)光(こう))や唐草光、宝珠の形をした宝珠光、飛天が配せられているものを飛天光、多数の化(け)仏(ぶつ)を配置した千仏光、不動明王などのように炎を表した火焔光などがある。

これらの「光輪」は、仏教に限らずキリスト教の聖人図画などにも見受けられ、宗教全体で普遍的なものであると考えられており、仏教以前のゾロアスター教のミスラ神の頭部にはすでに放射状の光が表現されている。ネイティブアメリカンの権威ある者や戦士が頭に着ける羽根冠(ウォーボンネット)も元来は放射光状の光背を表していると伝わっている。


《参考資料5》ブロッケン現象・光輪・御来迎(ウィキペディアより)

太陽などの光が背後から差し込み、影の側にある雲粒や霧粒によって光が散乱され、見る人の影の周りに、虹と似た光の輪となって現れる大気光学現象。光輪(グローリー、英語: glory)、ブロッケンの妖怪(または怪物、お化け)などともいう。ブロッケン(Brocken)の由来はドイツのハルツ山地の最高峰ブロッケン山(標高1,142m)でよく見られたことに由来する。

その一方で、日本では御来迎(ごらいごう)、山の後(御)光、仏の後(御)光、あるいは単に御光とも呼ばれ、如来と結びつけられた聖なる現象と解釈された。具体的には、日本では、この現象で出現する影は、阿弥陀如来と捉えられ、『観無量寿経』などで説かれる空中(くうちゅう)住(じゅう)立(りゅう)の姿を現したと考えられていた。前田直己山形大学客員教授は、この現象に世界で初めて名前(来迎)を付けたのは出羽三山の修験者であるとの説を2017年に発表している。御来迎については槍ヶ岳開山を果たした僧播(ばん)隆(りゅう)の前に出現した話が有名である。


《参考資料6》光(ウィキペディアより)

光は様々な思想や宗教において、超越的存在者の属性を示すものとされた。古くから宗教に光は登場しており、より具体的には太陽と結びつけられることも多かった。古代エジプトの神、アメン・ラーなどはその一例である(太陽神も参照)。プラトンの有名な「洞窟の比喩」では、光の源である太陽と最高原理「善のイデア」とを結びつけている。

新プラトン主義では、光に強弱や濃淡があることから、世界の多様性を説明しようとしており、哲学と神秘主義が融合している。例えばプロティノスは「一者」「叡智(ヌース)」「魂」の3原理から世界を説明し、「一者」は、それ自体把握され得ないものであり光そのもの、「叡智(ヌース)」は「一者」を映し出しているものであり、太陽であり、「魂」は「叡智」を受けて輝くもので月や星であるとし、光の比喩で世界の説明を論理化した。この新プラトン主義は魔術、ヘルメス主義、グノーシス主義にまで影響を及ぼした、とも言われている。

『新約聖書』ではイエスにより「私は、世にいる間、世の光である」(ヨハネ福音書 9:5)と語られる。またイエスは弟子と群集に対して「あなたたちは世の光である」(地の塩、世の光)と語る。ディオニュシオス・アレオパギテースにおいては、父なる神が光源であり、光がイエスであり、イエスは天上界のイデアを明かし、人々の魂を照らすのであり、光による照明が人に認識を与えるのだとされた。この思想はキリスト教世界の思想に様々な形で影響を与えた。しばしば光=正義、闇=悪の二元対立としてたとえて語られた。

グノーシス主義では光と闇の二元的対立によって世界を説明した。仏教では、光は、仏や菩薩などの智慧や慈悲を象徴するものとされる。


《参考資料7》太陽神(ウィキペディアより)

太陽神とは、太陽を信仰の対象とみなし神格化したもの。古代より世界各地で太陽は崇められ、崇拝と伝承は信仰を形成した。(中略)主な世界の太陽神の事例は以下の通り。

アイヌ神話 -トカプチュプカムイ
インカ神話 - インティ
エスキモー・イヌイット神話 - マリナ
エジプト神話 - アテン、アトゥム、アメン、ケプリ、ホルス、ラー、ハトホル、セクメト
ギリシア神話 - アポローン、ヘーリオス
ケルト神話 - ベレヌス、ルー
スラブ神話 - ダジボーグ、ベロボーグ
中国神話 - 東君、金烏(三足烏)、羲和、日主、太陽星君
日本神話 - 天照大神、天道、天火明命、天之菩卑能命、稚日女尊、八咫烏、饒速日命
ペルシア神話 - フワル・フシャエータ、ミスラ
北欧神話(ゲルマン神話) - ソール
リトアニア神話 - サウレー
メソポタミア神話 - シャマシュ
ヴェーダ神話 - インドラ、ヴィヴァスヴァット、ダクシャ、バガ、ミトラ、サヴィトリ、プーシャン、ヴィシュヌ
ローマ神話 - アポロ、ソル、エル・ガバル
ヒンドゥー教神話 - ヴィシュヌ、スーリヤ、サヴィトリ
仏教 - 大日如来、日天、日光菩薩
フェニキア神話 - バアル、シャプシュ
メキシコ神話(マヤ・アステカ) - ウィツィロポチトリ、ケツァルコアトル、トナティウ、キニチ・アハウ、イツァムナー

 

 

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