2010~11年 年末年始セミナー特別教本 『中道の教え、卑屈と怒りの超越 宗教哲学・21世紀の思想』第1章公開
(2011年3月10日)
『中道の教え、卑屈と怒りの超越 宗教哲学・21世紀の思想』
■目次 ★第1章をご紹介 購入はこちらから
1 釈迦牟尼の中道の教え--苦にも楽にも偏らない幸福 ・・・ 6
2 苦楽表裏の教え--苦しみの裏側に喜びがあるという教え ・・・ 9
(1)楽の裏に苦しみがある--とらわれや自我執着による苦しみの増大 ・・・ 9
(2)苦の裏に喜びがある--とらわれの減少と智慧・慈悲の増大による幸福 ・・・ 10
(3)慈悲の化身・観音菩薩の誕生の説話--苦しみこそが慈悲の源 ・・・ 12
(4)慈悲の心の素晴らしさ ・・・ 13
(5)二つのタイプの幸福--他に勝利する幸福と慈悲による幸福 ・・・ 14
(6)健全な資本主義社会の維持のためにも ・・・ 15
3 日常のさまざまな苦の裏にある幸福を見つける ・・・ 16
(1)経済の不安--質素倹約・精神的な幸福の気づき・慈悲の芽生え ・・・ 16
(2)批判・中傷--学びの場としての人間関係を ・・・ 18
(3)挫折・失敗--失敗は成功の元と考え、目標を達成する強さを得る ・・・ 21
4 今この瞬間を楽しむ生き方 ・・・ 23
5 目標達成のための最高の境地--無心の境地 ・・・ 26
第二章 卑屈・妬みを超える慈悲・四無量心の教え ・・・ 29
1 優劣の区別がない大乗仏教の世界観--万物は平等な仏性の現れ ・・・ 29
2 視点を変えると、優劣が表裏であること ・・・ 29
3 優劣を超えるには、努力が前提 ・・・ 31
4 慢心の苦しみ ・・・ 32
5 卑屈を超えて、四無量心の教えに至る ・・・ 32
6 人と人の間の違いは個性であり、役割の違い ・・・ 33
7 性格の違いも、個性であり優劣ではない ・・・ 33
8 優劣を超え、人間存在を尊ぶことと、神仏との関係 ・・・ 35
9 日本人の優れた宗教性 ・・・ 35
10 科学に見られる神仏の存在の可能性 ・・・ 37
11 真の神の奇跡とは、毎日見る生命そのものでは ・・・ 38
第三章 怒り・憎しみを超え自己反省と利他に生きる教え 40
1 第一の教え
--悪いことをした人がいても、その人だけが原因で、悪いことが
なされたわけではない(自と他の区別を超える自他一元の教えより) ・・・ 40
2 心理学が説く、自分の暗部の投影としての怒りの対象 ・・・ 41
3 怒りの対象を反面教師と見て、内省に役立てる ・・・ 41
4 反面教師として内省する方が、他人の悪行も止めやすい ・・・ 42
5 怒りより、哀れみ・慈悲の方が、他人の悪行を止めやすい ・・・ 44
6 憎しみは憎しみではなく、愛によって終わる ・・・ 45
7 第二の教え
--悪行をなす人は、悪い人だからではなく、無智だから悪い
ことをなす(善人・悪人の二分化を超える優劣一元の教えより) ・・・ 45
8 他を害することは、本人に不利益がある ・・・ 46
9 悪い人もいつかは変わると説く、仏教の思想 ・・・ 47
10 悪人が徐々に善人に変わるという思想 ・・・ 48
11 第三の教え
--悪行をなした人は慈悲=仏から遠ざかるが、害された人は慈悲=仏に
近づける可能性がある(苦楽の二分化を超える苦楽一元の教えより)・・・ 48
12 怒りを超える=許しの恩恵 ・・・ 49
13 一元思想は、万物の尊重につながる ・・・ 50
第四章 盲信を超える宗教哲学:21世紀の思想 ・・・52
1 宗教哲学とは ・・・ 52
2 「客観的な事実」と「信じているにすぎないこと」の区別 ・・・ 52
3 客観的な事実以外は全て不必要、とは言えない ・・・ 53
4 真実ではなく、幸福の手段としてとらえる智恵 ・・・ 54
5 盲信しなくても、信じるメリットは残る ・・・ 56
6 宗教・信仰に逆支配されて争いが生じる ・・・ 57
7 盲信する人の内側に、密かに存在する「疑念」・・・ 58
8 真の「信仰の自由」とは、自らの中の信仰の自由・・・ 59
9 「崇拝対象」の違いによって生じる傲慢と争い・・・ 59
10 オウム真理教での経験から・・・ 60
11 神聖な存在は、それを体験する人の「中」にあるという思想・・・ 61
12 外側の崇拝対象は、「象徴」としての方便手段・・・ 62
13 釈迦牟尼は、宗教家ではなく哲学者・・・ 63
(1)自灯明・法灯明
(2)方便自在・対機説法・択法覚支
(3)無記と現世指向
14 盲信の原因である「虚栄心」の問題を超える ・・・ 65
15 盲信の原因となる「依存心」の問題を超える ・・・ 67
16 正しい学び方:依存と傲慢の双方を超える ・・・ 68
以下第1章をご紹介
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第一章 中道の教えによる幸福な人生
1 釈迦牟尼の中道の教え--苦にも楽にも偏らない幸福
仏教開祖の釈迦牟尼は、「中道」と呼ばれる教えを説きました。中道とは、自分の心身を痛めつけ過ぎるような苦行にも、快楽を追求する道にも、どちらにも片寄らない修行の道のことです。なお、苦行主義は右道と呼ばれ、快楽主義は左道と呼ばれ、この中道は不苦不楽の道ともいわれます。
そして、釈迦牟尼は、この不苦不楽の中道を特徴とする「八正道」という教えの実践によって悟りに到達し、初めて行った説法(初転法輪)も、この中道・八正道を説いたとされます。
では、この不苦不楽の中道の教えを、現代に生きる私たちにも役立つ思想として検討し直してみたいと思います。まず、苦行に片寄らないという点は、皆さん、すぐに飲み込めるのではないかと思います。戦前・戦中までの日本では、いたずらに苦行主義に走る潮流・文化があったかもしれませんが、現在の日本はそういうことはないと思います。
逆に、快楽に片寄らないという点については、どこかで頭ではわかっているが、豊かになった日本社会の中では、ほとんど忘れられつつある重要な思想だと思います。しかし、それによって、逆に、豊かな社会の中で、苦しみや不安が増大しています。
では、不苦不楽の中道という思想を現代的に表現すれば、人が幸福になる最善の道は、苦しみばかり求めても良くないが、楽ばかり求めても良くない。そうではなく、苦と楽のバランスが取れた生き方が最善だということです。
これを一言で言い換えれば、「足るを知る」と表現できるかもしれません。足るを知るとは、実に深い教えだと思います。というのは、これは、多少の不足を感じても満足するように努めるという消極的な意味だけではなく、多少の不足・苦しみは、ないよりもあった方が良いのだという積極的な意味があります。そして、今回考えてみたいのは、後者の積極的な意味合いの方です。
例えば、「腹八分目に医者いらず」という言葉があります。これは、多少の満腹感の不足があった方が、健康には良いという意味ですね。また、「一病息災」という言葉もあります。これは、一つくらい病気があった方が、体をいたわるため、長生きするという意味です。こうして、何一つ病気がないよりは、少し病気があった方が、全く健康であるより良い場合がある、という意味になります。
「好事(こうじ)魔多し」というのも、同じかもしれません。良いことばかりがあると、その後が怖いという経験則。例えば好調が続き、慢心・油断に陥り、気がゆるむと、大けがすることもある。
「若いうちは苦労を買ってでもしろ」というのは最近身にしみます。若いころ過保護で甘やかされ、わがまま・甘え・忍耐力が不足している自己愛型人格が増えているともいわれています。人間関係が上手くできず、引きこもり、仕事が続かない、夫婦関係・育児の困難を抱えるといった問題が広がっています。
今広がっている新型の鬱病の一因もこれではないかと疑われています。旧型の鬱は頑張りすぎ、新型の鬱はゆるみ過ぎが原因だといわれます。そして、両者の合体型もあるようです。二つの鬱病の原因から見ても、幸福への道は、無理せず怠けず、焦らず弛まず、すなわち、釈迦牟尼の中道と同じです。
また、高齢者は、生活習慣や食生活が乱れ、規則的な運動・作業や、頭を使う機会がないと、認知症になる危険性が高まるとされています。こうして見ると、退職して悠々自適の年金暮らしが、高齢者雇用によって労苦を背負い続ける人よりも、必ずしも幸福とはいえないということになります。
お金はどうか。あればあるだけ良いのか。それともあり過ぎると不幸になるか。お金に多少不足を感じる方が、質素倹約・無駄遣いの抑制の習慣が身につき、少ないお金で生きていくことができます。また、稼ぐ上での苦労が、智慧や忍耐力を育み、育ててくれた親やさまざまな人たちへ感謝したり、世界中の貧困の苦しみを理解できて、感謝や愛や智慧や忍耐という、人にとって一番大切なものを培ったりすることもできるかと思います。
逆に、何一つ不自由・苦しみがない生活というのは、本当に良いのか。フランス王妃マリー・アントワネットが、パンもなく飢えていた貧しい民衆の気持ちが理解できず、「パンがないなら、なぜケーキを食べないのか」と言って怒りを買って、命を落としたという有名な話もあります。
彼女の不幸は、自分に不自由がなかったために、他の苦しみがわからなかったことでした。こうして、全く不自由・苦しみのない生活とは、まるで悪魔の誘惑のように、大変恐ろしいものではないでしょうか(なお、学術的には、これはマリーではなく、他の王室の女性のことだという説もあります)。
誰もが不自由はしたくないと思いますが、世界の中で10億人以上が飢餓や絶対的な貧困に悩み、昨今は先進国にも不況が広がる今日、そう思い過ぎるならば、客観的には、「自分が幸福であればそれでいい」と考えていることになるかもしれません。
それでは、あの有名な『蜘蛛の糸』の話のように、慈悲の心を軽視して、自分だけは救われたいと願っても、それで地獄に堕ちるかどうは別にして、慈悲の心から遠くなった心は救われないことは明白です。まず、慈悲の心を目指すのならば、非常に危険でもあります。
よく形骸化しているといわれる日本の伝統宗派。徳川幕府の導入した檀家制度で、民衆は皆どこかの宗派に属することになり、修行・布教しなくても、冠婚葬祭などのお布施でお金に困らなくなりましたが、彼らにとって本当に良かったかは疑問です。
最近は、形骸化にともなって、檀家が離れ、葬式にお金をかけない人が増え、危機感を持った若い僧侶の方の相談を、私などさえ受けることもあります。一度たるんで喪失した伝統を取り戻すことは、非常に困難で絶望視する人もいます。最澄・空海が頑張ったとき、彼らは檀家を持たない新興宗教でした。
よって、大乗仏教の思想にある修行実践である「六つの完成(六波羅蜜)」の教えでは、忍辱(忍耐)の修行の第一として、物質的な困窮に耐えるというものがあります。物質的な困窮が全くなくて、仏教が説く智慧と慈悲が身につくだろうかということです。
また、称賛・名誉・地位はどうでしょうか。人は弱い者で、成功・評価されてしまうと、満足・慢心・油断が生じ、以前のようには努力がしにくくなる。逆に批判は人を鍛える力にもなり、正しい批判は、自分の改善に役立ち、理不尽な批判は不動の心を培い、感情的な批判は、批判する人の苦しみを理解する機会となり、批判は未来の成長・名誉を生み出すように逆利用ができます。
「早く成功したい」と思うのは人情ですが、一番大切なのは、最終的に成功し、幸福になれるかどうか。しかし、若いときに一気に成功して、人・物・金が集まって、その後、落とし穴にはまったケースは多い。90年代の日本のバブルの崩壊と、最近の米国発のバブルの崩壊で、多くのエリート集団が失敗した話をよく聞きます。
「失敗せずに成功したい」という気持ちは皆が持ちますが、人は生まれながらに不完全で、多くの成功は、失敗を元にして生まれるのが真実。失敗を恐れず、失敗を成功の元と考え努力を続ける人が、エジソンのように成功し、失敗を恐れる人は、経験が増えずに成功する可能性が少なくなる。
自分の経験でも、あまり苦労なく、20~30代前半などで若くして成功するのは危険かもしれません。成功で舞い上がって慢心を抱き、傲慢になって落とし穴にはまる。仏教の経典を見ると、真の智慧・慈悲がなく超能力などが身につくのは、魔の働きとも説かれています。
戦国の覇者も、人生前半はさまざまな苦労・忍耐をした家康でした。天才的な信長は破竹の勢いの途中で足下をすくわれ、秀吉は天下統一後の慢心で後が続かなかった。家康の耐えた労苦は、それに値する果報をもたらしたと思います。
その意味で、オウムを出自とする私とひかりの輪は、今も社会の厳しい目の下にあるとはいっても、それを愛の鞭と考えれば、継続的な自己研磨の原動力となると思います。おそらくは一生、気を緩められない境遇だとは思いますが、それも視点を変えれば、一生努力できるということであり、応援してくださる皆さんも少なくなく、人一倍幸福といえるかもしれません。
そして、前にも言及しましたが、大乗仏教の六波羅蜜の忍辱(忍耐)の修行実践の第二として、誹謗・中傷に耐える教えがあります。実際に、称賛・名誉ばかりで、批判されない人が、真の強い精神、智慧、慈悲といったものが培えるかと説いているのです。
さらに、大きな達成を得ようとすれば、長期的な継続的な努力・労苦に耐える必要があります。逆に言えば、労苦をともなうことこそ、本当の価値があるということ。一攫(いっかく)千金というのは、たいていが、邪道・魔の道です。最近は、入ればたちまち救われるとする宗教だけでなく、「短期間であなたは変われる」と宣伝するセミナーもあるようですが、心配しています。
よって、大乗仏教の忍辱(忍耐)の修行の第三として、仏陀の教え(ダルマの真理)を理解する上での困難に耐えることが説かれています。イエスの有名な言葉で言えば、「狭き門から入れ」、「滅びに至る道は広い」ということですね。「急がば回れ」、「ローマは一日にして成らず」で、焦らずコツコツ努力しましょう。
しかし、苦労しているときは、苦労の価値はなかなかわからないものです。それを成し遂げた後に、落ち着いた視点で振り返ってみたり、苦労しなかった=苦労できなかった人の不幸などを見たりして、ようやく気づくというパターンが多いのが普通だと思います。
このあたりが、人の本質的な問題で、目先の幸福にとらわれやすく、長期的な幸福のために努力する価値は見失いやすい。これを仏教では無智といいますが、幸福への最大の障害だと思います。よって、教えをなるべく学び、先輩の経験を分かち合うことが非常に重要ですね。
善行・利他をなすのは、労苦であるが、本当の幸福をもたらします。悪行・利己的な行為は、目先は楽であっても、後には不幸をもたらします。これは仏教の説く因と果の法則、因果の法則いわゆるカルマの法則です。この基本的・根本的・普遍的な道理を深く理解できれば、すでに高い悟りを得たといえるほどに、重要な教えだと思います。
2 苦楽表裏の教え--苦しみの裏側に喜びがあるという教え
さて、苦しみにも楽にも片寄らないという中道の教えの背景にある考え方が、苦楽表裏、すなわち、楽の裏に苦しみがあり、苦しみの裏に楽があるという教えだと思います。ここで、この教えを詳しく検討しながら、中道の教えの理解を深めてみましょう。
(1)楽の裏に苦しみがある--とらわれや自我執着による苦しみの増大
楽の裏に苦しみがあるという教えは、これまでの特別教本でも詳しく解説しました。これに関する代表的な仏教の教えが、「十二縁起」の教えと「四苦八苦」の教えと呼ばれるものです。それは、快楽に執着・とらわれを持つ人間が、この世に生まれて、老・病・死を含めた、さまざまな苦しみを経験することを説いています。
具体的には、十二縁起は、人間が苦しみを経験するプロセスを分析したものです。また四苦八苦の教えは、そうして人間がこの世で経験する苦しみを八つほどに分類して説いたものです。なお、この文脈では、四苦八苦という言葉は仏教の専門用語であって、大変苦しい状態を意味する日常用語としての四苦八苦とは意味が違っていますのでご注意下さい。
この四苦八苦の教えの中で、楽の裏側に苦しみがあるという今回のテーマに最も関係する教えとは、生・老・病・死以外の四つの苦とされるものです。
それは、
①求めても得られない苦(求(ぐ)不得(ふとっ)苦(く))、
②愛している者など、とらわれの対象と別れる、失う苦しみ(愛別離苦)、
③嫌いなものと会う苦しみ(怨憎(おんぞう)会苦(えく))、
④(五蘊(ごうん)が構成する)自我に執着することによる苦しみ(五蘊盛(じょう)苦(く)または五取蘊苦)
などです。
なお、「五蘊」とは、人の肉体や精神的な要素を五つに分類したものですが、詳しくは他の特別教本や、ひかりの輪で編纂した仏教やヨーガの用語の一般的解説である『基本用語の解説』などをご参照下さい。
そして、この四つの苦しみをわかりやすく言い換えると、
①快楽の貪りは、際限なく続き、とらわれれば、求めても得られない苦しみが生じる、
②得た快楽にはとらわれが生じるので、それを失うときに苦しみが生じる、
③快楽へのとらわれや奪い合いによって、敵対者などの嫌悪の対象に出会う苦しみが
生じる、
④快楽にとらわれた結果として生じる自我に対する執着が、さまざまな苦しみをもた
らす、
と表現できると思います。
こうして、快楽を貪っても、決して満ち足りることがないのに、欲求は際限がなく続き、得られないときの苦しみや、とらわれた対象を失う苦しみ、快楽を貪りとらわれて奪い合うがゆえに、さまざまな敵・嫌悪の対象を作る苦しみが生じるわけです。また、快楽を貪りとらわれる中で、すべての存在を愛するのではなく、自分だけを偏愛する意識(自我執着)が生じ、これによってさまざまな苦しみが生じます。
(2)苦の裏に喜びがある--とらわれの減少と智慧・慈悲の増大による幸福
では、逆に、苦しみの裏には、どんな喜びがあるについて述べたいと思います。
第一に、苦しみは、その状態に慣れれば、苦しみではなくなっていきます。これは、快楽への貪りを満たすと、それにとらわれてもっと欲しくなるのと対照的な現象です。これは、とらわれが減少して、それ以前より広い条件で幸福でいられるということになります。これも、貪りを満たしてとらわれ、それなしではいられなくなるのと対照的な現象です。
紆余曲折のある人生を長い目で見れば、今の苦しみに耐え、とらわれが減るならば、その後の人生で、再び落ち込みがあっても、安定していることができます。とらわれが少なくなるとは、苦しみに強くなることです。
この忍耐力は大きな宝だと思います。最近は、少子化・過保護・ゆとり教育など、若いときの苦労・鍛錬の不足から、わがままで忍耐力が乏しく甘えが強い、いわゆる自己愛型人格の人が増えていると心配されています。労働、夫婦関係、育児等は、忍耐力が必要です。それらの維持に多大な困難を感じる人が増えているようです。
なお、釈迦牟尼の教えは、中道といって、バランスを重視し、無理な苦行は否定します。無理せず怠けず、焦らず弛まず、コツコツ努力することです。苦しみの経験が宝であるといっても、無理し過ぎは、怠けることと同じようによくありません。そして、何が無理で何が怠惰かは、当然のこととして、その人の条件に合わせてケースバイケースとなります。
長年苦しみから逃げて心身がたるんでいる場合は、急に頑張ると無理が来て、息切れしたり、反動が来たりする場合もあります。その場合は、焦らずに、急がば回れの精神で、こつこつと改善するのが、空回りしない秘訣だと思います。ただし、無理しないということを口実に、怠惰を続けてはいけません。
これを考えると、早いうちから、無理せず怠けず、コツコツと忍耐力を培うことが重要です。大乗仏教の六波羅蜜の教えでは、今日できることを明日に回さないで精進すべきであると説いています。「思い立ったら吉日」、「鉄は熱いうちに打て」というように、今日からコツコツ努力しましょう。
第二に、苦しみは、それから逃げ出さずに努力する限りは、智慧を磨く機会となると思います。これは仏教的に言えば、苦しみは悪業の清算であり、悪業は無智の原因であるため、苦しみに耐えて努力する中で、無智が晴れていく状態です。
例えば、失敗を成功に、欠点を長所に、不遇を財産に変えていく智慧があります。格言でいえば、「ピンチの裏にチャンスあり」、「短所の裏に長所あり」、「失敗は成功の元」、「万事塞翁が馬(さいおうがうま)」といった諸々の経験則です。
例えば、昭和の希代の実業家である松下幸之助氏は、学歴がなかったから他人から謙虚に学べ、体が悪かったから他人に頼む術を覚え、お金がなかったから丁稚(でっち)奉公(ぼうこう)に行って若くして商人の機微を覚えたと語っています。彼は長寿でしたが、体が悪かったから、健康に気をつけたのでしょう。
松下氏のやり方は、自分が劣っているという短所を、優れた他人を活かすという長所に変えています。自分が学歴・健康・お金がないから、他人の学歴・健康・お金を活かす。自分が優れている人は、これがなかなかできません。自分が劣っていた彼だからこそ、他人を活かす方向性を見いだしました。
これは学校の成績に関係する知性とは必ずしも同じではなく、しなやかで粘り強い知的・精神的な能力で、智慧と呼びたいと思います。そして、例えば、挫折・困難に強い人は、これが上手だと思います。言い換えれば、挫折・困難を経験しないと、こういった智慧は培えないのです。
よって、これも、苦しみの経験の裏にある喜びであると思います。とはいえ、単に苦しみを経験しても、あきらめずにコツコツ努力し続けない人は、この智慧というものを磨けません。あくまでもあきらめず努力する人が、苦しみを通して得るものが智慧だと思います。そして、この智慧は、次に述べる慈悲に関係します。
第三に、苦しみは、他の苦しみを理解する力、優しさ、いたわり、慈悲の源になります。自分で苦しみを経験しない人は、実体験がありませんから、その分、他の苦しみを理解することは難しいと思います。自分が苦しみを経験することで、同じ苦しみを持つ他人をよりよく理解し、慈悲を持って手助けする心の働きが強くなります。
そして、他の苦しみを理解する慈悲の心が生じると、この世界では、自分の幸福の裏には他人の不幸があることを深く理解するようになり、それが、さらに、足るを知る精神、忍耐力を深めることになります。世俗的な幸福は、多かれ少なかれ奪い合いの様相があります。
お金も、異性も、名誉も、自分が他に勝って、それらを得る喜びの裏には、負けた他が、それらを失う苦しみがあります。逆に、自分が負ける苦しみの裏には、他人が得る喜びがあります。これは誰しも頭のどこかではわかってはいても、自分が調子が良くて勝ち組であるときは、気にせず見ないものです。自分が苦しみを経験して初めて、これを深く認識するようになることが多いと思います。
そして、その慈悲の心からは、松下氏のように、他に勝ってではなく、他を活かして自分が幸福になるという発想も生まれてくることになります。自分の幸福の裏に他人の不幸があるということは、逆に、自分の不幸の裏には、他の幸福があるということですから、自分が劣っていることを逆に活用して、優れた他人を活かして幸福になる発想、そういった道があることも気づくわけです。
(3)慈悲の化身・観音菩薩の誕生の説話--苦しみこそが慈悲の源
さて苦しみの裏側に喜びがあるとしました。苦しみの経験を活かして得ることができる最高の宝は、慈悲の心だと思います。そして、その慈悲の心から生まれた、慈悲の化身といわれているのが、観音菩薩です。そして、観音菩薩の誕生のエピソードは、まさに観音菩薩が自己の苦しみの経験を活かして慈悲を培ったことを示していますので、ご紹介しましょう。
観音菩薩と勢至菩薩は、その前生で、早離(そうり)と即離(そくり)という名前の幼い兄弟でした。その生で、二人は若くして父母を亡くしました。二人が悲しんでいると、人さらいがやってきて、「親に会わせてやる」と騙し、小さな無人島に連れていきました。そこで二人は、労働に酷使されて、疲れと飢えのために命を落とすことになりました。
その際、弟の即離は、自分たちの薄命を嘆きましたが、兄の早離は、弟をなだめながら、「私も初めはそう思ったが、どうにもならない。でも、この世で親に死に別れて、人に欺かれる悲しさと、飢えと疲れの苦しさを知った。だから、今度この世に生まれてきたら、この苦しみの体験を縁として、同じ悲しみに泣く人たちを救ってゆこう。他を慰めることが、自分が慰められる道理であることを学んだではないか」と、諭しました。
これを聞いた弟の即離は、初めて心が晴れて、兄弟してこの誓いを胸にして、息を引き取りました。その時、二人の顔には、静かで明るい微笑みが浮かんでいたといいます。この兄の早離が観音菩薩で、弟の即離が勢至菩薩だと南伝大蔵経の『華厳経』は伝えています。
このように、他の苦しみを取り除くことが、自分の苦しみを取り除くことになると仏典は説いています。それがゆえに、苦しみは慈悲の源なのです。この道理を理解する智慧と、それに基づく慈悲が、観音菩薩であり、勢至菩薩の心であるとこの説話は伝えているのでしょう。
(4)慈悲の心の素晴らしさ
仏教では、慈悲の心は、仏の心の働きそのものであり、人にとって一番大切なものだとしています。慈悲の心による幸福とは何でしょうか。
第一に、他の幸福を喜び、苦しみを悲しむ慈悲の心は、その人の心を温かく、明るく、軽く、広くします。逆に、自己中心で他を害する人の心は、冷たく、暗く、重たく、狭くなります。そして、自己中心の人は、自分も他に害されるのではないかという不安に苦しみますが、慈悲の心のある人は、心が安らぎ、解放されています。
第二に、単に温かく広いだけでなく、智慧に富み、とらわれが少なく、苦しみに強い心を作ります。日頃から多くの他人の苦しみを考えて取り除こうとしますから、智慧が深まります。足るを知って他から奪いすぎずに生きようとしますから、とらわれが減り、苦しみに強くなります。逆に、自己中心の人は、他人の苦しみを考えないため、それによって逆に、自分の苦しみに弱くなります。
今の日本は、前よりも豊かさが減ったためか、将来への経済的な不安が増大しています。しかし、世界・地球全体から見ると、やはり、特別に豊かで恵まれた国であって、ほとんどの人は、飢え死ぬわけではありません。また、最近は、勝ち組・負け組といって、自分を負け組と考えて、ひどく落ち込む人も多いですが、日本人を含めた先進国の人々は、世界の中で富を独占する存在で、しかも、日本は長寿で安全な国だから、客観的に見て、勝ち組であることは間違いありません。
その日本人が抱える将来の不安とは、本質的に何を意味しているのでしょうか。客観的には、贅沢や勝利に慣れすぎてしまった心の問題の側面がないでしょうか。だとすれば、その程度の不安があったとしても、それは本当に悪いことか、それとも、慈悲の心を培う良い機会・試練ではないかということは、よく考えてみる必要があると思います。
仮に、もし全く不安のない人生だったら、どんな人間になるのでしょう。例えば、他の苦しみを理解できるようになるでしょうか。マリー・アントワネットの話を思い出します。途上国の人たちから見ると、日本人は皆がマリー・アントワネットのように、王侯貴族に見えるそうです。気をつけたいものです。
第三に、慈悲の心は、精神面だけでなく、人間関係や物質面においても、さまざまな幸福をもたらします。利他の精神に満ちた慈悲の心の強い人が、多くの人に愛されるのは当然のことでしょう。その結果として、物質面でも、生きていくに必要なものは与えられることになります。
これは、他を愛して与えるから、他に愛され与えられるということですが、さらに言えば、「類は友を呼ぶ」というように、自分と同じように慈悲=分かち合いの心の強い人との縁ができるのだと思います。これが宇宙の道理、大自然の摂理だと思います。
(5)二つのタイプの幸福--他に勝利する幸福と慈悲による幸福
これまで、喜びと苦しみは表裏であると述べてきました。これを言い換えると、二つのタイプの幸福の道があるということになります。
一つは、他に対して優位に立って、他に勝って、優れて、得る幸福です。お金持ちも、名誉や地位も、他との競争であり、皆が得ることはできません。言い換えると、他を苦しめてでも、自分が幸福になろうとする側面があります。もう一つは、他を愛すること、他の幸福を喜び、他の苦しみを取り除くことによって、得る幸福です。慈悲の心による幸福です。
そして、すぐにわかると思いますが、前者にとって喜びであることは、後者にとっては苦しみになる恐れがあり、前者にとって苦しみであることは、後者にとって喜びに転換できるものです。こうして、喜びの裏に苦しみが、苦しみの裏に喜びがあるということになります。
そして、この社会で普通に生きていると、生まれた時から、学校、そして、社会に出ても、常に、前者の幸福に駆り立てられると思います。しかし、仏教を学んでよくよく考えてみると、前者の幸福の道は、端的に言えば、年を取れば取るほど少なくなってしまう「尻すぼみの幸福」であるように思います。若いときは、健康で、美しく、体力もあり、頭も回りますが、老いていくと、病み、醜くなり、体力も衰え、頭も衰える。これが釈迦牟尼が修行に入った動機ともいわれます。
一方、後者の道は、心の訓練によって、年を重ねるほど、増大していく(成熟していく)ため、「尻上がりの幸福」だと思います。もちろん、真剣な努力を重ねた場合ですが。こうして、人生後半に強いのは後者の幸福だと思うのです。
もちろん、最近は、若いときから、負け組として苦しむ人が多くなっています。そもそも、勝ち組・負け組と分けると、勝ち組は1・2割、負け組が8・9割かもしれません。自分がエリートであるという意識の人の割合はもっと少ないかもしれませんね。当の私は、最初は、学歴などでは、エリートだったようなのですが、その後の宗教的な盲信のために、負け組となって久しいようですが(笑)、いまはそれを活かして智慧と慈悲を培う原動力にしています。
そして、日本という国自体が、国としては、少子高齢化が進み、先進国の運命ともいえる老大国化しつつあるといえるでしょう。20世紀は、人口が増え続け、まずは軍事大国として、次に経済大国として、世界の中での競争に勝ってきました。
しかし、今後は、中国・インドなど、急激な成長をしている他国が台頭する中で、単純に、今までのようにアジアの中で経済の一人勝ちをするのは難しそうです。今後は、考え方を間違えると、負け組の意識が強まるかもしれません。国全体がそんな雰囲気の中ですから、その中の人々は、以前にも増して、負け組の意識の強い人が増える心配があります。
実際に、鬱を病む人が、通院・投薬を受けている人だけで百万を超えたという統計が発表されています。自殺者も3万人レベルで高止まりしています。これまでのイラク戦争の米国軍の戦死者や、年間の交通事故死亡者の総数よりも多く、交通戦争ならぬ、自殺戦争ともいうべき深刻な状態があります。
これらの問題を和らげるには、競争に勝つこと以外の幸福があることを理解し、心の持ち方を変えることが必要です。そのために、私は、ひかりの輪を通して、新しい幸福への道をお伝えする努力をしています。
(6)健全な資本主義社会の維持のためにも
そして、この二つの幸福の考え方は、両者を組み合わせることができます。勝利による幸福という考え方だけだと、それが果たせず挫折を経験すると、人生に絶望しかねません。そのときに、慈悲による幸福を知っていれば、その苦しみを喜びに転換することができ、大きな救い・助けとなります。
実際、競争に勝つためには、挫折に強い、粘り強い安定した精神が必要です。そのためにも、一つだけより、二つの幸福の道を知っている方が有利であることは間違いありません。その分だけ、苦しみを和らげ、幸福を感じる選択肢が多くなるからです。
私は、勝者と敗者をともなう競争をすべて否定しているのではありません。それが、他を苦しめて自分だけが幸福になる形のものではなくて、お互いを尊重して、切磋琢磨する形のものであれば、自と他双方を幸福にするものとして、形を変えた慈悲の実践と考えることができると思います。
競争原理に基づく資本主義社会も、本来の目的は、健全・活発な競争によって、社会全体の富・幸福・技術が向上することです。しかし、それは健全・活発な競争が続くことが前提となっています。
ところが、その中で、現在のように、心身を壊してしまい、競争できなくなる人が増えるならば、その人たちが不幸になるだけでなく、競争の参加者が減って、活発な競争は維持できません。よって、政府は、失業した人のケアや、一度倒産・破産してもやり直せる経済の仕組みを作る努力をしています。
しかし、そういった物質面での努力に加えて、精神面でのフォローが必要だと思います。なぜならば、幸福・不幸、希望・絶望は、心が感じるものだからです。よって、現在の社会を支えるためにも、単なる競争に基づく価値ではなく、慈悲に基づく新しい幸福の価値観が必要だと思います。
3 日常のさまざまな苦の裏にある幸福を見つける
ここでは、日常のさまざまな苦の裏にある幸福を見つける考え方について述べたいと思います。
(1)経済の不安--質素倹約・精神的な幸福の気づき・慈悲の芽生え
今日本は不況で、自分の将来の経済に不安を感じる人が多くいます。しかし、絶対的な貧困や飢餓にあえぐ途上国の人達の貧困や飢餓から見ると、日本の人は皆、王侯貴族に見えるといいます。確かに、経済に不安を感じるといっても、それは、途上国のように、生きてはいけない絶対的な貧困や飢餓ではありません。
日本には生活保護を含めた社会福祉制度があり、(行政・法律は完全ではありませんから例外はあるでしょうが)おおむねそのような事態を防いでいます。よって、経済の不安とは、生きていくためのお金が全く不足しているという事実ではなく、前ほどはお金がない、将来に備えて十分なお金があるとかどうかわからないといった、多分に精神的な苦しみであることがわかります。よって、経済の不安の裏側にある喜び・幸福について考えてみましょう。
第一に、お金が減ったことを前向きに考えると、贅沢・無駄遣いを見直す機会となり、より少ないお金でやっていく方法や別の形でお金を稼ぐ方法を求めて、智慧を絞って工夫する機会となります。これは欲望を減らし、忍耐力を強め、智慧を深めることにつながります。
そして、景気の浮き沈みは常にあり、質素倹約の力を身につけられれば、今後とも安定した経済生活が営めることになります。これは、仏教の教義で言えば、苦しみに慣れて、悪業が清算され、とらわれが減って、無智が減って智慧が増大し、より広い条件で幸福になるという教えです。
第二に、この経済不安の経験を活かせば、慈悲の心を培うことができます。今まで理解しようとしたことがなかった、同じように経済に苦しむ多くの人たちの気持ちを理解し、慈悲を培うことができます。世界中に、私たちよりもはるかに貧しい人がいますし、日本の中にも大勢いるでしょう。人はやはり自分で不安・苦しみを経験しないと、他の苦しみを実感することは難しいものです。これは、仏教の教えにおいて、苦しみが慈悲を培う手助けになるというものです。
そして、それは、現象をありのままに見る智慧にも結びつくと思います。すなわち、豊かさとか貧しさといったことを含め、人の感じる幸福・不幸は、比較によって生じる実体のないものだということです。自分と自分に近い人の比較、今の自分と前の自分の比較で幸福・不幸を感じるのであって、比較対象が変わると、不幸が幸福に、幸福が不幸に入れ替わってしまいます。外にあるお金や名誉が幸福・不幸を作るのではなく、心の中の比較が作ります。仏教の思想では、智慧と慈悲は一体であり、最も重要な修行の目的とされています。
さらに突き詰めていくと、懺悔(ざんげ)・反省の心、謙虚な心を培うことができます。自分たちのこれまでの豊かさが、世界中の貧困の犠牲の上に立っている事実にも目覚めます。日本などの先進国が経済力で世界の富を独占しています。世界には全人類に十分な食べ物があるといわれますが、その配分が偏っているために、飽食の先進国と飢餓の途上国があります。日本などの先進国が、食糧などの物資を国際市場で買い付ける行為は、その分だけその市場価格を上昇させ、貧しい国は十分に買うことができません。これは、仏教の思想において、自分の(煩悩的な)喜びの裏には、他人の苦しみがあると説かれているものです。
このようなことを考えているうちに、経済的な貪りが静まり、自分が経験している多少の経済の不安は苦しみとは感じなくなるでしょう。そして、私たちが経済の不安を感じているのは、常日頃私たちが自分たちのことばかりを考えて、もっともっと欲しいという欲求が強い社会の中にいるためであることがわかります。これは釈迦牟尼が説いた、自己の苦しみが自己の中の原因でもたらされるという自業自得の思想でもあります。
このように考えてみれば、私たちが経験している経済の不安は、私たちが知らず知らずのうちに陥っている、自分中心の考え方・貪りに気づいて目を覚まし、慈悲を培う貴重な機会になると思います。
第三に、自分のお金が減ったときは、逆に、お金以外のもの、お金以上に大切なものに気づく機会でもあります。
例えば、お金が儲かっているときは、もっともっとお金を求め、お金に執着するために、お金以外のもの、お金以上に素晴らしいものに気づかないことも多いと思います。例えば、上記の智慧や慈悲も、その一部であるということができます。
それに加えて、自分のお金や所有物ではなくて、例えば、毎日私たちの目の前で展開する大自然・大宇宙の営みといった、皆が共有するものの豊かさ・素晴らしさに気づく機会だと思います。自分と他人を区別し、自分を偏愛する自我執着の心は、すべて苦しみの原因ですが、自分のお金が減ったことを機会に、そのとらわれを弱めるならば、皆が共有するものの素晴らしさを楽しむことができるのです。
また、「時は金なり」といいますが、給料とともに仕事が減るならば、今まで仕事でできなかった他のことができます。それを有意義なことに使えば、仕事では培えない豊かな人格を形成する機会となります。最近不況で仕事が減って、男性の家庭サービスが増えているという興味深い報道がありましたが、これは愛の増大といえるかもしれません。
こうして、経済の不安の裏側にはさまざまな幸福があります。そして、大乗仏教における重要な修行実践の思想である六波羅蜜(六つの完成)の中には、物質的な困窮に耐えるという教えがあります。これは、それによって、自己や自己の所有物に対するとらわれが和らぎ、智慧や慈悲が高まっていくという意味があります。
最後に、こうして経済の不安を逆に喜びとして前向きに生きていくならば、逆に経済的に恵まれるという教えがあります。いわゆる、「笑う門には福来たる」という経験則です。
これは神秘的な話のようですが、合理的な話でもあります。落ち着いて考えれば、経済の不安に悩み、深刻な雰囲気の人と比較すれば、不安を逆活用して喜びにしている明るい人の方が、他人に好かれるのは間違いありません。よって、良い仕事、良い顧客、良い取引先が得られるでしょう。
また、「類は友を呼ぶ」ということを考えると、経済の不安に深く悩んで、必要以上にお金にガツガツしている人は、似た人と縁ができて、そういった人たちの輪の中では、お互いに与え合うことがあまりありません。逆に、あまり悩まず、ガツガツしていない人は、お互いに与え合うから、お互いに豊かになります。
これは、国の経済が、皆が寛大にお金を使ってお金の流通が増えると全体に活性化して、逆になって、流通が減ると全体に停滞するのと似ています。私の経験でも、お金の心配をあまりしない人の方が、お金の入りがよいのです。
この「類は友を呼ぶ」というのは、縁というものを重視する仏教思想に通じます。ここでの縁とは、共通の業・精神的な傾向といったほどの意味で、これがあると結びつくのです。また、自分がなしたことが、他から返ってくると説く因果の法則にも通じます。
そして、こうして仏教の思想を学び、実践をしていると、生きていくに必要なものは不思議と与えられるとか、回ってくるとかいう体験をするようになるのではないかと思います。私自身、団体を創設して以来、こうした体験を何度もしており、そのため社会的な苦境にあっても、今まで続いています。そして、昔の人たちが、こうした体験によって、法則(仏教ではダルマ)とか神仏の与える守護などとして解釈したものなのかもしれません。
(2)批判・中傷--学びの場としての人間関係を
批判を受けるというのは、誰にとっても辛いものですが、万事、苦しみの裏に喜びありとの視点から、批判を受ける裏側にある利益を考えてみましょう。
まず、第一に、正しい批判は、謙虚に受け止めれば、自己の成長の大きな助けとなることはいうまでもないと思います。しかし、これを素直に実践するためには、今の自分を評価してほしいという欲求を超えて、常に自分を向上させようという欲求が必要だと思います。
客観的にはまだまだ未熟な自分であるのに、自分でも気づかないうちに、楽して早く幸福になりたいという怠惰・甘えに支配されると、現状の自分は問題がないという錯覚が強くなります。すると、謙虚に学ぶ意欲が弱り、批判を活かすことができなくなります。これには絶えず注意しておかなければなりません。
こうして、厳密に言えば、批判自体が苦しみをもたらすのではありません。それを受ける側が、成長欲求を持っていれば、批判とは、助力と感じられます。自己保全欲求を持っていれば、自分の幸福を邪魔するものと感じられるということだと思います。
よって、毎日の人間関係の意味合いとして、自分への評価を求める場ではなくて、自己を成長させるための学び・自己研磨の場と考えるとよいと思います。こうして、感謝すべき学びの場と位置づければ、批判に対して過敏になることがなくなり、だいぶ楽になる人も多いのではないでしょうか。
なお、この学びの場という考え方は、日常の人間関係全体を有意義なものにするために、非常に重要な教えです。単に批判に対してだけでなく、良いことをしている人、悪いことをしている人を見ては、自分の教師・見本、反面教師として学びの対象とするのです。すると、すべての人々が導き手のように感じられるようになります。
第二に、間違った批判についてですが、これは冷静に対処すれば、逆に自分の名誉・評価を高める機会になることが多いと思います。特に、理不尽で感情的な批判を受ける場合は、第三者が見れば、批判されている方に同情心が生じるのが普通でしょう。そういった批判にも冷静・誠実に対応するならば、逆に尊敬されることが多いと思います。
また、そういった理不尽な批判は、現代社会の人々の苦しみを洞察する良い機会となります。そういった批判は、実際には、自分の中の苦しみのため、他人に噛みつき、注目を集めようとする(愛してもらおうとする)場合が多いと思います。いわゆる屈折した愛情欲求です。
最近はこれが相当に多くなったと思うのですが、そうした人への洞察力を高めるならば、批判に対して心が動じず強くなるし、そうして隠していた苦しみを理解し、受け止めることができると、相手が敵から味方になる場合が少なくありません。これは、深い意味での智慧と慈悲だと思います。
最後に、そういった間違った批判について、自分の反面教師と見て、自分を振り返り、自分も過去においてそうしたことや、時と場合によってはそうする可能性があることに気づいて、自戒を深めると、よりいっそう心が成熟すると思います。
こうして、批判を受けることは、心も持ち方、視点を変えると、自分を成長させ、他の苦しみを理解し、評価を高め、味方を増やす機会となり得るものです。そのため、先ほども述べた大乗仏教の六波羅蜜(六つの完成)の教えには、物質的な困窮に耐えることに加えて、批判に耐えることという修行実践があります。
また、この意味で、釈迦牟尼が説く「敵こそ教師である」という教えや、イエスの言葉である「汝の敵を愛せ」というのは、まさに人としての智慧と愛の結晶だと思います。実際、イエスや釈迦牟尼は、敵を愛し、敵を味方にしてきた人でした。
例えば、キリスト教の教義体系は、イエスというよりも、弟子のパウロらが確立したといわれていますが、パウロは、イエスに関する宗教体験をして改心するまでは、イエスの信者を弾圧していました。すなわち、キリスト教は、以前は敵対者だった者が確立した宗教という一面があります。「汝の敵を愛せ」という言葉がそのまま、キリスト教の誕生をもたらしたということになります。
また、イエスはユダの裏切りをきっかけに刑死しましたが、それがキリストとしての奇跡の復活につながりました。こうして、敵が味方になったという話や、裏切りによる死が復活の奇跡につながったという話は興味深いものです。人が最も忌み嫌う、敵、裏切り、死といった苦しみが、世界最大宗教となったキリスト教の中核を作ったわけです。
仏教でも、同じような話があります。まず、釈迦牟尼如来のひとり前の如来をカッサパ仏といいますが、その時代において、釈迦牟尼自身が、一度は如来を誹謗中傷したともいわれています(この生の釈迦牟尼はまだ悟って仏陀とはなっていませんでした)。
そして、釈迦牟尼が仏となった後には、釈迦牟尼を殺そうとした大悪人が、改心して、釈迦牟尼の高弟となります。さらに、釈迦牟尼教団を一時的に分裂させた弟子は、いったん地獄に堕ちましたが、そこで改心して、仏教を守る神(護法神)として生まれ変わったという説話があります。
さて、これは私の仮説ですが、パウロが初期にイエスに帰依できなかったことは、彼が世界宗教として発展するようなキリスト教の教義体系を確立する際に役立ったのかもしれないと思いました。人は、自分自身がなかなか帰依できないという経験があれば、同じように帰依できない人の気持ちを理解でき、なるべく多くの人が帰依・実践できるように、教義などを工夫すると思うからです。
また、これと少し似た話として、釈迦牟尼に遅れること56億7千万年後にようやく悟るとされている弥勒菩薩が、逆に釈迦牟尼よりはるかに多い人々を悟りに導くとされています。これは、煩悩が多く早く悟ることはできない者が苦闘の末に悟ったならば、煩悩が少なく早く悟る者に比べて、自分と同じように煩悩が多く苦闘する者を救う力は強く、いっそう多くの者を救うことができるからとも考えることができます。
こうして、誰かが、最初は間違っていたり、劣っていたりしても、それは、落ち込みが深い分だけ、はい上がる高さも高いということであって、その人が反省をなし成長することができたならば、最初から正しく優れていた人よりも、大きな達成を得る一面もあるのではないでしょうか。
これに関連して、仏教の思想には、大煩悩大解脱とか、「大悪人が大善人になるという教えがあります。これは、煩悩が強い者はエネルギーが強い者であって、そのために、解脱を果たしたならば、エネルギーが強い分だけ大きな解脱を果たし、大きな善行をなすというものです。
なお、誤解のないように補足しますが、これらの仏教の思想は、悪をなすほど成長できるとか、悪人ほど将来性がある、ということでは決してありません。人は、無知であるために、意図せずして悪をなすことが多く、そうした場合でも、深く改心することで、善に向かう可能性があること、そして、欠点と長所は裏表の面があって、過去の欠点が、未来の長所に転換していく可能性があるということを伝えています。
そして、これから出てくる教えは、すべてを平等に尊重すべきである、というものでしょう。これを仏教的にいえば、万物が平等な仏性の現れ(平等に未来に仏陀になる可能性を有する)という教えがあります。
この教えは、私が解釈するに、人と人の違いは、仏の視点から見ると、優劣ではなく、個性であって、役割の違いであり、お互いがお互いを助け合っているという思想です。早く悟った釈迦牟尼が、先駆者として仏の教えを広め、後に悟る弥勒菩薩が、実際に人類全体を救済して、釈迦牟尼を助け補います。
これは、母が子供を育てるときの心境に似ています。幼少の時の子供は、母親に24時間苦役を強い、客観的には、母親に最大の敵の一面を呈しますが、その将来の成長を信じる母親は、子供に最大限の尊重と愛を持って、育みます。そして、成長した子供は、今度は年老いる母親を助けます。
よって、仏をすべての生命の母と見立てて、慈母観音菩薩といったり、観音菩薩の化身のグリーンターラーを仏母と位置づけることがあったり、この宇宙をすべての生き物をはぐくむ仏の母胎とする「胎蔵界曼荼羅」という教えが、仏教思想にはあります。キリスト教で言えば、聖母マリアが宇宙の母のイメージでしょうか。
こうして、宇宙の母のような気持ちで、すべての生き物について、一時的な敵味方の関係や、善悪・優劣の区別に惑わされずに、真実は皆がお互いが助け合う関係にある未来の仏であると考えて、愛しはぐくむのが、仏陀の智慧と慈悲です。よって、イエスが、「汝の敵を愛せ」と説き、仏教は「敵こそは教師である」と説きます。
一方、今現在は、宗教が、敵と戦争をもたらす一面が目立っています。しかし、本来は、宗教には、敵を味方に変え、平和をもたらす思想があります。21世紀の思想の創造を目指すひかりの輪では、この平和をもたらす宗教の力を再生できればと考えています。
また、麻原信仰を脱却し、アレフ(旧オウム)を脱会・独立したひかりの輪は、今現在は、麻原信仰を深めるアレフと対立関係にあります。しかし、もし、アレフの人たちが成長し改心して、その苦闘の末に、麻原信仰を脱却することができたならば、苦闘が長く深い分だけ、より多くの人に、慈悲深くなる可能性もあると思います。
また、団体を監視する公安当局も、私たちの脱却・脱皮・進化を促す愛の鞭とも考えられます。そもそもは、ひかりの輪も、アレフも、公安当局も同じ日本人であって、一つの日本しかありませんから、「汝の敵を愛せ」、「敵こそ教師である」という教えは素晴らしいと思います。
(3)挫折・失敗--失敗は成功の元と考え、目標を達成する強さを得る
挫折・失敗も辛いものですが、「失敗は成功の元」という言葉は真実だと思います。仏教の教義では、人は皆、善業だけでなく、なんらかの悪業を背負って生まれて育ち、それゆえに、物事を完全には正しく見ることができない無智の状態にあるとされます。
よって、真の幸福に至るためには、悪業の清算という苦しみに耐えて、悪業によって形成されている無智を減少させる必要があるとされています。そのため、大乗仏教の教えでは、苦しみに耐える忍耐の修行が課せられています。特に、法則を理解し、悟ることについての難しさに耐えろと教えられています。
そして、これは、悟りの達成に限らず、世俗の物事の達成についても当てはまります。物事の達成には、物事を正しく見る智慧が必要なことは言うまでもありませんが、人は、その悪業と無智によって、そうできない場合があります。その場合、失敗・挫折を経験します。
しかし、その失敗・挫折は、それでは成功しないということを知ったという意味では、成功に向けて一歩前進したことになります。それは、失敗の苦しみによって悪業が清算され、その分だけ無智の闇が晴れたということもできるのです。
実際に、「失敗は成功の元」という言葉の生みの親ともいわれる発明王エジソンは、電球の発明までに999回も失敗したといわれていますが、彼は、その999回について、失敗ではなく、「これでは成功しないと知った成功だった」とか、「成功へのステップだった」と語ったといわれています。
同じように、成功ばかりを欲求し失敗を恐れることは、正しい成功の道ではないことを端的に表現したのが、ホンダの創始者の本田宗一郎氏の言葉で、「多くの人が成功を夢見ている。私にとって成功とは、数多くの失敗と自己反省を繰り返した末に初めて手に入るものだ。」と語っています。
少し古いですが、私の好きな日本人としては、戦国の覇者の徳川家康も、人生前半は捕虜になっていたり、戦では戦うたびに負けを繰り返したりしました。しかし、その経験が、人生後半で活かされたといわれています。
最も敬愛された米国大統領エイブラハム・リンカーンは、初めて州議会に立候補して落選した後、それから合計8回の選挙に落選したとされます。大統領になった後の南北戦争などで発揮された忍耐強い性格は、こういった若いときの苦労から生まれたのではないかと思います。
自動車王であるヘンリー・フォードも、自動車会社が成功するまでに7度の失敗、5度の破産をしているし、ウォルト・ディズニーは、想像力に欠けるとされ、新聞社を解雇され、ディズニーランドを建てる前に何度も破産したといいます。
こうして、真の成功は、失敗したくないという自己保全があると、得られないことがわかります。無鉄砲ではいけませんが、よく考えたならば、実行に移すことです。その結果が失敗であっても、それは成功の元であり、何もしなければ、成功どころか、成功の元さえ得られません。よって、成功にとらわれすぎて、失敗を恐れれば、成功しないというのが法則です。
成功にとらわれすぎる背景心理には、失敗が悪いことだという固定観念、失敗による不名誉を嫌がる自己愛・自己保全、そして、失敗を経ずに早く成功したいという怠惰などがあるかもしれません。しかし、真の成功は、目先の楽である怠惰や名誉を超えて、長期的な視点に立った、継続的な忍耐・努力によって生まれるものだと思います。
成功にとらわれるもう一つパターンとして、最初成功したがために、その成功体験にとらわれてしまうことがあります。しかし、あらゆる物事は絶えず変化していますから、状況に応じた改善努力を怠るならば、最初の成功が逆に失敗の元となるといわれています。
こうして、継続的な努力をする限りは、失敗は成功の元になり、それがなければ、成功さえも失敗の元になるということができます。言い換えれば、努力をする人には、成功と成功の元があり、努力をしなければ、失敗と失敗の元があります。
最後に、ヒトラーに打ち勝った第二次世界大戦最大級の英雄・イギリス首相のウィンストン・チャーチルは、子供のころに、言語障害があって何年も苦労し、士官学校に入るのにも3度も落ちていますが、そのチャーチルの言葉として、「成功とは、意欲を失わずに失敗に次ぐ失敗を繰り返すことである。」というのがあるそうです。
これは、物事を達成する上では、一種の悟りの境地かと思います。成功を求めつつ、(目先の)成功にとらわれず、成功の元となる失敗を含めた多くの経験をひたすら積み重ねて、最終的に成功を達成するという心構えです。ある意味で、無心・無我の境地で、物事に望む悟りの境地に通じます。
私自身も、人生前半がああでしたから、これからの人生後半、失敗を成功の元にすべく、生きていきたいと思います。
4 今この瞬間を楽しむ生き方
よく、宗教的な真理の中に、すべてがありがたいとの境地があります。これは一つの悟りであるともいわれます。
そして、苦しみの裏側に喜びがあることを理解すると、その極致として、この心境が出てきます。それは、今この瞬間を楽しむ生き方だということができます。
しかし、普通の人は、たいてい、今現在の自分の境遇に関しては、なんらかの不満・苦しみを抱いています。そして、未来については、現状の不満が解消される期待と、その逆になる不安を抱いています。そして、過去に関して、不満のある今現在の自分を作った部分において、なんらかの後悔を抱くことが多いと思います。
それに対して、今現在の自分の境遇のすべてを受容・感謝すれば、今この瞬間を楽しんで生きることができるということになります。これは、道教などの東洋思想では、その時々に自分の境遇に合わせて生きる、無為自然の生き方とされるものです。
そのためには、①今得られていないものではなく、自分に得られている幸福をよく考えて、それに感謝する、②今の苦しみについても、この前お話ししたように、その裏にある利益を発見して、その苦しみは悪いことではなく、(今は少し辛くても長期的・総合的には)良いことだと考えて感謝することが必要です。これを言い換えれば、今得ていることにも、得ていないことにも、感謝することであり、現在の自分の条件のすべてに感謝という、全面肯定の生き方になります。
この心境が深まると、絶えず際限なく貪り求める心が静まって、心が落ち着いてきます。そして、前回お話ししたように、自分の苦しみの経験を他の苦しみを理解することにつなげていきますから、心が温かく広がった状態になっていきます。
静まった心と広がった心、寂静と慈悲、これが仏陀の心だと、私は解釈しています。そして、この静まった広がった心による幸福は、今この瞬間に存在し、今この瞬間瞬間を楽しむことができます。今この瞬間の自分と自分を取り巻く世界を楽しむことができます。
しかし、普通は、際限のない貪りにとらわれ、もっともっととばかり考えて、自分が得ている幸福や、それを支える人への感謝が乏しい。そして、得ていないことを苦しみ・悪いことだとばかり考えます。その心には、現在の不満と、未来への期待と不安が渦巻いています。今の自分や他人は嫌だ、未来はこうあってほしいけど、そうならないのは嫌だと。
これでは、今この瞬間瞬間を幸福に生きることなく、半分は、今はまだ存在しない未来における期待と不安に生きているようなものです。そして、そのままずっと行って、気づいたときには、一度も与えられているものに感謝して楽しむことなく、死を迎えてしまいます。
さて、ここで、皆さんからはこういった反論ができるかもしれません。今現在の自分に不満を抱き、未来がもっと良くなるようにと求めてこそ、人間は今より幸福になるのではないか。それが人間を進歩させてきたのではないか。それに対する私の答えは二つあります。
第一に、現在への不満が未来に向かっての改善努力に建設的に前向きに働いているのであればいいのですが、最近は、逆に改善努力ができなくなって、自己否定・卑屈・諦め・怠惰・鬱状態を招くケースが多いのです。この場合は、現状への感謝によって、気持ちを切り替え明るくし、心身のエネルギーを回復して、努力し続ける状態を得ることが有効です。
特に、挫折の時には、失ったものばかり見て悲嘆せず、「自分にはまだこれだけある」と考えて感謝したり、逆転の発想によって、挫折を成功の元ととらえなおし感謝したりする発想が非常に有効だと思います。挫折に強く、継続的な努力ができれば、長期的には必ず成功するものだと思います。
第二に、何かの目的を達成する場合にも、目的達成を焦ってばかりいるのではなく、足るを知る、一切に感謝する精神で、心が静まる方が、むしろ逆に、その目的としていたことを達成することができる、という逆説的な事実です。逆に言うと、欲しい欲しいと思って、どうしたらいいかと思い悩むばかりでは、空回りをしてしまい、上手くいかないということです。これについては、次項でお話しします。
さて、第一について、もう少し詳しく述べたいと思います。繰り返しになりますが、自分が前向きに生きるための手段として、現状への不満・自分への叱咤を使えているうちはよいのですが、心が現状への不満そのものとなってしまい、自己と周囲を否定するばかりとなれば、破壊的なものとなります。
例えば、大きな挫折をしたり、何か大切なものを失ったりしたときなどは、場合によっては、希望を失い、落ち込み、やる気がなくなり、身動きが取れない場合もあります。そういった状況では、視点を変えて、「依然として、広い目で見ると自分は恵まれているのではないか」、「まだこれだけ持っているではないか」という発想が有効です。
例えば、世界的な視点から見れば、長寿・安全・経済大国の日本人ですから、苦況・逆境でも、依然として、相当なものをいただいています。昨今は不況で、お金や仕事を失う人も多いでしょうが、依然として、自分を支えようとしている家族・友人・知人、五体満足な健康と残りの寿命が残っています。また、より大きな視点で見れば、途上国と違って、飢餓・民族紛争はなく、福祉・医療制度・治安が整った社会が自分の周りにはあります。
こうして、いまだあるもの、今でも与えられているものが相当にあることを考えたり、その裏側に、自分よりはるかに苦しんでいる人たちが無数にいることを考えたりして、自分がそれらの幸福を当然のものと考えて感謝が足りなかったことなどを反省するなどすると、自分の落ち込んだ気持ちを徐々に立て直すことができると思います。
すなわち、改善努力が重要だとしても、それを長期的に続けていくためには、現状に対する受容=感謝と改善努力の間でバランスを取ることが必要です。他人を育てる場合に、優しさと厳しさのバランスが重要であると同じように、自分が成長していく上でも、現状の受容(感謝)と改善の努力のバランスです。
例えば、いきなりすべて達成しようという焦りがあると、それができない不満によるストレスが強くなり過ぎ、一方、現状の受容だけだと、現状の改善は起こらない。現状に感謝しつつ、改善の努力をするといったバランスを取ることです。理想としては、時の流れに沿ってこつこつ前進することですが、これをもう少し高度にすると目的達成に無心の境地で向かうということになります。これについては次項でお話しします。
さて、こうして、今ある幸福を見いだし感謝した上で、挫折の苦しみの裏側の喜び・利益を見いだす逆転の発想を行います。これについては、別項で述べますので、ここでは省略します。
最後に、感謝のさまざまな効用をまとめておきたいと思います。まず、感謝は、智慧・謙虚さ・愛を強め、心を明るく温かく軽くします。
感謝の訓練をすると、自分の得ている幸福の大きさに気づきます。そして、さまざまな人々・万物が自分の幸福を支えてくれている事実に気づきます。自分の幸福のために、さまざまな存在が犠牲を払っていることに気づき、懺悔・反省の気持ちも出てきます。こうして謙虚さ・智慧が増大します。さらに、感謝の気持ちが強まると、多くの存在・万物への愛が増大し、恩返しとして、利他の実践を行なう土台を培うことができます。
感謝の心は、苦しみに強い心も作ります。上記のように、挫折・失敗・喪失の際にも、自分に与えられているものの大きさを理解して、前向きになる力です。また、感謝に基づき、万物への愛が増大し、自分よりもはるかに苦しんでいる人への慈悲が強まると、これも苦しみに強い心の状態を作ります。他者の苦しみに比べて、自分の苦しみが小さく感じられるからです。
そして、心の利益に限らず、感謝は、一部の医療関係者が主張するように、がんや免疫力の低下の原因であるストレスを和らげる可能性があります。これによって、身体・健康維持にも利益があります。さらに、不満が少なく感謝の心が大きい人は、自ずと、人にも好かれ愛されますから、良縁に恵まれ、物質的にも恵まれることになります。こうして、感謝は、心、体、物質のすべての面での恩恵があると思います。
5 目標達成のための最高の境地--無心の境地
皆さんは、人生において何か目的・目標をお持ちでしょう。それが何であれ、私の考えでは、それを達成する上で、最善の心の持ち方・精神状態は、無心、無我、無欲の境地などと呼ばれるものです。
何かの目標・目的を持っていたとしても、単にその達成を欲求するばかりで、焦ったり、達成できないのではと不安に悩んだりしていると、空回りして逆に上手くいかないことは、経験上、なんとなくおわかりいただけるかと思います。
これは、仏教に限らず、幅広くあらゆる分野に通じる経験則です。例えば、武術の達人が、「勝つと思うな、思えば負けよ」といいます。無心の境地こそが無敵の境地であるといわれます。スポーツの世界では、追い詰められて「なるようになれ」と開き直ったら上手くいったとか、肩の力が抜けたら上手くいったというのも同じです。さらには身近なところでは、「果報は寝て待て」、「笑う門には福来たる」、「急がば回れ」などいった格言も、同じことを言っているものだと思います。
欲求と不安で心が乱れていると、正確な観察や思索ができません。さらには、これは不思議な人間の精神的な能力ですが、心が静まっているときでなければ、直感的な智慧・インスピレーション(言い換えれば超高速度の精神活動でしょうか)は生じません。
例えば、私は、数時間の講話をするときも、最近は原稿を一切用意しません。昔はある程度のメモ書きを用意していたのですが。講話の前には、なんとなく話す内容のイメージはありますが、具体的に何をどう話すかは、話しながら考えているというか、実際に話している間に、次々と浮かんできたことを話しています。
普段から修習している教えが、空っぽの心の状態の中に、順々にわいてきたのを話しているという感じでしょうか。さらに、話している間に、それまで考えてもなかったこと、そのとき初めて気づいたことを話すことも度々あります。話しながらひらめく、気づく、学ぶといった感じでしょうか。
そして、講話の前に、上手く話そうと思い過ぎると、上手くできないのではないかという不安が生じることがあります。そうしたときは、上手く話そうと思えば、逆に上手く話せないということを経験上よく知っているため、その欲求を意図して放棄し、思考を空っぽにするようにしています。
そうして静まった心の状態であれば、普段から考えていた教えに関して、それなりに上手く話すことができます。昔は、これが上手くできないこともありましたが、最近はだいぶ上達してきて、そういった余計な欲求・雑念は、比較的すぐに静めることができるようになりました。
特に、目的を達成する上で、相手のある場合は、自分の欲求ばかりが頭にあると、相手を洞察することもできません。相手を理解する直感も働きません。講話や質疑応答でも、一番上手くいくのは、自分が上手く話したいというよりは、相手に集中している場合だと思います。
武術・スポーツでは自分が勝とうと思い過ぎれば、相手が見えにくくなって、逆に負けてしまうとされます。そして、ビジネス・交渉も、恋愛・夫婦・育児まで、これは、万事に当てはまると思います。自分がこうしたいと思い過ぎると、相手のことはわからなくなって、結果として、上手くいかなくなってしまうわけです。
これは、さまざまな分野の達人が気づいた真実だと思います。「一芸は百芸に通じる」という格言も、無心・無我の境地こそ、百芸のために最高の境地だという意味だと思います。また、剣術と仏教の禅定(瞑想)は一つの如しとする「剣禅一如」という言葉も同じです。
仏教では、「止と観」という教えがあります。サマタとヴィパッサナーとサンスクリット語では言いますが、これは、止まった心が現象を正確に観察するという意味があります。これと同じものが、「禅定と智慧」という教えで、禅定=瞑想で心が静まると現象がありのままに見える智慧が生じるという意味です。正確な観察と智慧があれば、物事の達成は容易となります。
さて、この無心・無我・無欲の境地を達成するために、さまざまな雑念を含め、「心の働きを止滅すること」をヨーガといいます。この日本人にもよく聞かれるようになったヨーガという言葉は、独特の体操や呼吸法のこと(だけを意味するの)ではありません。
数千年前に、ヨーガの発祥の地であるインドのある哲学派において、ヨーガという言葉が、心の働きを止滅することと定義され、この定義をした哲学派の名前自体がヨーガとなりました(ヨーガという言葉の原意は、つなぎ止めるといったような意味があると記憶しています)。
しかし、ヨーガは、インドの一哲学派を超えて、他のインドの哲学派や、仏教の世界にも広まり、今や世界中に広まりました。それは、皆さんが今知る、体操(体位法・座法)、呼吸法(調気法)、瞑想などといった、ヨーガのさまざまな実践手段が、非常に有用であったからです。それは、インドの宗教=ヒンドゥー教全体、そして、仏教に取り入れられたとされています。
そして、仏教・ヒンドゥー教には、さまざまなタイプのヨーガ=心の働きを止滅する方法・教えがあります。
例えば、(正しい道理に基づく)思索によって心を静めるヨーガがあります。足るを知ること、一切に感謝すること、慈悲を持つことなどは、この一部です。
次に、神聖なシンボルを観想・イメージするヨーガ、心を静める神聖な言葉(真言など)を唱えるヨーガ、心を静める身体操作、例えば、座法等の姿勢や、呼吸法などがあります。これらは、人の心が、その思考、イメージ、言葉、呼吸、姿勢などの身体の状態と連動していることを使って、心を静めようとするものです。
また、、仏教やヨーガ、そして道教・仙道・中国医学の世界では、人の体には、目に見えないエネルギー(精神的・霊的エネルギーともいわれる)とその流れる道があるとしていますが、その目に見えないエネルギーを活性化・浄化・制御して、心を静めるといったヨーガもあります。このエネルギーが心と密接不可分に連動しているという経験則からの体系があります。この目に見えないエネルギーは、仙道・気功で「気」や「経絡」と呼ばれ、ヨーガではクンダリニーエネルギー、チベット仏教では風(ルン)のエネルギー等と呼ばれています。
さらに、心を静めるために役立つ生活規律を整えることや、心を静めやすい環境作りがあります。例えば、自宅を清潔に掃除し、日々、感謝と分かち合いの瞑想を行なったり、さらには、聖地や自然を巡って、心を静めるといった方法があります。これらは、心が、生活規律や環境・土地の影響を受けることを考慮したものです。
ひかりの輪では、こうした実践を組み合わせて、心を静める実践をこつこつと進めることを皆さんにお勧めしています。