【0】ひかりの輪がオウムではないことを示す裁判資料の目次
(2019年2月28日)
上祐代表ら「ひかりの輪」のメンバーは、2007年3月に、アレフ(現Aleph)から脱会し、離脱しました。
その理由は、当時、上祐の性格上、現実的・合理的な考え方から、アレフ内のA派(=反上祐派=現Aleph)に存在していた麻原の危険な教えや政治上の主義・違法行為に対し、徹底的に排除しようとしたために、A派と激しく対立することとなったからです。
以下に、その経緯と思想の詳細を記します。
ひかりの輪は、公安調査庁による観察処分の取消しを求めて東京地裁に訴訟を提起し、2017年には、その訴えが認められて、取消判決を受けることができました。
2018年10月段階では、その控訴審が東京高裁で係属中ですが、その控訴審において、ひかりの輪が裁判所に提出した書類の内容を基本的にそのまま転載しています。
(なお、裁判所に提出した書類の原文には、記載を裏付ける大量の証拠の証拠番号を随所に記載していますが、ここでは、読みやすくするために、それらは全て削除しています)
それでは、以下に、 ①オウム真理教時代(1989年~1999年)の上祐代表 ②オウム真理教から改称後のAleph(アレフ)時代(2000~2007年)の上祐代表及びM派(上祐派・代表派〈2004年11月~〉)の言動から時系列に示していきます。
それによって、「ひかりの輪」が、アレフを脱会するまでに、どのようにして麻原の依存から脱却してきたかの、詳細の事実をおわかりいただけると思います。
具体的には、
・麻原を絶対とする盲信を排除し、
・現実的・合理的な考え方を持って、
・Aleph時代からA派(現Aleph)と対立しながら、
・麻原の危険な教え・政治上の主義・違法行為を、徹底して排除する改革を行い、
・段階的に麻原を相対化して、
・最終的に麻原の依存から脱却を果たしたという経緯です。
まず、【1】において総論を述べ、次に【2】において時系列にその言動を示し、次に【3】において「ひかりの輪」の思想について述べるものとします。
ひかりの輪がオウムではないことを示す裁判資料の目次
-----------------------------------------------------------------
【1】オウム脱却から「ひかりの輪」設立の経緯
1,総論
(1) 現実的・合理的・合法的性質を有する上祐の言動
(2)Alephでの上祐の合理的・合法的運営に反発した松本家
(3)A派(現Aleph)の麻原絶対視・違法性に反発したM派(上祐派・代表派)
①2000年1月:旭村事件
②2000年7月:シガチョフ事件
③2004年~2006年:三女ら麻原家族の訴訟詐欺疑惑
④2004年9月:ケロヨン事件
⑤上祐に毒を盛る議論をした疑惑
(4)両派対立の最大の争点「合理的・合法的な運営か、帰依と違法性の容認か」
(5)識者も認める「教祖(麻原)を使った宗教の穏健化のプロセス」
(6)2017年東京地裁判決も政治上の主義の消失と、M派とA派の帰依に対する解釈の違いを認めていること
(7)まとめ
以上のとおり、アレフ時代のひかりの輪設立前の上祐及びM派は、初期は、麻原の言葉を用いながら、違法性のない教団運営を実現しながら、徐々に麻原を相対化して、最後には麻原を否定・批判し、麻原・オウムの違法性を完全に否定するに至りました。 全体を通して見ることで、その事実を、確認することができます。
上祐及びM派の「実際の行動」は、公安調査庁等の主張とは正反対に、「ひかりの輪」は、違法行為に関しては、麻原に準ずる存在である松本家の者さえ批判し、公安当局に通報・告発することはおろか、時には協同捜査さえして、信者の違法行為を封じ込め、逮捕・受刑に追い込むことを繰り返してきました。
それを、麻原時代の教団から見れば、「教団側」ではなく、「国家・社会側」の立場に立って行動してきたために、アレフのA派からは「公安のスパイ」とまで噂される状態という揺るがぬ事実がありました。
【2】上祐及びM派(上祐派・代表派)の時系列別言動
ここでは、時系列別に、言動をまとめています。
(1)1989年8月頃:上祐が、麻原はじめオウム真理教の衆院選出馬に反対。
(2) 1989年9月:上祐が、麻原の毎日新聞社爆破計画や教団の敵対者の
ポア(殺害)に反対し、坂本弁護士事件の疑惑にも不満を呈する。
(3) 1990年:上祐が、麻原による熊本地検襲撃の発言に反対し、麻原の教団武装
化計画に対して協力するも、葛藤が強かったこと。
(4) 1995~1999年:一連の事件の発覚・麻原の逮捕と変調・予言の不的中などの結果、
紆余曲折を経て、上祐が、麻原を相対化し始めた。
(5) 1998年:上祐が、獄中から教団に事件の謝罪表明・被害者賠償を勧める。
(6) 1999年12月~2000年2月:上祐が刑務所から出所、教団に復帰、アレフ体制の発足。
(7) 2000年初期:上祐が、アレフ規約制定にあたり、麻原の指示に絶対的に従うとした
幹部信者を除名。
(8) 2000年1月:松本家の子女による、いわゆる「旭村事件」が発生。
(9) 2000年1月:教団に対して初の観察処分適用決定
(10) 2000年6月:ロシア人・シガチョフによる麻原奪還計画を、上祐が警察に通報し、
入国したシガチョフと警察と協力して監視して阻止。
(11) 2002年1月:上祐が教団代表に就任した。
(13) 2003年2,3月:上祐主導による教団改革の開始。麻原を含めた教団の事件関与を
明言、麻原と教団が主張してきた国家権力の陰謀説を否定。
(14)2003年3月ごろから、麻原の家族が再び教団に関与し始め、上祐の改革を批判し
てストップをかけ始め、週末を除き修行入り、教団活動の関与を禁
じられる。上祐失脚。上祐による教団改革の中止。
(15)2003年10月:上祐が教団から麻原色を排除したのは誤りとして、その責任を追及
する内容の幹部会が開催され、改革の反省と松本家の尊重を迫る。
上祐を毒殺するという話が反上祐のグループの中で出された。
(16)2003年10月:上祐が完全に修行入り。外部連絡を絶たれ幹部監視下の修行を強要。
(17)2003年10月:荒木が「上祐の改革は誤り、許されないグル外し」と「お話会」で
出家信者対象に何十回か連続開催。
(18)2004年5月:三女が、入学拒否した大学に対し、自分は教団と無関係と虚偽の
事実を述べて損害賠償請求訴訟を提起。
(19)2004年9月:正悟師全員(村岡以外)が上祐批判に疑問、上祐は活動復帰の意思。
(20)2004年9月:・ケロヨン事件(分派グループによる傷害致死事件)が発生し、
上祐らが警察と協力して解決。
・上祐らは、警察に相談の上、通報、グループの関係者を説得、
警視庁石神井警察署に自首させた。
・松本家は、警察への通報に消極的で、松本家側の信者は、
警察に通報し自首させた上祐らの対応を批判。
(21)2004年11月:松本家に軟禁状態に置かれた上祐が、活動復帰を一部幹部らに宣言。
(22)2004年11月:「教団の問題について考える会」が開催され組織的なM派が成立。
(23)2004年12月松本家の家族派が「上祐の指導部排除がグルの意思」と主張。
(24)2005年1月:M派が、「オウム事件は麻原・オウムが起こした事件で誤り」と主張。
(25)2005年5月:A派最高幹部が「公安調査庁は寄生虫」「権力を震え上がらせるだ
けの帰依を見せつけろ」等と説法。
(26)2005年5月:上祐らが戸隠神社地域での個人的修行を契機に、上祐攻撃が激化。
(27)2005年6月:在家信者も派閥形成が始まる。A派は、上祐の行為は「グル外し
で魔境」で、上祐や上祐を支持する出家信者と話すことの禁止を指導。
(28)2005年夏:M派は、会合でオウム事件の総括を促進。
A派は、100名以上の会合で「刑事裁判の検察の主張は信用できない」
等とし、上祐の行為は「グル外しで許されない」と批判、
「松本家を尊重すべき」と主張。
(29)2005年8月:M派の船橋道場長がA派の教団運営に従わないとし、
A派幹部が、大挙して船橋道場に来訪する騒動が発生。
(30)2005年9月:A派が、上祐を教団代表職から罷免する計画を立案。
(31)2005年9月:M派が、文書やブログで教団内に広く主張を訴える。
(32)2005年10月:M派の信者2百数十名が「アレフの活動が合法的、社会的に行な
われ違法で反社会的にならないよう要請」する文書をA派に提出。
(33)2005年10月:教団大阪道場の家主が、反社会的発言を繰り返す幹部のいるA派
を契約解除、家主は、上祐派を信頼すると居住を許可。
(34)2005年10月:中間派幹部を仲介人とし、A派とM派の代表者同士での話し合いは
平行線をたどる。
(35)2006年1月: 教団に対する。第2回観察処分期間更新決定。
(36)2006年1月: A派の、M派を解体する計画が判明。
(37)2006年3月: 上祐らM派スタッフが京都・広隆寺の弥勒菩薩を拝観、
麻原脱却へ大きな心境の変化が生じた。
(38)2006年3,4月: A派とM派の代表者間で、経済問題を話し合う会合が開催。
(39)2006年2月~4月:松本家の「裁判詐欺疑惑」の高まりと、M派の脱会の宣言。
(40)2006年4月: 3月27日に麻原の控訴棄却で、死刑の可能性が高まり、
上祐は、信者らに、「麻原は死刑執行の可能性が極めて高く、
「麻原が刑死せず、復活や予言を信じるA派」は妄想的であり、
現実的・合理的・合法的な活動をするために、
別の団体の検討を始めていると説いた。
(41)2006年4,5月:上記の両派の合意情報が一部曲がって外部に流出、
上祐が新教団設立に動くと大きく報道される。
(42)2006年5月: 上祐が、教団内の出家信者(A派含む)に対する説明会
(新教団発足の報道内容の真偽、M派の思想)を開催。
主な内容は、
・「麻原を信じなければ救済されない」ということはない
・「麻原の現人神(あらひとがみ)信仰」は危険
・オウム真理教の位階制度を熾烈に批判
・オウム・アレフ教団が魔境
・麻原だけからイニシエーションは生み出されるものではない
・麻原の位階制度は、あまりにも単純
・麻原の解釈したキリスト・絶対者の弥勒菩薩(マイトレーヤ)は、
「オウム教団の問題」を表しており、上祐が目指すものは、完全で
はなくて、不完全な存在としての菩薩であること。
・「麻原の絶対視」は、「自分達の絶対視」。やめる必要がある
・人は、はまると馬鹿なこと(一教団が政権取ること)をやってしまう
・裸一貫にならねば、誰かに頼っていては、真っ当な道を行けない
以上の上祐の、多数のAleph信者に対しての言動は、公安調査庁作成の上記証拠からも明らかです。
(43)2006年7月: M派とA派が、居住区域及び会計を完全に分離。
(44)2006年9月15日:麻原の死刑判決が確定。
上祐らM派が「死刑判決は当然」と報道各社にコメント。
(45)2006年11月: M派において、麻原の著作をはじめとする
オウム真理教・Alephの教材の全面破棄を決定。
(46)2007年1月: 上祐が麻原への絶対的な帰依を否定、自立を宣言・推奨する講話を行う。
(47)2007年3月~5月: 2007年3月に、M派はAlephを脱会し、準備期間を経て、同年5月に「ひかりの輪」を発足。
【3】新団体の理念を説いた2007年以降の上祐の講話等の概要
【4】アレフ(及び麻原の家族)と激しく対立してきた事実(「ひかりの輪」が様々な点で麻原への(絶対的な)帰依に違反していること)
【5】「ひかりの輪」とアレフが、長年の深い断絶と対立の関係にあること
【6】「麻原を王とする」政治目的を有さず、そのための違法行為を否定してきた事実