オウム真理教の清算
オウム真理教時代の清算についてのコーナーです

脱麻原・脱オウムの諸改革

②オウム問題の原点=「親との断絶」の解消
(2015年1月19日)

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1  親への感謝を育む内観の実践━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

かつてのオウム真理教および現在のアレフでは、特に出家信者と親族との連絡を規制するなど、家族・親族を軽視する傾向が強く、それが一連の事件の原因の一つになったものと「ひかりの輪」では反省・総括を行ってきました。

そこで「ひかりの輪」では、発足以来、オウム真理教の反省・総括を深めて文書化することに加え、2009年2月以降、刑事政策・犯罪者更正の専門家である法学部の大学教授(現ひかりの輪外部監査委員)のご指導を受けながら、組織的に、自己反省法「内観」を実践し、オウム時代への反省・総括をいっそう深めてまいりました。

内観とは、もともと、古くから伝わる「身調べ」という修行からヒントを得て、誰にでも実践可能な自己探求法・自己反省法として、吉本伊信氏によって、70年ほど前に確立され、効果が認められているものです。

内観は、これまで、犯罪者更生、更生教育のために、刑務所や少年院等でも指導されてきており、内観の実践者が5年以内に再び刑務所に入ってくる確率(再入率)は、 実践していない者に比して約50%に低下しているとの報告がなされているほどです。

また、内観は、企業研修や学校教育、心理的な治療の場でも用いられています。

内観では、自分がこれまでの生涯で、

  ①他人からしてもらったこと
  ②他人にして返したこと
  ③他人に迷惑をかけたこと


を一つ一つ思い出していくという作業を行います。

すると、自分は両親をはじめとする周囲の人物から非常にたくさんのことをしてもらっているにもかかわらず、自分は周囲に大したことをして返してあげておらず、むしろ多くの迷惑をかけてきたという事実に気づき、すなわち自分の自己中心性を自覚し、反省し、他者への感謝と奉仕に向かっていくことができるようになるのです。

「ひかりの輪」では、以下のように、大学教授をはじめとする内観の専門家のご指導をいただいてきました。

①内観の講義2009年3月3日

大学教授を「ひかりの輪」本部教室にお招きし、上祐はじめ「ひかりの輪」役員・指導員の全員と、希望する一般会員らに対して、内観についての講義を約4時間にわたって、実施していただきました。

②内観の実践指導  2009年3月10日

大学教授を「ひかりの輪」本部施設にお招きし、「ひかりの輪」役員・指導員ら10名に対して、約12時間にわたって、内観の実践指導をしていただきました。
(そのまま、数日~一週間ほど、各自で自主内観を続けました)

③集中内観  2009年3月中旬

副代表の広末晃敏ら役員2名が、大学教授のご指導のもとで、内観の専門研修施設(長野県飯田市)において1週間にわたる集中内観を実践しました。
(広末は、内観直後に、20年ぶりに実家に帰省し、両親との劇的な関係改善を遂げ、大学教授と共に「ひかりの輪」会員への内観指導を担当することになった)

④集中内観  2009年12月下旬

指導員の宗形真紀子ならびに吉田惠子が、内観の専門家である波多野二三彦氏(元弁護士:詳細は後述)を「ひかりの輪」東京本部教室にお招きし、1日約12時間を約1週間にわたって、内観の実践指導をしていただきました。

⑤内観の実践指導 2012年4月~現在まで

大学教授に、全国の「ひかりの輪」教室(仙台、東京、名古屋、大阪、福岡、千葉、長野)を巡回し、上祐を含む各地の「ひかりの輪」役員や指導員・会員等に対して、内観の実践指導を行っていただいています。

具体的には、

【期間】 2012年4月から2014年10月までの間
【場所】 のべ25箇所で、(ひかりの輪各教室)
【人数】 のべ158名 (ひかりの輪の会員等)

に対して、指導がなされました(※追記:その後も継続して全国で指導がなされています。詳しくは、こちら)。

こうして、「ひかりの輪」の指導層が、専門家の指導のもと内観を修得した上で、幹部研修においても実践を繰り返し、さらには一般会員等に対しても紹介・指導し、その実践を推奨しています。

この内観においては、まず両親への感謝を培っていくことになりますが、これは、オウム事件の原点ともいえる坂本弁護士一家殺害事件の原因となった親子断絶の問題を解決することに大きく寄与しています。

現に、後記の通り、オウム真理教の反省・総括を行い、その結果、親族との関係を復活させていく中、さらに内観を深めた結果、約10~20年ぶりに両親に面会したり、関係回復したりした者が出てくるなど、親族との関係改善に顕著な効果が生じています。

親族との連絡を長期間絶っている者がいれば、その者に対しても、内観の実践や親族との連絡をとることを団体として推奨しています。

さらに、思想面についても改革が進み、両親の子に対する愛の中に神仏の愛が現れること、すなわち両親の延長上に神仏がましますとして、両親の本質を神仏に等しいものと位置付け、尊重しています。

これは、両親の子に対する愛は偏った愛着心に基づくものとして低く見て、両親との関係を断ち切るようにと指導したオウム真理教・アレフの教義と比べれば、思想の劇的な転換を示すものともいえるのではないでしょうか。


(1)大学教授による内観指導

大学教授による内観の指導実績については、同氏が委員を務めるひかりの輪外部監査委員会の「外部監査結果報告書」に報告されています。

報告書には、内観がマインドコントロールからの解放の道であり、それを「ひかりの輪」が積極的に採り入れてきたことが記されている、同教授の「意見書」も添付されています。

大学教授の内観指導においては、同教授のもとで1週間の内観を行い両親との劇的な関係改善を果たした広末が、教授を補助する面接補助者を務め、教授とともに、全国各地で「ひかりの輪」会員への内観指導を実施してきました。

指導を受けて内観を実践した者(通常は、教授や広末の定期的な面接を受けながら、朝から夜まで1日中内観に取り組む)が全員、内観終了後に感想文を書いて、教授に提出し、また教授との面談を行います。

感想文のうち、本人が外部に公表することを承諾したものについては、ひかりの輪のホームページに掲示されています〉。

(2)波多野氏による内観指導

波多野二三彦氏は、オウムのマインドコントロールを解く、犯罪者更生、内観の専門家です。

前記の通り、「ひかりの輪」指導員の宗形は、2009年に波多野氏から1週間の集中内観をご指導いただきました。

波多野氏は、元弁護士で、地下鉄サリン事件解明の大きなきっかけを作り、いわば「オウム真理教のマインドコントロールを解く第一人者」といえます。 すなわち、地下鉄サリン事件の実行犯・林郁夫の拘留中に、林に対して2ヶ月間の内観指導を行い、改心に導いた方で、波多野氏の内観指導がなければ、林の早期自白はなかったと思われます。

以下、同氏の著書『内観法はなぜ効くか――自己洞察の科学[第5版]』よりご紹介します。
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「著者は岡山から東京丸の内警察署に数回通い、そこに拘留されていた林郁夫に内観の指導を試みました。彼は丸の内警察署の房内で、素直に、かつ真剣に内観法の実践をし、程なくその真髄を会得し、オウムの強固なマインドコントロールから解き放たれ、その後は、日々被害者の供養の祈りを捧げ、自分の犯した罪を涙とともに懺悔し告白する、清らかな人間に一変しました。
(中略)
彼はまさに、かつてのオウムのカルトにくるめられて積み上げた膨大かつ強固なカルトの記憶を、内観実習によって一気にかなぐり捨て、内観者らしい穏やかさでそれらの記憶を再構成し、新しい衣に身を包み、日夜贖罪と修養に務めつつある、健気な受刑者であることがわかりました。

内観法のすばらしいところは、こうした極めて短期間の、集中的記憶再構成の実践体験の効果が、その後20年30年永続し、内観以前のあさましい姿に戻ることがないというその特性です。(序文ⅱ~ⅲ)」
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また、波多野氏は、前記同氏の著書の中で、宗形の内観について以下のように評価してくださいました。

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「[事例三 元オウム信者の内観]

著者は、2009年の年末に近い頃、『オウム真理教』から脱皮し、「ひかりの輪」を立ち上げその代表となった、かつてオウム真理教の大幹部であった、上祐史浩氏から依頼を受け、かつて同氏の秘書をしていた宗形真紀子さんの内観指導をしました。

宗形さんは、内観実習の2010年の立春の頃、自身の深い反省から、『二十歳からの20年間――"オウムの青春"の魔境を超えて』(三五館)という、元信者の立場からオウム告発のとなる著書を刊行されました。

内観実習から数ヶ月後のことでした。 宗形さんはその本の中で、次のようにご自身の内観を振り返っています。 「(中略)波多野先生ご指導の内観では、今こそ、そうした思いに終止符を打ちたいという覚悟を決め、長年憎んでいたその人に、長い時間を振り当てました。すると信じられないことが起こったのです。
(中略)
そして、この内観という長い旅のすべての想起が、素直な、ありのままの私に戻っていけるよう導いてくれていた、ということに心から感謝しました。」

このように、著者の前で新しい自分自身と和解した宗形さんは、その瞬間、喜びのあまり、吹き出す涙と、つららのように長くたれ下がった鼻水で、ご自分の膝をしたたかに濡らされました。」(p231~233)」
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2 指導員の講話・教本・書籍・講演での
    内観の重要性の強調
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内観により顕著な変化が生じたことを認識した「ひかりの輪」では、以下の通り、指導員が、講話・教本・書籍・講演において、内観の重要性を強調し、その実践を推奨してきました。


(1)上祐史浩によるもの

上祐は、自著『オウム事件 17年目の告白』(扶桑社、2013)において、以下の通り記しています。

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○親に対する感謝を深める内観法

この問題に対し、2009年になって、私たちは、親などへの感謝の心を深める「内観」という自己反省法を導入した。

内観は 、学会もあり、海外にも広がっている手法である。

その方法は至って簡単で、専門家の指導の下、自分が、両親 ・親族・知人に、幼少期から現在まで、①してもらったこと、②お返ししたこと、③迷惑をかけたことを思い出す作業である。それを丸一日から一週間ほど集中して行うというものだ(最初から親がいなかった人は、親代わりの人について行う)。

幸運なことに私たちは、内観の権威の大学教授の方の直接指導を得る機会に恵まれた。この先生は、後にひかりの輪の外部監査人に就任された。

まず、団体の指導員が研修を受け、先生の本を紹介したり、詳細を教本にし、在家会員にも配布・解説した。
我々は、普段は「親ならば当然だ」とか、「もっとしてほしい」との思いのために、親をはじめとする人々から受けた膨大な支えを忘却している。それを改めて思い出すと、感謝の心が生まれる。そして、感謝の心が深まると、幸福感も深まる。こうして多くの支えを得ている自分を認識することで、健全な自己価値の認識が生まれるのである。

この健全な自尊心の形成は、前に述べたように、誇大自己を抜け出す力となるように思う。 「世界の中心の自分」から、「多くの人間の一人」ではあるが、同時に「親をはじめとして多くの人・万物に支えられた(繋がった)価値のある自分」に変わる。

そして、感謝を通して自と他の繋がりをよく認識すると、最終的には、自分と他人の区別を超えて、大きな温かい心が生じると思う。 過去に親などとの関係において傷を感じ、誇大自己の傾向が生じていたとしても、こうした内観によって、親などの恩を再発見し、その問題を解消する事例が多い。(p226~)」


(2)広末晃敏によるもの

①「内観フォーラム」での講演

2009年11月17日、広末は、都内の大学で開かれた内観実践者の会合である「内観フォーラム」に出席し、以下の内容を講演しました。

・アレフからの脱退と「ひかりの輪」設立の経緯
・「ひかりの輪」で内観を行うようになった経緯
・大学教授による「ひかりの輪」への内観指導
・大学教授の指導による広末個人の内観体験
・広末が内観の結果、20年ぶりに実家に帰省し、両親と和解したこと、両親のありがたさ等
・内観の実践は、傲慢・不寛容・他への無関心を解消し、オウム問題、カルト問題の解決に寄与すること

なお、この講演に対して、聴衆の1人が、「大学での内観フォーラムで、先生(※広末のこと)のお話を聴き、涙がポロポロ出て、大感動しましたので(他の人も)、その感動をみなさん方にもお伝えしたく企画しました。」として、次項②の講演が企画されました。

②市民団体での講演

2010年4月25日、広末は、「自己反省法"内観"によるオウム問題の解決」をテーマに、市民団体で講演を行いました。
「東京セルフ研究会」という30年以上の歴史を持つ市民団体の研修会が、開催した研修会において、広末が講師として招かれたものです。

内観を自らが行った体験や、「ひかりの輪」の多数の会員に指導して得られた効果を報告し、内観がオウム事件の反省と総括、再発の防止に極めて有効であることを話しました。

③「第9回 内観国際会議」での講演

2013年5月25日から26日にかけて、世界各国の内観実践者が、東京の都内大学に集まり、「第9回 内観国際会議」が開催されました。

内観国際会議は、基本的に3年に1度、関係各国の持ち回りで開かれており、昨年はちょうど日本で開かれました。

会議には、オーストリア、ドイツ、アイルランド、中国、台湾、韓国、そして日本の大学教員や学校教師、企業経営者、内観研修所長など、多くの人々が出席し、各国の内観の実践状況や研究結果、体験談などを発表しました。

広末は、この2日間にわたる会議の一番最後に、発表の機会を与えられ、自身がオウムというカルトに嵌り込み、その過ちに気づいて「ひかりの輪」の設立に動き、内観の実践を通じてカルトを抜け出してきたこと、20年ぶりに実家に帰って両親に受け入れられたこと、そして多くの人の内観のお手伝いに努めてきたことを話しました。

前記大学教授は、この広末の講演について、前記意見書で高く評価しました。

④書籍出版

広末は、これらの講演等を聴いた出版社の編集者から、内観をテーマにした出版を勧められ、原稿案を完成させています。現在、この原稿案に基づき、出版を検討中です。

この原稿案には、広末の内観体験のみならず、「ひかりの輪」が内観を導入することになった経緯や、「ひかりの輪」会員らによる内観の効果、カルト対策としての意義について、詳細に記されています。

⑤内観の面接補助者としての活動

広末は、大学教授による前記「ひかりの輪」会員への内観指導において、教授とともに全国を回り、教授の面接を補助する面接補助者として、内観指導を補助してきました。
その数はのべ150名以上となります。
また、内観の重要性を会員に説き続けています。

⑥マスコミの取材での活動

また、広末は、マスコミの取材に対しても、内観の重要性について、繰り返し訴えています。



(2)宗形真紀子によるもの

宗形は、自身の内観体験について、自著『二十歳からの20年間――"オウムの青春"の魔境を超えて』(三五館、2010)に、次の通り記載しています。

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「[内観による自分自身との同調]

昨年は、二〇〇九年の三月と一二月の二回ほど、それぞれ一週間ほど、集中的に内観を行ないました。

「内観(内観法、内観療法)」とは、日本で開発された、自己を見つめることによる自己改善の方法です。

具体的には、〇歳から現在までの人生について、父母、家族などの身近な人との今までの関わりを、①してもらったこと ②して返したこと ③迷惑をかけたことの三つに沿って、一日一五~一六時間を使って、徹底的に見つめるというものです。

二00九年になって、内観の第一人者である教授が、「ひかりの輪」に内観の講義やご指導に来てくださるという機会があり、わたしは他の十数名ほどと一緒に、その機会に、先生の講義を受け、集中的に内観を行ないました。

一回目の内観では、お世話になった比較的やりやすい人の内観を行ないました。わたしが、いろいろな人に、してもらったことと迷惑をかけたことがいかに多く、して返したことがあまりに少なく、ほとんどないという事実に気づいて、愕然となりました。今まで、いかに感謝の気持ちなく、傲慢に生きてきたのかということを改めて思い知ったのです。

ちょうどそのころはオウムの総括の作業の中で、自己処罰感に偏った意識になりがちな状態だったのですが、この内観の実践により、これまで関わりのあったいろいろな人に、どれだけ支えられ、お世話になって、愛されて生きて生きたかという事実を実感をもって感じることができ、世界が明るく広がっていく気がしました。

12月に入り、別の先生が、集中内観を担当するために、「ひかりの輪」まで来てくださる機会があったので、わたしは思い切って集中内観に入ることにしました。

思い切って、というのは、わたしはまだ、一回目の内観ではやりきれなかった、内観をしにくい何人かについての課題を残している状態だったからです。

しかし、今回こそは、もうそういったことを思い続けるのはいいかげんに終わりにしたいと願い、祈るような気持ちで、やりにくい人への内観をしようと、集中内観をすることに決めて、思い切って入りました。
(中略)
こんなことがわたしに起こるとは驚きでした。

内観の先生はそのことを、内観によって経験される「自分自身との同調・和解」だと教えてくださいました。

同調するとは、ラジオのチューニングが合ったときのように、自分が喧騒の中でピーピーガーガー言わなくなり、静かな境地が出現してくるさまをいうとのことでした。

その場所に波長を合わせさえすれば、素直な、ありのままの自分でいられるというもので、内観により、素直な、ありのままの自分でいられることの幸せを、体感的に教えていただくことになったのです。(p244~248)」
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3 スタッフが、親との交流を回復、
    親の介護を行い、団体が支援していること
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(1)「ひかりの輪」スタッフが両親等と関係回復した事実

オウム真理教の反省・総括の実践や、内観の実践等によって、以下の通り、「ひかりの輪」のスタッフは、両親等と関係回復したり、両親等の介護をしたりするようになりました。

特に役員・指導員のケースについてご報告いたします。

①上祐史浩


上祐は、大学教授の指導により内観を実践した後、母親への劇的な心境の変化が起こり、母親と十数年ぶりに再会し、関係が回復しました。心境の変化や母親との交流については、以下の通り上祐の自著ならびに雑誌のインタビュー記事に記載されているので、ご紹介します。

●『オウム事件17年目の告白』(扶桑社)より


○父親の悪口を言わず、褒め称えた母親


次に、母親について。子どものときに私が母親に感じたのは、まじめでいい人だが、辛そうな様子も覗かせるため、身勝手で(誇大妄想的なまでに)上昇志向の強かった自分には、理想像とはなりにくかった。父親にも母親にも、子どものときの私は真の尊敬を持っておらず、だから、理想の親のイメージを麻原に求めたのだと思う。

しかし今思えば、父親が家を去り、頑強とは言えない体で家計を支え、さらに弟の持病の世話をしていたのだから、辛そうにしていても無理はないだろう。少し大げさに言えば、貧・病・労の三重苦であったのだ。

その中で私がなしたことと言えば、母親が何も言わないのをよいことに、高校は私立を選択し、大学は(奨学金をもらったが)大学院の修士課程まで遠慮なく行くという幼稚さ・自己中心であった。

当時を内省して印象深く思い出したのが、父親の浮気に対する母親の言動だった。私が記憶する限り、母親が、浮気した父親を悪く言うのを聞いたことがないのである。悲しんでいたことは多少なりとも記憶があるが、どう思い出そうと、悪口は聞いたことがないのだ。

聞いていれば覚えているはずだから、実際に言わなかったのだと思う。それどころか、前に述べたように、母親が、父親が養育費の支払いについては責任を持っていることを私の前では褒めて強調していたことが印象に残っているのである。

これは、偉大だと思う。自分を捨てた人間を褒めているのだから。

それを聞いた内観の先生(ひかりの輪の外部監査人の一人)は、「子どもを守ったんですね」と言った。 自分を捨てた人間を、自分が育む対象を守るために褒めるということは、当然のことのようでいて、とても難しいことだ。

私もいろいろな人から個人相談を受ける中で、よく感じるのは、夫婦が離婚ないし別居となる際には、当人同士も辛いだろうが、一番辛いのは子どもであるということだ。だから子どもに最大限に配慮することが非常に重要なのだが、実際はなかなか容易ではない。

私の場合、両親は離別したが、遠くから支える父親と、父親の非ではなく愛を強調した母親のおかげで、父親に捨てられたという恨みを抱えずに済んだ。離婚はしたが、その中で最大限子どもの心を守る点においては、両親は心を一つにしていたのではないか。

○母親が、私を重罪から救っていた

麻原は、両親に恨みを抱いていた。そして、その親への恨みは、自分を育む者全体への恨み、すなわち、社会や国にまで及んだ。それが彼の心に、強い誇大妄想と被害妄想という人格障害を形成する一因となった可能性がある。

私は、麻原の影響を相当に受けたが、麻原の被害妄想には、完全には共鳴しなかったと思う。それが、オウムの活動のいろいろな場面で、私と麻原の運命を分ける結果になったのではないか。

麻原と同じように、親や社会に対して被害妄想を抱いていたら、坂本弁護士事件に加わり、選挙の陰謀説を盲信し、地下鉄サリン事件のあとも、破壊活動の停止を麻原に進言せずに戦い続け、ロシア人による麻原奪還テロを止めずに逆に後押ししていたかもしれない。それは自分の死刑と無数の被害者を生み出したことを意味する。

麻原は、自分を認めない存在、捨てた存在を否定し、悪業多き魂と位置付けたり、陰謀論さえ唱えたが、私の母親は、自分を捨てた父親の悪口を言わなかったことで、麻原に完全に共鳴することから私を守ってくれた。

その意味で、まさに命の恩人であった。

そして、父親と同様に、母親も、今後の私の見本だと思う。 今私は、前に述べたように、親への感謝を深めるように、会員や縁のある一般の人たちに、感謝や内観の実践を推奨している。それは、自分に与えられていないものばかり見て不満を言う傾向の強い現代社会において、親から与えられている恵みに気づいて感謝することがエッセンスだ。それを私の母は、私が出家する前から、私のために、私に代わって実践してくれていたのだ。

彼女は、私が父から与えられていないことばかりを見て恨むことを避けるために、父親の悪口は言わず、父が私に与えているものを意識できるように、父親の扶養の責任感など強調した。

これは、内観における感謝の実践の、まさにエッセンスである。 こうして、出家前は尊敬の対象ではなかった母親は、実際には、出家以来25年経って私が始めた感謝の実践の先駆者であり、私の見本であったのだ。

●『circusMAX』(KKベストセラーズ)2013年2月号より

[◎両親への感謝の気持ちが、麻原との決別のきっかけに]

かつて上祐は、麻原の存在を問われ、「目標であり、父親だ」と雑誌のインタビューで答えている。そんな彼が、麻原への盲信から抜け出し、実の両親との正常なつながりを求めているという。

「(中略)父は、私が小学校高学年になる頃に浮気をして、
家には帰らなくなりました。今思えば、身勝手で上昇志向
の強かった私は、父親の変わりとして、麻原を理想の親と
してのイメージを膨らませていったのだと思います」


17年ぶりに再会した母親は、上祐の現状を受け入れてくれた。

「母親は私のせいで、ずいぶん辛い目にあったようですが、
それを責めることなく『自分は我慢できるから』と言うだけです。
それは「あなたもこれから何かあっても我慢しなさい」という私
への訓戒だと受け止めています。親はいつまでたっても親。
無償の愛を与えてくれる人が身近にいたのに、私は長い間
気がつかなかったということだと思います」

そんな母親との出会いから、上祐は父親のあることを思い出す。毎月10万円の養育費を支払い続けてきたこと。そして父を恨まなかったのは、母親が父の悪口や愚痴を一切口にしなかったことだと気づくのだ。
(中略)

「私たちにお金を送ると、手元に残るのはわずかで、同棲
していた女性の収入で生計を立てていたようです。
それでも地道に稼いだお金を送り続ける。
今、『ひかりの輪』として被害者への償いのために賠償金
を支払う立場になって、初めて父の苦労を知ったと同時に、
父は私を捨てたのではなく『遠くから支えてくれていた』の
だと、ようやく考えられるようになりました。」


②広末晃敏

広末は、前記の通り、大学教授のもとで1週間の内観を実践したところ(2009年3月)、直ちに自らの親不孝に気づき、20年ぶりに実家に帰省し、両親との関係を回復して現在に至っています。
現在は、たびたび大阪の実家 に帰省するとともに、電話で安否を確認し合ったり、互いの誕生日に贈り物を贈り合ったり等しています。 その詳細については、今後出版予定の、広末の出版原稿案に書いていますので、その一部を以下に抜粋してご 紹介します。

○二十年ぶりの父母との再会

もう実家に帰ることに迷いはありませんでした。 集中内観を終えて十二日後の二〇〇九年三月三〇日、私は大阪の実家のすぐ近くまで行き、まずは実家に電話 を入れました。父が出ました。電話の向こうの驚いた様子の父の声は、昔と違って、何だか弱々しく聞こえました。

すぐ帰ってこいと言ってくれたので、私は実家の玄関をくぐりました。 そうするつもりはなかったのですが、二十年ぶりに見た年老いた父と母の姿を前にして、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになり、涙があふれてきて、思わずその場に土下座をして謝りました。父も母も、「帰ってきて くれただけでええんや」と言いながら、私を両脇から抱え上げて、家に上げてくれました。

両親ともども「とにかく、よう帰ってきてくれた。帰ってきてくれた」と涙ながらに喜んでくれました。さっそく母は、食事を作って食べさせてくれました。二十年ぶりの母の食事が、身体から心にしみ入ってくるように感じました。

そして、母方の祖母の墓に、墓参りに行きました。私を幼少の頃に大事に育ててくれた祖母です。もちろん内観のときにも、母と父の次に時間をとって思い出す作業をしたのが、この祖母でした。手を合わせながら、ご心配をかけたことを心中でお詫びしました。

その後、母方の親戚のおばさんの家に行きました。いざ私の姿を見ると、駆け寄って抱きつき、「よう戻って きてくれた、よう戻ってきてくれた!」と、泣きながら喜んでくれました。おばさんは以前、食料品店を営んで いましたので、私が子供の頃は、よく店の売り物のお菓子を自由に私に選ばせて持っていかせてくれました。内観のときに、そんな「していただいたこと」を思い出したりしました。

夕方になって、両親と家に戻ってきました。 夕食は、母のご馳走でした。 あの気丈な父が、親族一同に電話をかけて「息子が帰ってきた。家族揃って食事したのは二十年ぶりや......」 と涙声で話していました。 普段は酒を一杯しか飲まないという父が今日は二杯も飲んでる、と母が言っていました。

また、父からは、私が出家して以来、母がしきりに泣いていたことや、母が私のために陰膳(不在者の安全や 健康を祈って、あたかもその人がいるかのように作って捧げる食事)まで上げてくれていたことを聞かされまし た。 こうした話を聞いて、私は両親に多大な苦痛ばかり与えてしまったな......と、申し訳なくなりました。

その後、深夜の三時頃まで、私の赤ちゃんから高校時代までの姿が家族と一緒に写った大量の写真アルバムを 皆で見ながら、昔話に花を咲かせました。父はきちんと整理して私の写真を保管しておいてくれたのです。写真 の一枚一枚を見ていると、私は本当に両親の世話になってきたんだなと実感させられました。

私は、決して一人で立って歩いてきたわけではなかったのです。現に、父親に支えられて立っているよちよち歩きの私の写真もあ りました。当たり前といえば、あまりに当たり前のことなのですが。 部屋には、私が帰ってくることを願って、大小様々な種類の蛙(かえる)の置物がたくさん置かれていました 。

その夜は、二十年ぶりに実家の風呂に入り、二十年ぶりに自分がもともと使っていた部屋のベッドで眠りにつ きました。「戻って来られた」という安堵感と、両親への感謝の念に包まれながら......。

○「あんたはどこに行っても、うちの子やで」

翌日、両親には、私がオウムを脱けてから今までの経緯を話しました。今やろうとしていることは、オウムを 反省・総括して、二度と宗教テロを起こさない・起こさせないための活動であって、自分はオウムという組織を 支えた責任を感じていて、いろいろな人に対して責任をとるためにも中途半端に投げ出すわけにはいかない、自 分なりに人生にケジメを付けるつもりでやっていること等を話しました。

父も母も一応の理解を示してくれましたが、それはたぶん今の私を受け入れようと、かなりの無理をして受け 入れてくれているのだと思います。 「被害者の方には誠意をもって対応するんやで」という母の言葉は、何としても守っていくつもりです。 東京に戻る私に、母は、手編みのセーターやら弁当やら正露丸やら、非常にたくさんの荷物を私に持たせて、 父と一緒に見送ってくれました。

私は、この二十年間、単に苦痛を与え、迷惑をかけただけの存在だったのにもかかわらず、両親は何の見返り もなく、あたたかく迎え入れてくれました。 内観でいえば、「していただいたこと」ばっかりで、私が「してさしあげたこと」など全くといっていいほど なく、「ご迷惑をかけた」ことばかりです。 そして今回も、していただくことばかりでした。 別れる直前に、母が私に背中を向けながら、「あんたはどこに行っても、うちの子やで」と言ってくれたのが 、とても泣けました。

○母の愛は仏の愛の縮図

母のこの言葉には、まるで仏様の慈悲の片鱗を見た思いでした。 私は二十年近くにわたって、オウム・アレフ教団の外部対応役として社会と接し、一歩外に出れば「人殺し! 」「気違い!」「出て行け!」と無数の人々から罵倒され、あらゆる場面で人格を全面否定され続けてきました 。

オウムのやったことや、その後の私の無反省ぶりからすれば当然の報いなのですが、私にとっての「日常」と は、多数の人に取り囲まれて人格と存在を全否定されることであり、疑念のまなざしを向けられることであり、 それが当たり前でした。

そんなところに、無条件で私を受け入れてくれた母の言葉が、まるで真っ暗闇の中で見つけた光のように感じられたのです。 仏様は、たとえ悪事を繰り返し、間違いを犯す人間であっても、温かく見守り、済度しようと慈悲のまなざしを向けていらっしゃる存在だといわれます。

もちろん、母とて一人の人間ですから、仏様のように大宇宙の全ての衆生を無条件に受け入れることは無理な話です。しかし、私と母との間に形成された「小宇宙」においては、母は間違いなく私に対しては無条件の慈悲に富む仏様の役割を果たしてくれたのです。

「部分の中に全体が含まれている、部分の中に全体が現れる」という仏教の考えに基づけば、両親は、大宇宙 に遍く存在する仏様の慈悲の一つの現れに違いないと感じました。(後略)


③宗形真紀子

宗形の実家は東北の被災地にあり、80代後半で半身不随・身体障害者の義父と、60代後半で、難病・身体障害 者の母が住んでいます。

今のところ、父母は、日常生活はなんとか営めている状況のため、宗形は、2~3ヶ月に 一度は、数日間帰省してケアしています。 父母だけではもうできない季節ごとの家の生活の手伝い全般や、病院の付き添い、気分転換のための景勝地への付き添いなど、父母の健康のために心身のケアを行っていて、現在は、家族の一員として宗形がいなければ父母の生活が成り立たない状況となっています。

また、母の難病は治療法が確立していないため、その治療法などを調査すること含め、日常的に母と電話連絡を取り合ってケアしたり、父母の誕生日、父の日、母の日には、必ずプレゼントを贈るようにしています。

以下、宗形の著作『二十歳からの20年間――"オウムの青春"の魔境を超えて』(三五館)から抜粋します。

○著作を「決してオウムに戻らない」という母への誓いとする

「二〇年間の空白と誓い」

わたしは現在、いまさらながら、その二十年間余の空白と重みに愕然とさせられています。
出家したとき四二 歳で健康そのものだった母は、いまや六三歳となって病気を煩っており、出家したために一度も「お義父さん」 と呼んだことのなかった義父は、母より一七歳年上のため、すでに八〇歳のおじいさんとなっていました。
(中略)
そして、ほんの三年前まで、まだオウム信者だった今のわたしの実態は、四〇歳を過ぎても、親孝行やご恩返 しどころか、まだ心配や迷惑をかけ続けている親不孝この上ない存在です。せめてもの償いとして、この本を、 決してオウムに戻らないというわたしの誓いとさせていただくことで、心配の中の一つでもなくすことができたならと祈る思いです。

○母こそがやさしさあふれる感謝すべき人だった


[打ち砕かれた、傲慢な思い込み]

約三年前(2007年)の秋、地下鉄サリン事件発生以来、やっと母と一二年ぶりに再会できたとき、わたしはこ れまでの人生がひっくり返るほどの衝撃を受けて、呆然となっていました。
(中略)
三〇年以上ものとても長い間、わたしは傲慢にも、わたしをはぐくみ育ててくれた母のことを、わたしの切望 する、生きる意味や世界の謎を教えてくれるタイプの人ではないと決めつけ、大きな不満とともに軽蔑する心さ え持っていたのです。しかし、母が、だれにも耐えられないような目に遭いながら、ほほえみを絶やさず、淡々 と優しい気持ちを持ち続けている姿を目の当たりにしたそのとき、それは起こりました。

母の兄弟たちは、母のことを「観音さまだよ!」と言って驚愕し、祖母は、「子どものときからだれよりも優 しい子で、弱い子を守っていただよ」と言い、わたしも、母が実際に観音さまのように見え、目から鱗の落ちる 思いがしました。

すべてを捨てて、ある意味命がけで、十数年も修行して、遠くに求め続けていた観音さまが、意外なことに、 こんなに身近なところにいたなんて、この現実に驚かされました。「じつは、わたしがいろんなことが見えてい なかっただけなのか」と愕然とし、「わたしの見方が、あまりに偏っていておかしかっただけだったのか」と感 じていました。
(中略)
本当は育ててもらったこと一つとっても、母には感謝してもし切れないほどのたくさんの恩恵を受けて育って きていたのです。 (中略) 不満を持ち、軽蔑さえしていた母こそは、じつは観音さまのようなやさしさにあふれる人だったのです。(後 略)


④田渕智子


「ひかりの輪」役員の田渕智子は、寝たきりの祖母、体悪くしている父母、病気の妹らの介護や家事手伝いのために、鳥取県の実家にたびたび帰省するようになりました。

田渕は、以前は「ひかりの輪」の千葉教室に住ん でいたのですが、鳥取との往復に便利なように、鳥取から比較的近い「ひかりの輪」の大阪のスタッフ住居に引っ越して、同所から実家との間を行き来するようにしています。


⑤吉田惠子

「ひかりの輪」指導員の吉田惠子は、内観実践後に、より頻繁に実家に帰省するようになり、家事や病気の母の病院への送迎などを行うようになりました。

両親が住む実家が福岡県内なので、最寄りの「ひかりの輪」福岡 教室に住んで、頻繁に実家との間を往復して、介護を行っています。


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4 団体を挙げて、親の介護を支援したこと━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

内観の実践やオウムの総括によって、両親等の親族との関係を重視するようになった「ひかりの輪」は、以下の 通り、両親への介護等のために人事等を配慮し、その支援をするようになりました。

①介護のために実家近くに部署異動した指導員

前記の通り、田渕智子と吉田惠子については、両親への介護等のために、両親が住む実家に近い「ひかりの輪」 施設に部署異動させる等して、団体が支援しました。

②ケアのために定期的に帰省する指導員


前記のとおり、宗形真紀子の父母は、高齢者・身体障害者で、半身不随・難病などをかかえているため、宗形は 、物理的・精神的ケアのために2~3ヶ月に一度、定期的に数日間、東北の実家に帰省しています。その間、団 体では団体業務を調整し、宗形が一定期間実家に戻れる体制を整えています。宗形は、2007年に母親と再会して 以降、特に内観を受け、著作を出版した2010年から実家との往復が定期化しました。

③役員だったが親の介護等を理由に退会したケース

2013年10月まで「ひかりの輪」役員・大阪支部教室長であった女性については、内観を実施し、両親への感謝と 恩返しの気持ちが募り、両親への介護の必要性が生じたことから、介護等に専念するため、「ひかりの輪」を退 会しました。団体では、その支援のために、体制を整えました。

また、2013年末まで「ひかりの輪」役員であった女性についても、内観の結果、両親への感謝の気持ちが強まり 、両親と10年ぶりに再会するに至りました。その後、父親が死去し、彼女も退会に至りましたが、現在は病弱な 母親の近くで、母親を支えながら生活しています。「ひかりの輪」では、その退会のための体制を整えて、バッ クアップしました。

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5 麻原の教義では、親のために
    退会・部署移動・帰省は許されない
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なお、こうした「ひかりの輪」の実践は、オウム・麻原の教義への信仰があれば、両親の介護等のために、退会や部署異動、帰省する等ということは、決して許されることではなく、決してできないことであるということを、付け加えて記しておきたいと思います。

オウム真理教の教義では、本人の修行の妨げになるという理由だけではなく、その親にも、「出家した子供の真理の実践を邪魔する悪業を積ませる行為」になるということで、厳しく批判されました。

そして、このように両親を軽視・蔑視するような教義を有していたからこそ、出家信者の両親の代理人となって 当時のオウム教団を批判した坂本堤弁護士を殺害するという事件を、オウム真理教・麻原は引き起こしたのです。
その反省から、故坂本弁護士のお墓参りをさせていただき、オウム真理教の出家問題の克服を誓わせていただきました。 (2009年4月18日)

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