2018年GWセミナー特別教本『ポスト平成:長寿社会の新しい生き方 感謝の瞑想:仏陀の覚醒の扉』第2章特別公開
(2019年5月26日)
第2章 総合解説:感謝の瞑想・仏陀の覚醒の扉
1.仏陀=目覚めた人とは?
仏陀とは、サンスクリット原語で目覚めた人という意味である。仏教開祖のゴータマ・シッダッタは、その最初の説法(初転(しょてん)法輪(ぼうりん))において、自分の教えは、人の眼を開き、理解を生じさせ、正しい智慧、心の静けさ、涅槃、悟りの境地などを与えるとした。こうして、仏陀とその教えの本質は、人の精神的な覚醒と深く結びついているのである。
さて、この仏陀の言葉にも出てくる智慧とは、仏陀の極めて重要な特性であり、物事を正しく見る力という意味がある。正しく見るとは何かといえば、仏陀の説いた縁起や空の道理に基づいて物事・世界を見る高度な認識力などと解説される。これをわかりやすく言い換えれば、物事の全体を見ること、心の視野を拡大することともいうことができる。
これと関連して、仏典には、仏陀の意識は、世界の全ての時空間と合一しているという表現もある。また、有名な観音菩薩の別名を観自在菩薩ともいい、観察が自在という意味であり、特に千手観音とは、無数の手を持ち、その全ての手には目があって、世界全体を自在に観察することができる存在であることを示している。
物事の全体を見て、心の視野が拡大し、究極的には、意識が世界の全時空間に合一した結果として、仏陀は、全ての存在が無常であること(諸行無常)、全ての事物が無我であること(諸法無我)、万物が相互に依存しあっていること(縁起・相(そう)依(え)性(しょう)縁起)、万物が固定した実体を持たないこと(一切皆空)、万物が自分だけで他から独立して存在しないこと(無(む)自(じ)性(しょう))といった法則を見出し、万物を愛する大慈悲に目覚めたという。そして、こうした目覚めに至る一つの具体的な道・瞑想法が、以下で述べる感謝の瞑想である。
2.心の視野を拡大すると、自分の幸福と他者への愛に目覚める
普段の我々は、心の視野・視点が、今の自分を中心とした世界に限定されている。これを先ほど述べたように、大きく広げてみるとどうなるか。自分だけでなく、日本全体、世界全体に広げ、さらには、人間だけでなく全ての生き物・自然に広げて地球全体、宇宙全体に広げてみる。
また、今だけでなく、自分が生まれた時、近代・中世・古代に遡り、数万年といわれる現生人類の歴史、39億年前に遡る生命全体の歴史、46億年の地球の歴史、130億年を超える宇宙全体の歴史を遡ってみる。
すると、全ての生命体の中から、人間に生まれたこと、しかも、21世紀の人間に生まれたこと、さらには、安全・長寿・豊かさの三拍子そろった先進国の日本に生まれたことは、とてつもなく幸運であったことに気付く。世界の全時空間の全ての生命体の中から、21世紀に日本人に生まれる偶然の確率は、とてつもなく僅かであり、全く奇跡的なことである。
普段の我々は、「自分がすでに得ているものは当然である」という思い込みがあって、意識が今の自分の近くだけに制限されていて、世界全体の視野・視点から自分を見ることがないために、自分たちが得ている大変な幸福・幸運に気づいていないのである。
しかし、人間以外の生き物は、衣・食・住が確保されておらず、天敵がいるために絶えず脅かされており、家畜のように人に殺されるために育てられるものもいる。そして、様々な苦しみがあっても、その原因と解決法を考えることができず、生まれてから死ぬまで同じような苦しみを、ただただ繰り返し経験して、死んでいかなければいけない。すなわち進歩することがない。仮に、人間がこうした状態に陥るならば、それは絶望的な人生として認識され、自殺に至る可能性も高いだろう。
にもかかわらず、実際を見れば、人間に比較して、他の生き物の数は圧倒的に多い。仏陀が、人間に生まれる者の数と、他の生き物に生まれる者の数を比較して、後者を夜空に見える星の数、前者を昼間の空に見えるか見えないかの星の数にたとえた有名な説法がある。
さらに我々は、多くの人類の中で、21世紀の人類という、人類史上もっとも恵まれた人類の社会に生きている。現生人類は数万年の歴史があって、これまでに数百億人~数千億人が生まれたといわれているが、現在の21世紀の人類の総人口は70億人とされ、先進国の人口となると10億人前後となる。
しかし、現在、私たちが自分の部屋の中と外で目にする様々な文明の利器のほとんどは、近代の科学技術や産業革命によるものであり、それ以前には存在していなかった。厳密にいえば、100年前にも存在したものも、ごく一部である。インターネットの大衆化やスマホの普及などと言えば、10年から20年の歴史しかない。こうして、我々が今、自分の周囲、あたり一面に目にするものは、人類数万年の長きにわたった先人たちの血と汗の結晶の産物であって、大変な恩恵といわなければならないのではないだろうか。
さらに、それらは、先人からの恵みであるだけでない。我々の毎日は、現在を生きる多くの人々、他の生き物、空気や水を含めた地球の生命圏と、それを支える太陽系・銀河系といった宇宙のシステムに基づいて存在している。こうして、我々の得ている大きな幸運と恩恵は、宇宙の万物に支えられているものだということができる。
こうして、心の視野を広げるならば、自分たちの得ている膨大な幸運・恩恵・幸福と、それを支える万物への感謝=愛に目覚めることができる。言い換えるならば、仏陀とは、自分が非常に幸福である事実と、それを支える万物に対する感謝に目覚めた者ということができる。
3.苦しみの恩恵にも目覚める
さらに、自分たちの得ている膨大な恩恵に気付くならば、普段経験して嫌がっている様々な苦しみにも、貴重な恩恵があることに気付く。普段の我々は、膨大な恩恵に気付かず、感謝もない。そればかりが、まだ得ていないものや、少し前に得ていたものを失ったことに対する不満・怒り・後悔などが多い。そして、自分より持っている者への妬み・怒り、自分より恵まれていない者への驕り・蔑みなどもある。これは、自分たちが得ている膨大な恵みに気付いて感謝して足るを知ることがなく、際限のない欲求=貪りに陥っていることによるものである。
そして、重要なことに、こうした心の働きが、逆に自分たちを不幸にしている。「もっともっと」と求めても得られずに苦しむ、得ていたものを失って苦しむ、求めて奪い合うことによって苦しむといったことである。
こうして見るならば、我々が普段経験している苦しみというものは、我々の際限のない欲求・貪りの過ちに気付くことを促すものと考えることができる。たとえていえば、貪りのもたらす苦しみは、貪りから離れる愛のムチ、口に苦い良薬であり、脱却のための試練である。酷い悪夢にうなされている者の目を覚ますために、その顔を叩くようなものである。
仏陀の教えには、苦しみの経験があってこそ正しい教えに心が向かうという趣旨のものがある。仏陀と自分の父母に加えて、苦しみを与える敵対者を含めた三者に対して礼拝するように説く教えもある。さらにいえば、自分の経験する苦しみこそが、同じような苦しみを経験する他者に対する優しさ・慈悲の心の源にもなる。こうして苦しみは、我欲を離れて慈悲を持つことに導く側面がある。仏陀の教えでいえば、苦の裏に楽があるという、苦楽表裏の教えである。
4.他者への慈悲、自分の罪に目覚め、慢心を和らげる
また、こうして心の視野が広がって、感謝の心が広がり深まるならば、自分よりもはるかに恵まれておらず苦しみの多い者が無数に存在する事実も、認識するようになるだろう。自分が際限のない欲求・貪りに陥っている間は、不満と妬みばかりが生じて、他者の苦しみなどは気に留めることはできないが、それから解放されるならば、苦しむ多くの者の存在に気付くことになる。
さらには、自分の毎日が、そうした他の生き物の苦しみ・犠牲の上に成り立っていることも理解される。例えば、私たちは、毎日の糧を得るために、動物にしても植物にしても、他の生き物を殺さなければならない。仏教では、これを人間が避けることができない悪業として宿業(宿命(しゅくみょう)の業)などということがある。人間の世界で、どんなに偉そうにしている者であっても、自分たちよりも苦しみの多い生き物を犠牲にしなければ、一日たりとも生きていくことができない存在なのである。
これに関連して、「感謝」という言葉が、偶然にも「謝罪を感じる」と書くものであることは意味があると思う。感謝とは、自分の幸福が全て、なにかしらの他者の労苦・犠牲に支えられたものであることを認識することであるとするならば、その意味で自分の罪の事実を感じることを含んでいるものだろう。
また、普段は、非常に簡単に他人を嫌悪して批判するが、実際には自分が嫌うタイプの人たちにも支えられながら、私たちは生きている。現在の非常に便利な都市社会は、非常に高度な分業によって成り立っている。それはグローバル経済の中で、地球の隅々の国々・人々まで巻き込んで存在している。その中には、自分が嫌悪したり見下したり馬鹿にしたりしている人たちも含まれている。こうして、自分が好きな人、嫌いな人の双方を含めて、実際には、全ての人が、全ての人と支えあっている。どんな人間も、自分だけの力で生きることや、自分が好きな人間だけの間で生きることなど到底できていないのである。
突き詰めれば、自分自身という存在自体が、自分で作ったものではなく、父母をはじめとする先祖・先人、他の親族、学校の教師・友人、会社の先輩・同僚を含めた友人知人の労苦・犠牲によって支えられて育まれてきたものである。自分に何か良いところがあったとしても、それが全て自分の努力のみで得られたということはあり得ず、他者の労苦・犠牲を伴う幸運に支えられたものであることに気付く。万物は相互依存であることに気付く。
こうした気づき・目覚めは、慢心を解消する。また、慢心とともに、自と他を区別して、優劣を比較することによって生じる卑屈・妬みといった心の働きも、和らげることになる。
5.恩返しの心に基づく真の慈悲に目覚める
さて、大乗仏教の教義においては、こうして万物への感謝・愛を深めて、その恩に報いるために、全ての生き物を利する実践=菩薩道に入ることを説く。すなわち、仏陀・菩薩の利他心とは、自分を悟った者として、上から目線で、他の人々・生き物を救ってやろうという心の働きではなく、全ての人々や生き物を自分の恩人と見て、その恩に報いるための恩返しとして行われる純粋性を有している。
そのために「因果の七つの秘訣」などの大乗仏教の瞑想では、①全ての生き物を恩人であると瞑想し(知恩)、②その恩に報いようとする心を培い(報恩)、③恩人が苦しんでいることに慈悲を持ち、④その苦しみの解消のために、自分が仏陀の境地に到るための菩薩道の修行に入ることを決意する(発(ほつ)菩(ぼ)提(だい)心(しん))といった瞑想を行う。
6.万物一体の悟りに目覚める
また、こうして感謝の瞑想によって、万物が互いに支えあって存在する事実に深く気付くならば、万物が一体であるという悟りが生じる。自と他を区別して自分だけに愛着する心の働き(自我執着)が和らぐと、怒りなどを含めた全ての煩悩の根源が和らぐことになる。安定して静まった広がった心の働き(大慈悲)が生じることになる。
こうして、以上をまとめてみると、心の視野を拡大して感謝の瞑想をするならば、①自分の膨大な幸福に目覚め、②それを支える他者・万物への愛に目覚め、③自分の苦しみの裏側にある恩恵にも目覚め、④自分より遙かに恵まれない無数の他者への慈悲に目覚め、⑤自分の幸福が他者の犠牲・労苦に基づいているという自分の罪に目覚めて慢心が和らぎ、⑥謙虚な恩返しの心に基づく真の利他行に目覚め、⑦万物一体の悟りに目覚めて、全ての煩悩の根源である自他の区別・自我執着が和らぐことになる。
また、こうして感謝の瞑想によって、万物が互いに支えあって存在する事実に深く気付くならば、万物が一体であるという悟りが生じる。自と他を区別する心が和らぐと、怒りなどを含めた、全ての煩悩の根源が和らぐことになる。
7.感謝がもたらす様々な幸福
感謝の瞑想は、これまでに述べたように、心の幸福・浄化・安定・広がり・愛をもたらすが、他にもさまざまな恩恵がある。
まず、安定した広い心が得られれば、物事を正しく見る智慧が生じる。心の安定とそれによる集中こそが、物事を正しく見る力をもたらすからである。これは、仏教の「止観」と呼ばれる教義である。止観とは、心が静まって静止するならば、物事を正しく見る(観る)ことができるというものである。
そして、逆もまた真であり、物事を正しく見るならば、心は静まるということでもある。止が観をもたらし、観が止をもたらす、循環する。なお、止観の別の表現は、禅定と智慧である。禅定(瞑想による心の安定)によって、智慧(物事を正しく見る高度な認識力)が生じるといわれる。
さらに、感謝の瞑想は、心身の健康を増進する。すでに多くの医学的な調査・研究において、感謝をはじめとする前向きな感情が、免疫力の向上に役立つことが確認されている。一方、ストレスが免疫力を弱めることをはじめとして、感謝とは反対に、不満・怒り・焦り・争いといった否定的な心の働きや行動は、免疫力を弱め、健康を損なう。
また、感謝と恩返しの心の働きと行動は、当然であるが、人間関係を改善することは疑いがない。意識して感謝の瞑想と実践をしなければ、我々の日常は、際限なき欲求によって、感謝よりも不満が多く、愛・恩返し・分かち合いよりも、怒り・憎しみ・奪い合いが多いかもしれない。
そして、昭和の稀代の実業家の松下幸之助は、少人数を動かす場合は、支配・命令・処罰などでも可能だが、大勢の人を動かす場合は、感謝・尊重の心が必要だと述べている。すなわち、感謝は、感謝された人の意欲を増大させ、活性化するのである。
8.日常生活の感謝の瞑想① 朝の瞑想
感謝の瞑想に限らないが、日常生活の中で瞑想を組み込む上では、朝起きた後と、夜寝る前の瞑想は有効である。朝起きた時は、人はどうしても、それまでに培った精神的な傾向として、際限なく求める心の働きと、それによる不満・怒りが生じやすい状態にある。よって、その日の仕事や勉強を始める前に、感謝の瞑想によって、そうした心の働きを和らげ、その日をより良い心の働きと行動をもって過ごすことができるようにすることが望ましい。
もちろん、仏陀の教えを絶えず思念することを説く仏教の正念の教えからすれば、一日中絶えず感謝の瞑想をするべきであるが、それは現実には不可能であるから、まず朝に行って、その日一日のために、良い流れを作るということである。そして、その後も、仕事や勉強の合間を見て、ごく短い間でも、感謝の瞑想をすることができれば理想ではないかと思う。
9.日常生活の感謝の瞑想② 夜の瞑想
夜寝る前の瞑想は、心理学的にも効果が高いというデータがある。夜寝る前に、感謝の瞑想などで、不満・怒り・妬み・不安などを和らげておけば、心が落ち着き、心身がリラックスして、熟睡する助けになる。
現在、睡眠不足・睡眠障害に悩む人が増えている。不安や緊張が強かったり、運動不足だったりすると、睡眠を妨げる。そこで、夜寝る前に、例えば、適度なヨーガ体操などの運動をした後に、感謝の瞑想をして心を静めることは、良い睡眠の助けとなり、疲労回復などをもたらし、健康のためにも重要である。
また、睡眠の時間は、人生の3分の1から4分の1を占めるものである。よって、その質を高めることは、仏教・ヨーガの悟りの視点からも重要であり、夢を活用した瞑想修行もある。具体的には、睡眠の前に、一定の身体行法や感謝などの瞑想で、心身を浄化するならば、煩悩が静まった状態で睡眠に入ることができ、それ自体が良い瞑想状態ということができる。
10.食事での感謝の瞑想
食事とは、前に述べたように、他の生き物の犠牲であるから、感謝の瞑想を行う上で非常に重要な時である。具体的には、食事を始める前に、簡単に感謝の瞑想を行う。手を合わせて「いただきます」と言う時には、犠牲となった生き物に対して、その身の供養を感謝をもっていただくと考える。
そして、感謝に基づく恩返しとして、その食事で得た栄養・エネルギーを無駄にせずに、なるべく良いことをすることを誓う(誓願する)。これは、前に述べたように、人が生きていく上では、他の生き物を犠牲にするという宿業があるが、それを相殺するように善行を積むという意味合いがある。こうした瞑想は、感謝の心とともに、謙虚な心と善行を行う精神を培うことを助けることになる。最後に、天寿を全うして死ぬことは、これまで他者からいただいたもので作っていた自分の身体を他者・自然に返して、それまでのお返しをする意味合いがあることを考えるとよいだろう。
さらにいえば、人が生きるということは、他者の死とセットであり、他者から生命・体をもらうこと、他者の体が自分の体になることである。また人が死ぬということは、他者の生とセットであり、自分の体が他者の体になっていくことである。
こうして、自己の生と他者の死はセットであり、自己の死と他者の生はセットであり、この地球の生命圏においては、生と死はセットであり、死ぬ者がいるから生きる者がいて、その意味でも万物が相互に依存し合って一体となって存在しているのである。こうしたことを瞑想することは、感謝に加えて、万物相互依存・万物一体の悟りを深めていくことになるだろう。
11.ひかりの輪の三悟心経の感謝の読経瞑想
ひかりの輪では、現代人のための仏教的な悟りを促す読経瞑想(三悟心経)がある。具体的には、
①万物を恩恵と見て万物に感謝する(万物恩恵・万物感謝)
②万物を仏と見て万物を尊重する(万物仏・万物尊重)
③万物を一体と見て万物を愛す(万物一体・万物愛す)
というものである。
一つ目の「万物恩恵・万物感謝」の瞑想に関しては、すでに詳しく説明したとおりである。二つ目の「万物仏・万物尊重」の瞑想は、慢心を避けて謙虚さを培う瞑想である。前に述べた通り、人は、他の生き物の命の犠牲がなければ生きることさえできないのに、感謝の心を忘れているどころか、無意識的に人間として他の生き物を見下している。
しかし、人間は、他の生き物の上に立っているようで、多くの場合において、他の生き物よりもはるかに悪いことをする場合がある。すなわち、人間は他の生き物より、力は上であるが、行いにおいて優っているとは必ずしもいえない。
多くの動植物が自然の摂理の中で調和を保って存在しているのに、人間は、際限のない欲求による資源消費や自然破壊を行い、飢えてもいないのに戦争という同じ種の間での大量の殺し合い・共食いを行うことさえあり、見方によっては、地球生命圏における害悪の一面さえある。
よって、意識して慢心に陥ることを避けるように努めて、自分の周りの他の生き物、他の人々、他者・万物を見るならば、それらが様々な意味で教師・反面教師として学びの対象に見えてくる。これが万物を学びの対象・導き手と見る謙虚さを培い、慢心を乗り越える、万物仏・万物尊重の瞑想である。
三つの目の「万物一体・万物愛す」の瞑想に関しては、食事の瞑想のところでも話したように、この世界の万物が相互に依存し合って一体となって存在しているという視点に基づいている。自と他を区別して、自己だけに過剰に執着するのではなく、自他を含めた万物を一体とみなして、万物を愛する大きな心を培うということである。
12.瞑想を助けるヨーガ・仏教の基本的な教え
さて、感謝の瞑想を含めて、瞑想を行う前の準備について述べたいと思う。もちろんこれは、時間がある場合であって、時間のない場合は、こうした準備をすることなく、瞑想をして構わないと思う。
まずは、瞑想の際に自分の身を置く環境を浄化して整えることである。自宅ではなく、豊かな自然・神聖な波動を持つ聖地などに行くことができれば理想であるが、自宅で行う場合の工夫に関して述べる。
まず基本は、部屋の整理整頓をして換気を行う。ヨーガや道教の思想でいえば、自分の体の外の「気」(目に見えないエネルギー)を整えることになる(外気を整える)。この際、部屋に、見ると心が静まる仏画や自然の写真、聞くと心が穏やかで前向きになる類の瞑想音楽や、ある種の仏教の法具が奏でる聖音、ストレス解消やリラックス効果がある瞑想用のお香などがあれば、理想である。
次に、適度な運動を行って体をほぐす。例えば、ヨーガの体操(アーサナ)や気功法がある。これは、体の筋肉や関節をほぐして、血流や気の流れを改善する効果があり、それによって精神状態の安定にも繋がる。
次に、正しい姿勢と呼吸法である。姿勢は原則として、背筋を伸ばして肩の力は抜く。こうすれば、血流がよくなり、精神に深く関係する脳や腹部の血流も改善する。足の組み方(座法)は、蓮華座や達人座のようなヨーガ・仏教の専門の座法が組めなくても、安定したものであればよい。
なお、手は、様々な組み方(手印)があるので機会を改めて解説するが、左手の上に右手を乗せるのが、定印といわれる仏陀の瞑想を象徴する手印であり、心を安定させ、気の流れを整えるために有効だと思われる。
最後に、呼吸法に関しては、基本的に腹式呼吸で行い、息の出し入れは、口ではなく鼻から行う。ヨーガの呼吸法は、体操(アーサナ)とともに様々なものがあるので、その詳細については、ひかりの輪で発刊している『ヨーガ・気功教本』を参照されたい。
13.読経瞑想時の3つのポイント:三密加持
さて、瞑想を行う際には、姿勢と言葉と意識の3つに注意することが重要である。まず姿勢は、先ほど述べた通り、背筋を伸ばして肩の力を抜き、安定した座法で座って、手印を組む。言葉の修行とは、読経や真言の念誦のことである。
そして、非常に重要なことが、その際の心の持ち方である。単純に読経・真言念誦をしても、その教えの意味を考えたり、それに関するイメージを持ったりするように努めなければ、効果は薄くなる。場合によっては「馬の耳に念仏」というように、口で唱えてはいるものの、その教えが心・頭には入っていかないことになりかねない。例えば、前に述べた「三悟心経」の場合は、その経文が説く世界観を実感できるような思索・イメージを行うことが望ましい。