ひかりの輪への観察処分を認めた東京高裁判決(2019.2.28)の不合理さについて
(2019年2月28日)
「ひかりの輪は、オウム真理教の後継団体ではないのに、なぜ公安調査庁の観察処分を受けていて、裁判所もそれを認める判決を出しているのですか?」という質問が、しばしば寄せられますので、以下にお答えします。
●東京地方裁判所は2017年に観察処分を取り消したこと
まず、2017年に、東京地方裁判所は、ひかりの輪への観察処分を取り消す判決を下しています。 ひかりの輪が、麻原の意思に基づいて設立された団体とは認められず、現に当初から麻原への帰依を否定しており、麻原への帰依を続けるアレフと対立関係にあり、オウム真理教の後継団体であるアレフとは別個の団体であると認め、観察処分を違法として取り消したのです。 その詳細は、こちらの記事をご覧ください。
●東京高等裁判所は不合理な理由で東京地裁の判決を2019年にくつがえしたこと
この東京地裁の判決に対して、国は不服を申し立て、東京高等裁判所で控訴審が開かれました。 その結果、2019年2月28日、東京高裁は、ひかりの輪への観察処分は適法であるとして、先の東京地裁の判決をくつがえしました。さらに、最高裁判所も、この高裁判決を実質的な審理なく、そのまま支持したため(最高裁は一般的に事実関係に踏み込んだ判断はしないため)、この高裁判決は確定しました。 現在継続している観察処分も、実質的に、この東京高裁判決を踏襲して行われているものですが、この判決が不合理なものであることは、以下の通りです。
●問題となった「オウム真理教の教義」とは何か?
現在行われている観察処分とは、「オウム真理教の教義を広め、これを実現すること」を目的とする団体に対して行われるものです。 ですから、ひかりの輪が「オウム真理教の教義」を有しているかどうかという点が、まず裁判で検討されるべきなのですが、では、この「オウム真理教の教義」とは何かというと、裁判所や国(公安調査庁や公安審査委員会)は、おおむね次のように述べています。
(1)麻原への絶対的帰依を培う。
(2)殺人をも肯定するタントラ・ヴァジラヤーナを最上位に位置付ける。
(3)麻原を王とする祭政一致の専制国家を構築するという政治上の主義と密接不可分に結び付いている。
特に、国は裁判において、(1)については「麻原に対する絶対的な浄信と帰依を培う」ものであることを強調しており、(3)については「(オウム真理教の教義がいう)『衆生救済』は、麻原の唱える理想郷の建設、すなわち麻原が独裁者として統治する専制国家体制の樹立を意味しているのである」と述べています。
このように、上記(1)~(3)の3点こそが「オウム真理教の教義」の特質ともいえるのであり(以下、この記事では仮に「オウム真理教の教義の3大特質」といいます)、ひかりの輪が「オウム真理教の教義」を広め実現することを目的としているか否かは、ひかりの輪の思想の中に「オウム真理教の教義の3大特質」が含まれているか否かという観点のみから厳格に判断されなければならないものです。
●「大黒天やミシャグチ神を通して麻原を崇拝」という不合理な判決
では、まず、ひかりの輪に「オウム真理教の教義の3大特質」の1つ目=「(1)麻原への絶対的帰依を培う」教義があるのかという点について、どう判断されたか見てみましょう。
東京高裁判決は、ひかりの輪が、仏教ではごく一般的な大黒天や、長野県諏訪地方で信仰対象とされてきたミシャグチ神を通じて麻原を崇拝しているという公安調査庁の不合理な主張を、そのまま安易に追認してしまっているのです。
麻原がかつて自分自身をシヴァ神になぞらえたことがあり、シヴァ神が仏教に取り入れられて大黒天となったのだから、すなわち、大黒天=シヴァ神=麻原であるから、大黒天を通じて麻原を崇拝しているに違いないという不合理な「理論」です。
また、ミシャグチ神についても大黒天と同一視しているとして、すなわち、ミシャグチ神=大黒天=シヴァ神=麻原であるから、ミシャグチ神を通じて麻原を崇拝しているのだろうという、まるで連想ゲームのような不合理な「理論」です。
そして、大黒天やミシャグチ神に対する「崇拝」の事実として具体的に挙げられたのは、以下の事実です。
①大黒天の象徴物、仏画、写真等を施設内に掲示していた
②大黒天と同一視できる三仏(釈迦・観音・弥勒)を施設内に掲示していた
③ミシャグチ神の象徴物や写真を施設内に掲示していた
④ミシャグチ神を祀る場所(長野県の諏訪大社等)を繰り返し訪問した
⑤東京本部施設の「厨子」の中にミシャグチ神(石棒)の写真を保管していた
⑥ミシャグチ神を祀る長野県の神社(御頭御社宮司総社)の写真を団体施設に掲示・保管していた
しかし、ひかりの輪が、大黒天やミシャグチ神を麻原やオウム真理教におけるシヴァ神と位置付けたことはありません。もちろん、ひかりの輪の活動に参加する多くの会員も、大黒天やミシャグチ神を麻原と見立てたことなど全くありません。 むしろ逆に、ひかりの輪では、それらを麻原やオウムへの反省・克服の象徴として明確に位置付けてきました(それを裏付ける詳しい証拠も提出済み)。
オウム真理教の思想に詳しく、ひかりの輪についても深く研究した宗教学者・大田俊寛博士も、ひかりの輪における大黒天が麻原とは関係ないことを意見書(裁判所に提出済)において詳細に述べています。
そもそもひかりの輪は、一貫して、オウム真理教及び麻原の過ちを批判的に総括し、徹底した「反麻原」の活動を展開してきました。こうした取り組みの結果、ひかりの輪は、これまで150名以上のアレフ信者を麻原への信仰から脱却させ、脱会に導いてきました。これらの実績は、数多くの外部識者や、ひかりの輪外部監査委員会等も等しく認めるところです。
その「反麻原」の姿勢については、東京地裁判決においても、「松本(麻原)に対する絶対的帰依が否定されており」「原告(ひかりの輪)とAlephの性格は相当に異なるものとなっている」と認定されているとおりです。
さらには、国ですら、ひかりの輪が「執拗な松本(麻原)批判」を行い、「松本(麻原)に対する否定的な感情を抱く」ことをしていると裁判で認めざるをえないほど、徹底したものです(控訴審における国の準備書面より)。
こうした「反麻原」の事実を裏付ける膨大な事実と証拠があるにかかわらず、それでも、そのような証拠をあえて無視してでも、ひかりの輪が麻原に帰依し、崇拝していると認定するためには、普通の人が見ても納得できるだけの相当な証拠が本来は必要なはずです。
ところが、東京高裁が認めた証拠とは、大黒天やミシャグチ神を通じてひかりの輪がシヴァ神=麻原を崇拝しているという荒唐無稽なものですが、その実態も、上記①~⑥の通りであり、特に⑤にいたっては、ミシャグチ神の象徴である石棒の写真が普段使っていない物(中古の電話機等)を納めた箱(以前は厨子として使っていたもの)の中に一緒にしまってあったとか、④のようにミシャグチ神が祀ってある一般の神社(諏訪大社等)に行ったとかいう程度のものであって、およそ不合理といわざるをえないものばかりなのです。
●「日本の死刑制度を認めているから殺人肯定の危険教義がある」という不合理な判決
次に、ひかりの輪に「オウム真理教の教義の3大特質」の2つ目=「(2)殺人をも肯定するタントラ・ヴァジラヤーナを最上位に位置付ける」教義があるのかという点について、どう判断されたか見てみましょう。
大まかには、①上祐代表が殺人を肯定する教義を説いた、②ひかりの輪の複数の会員も危険な教義を肯定した、③ひかりの輪がオウム真理教の危険な教義が記された書籍を保管していた、というものです。
しかし、①については、取り上げられた上祐代表の発言は、いずれもタントラ・ヴァジラヤーナの危険性を説いたものであって、肯定するものでは決してありません。
たとえば、殺人を認めるタントラ・ヴァジラヤーナのような教義は、麻原や一般の人は絶対に行ってはならないことと明言した上で、人を殺すことが国家において許されるとすれば、それは裁判官のような司法機関だけであると上祐代表が述べたものであって、いわば日本国家における死刑制度を認めたものです。
また、生きていく上での肉や魚を食べるための殺生はやむを得ないと述べたりしたものです。
つまり、死刑制度や猟師・漁師の殺生はやむをえないと述べたことが、殺人を肯定する危険なタントラ・ヴァジラヤーナの教義を保持しているという根拠にされているのです。
②については、危険な発言をしたとして取り上げられた人物の一人は、調べてみたところ、そもそもひかりの輪の会員ではありませんでした。実際には、ひかりの輪によって、オウム信仰からの脱却の支援を受けていた人だったのです。
また、他にも、ひかりの輪の会員とされる人物の発言も取り上げられていましたが、その発言は、「オウムはけしからんので、タントラ・ヴァジラヤーナ、こういう危ないことをやっている」というもので、文面上も明らかにオウムやタントラ・ヴァジラヤーナを批判しているのにもかかわらず、なぜか「危険な教義に理解を示している」という正反対の趣旨に解釈されているのです。
そもそも、国から提出された証拠には、そのように話したという人物の署名・捺印はなく(もちろん氏名は伏せられていて)、単に公安調査官が、「このような話をひかりの輪の会員から聞いた」と書いているものにすぎず、本当にそのような話があったのか、そのような「会員」が実在するのか、というレベルの信用性が非常に低い証拠なのです。
③については、確かに、ひかりの輪では、オウム真理教の書籍・資料を一セット厳重に保管しており、それは公安調査庁にも自ら進んでその保管場所も含めて報告しています。 しかし、その目的は、この裁判のようなオウム真理教の教義が関係する裁判等の法的手続や、アレフの著作権問題(現在、被害者組織が所有しているオウム関連書籍の著作権をアレフが侵害し、勝手にオウム書籍を印刷し、信者に頒布している問題)の解決に使用するものであって、これらの用途以外に用いられたことはなく、そこに記載された危険な内容がひかりの輪の思想・教義として導入されているものでは全くなく、それを裏付ける証拠も国から提出されていません。
現に、東京地裁判決では、これらのオウム教材は、麻原の著作物をアレフが使えないようにするために、ひかりの輪が被害者組織に協力するために活用していることが事実認定されています。すなわち、アレフが危険な教義を流布することを阻止するために、ひかりの輪はこれらの教材を活用してきたのです。
にもかかわらず、東京高裁判決は、これらのオウム教材の存在をもって、ひかりの輪がオウム真理教の危険な教義を維持しているというのです。 前記の通り、ひかりの輪では、オウム真理教の危険な教義を総括、否定し、その流布を阻止するための活動を一貫して行ってきましたし、それを裏付ける大量の主張と証拠を裁判所に提出しました。にもかかわらず、そのような事実を無視して、上記①~③のような事実をあげて、危険な教義を有している根拠としているのです。
●「麻原の王国をつくるという政治目的がある」という理由は示されなかった不合理な判決
最後に、ひかりの輪に「オウム真理教の教義の3大特質」の3つ目=「(3)麻原を王とする祭政一致の専制国家を構築するという政治上の主義」があるのかという点について、どう判断されたか見てみましょう。
実は、この点については、明確な理由は全く示されていないのです。 東京高裁判決は、「『タントラ・ヴァジラヤーナ』等のオウム真理教の教義は本件政治上の主義と密接不可分に結び付いていたと認められ、被控訴人(ひかりの輪)においても、そのような教義を継承・維持しているものと認められる」と述べているだけなのです。
しいていえば、上記のように、「大黒天の仏画をかけたり、ミシャグチ神(石棒の写真)を箱に入れて保管したり、諏訪大社に参拝したりして、麻原に対して絶対的な帰依を培い、死刑制度や肉・魚を食べるための殺生を肯定しているのだから、オウム真理教の教義を実践しているということができ、オウム真理教の教義の中には、麻原を王とする王国を樹立することが含まれているのだから、ひかりの輪も、そのようなオウム王国建設という政治目的を持っているに違いない」という論理なのだと思われます。
ひかりの輪がそのような政治目的など持っていないこと、むしろ麻原は死刑になる(つまり王などになるわけもない)と早くから団体内部でも主張していたことは、多数の証拠を提出しましたが(むしろ公安調査庁が作成した証拠の中に、それを裏づけるものさえあったのです)、それを全て無視して、このように結論付けられているのです。
以上の通り、「オウム真理教の教義の3大特質」がひかりの輪にあるという公安調査庁の主張や、それを追認した東京高裁判決は、まことに不合理なものといわざるをえないのです。
●「危険性のない一般的な仏教・ヨーガを扱っていてもオウムの教義」とされる不合理な判決
上記のような「オウム真理教の教義の3大特質」以外にも、ひかりの輪が危険性のない一般的な仏教・ヨーガを扱っていても、それはオウムもやっていたことだからという理由で、オウム真理教の教義を実践しているとも、判決の中で示されています。
具体的には、ひかりの輪が「四つの柱」という修行体系、すなわち、①「教学」、②「功徳」、③「行法・瞑想修行」、④「イニシエーション」を有しており、これがオウム真理教の教義と共通しているというのです。
しかし、これらは、何らオウム真理教に特有のものではなく、日本の内外で一般的な仏教・ヨーガの徳目であったり、またはそもそもそれを裁判所が曲解しているものなのです。
◎「教学」について
まず、①「教学」については、ひかりの輪の教本の内容に、麻原の説法と類似の内容が含まれているというのですが、それは、たとえば、苦しみを耐えて乗り越えようという、一般的な仏教で重要視される徳目の話にすぎません。
また、ひかりの輪が「八正道」「四預流支」「四念処」「六波羅蜜」の考え方を説いている点も、オウムを継承していて同じであると指摘されていますが、これらも全て、オウム特有の教えでもなければ、危険な教えでもなく、仏教のごくごく一般的な教義にすぎません。 麻原も、これらについて説法で触れていたことがあるから、ひかりの輪がそれらに触れれば、それはオウム真理教の教義を実践していることになるという「理論」なのです。
◎「功徳」について
次に、②「功徳」については、ひかりの輪ではオウム真理教と同じ「功徳」を目的とした出家制度を維持していると判決で指摘されているのですが、ひかりの輪では出家制度を採用しておらず、単に経済的理由により生活互助を目的としたごく小規模な集団生活をしているのみであって、それを仮に出家と呼ぶか否かは別としても、「功徳」を目的になどしておらず、それを裏付ける証拠も、国からは何も提出されていないのです。
そもそも、功徳という概念自体が、一般的な仏教に基づくものであって、オウム真理教特有の教えでもありません。
◎「行法・瞑想修行」について
次に、③「行法・瞑想修行」についても、判決で取り上げられているヨーガや瞑想、呼吸法などは、いずれも日本の内外の仏教・ヨーガの世界では一般的なものであって、オウム・麻原特有のものではありません。
また、「麻原の説法内容の要約」であるひかりの輪の経文を、オウム真理教のマントラ同様に繰り返し唱えていると判決で示されており、その具体例として、麻原も説いていた「感謝」や「愛」が、ひかりの輪の経文に含まれているというのです。
しかし、感謝や愛の実践を行うことは、オウム真理教特有のものではないことはむろん、一般的な宗教に限らず、ごく当たり前の倫理・道徳として広く社会で勧められていることであって、これをもって麻原の説法と類似しているというのは不合理と思われます。
◎「イニシエーション」について
最後に、④「イニシエーション」についてですが、ひかりの輪で行っているヒーリングや、神社仏閣・自然の中を訪れる聖地巡りが、オウム真理教において麻原のエネルギーを注入するイニシエーションに当たるものであるとされています。 美しい鐘の音を聞いてリラックスしたり、一般の神社仏閣や自然の中を巡ったりすることで麻原のエネルギーを受けているということなど、あるはずもなく、これも、全くのこじつけといわざるをえない認定です。
●一般的な仏教・ヨーガ・聖地巡り・思想探究をするだけで「オウム」とされている事実
以上のように、この東京高裁判決に従えば、ひかりの輪は、たとえば次のような実践をすることによって、今後も「オウム真理教の教義を広め、これを実現すること」を目的としていると認定され、観察処分が継続することになります。
1,ごく一般的な仏教や神道の神仏である釈迦・観音・弥勒・大黒天・ミシャグチ神及びそれらの神仏と関係があると指摘される恐れがある神仏(例えば大黒天と読みが同じになるため一般に同視されることが多い神道の大国主命など)の像(立体像、画像など)、ならびに、ごく一般的な神道の神社である諏訪大社・御頭御社宮司総社及びそれらと関係があると指摘される恐れがある寺社の画像を掲示したり、保持したりすること。
2,上記1に挙げた、ごく一般的な仏教や神道の神仏を参拝したり、それらの神仏と関係がある、または関係あると指摘される恐れがあるごく一般的な寺社を参拝したりすること。
3,八正道、四預流支、四念処、六波羅蜜などの、ごく一般的な仏教の教義の話をしたり、指導したりすること。
4,他者への「感謝」の実践や、全ての存在を「愛」する等の、ごく一般的な道徳や倫理に属する思想の話をしたり、指導したりすること(たとえば「両親にありがとうと感謝を述べよう」等という話すら、麻原の教義となり、抵触する)。
5,ごく一般的なヨーガの修行である瞑想、マントラ、呼吸法等の修行法を実践したり、指導したりすること。
6,ごく一般的なヒーリングを行うこと。
7,ごく一般的な仏教・神道の寺社及び自然景観に勝れた地などを「聖地」と認め、訪問すること。
8,国家による死刑制度や、猟師・漁師による殺生を、やむをえないものとして容認すること。
現に、以上のような行為が、「オウム真理教の教義」に基づくものとされ、ひかりの輪への観察処分が継続しているというのが実態なのです。
●「麻原の意思に従って設立された団体ではない」という東京地裁の重要な事実認定を無視した不合理な判決
また、この東京高裁判決は、ひかりの輪が、組織の存続を求めた麻原の意思に従って設立された団体であるという公安調査庁の主張を追認しており、それを否定した東京地裁判決の重要な事実認定を無視するという不合理なものとなっています。
つまり、公安調査庁は、
「「ひかりの輪」は、平成19年5月、「Aleph(アレフ)」の前身組織である「宗教団体・アレフ」の代表などを務めた上祐史浩が、組織の存続を求めた麻原の意思(※)に従って設立した団体である」
と述べており、さらに、
「※麻原は、地下鉄サリン事件後の平成7年5月、法務大臣が団体に対して破壊活動防止法の適用を検討する旨を表明したことを受けて、団体が存続できなくなる事態を危惧し、幹部構成員に対して、①団体の危険性を除去したように仮装すること、②組織を分割して、一方の組織の存続が困難となった場合にもう一方の組織がその受皿となれるよう準備することを指示しました。」
と付記しています(同庁のHPなどより)。
しかし、ひかりの輪は、麻原の意思に従って設立された団体ではありません。
前述の通り、2017年の東京地方裁判所の判決は、
「原告(ひかりの輪)の設立は、別団体を組織して、別団体との間で役割分担しながら活動することを求めていた松本の意思に従ってされたものであるとまでは認めることができない。」
と判示しています。
確かに、公安調査庁が述べているように、麻原は平成7年(1995年)に、別団体を作るような指示を出したことはありますが、ひかりの輪の設立は、その指示とは全く無関係なのです。
それは、前記の通り東京地裁も認めているとおりですが、麻原の指示内容をよく見れば、ひかりの輪が、麻原が設立を指示した別団体では全くないことが、よりいっそう明らかになります。
というのも、麻原は、破壊活動防止法の適用によって団体が存続できない非常事態が生じた場合、麻原の家族らとよく話し合った上で、「衣替え」した別団体、すなわちオウム真理教が信仰していたシヴァ神やその化身とされた麻原への帰依を培う別団体を作るように指示していたのですが、ひかりの輪は、その指示に全く反したものとなっています。
ひかりの輪は、破壊活動防止法の適用の可能性が皆無となっていた2007年に、麻原の家族らとの話し合いなど全くないまま(むしろ麻原信仰を維持しようとする麻原の家族らと激しく対立した結果として)設立されたものであり、シヴァ神や麻原への帰依を培うどころか、正反対に麻原への徹底的な批判を行い、麻原を信じるアレフ信者らを脱会させたり、アレフへの入会を阻止したりする活動を展開してきましたから、麻原が意思した別団体とは到底いえないものなのです。
その詳細については、こちらの記事をご覧下さい(麻原からのメッセージの原文を付けて詳細に説明しています)。
以上が、東京高裁判決の概要ですが、このような不合理な判決は容認できないので、ひかりの輪は最高裁判所に上告(ならびに上告受理申立て)をしました。しかし、最高裁判所は、事実認定に関する判断は実質的には行わないため、2020年に上告等は棄却されました(日本では「形式的には三審制だが、実質的には二審制」といわれるゆえんです)。 よって、この東京高裁判決が確定し、この判決に沿った観察処分が現在でも継続しているのです。
●東京高裁判決が不合理であることは、公安調査庁内部からの証言や東京地裁判決からも明らかであること
以上のような東京高裁の判決が不合理であることは、多くの人の目にも明らかなことだと思います。 それは、一審の東京地裁が、観察処分を取り消す判決を最初に出したことからもわかりますが、公安調査庁の内部においても、東京地裁によって取消判決が出されることを予想するほど、ひかりの輪への観察処分には無理があると考えられてきたのです。
それは、35年間務めた公安調査庁を退職した後、ひかりの輪の外部監査委員を3年間にわたって務めた元公安調査官が証言されています。 元公安調査官は、2017年に、次のように証言されています。
観察処分取消訴訟の判決に対する庁内の反応
ひかりの輪は2015年に観察処分の取消しを求める訴訟を東京地裁に提起し、本年9月、同地裁は、ひかりの輪の請求を認めて、同処分を取り消す判決を出しました。 この訴訟について、公安調査庁の内部では、昨年くらいから、末端職員から幹部に至るまで、「今度のひかりの輪の裁判に関しては(観察処分が取り消されるだろうから)危ないだろうな」という声が、少なからずありました。特に、現場に近ければ近いほど、そういう感覚が濃厚でした。 ですから、今回の判決について多くの職員たちは、「むべなるかな」「出るべくして出た判決だ」と、そんな冷めた反応であるようです。(意見書より)
このことから、ひかりの輪への観察処分には相当な無理があることが公安調査庁内部でも共通認識だったことがわかるのであり、現にその通り、一審の東京地裁は観察処分を取り消したのでした。 しかし、上記の通り、東京高等裁判所は、相当に不合理な事実認定を重ねた上で、東京地裁の判決をくつがえしたのです。
●東京高裁の不合理な判決の背景と、今後の団体の方針
なお、ひかりの輪への観察処分を最初に取り消した東京地裁の判決が、特別に異常だったというわけではありません。
それは前記の通り、取消判決が出るだろうと公安調査庁内部でも事前にささやかれていたことからも明らかですし、取消判決を出した東京地裁の裁判長は、最高裁判所事務総局の行政課長を経験し、現在は最高裁判所の上席調査官を務めるほどの非常に優秀な経歴を持つ裁判官ですので、その事実認定や法解釈は、きわめて正当なものだったと考えられます。
現に、裁判官に詳しい、ある大手マスコミの司法記者も、「あの裁判長は"政治色"がない、良い裁判官ですよ」と、地裁判決後に、ひかりの輪の関係者に語っていました。 逆をいうと、東京高裁での控訴審の判決では「政治色」が出たということではないかと思います。
一般的に、国を相手にした行政訴訟では、地裁よりも、高裁において、より「政治色」が強く出る、つまり、事実認定や法解釈のレベルを超えた判断、たとえば「判決が社会に及ぼす影響」などを考慮した判断が出るといわれています。
ひかりの輪の訴訟においては、やはり、一連のオウム事件によって、いまだに苦しんでいる被害者の方々がいらっしゃることや、ひかりの輪のみならずアレフも含めた地域の住民の皆さんのご不安というものも考慮した上での「政治的判断」も加わったものと考えられます。 それが、上記のような不合理な事実認定の背景にあるものと考えられます。
ひかりの輪としましては、今後も、公安調査庁等から主張される事実について、事実ではないことは事実でないこととして、冷静に司法手続等の場で訴えていく予定ですが、このような東京高裁判決の背後にある、市民の皆様が抱いているひかりの輪への不安や誤解を払拭していけますよう、今後とも努力してまいります。