【5】ひかりの輪とアレフが長年の深い断絶と対立の関係にあること
(2019年2月28日)
前の記事に引き続き、ひかりの輪が観察処分取り消しを求めて裁判所に提出した書類を、以下に掲載します(読みやすさやプライバシー等を考慮して、一部、削除したり伏字にしたりしている箇所があります)。
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【5】アレフ(及び麻原の家族)と激しく対立してきた事実
2 「ひかりの輪」とアレフが、長年の深い断絶と対立の関係にあること
上記の通り、麻原への帰依に反してきた「ひかりの輪」に対して、アレフ(Aleph)は、「ひかりの輪」発足以前の2003年(平成15年)頃から、上祐らを「麻原隠し」ではなく「グル外し(=脱麻原・反麻原)」として厳しく批判・排除し続け、その一方で、「ひかりの輪」も、麻原・alephを批判して、その反対活動を行ない、両者が15年に渡る長年の深い断絶と対立の関係にあることを以下に述べる。
(1)「ひかりの輪」の発足以前から、麻原の家族をはじめとするAlephの多数派(=A派)が、上祐ら(M派)の言動をグル外し・グル否定・大悪業・魔境などと厳しく批判し、上祐ら(M派)と、上祐らに一定の理解を示した中間派の者達まで、教団活動から厳しく排除したこと
この点に関しては、一審のひかりの輪準備書面(6)・第1で主張したが、国も、松本家を初めとするA派が、上祐らM派や中間派を厳しく批判し、麻原への絶対的帰依を徹底して行った事実に関しては、多くの自身の証拠(証拠)をもって立証し、これに基づいて、時系列的には、以下のように、一審の判決は認定した。
松本の妻であり正大師の位階にある松本知子が、平成14年10月に刑務所を出所すると、従来の活動形態を維持し、松本を全面に出して活動することが松本に対する真の帰依であるとして「麻原隠し」に反対する姿勢を示して、松本の三女麗華と共に、Alephの組織運営に介入するようになり、上祐の「麻原隠し」による組織運営も新規構成員の獲得や財務運営面で功を奏しなかったことから、上祐の活動方針に反対する者が増加していった。
このため、上祐は形式的にはAlephの代表者の地位にとどまったものの、平成15年6月頃から、修行入りと称してAlephの運営に実質的に関与しなくなり、同年7月頃に麗華と話した際には、麗華は、上祐は修行が足りないので教団運営は任せられない、自分がやると述べた。
(中略)
上祐は、同月28日頃、Aleph幹部70名程度の前で謝罪の意を表明し、以降、麗華を中心とした松本家の組織運営に対する関与が強まっていった。Alephは、平成15年10月頃に、正悟師の位階にある村岡、二ノ宮耕一、野田成人、杉浦×及び杉浦×の5名による集団指導体制(中略)に移行、松本への絶対的帰依を強調し始めた。
(中略)
上祐は、平成16年11月頃から再びAlephの運営に関与するようになり、Aleph内にも、上祐の考えに賛同する者を中心とした一派である「上祐派」(M派)と、上祐の方針に反対する「反上祐派」(A派)が存在し、他方、上祐派として活動するまでには至らないものの、これに理解を示す「中間派」と呼ばれる構成員も存在していた。(証拠)
(中略) こうした上祐の活動に対し、Alephの集団指導体制を構成する5名の正悟師のうち、村岡、野田成人、杉浦×及び杉浦×の4名は、上祐の考えに理解を示すなどし、村岡は、平成18年9月16日、上祐に別団体を組織してほしくないが、組織した場合は、Alephとは持ち株会社のような連合体として役割分胆をしながら活動していきたいという考えを表明するなどしていた(証拠)。しかし、上祐派とA派の対立は決定的なものとなり、平成18年には、東京都世田谷区南烏山所在の複数の施設は、それぞれが別の建物を管理使用することになった(証拠)。
また、村岡ら正悟師による集団指導体制も、師の位階にある中堅幹部構成員らが、村岡らが上祐派に歩み寄ったこと等に反発するなどして、機能しなくなったことから、Alephは、平成18年7月、師クラスの中堅の構成員30名からなる「合同会議」を設置し、Alephの意思決定を行うようになった(証拠)。(中略部分の概要:平成19年3月に上祐らはAlephを脱会、5月にひかりの輪を発足)
Alephでは、中堅幹部構成員らが、上祐派に歩み寄ったとして、二ノ宮耕一を除く4人の正悟師を排除する動きを強めたことから、平成19年7月に杉浦×と杉浦×が脱会し(なお、杉浦×は、教本の編集等を巡って知子と対立していた(証拠)、野田成人及び村岡が役員を辞任し(証拠)、これら中堅幹部構成員らを中心に、大音量で松本の説法の映像を長時間連続視聴させる「特別ビデオ教学セミナー」などを実施するなど、松本への帰依を徹底していった。(一審の判決p45~53)
そして、この事情を一つの理由として、一審の判決は、前に述べたとおり、「ひかりの輪」が麻原の意思として設立されたものとは認められないことを認定した(判決p94の7行)。さらに、この事情に加えて、「ひかりの輪」側も、麻原・Alephを様々な媒体で批判したり、Aleph信者の脱会支援や、著作権問題を追及しているなどの反Aleph活動をしている事実をも含めて、「ひかりの輪」とAlephは対立関係であり、一つの団体とは認められない(同p95)と判断したのである。
(2)麻原の家族をはじめとするA派・Alephが、上祐らを「麻原隠し」と批判したのではなく、「麻原外し」「麻原否定」「麻原に対する帰依に反する」「外道(麻原ではない教え)、大魔境、大悪業をなしている、無間地獄に落ちる」として、厳しく批判・排除したこと。
前記で述べたとおり、アレフでは、麻原の教え・指示に基づいて、麻原の子供が麻原に準ずる存在であり、上祐ら幹部たちよりも上の権限・権威を持っていた。
そして、麻原の家族らは、上祐や、当時中間派と呼ばれた正悟師達も含め、麻原の家族を教祖に準ずるものとして全ての信者の上に置くとした麻原の教え・指示があるにもかかわらず、自分達に従わない者たちについては、幹部信者多数に指示して、教団組織を挙げて、グル外し・グル否定・魔境と厳しく批判して、教団の活動から排除するとともに、上祐らの活動に参加すれば、「グルとの縁が切れる」「無間地獄に落ちる」として、上祐らに接してはいけないという方針を教団全体に徹底していった。
なお、ここで重要な事実は、国は、麻原の家族をはじめとするA派・Alephが、上祐らを「麻原隠し」と批判したのではなく、「麻原外し」「麻原否定」「麻原に対する帰依に反する」「外道(麻原ではない教え)」、大魔境、大悪業をなしているとして厳しく批判・排除した事実を隠していることである。
これは、すでに主張・立証したが、それに加えて、以下の多数の証拠を提示して、補充することにする。以下の通り、麻原の家族やA派の幹部信者、当時の中間派の幹部信者、上祐らM派の幹部、さらには、末端の在家信者の証言など、教団の全体において確認することができる。
① 松本麗華:麻原の三女・皇子・正大師
松本麗華は、自身の著書『止まった時計』で、以下のように、上祐が麻原の意思だと言いながら、麻原の名を勝手に使い、自分に都合がよいように変えたり、麻原を抹消(麻原外し)、利用したので、決別したと述べている(証拠)。
○「自分に都合がよくなるよう麻原の説法を改変、麻原の存在自体を抹消しようとした」
母の元部下から、上祐さんは本のコピーだけでなく、自分に都合がよくなるような、父の説法の改変もしているということも伝わってきました。(中略)
上祐さんに訪ねると、「説法の改変などしていない。社会融和のため、危険だと言われるところをカットしているだけだ」と言われました。(中略)上祐さんの言葉と行動の違いは、わたしを大いに混乱させました。上祐さんは、「尊師のためだ。尊師の教えを広めたくないのか」と言いながら父の存在自体を抹消しようとした
○「麻原の名を使って「グルの意思だ」と言いながら、麻原の教えを自分に都合がいいように変えた、上祐には信仰がないのか」
なぜ彼は自分の経験したことを説かず、父の名を使って「グルの意思だ」と言いながら、父の書いたもの、父が経験したことを、自分の都合がいいように変えるのだろう。権力、名声を得たいの?
なぜ動揺もなく戒律で禁じられた嘘がつけるのだろう。もしかして上祐さんには、信仰がないのだろうか。もしそうなら、なぜ自分で一から新しい宗教を作ろうとしないのだろう。悩んだ末、わたしは彼の言葉ではなく、行動を見ることにしました。
○「上祐の味方ではいられない、上祐はアレフを自分のものにしようとしている」
さよなら上祐さん:「もう上祐さんの味方ではいられない...」わたしの考えが変わった2003年春(中略)。母(知子)は、オウムは自分が父と一緒に築きあげてきた教団だと思っており、上祐さんが、オウムの後継団体アレフを自分のものにしてしまおうとする姿を見て、自分が関与しなければ教団が変わってしまうという危機感を持ったようです。
② 野田成人:当時の中間派の正悟師(最高幹部)の一人
野田成人は、国の証拠(証拠)の陳述書の中で、以下のように述べている。
「知子から、上祐は、教団の運営については正悟師会議で決めろという「麻原の指示」を「蔑ろにしつつある」ので、正悟師達が行うよう指示があり、グルを意識できなくなった教団のカルマを変えるため上祐のイニシエーションの中止が決まり、上祐の直属部署をなくすことが決まった。知子は、麻原の言葉「イニシエーションにふさわしくない人にイニシエーションしたのでは地獄に落ちるかもしれない」を挙げて、「外道のイニシエーションをやるとおかしくなる。上祐は自分の教義を構築しようとしている」と言った。」
「2003年7月18日に、三女が上祐の状態をチェックのため会った際、話し合いは長い間続き、一時水を飲みに部屋から出てきた時には、双方が怒って興奮している様子で、会談決裂という雰囲気がありありと伺えました。」
「2003年7月末から8月末に、麻原を表に出さない上祐の改革路線は間違いでグルの意思に合っていなかったことを、上祐に、幹部たちの前で謝罪させる流れになったが、調整には難航、家族らは「上祐とは話しても無駄」との印象を抱いており、双方の間で会話は全くなかった。全く意見が折り合わない上、電話やメールですら直接やりとりしない知子と上祐の間を十往復くらいし、謝罪内容について野田が調整役になった。」
さらに、別の国の証拠でも、野田の陳述において、「2003年、知子は「上祐は麻原に意識が向かっていない(麻原に帰依していない)」という趣旨のことを野田宛にメールで書いていることが確認できる(証拠)。
また、野田は、国も証拠提出している自身の著書『革命か戦争か』(証拠)において、以下の通り述べている。
〇三女は、上祐は教祖を蔑ろにし、自分が教祖になろうとしていると批判
「2003年の6月上旬、私は突然松本家の三女に呼び出されました。(中略)以前と変わらぬ命令口調でした。
「マイトレーヤ正大師(上祐の宗教名)のやっていることがおかしいの。彼の言うことを聞かないで、陰で私に協力して」
要するに彼女の主張は、上祐の教団運営を批判するものでした。教祖である父をないがしろにしていて、上祐自身が教祖になろうとしている、という内容です。嫌な予感が的中してためらう私に、彼女はこう言い放ちます。
三女「あんた重いわねぇー。男性の正悟師はやっぱりカルマ(業)が重いのかしら。村岡達子正悟師なんてすぐハッと気が付いたわよ。目が覚めましたって・・・」
教団内の上下関係は、すべて麻原が決めていましたから麻原の子どもは、すべての出家者の上のステージに置かれていました。その下に上祐らの正大師、さらに 下には私を含めた正悟師と続きます。こうなったらどんなにがんばっても血筋には勝てないというわけです。上には唯々諾々と従う。それが帰依であり、教団内で求められる秩序関係なのです。
「でも具体的にどうすればいいんでしょうか?」
「私が陰から教団に指示をするから、あなたはそれに従って。他の正悟師や師も従うって言っているから大丈夫。マイトレーヤ正大師の言うことは聞かないで。でも指示は私が出しているっていうのは、マイトレーヤ正大師にも秘密よ」
「はぁ・・・?」
「いい?従える?」
〇麻原の妻は、上祐は麻原の家族を裏切ったと批判「この話には正直うんざりしてしまいました。なぜなら、それまでの教団運営で三女ら麻原の娘の意向を優先させたが為に、99年の北御牧村のような騒動を招く ことになったからです。彼女たちが引っ込んで上祐体制になり、やっとまともな運営体制になったと安堵していたところにこの話です。ただこの時点では、まだ 私も麻原の娘に正面切って堂々と断れない情けない状態でした。 「本当にアーチャリー正大師が責任持ってくれるんでしょうか?」
出した指示に対して内部と外部両方に対してきちんと責任を持てなければ、権限をふるう資格はありません。教祖のわがままな娘にそれを期待することは無理だろうなと思いつつも、こう言質を取るくらいしかその時のわたしにはできませんでした。
「うん、私が責任持つから」
「わかりました・・・」
この一週間後、三女に再び呼び出しを受けて出向くと、今度は二女と麻原の妻・松本知子も同席していました。(中略)公判では、「麻原と離婚することも考えている」と発言した松本知子でしたが、そんな発言はどこ吹く風で麻原を担ぎ上げます。
「尊師の教えをきちんと守るなら上祐体制に全面協力するって言ってあげたのよ。それなのに裏切った。尊師を外して自分が教祖になろうとしている。許せない!」
すでにこの時点で、教団の正悟師であった村岡達子、杉浦×、×兄弟、二ノ宮耕一の4人は懐柔され、反上祐派として固まっていました。どうやら私が一番上祐 寄りと危惧されていたようで、説得懐柔されたのは私が一番最後でした。逆に一番過激だったのは、武闘派として知られる二ノ宮でした。「上祐のやっていることは絶対おかしいですよ!」
三女の問いかけに対して、二ノ宮は語気を強めてこう語っていたようです。
(中略)二ノ宮はすでに、主要都市部にある道場長クラスを三女に合わせて、根回しを広げていたのです。(中略)
私を含めた正悟師5人と麻原一家は、何度か会合を重ねますが、内容はほとんど上祐批判です。
「彼(上祐氏)はね、尊師の説法集を骨抜きになるよう編集しているの。「尊師は最終解脱者である」という記述から『最終』を取って『解脱者』にしようとしたのよ!」(中略)松本麗華や二女は「とんでもないことだよねぇ!」」(中略)
○麻原の家族が、上祐の軟禁を決定
「しかし、麻原一家が裏から指示を出すなどという「秘密ごっこ」が、上祐にばれないわけがありません。松本家3人と正悟師5人が会した2003年6月26日の「秘密会議」でのことでした。正悟師5人全員の外出を不審に思った上祐が、次々に電話してきたのです。
三女は会議の存在そのものを気付かれないようにと、正悟師たちには、「シラを切って」と言いますが、私は思わず反論しました。
「こんなことやっていても絶対バレます。教団運営の責任を取るなら、いま電話して、ちゃんとマイトレーヤ正大師(上祐の宗教名)と話してください。お願いします。」
懇願する私の声が、場の雰囲気をぶち壊したようになりました。松本家に逆らうのはなかなか大変です。他の正悟師は声を上げませんでしたが、無言で私を後押ししているようにも受け取れました。
それを感じたのか、三女は渋々席を立ち、一時間ほど上祐と電話で話をしたあとに、私たちにこう告げました。
「これからマイトレーヤ正大師とここにいる全員で話をすることになったから。彼には修行に入ってもらうことにする。みんなでそう言ってね」
教団内では、組織の指示に従わなくなった人間には、修行に入れて籠もらせるという慣習がありました。(中略)外部との接触もできませんから、当然教団運営に関わることもできません。要するにここでいう「修行入り」とは、組織内での左遷のようなものです。逆らう者は帰依が足りない、帰依が足らねば修行するしかない、その間は余計な口出しはするな、というのが教団のやり方でした。(中略)
会議が始まったのは日付が変わった27日。奇しくも松本サリン事件から9年目の日でした。8対1で上祐を責める議論が始まり、まず松本知子が彼を攻撃しました。
「マイトレーヤ正大師(上祐)は、グルへの帰依がなくなっている。もっと修行して帰依を培わなきゃダメ」(中略)しかし、松本家の威光を背に二ノ宮がここぞとばかり上祐を攻撃し、応酬になりました。二ノ宮「事件を疑問に思うなんて帰依が足りないんです」(中略)
こんなバカバカしい話で2時間くらいすったもんだした末に、最後には三女がこう言い放ちました。
「上の人の言うことを聞くのが帰依でしょ。皇子'(麻原の子ども)はどのサマナよりもステージが上だよね。私のほうが上だよね」(以上、同書69~76)
○三女は野田らに対しても、無間地獄宣言をした
「実務的な話に介入するのはほとんど知子さんでしたが、たまに三女も口出ししてきました(中略)いきなり電話をかけてきて、理由も言わず怒鳴ることもしばしばでした(中略)。しかし、私などはまだマシで、三女から「あなた、そんなんじゃ無間地獄行きだね」と宣告されたサマナもいたようです。教団で言う無間地獄とは地獄の中でも最悪の地獄。奈落の底に突き落とされる恐怖なのです。(中略)こんな私は、すでに「無間地獄」を宣告されていることでしょう。」(同書84~85ページ)
○上祐の離反と荒木らの上祐に対する批判活動
「2004年11月頃のことでした。そこから上祐は、松本家批判を展開し始め、自らの支持者を集めていくことになりました。(中略)。「上祐は魔境だ」と。最終的に二ノ宮は、松本家に懐柔され、上祐批判に回ることで、教団の立場を確保したわけです。(中略)上祐からサマナへの説得に対し、松本家側は荒木らを使っての反上祐宣伝を展開します。「上祐派魔境だから話を聞くな」。派閥争いで教団内は殺伐とした雰囲気になりました。」(以上、同書)(同書90~91ページ)
○2005年末、皇子・麗華が、(村岡・××を介し)野田の修行入りを指示・権限を剥奪
「2005年12月26日、執行猶予の判決で教団に戻った私を迎えたのは、村岡正悟師と××××(中略)でした。××は「人権救済基金」という団体を事実上切り盛りする人物です。(中略)その弁護士との絡みで、松本家の抱えたトラブルを処理する弁護士も紹介していました。つまり教団幹部の中で、唯一正面切って松本家とコンタクトできる人物なのです。(中略)「ご家族は今後どういうふうに教団運営されていくつもりなのですか?」「いやご家族はもう教団運営には、全く関与されていないから」
松本家の指示はイエスマンだけで共有される機密事項です。予想したとおり、もう私もカヤの外に置かれてしまっていました。
「そんなはずないでしょう。私の時だって、ずっと裏で松本知子が指示だしていたんだから」「いや今はもう何も指示はないです」「私がどうしたらいいか、聞いてほしいんだけど」「捕まっていたわけですから、しばらく修行していたらいいんじゃないですか?」教団内で「修行に入れ」というのは、運営の現場に関わらないでいてくれ、という意味の別表現です。「私が修行するかどうかは、あなたに指示されるべき話でもないから」
「......」「でもあなたがアーチャリー正大師(麻原三女)と会う機会があって、私のことについて聞く機会があるなら聞いてみてほしいんだけど」「わかりました。聞いてみます」(中略)
だが最高幹部・正悟師の私を封じ込めるには、松本家の威光を借りるしかないのです。次に村岡正悟師に、私が正悟師としてできることはないかと聞いてみました。混乱している教団のことが心配だったからです。(中略)
「いやここだけの話では決められないから」(中略)「いや、いろいろな人と相談しているから」(中略)「じゃあ、誰と相談してそういうの決めるんですか?」「個別に関係する人と相談する」(中略)「いや、それはこちらで後で考えて確認しますから」「......」 要するに責任の所在を特定させないで、ものごとを決めさせない作戦のようでした。(中略)
予想はできたものの、麻原原理主義派の彼らとしては、私に一切の権限を与えたくないようでした。(中略)どういう理由付けをしても、私を排除したい原理派の意図がはっきり読み取れました。(中略)
一日ほど経って××から伝言がありました。三女に確認したという私の処遇は、やはり「修行」という名の軟禁でした。まあこう言われてしまっては、最低一ヵ月は大人しくせざるを得ませんでした。(以上、同書92~97)、(証拠)
○2009年に野田は、麻原家族の指示により、アレフを除名処分・排除される
彼らが考えていたのは、自分の来世のことと教団内での居場所の問題だけでした。つまり松本家を裏切ると、来世地獄に落ちるのではないかということと、現実問題として教団内で「帰依がない」として異端児扱いされることです。(中略)
この後、私は原理派幹部から、教団施設の立ち入り禁止、さらには除名通告を受けることになります。それは2009年3月のことでした。ここに至るきっかけは、私自身が「麻原を処刑せよ」という内容を一般大衆向けに主張したことが契機としてあります。(中略)
原理派幹部は、私の「麻原処刑」の主張を問題発言として取り上げ、除名処分を下したという顛末です。(以上、同書p103~106)
これについては、アーレフ信者にはあまりにも強烈過ぎる内容で出せないな、とは感じていました。アーレフ信者は、教祖が事件の首謀者であったことも含めて、教祖が死刑になるという事実を直視できない精神状態なのです。現実社会において公判がすでに確定し、あとは死刑執行を待つばかりとなっているその事実さえ、教団内ではタブーなのです。(中略)
そして、野田に加えて、上祐に一定の理解を示した杉浦×・村岡達子も、麻原家族と対立して、批判され、脱会を余儀なくされる。
○野田の証言:村岡は、麻原家・知子に排除された
四女の話に目を覚ました村岡正悟師は、もはや松本家からはイエスマンとはみなされなくなりました。松本知子には村岡正悟師に次のような言葉を残して、連絡を絶つようになったようです。「あなたは私たちを大事にしなかった」
傍目から見ていても、村岡正悟師が松本家に代わって教団運営の責任を果たしてきた役割は大きかったと思います。しかし、四女の登場を機に、村岡正悟師は、原理派の幹部連中から掌を返した冷たい対応を受けることになりました。かつての上司・恩師も情け容赦なく攻撃するのです。これがカルト教団の怖いところです。(以上、同書p100)
③ 村岡達子(当時の中間派の正悟師(最高幹部)の一人)の証言
(脱会した「村岡達子」元アーレフ会長の「さらば麻原一家」(週刊新潮 2011年8月11・18日号)(証拠)
「6月6日付で退会届を出しました。退会時の肩書きはありません」
「3年ぐらい前から私は信者でありながら全く教団に関わっていない状態でした。追い出されるような形で埼玉県吉川市の教団所有のアパートに住んでいたのです。教団から私は、"おかしい人"と思われていたんです。」
そして03年、「麻原の影響を排除する」と宣言するのだが、これに麻原の妻や三女(アーチャリー)が猛反発したのだ。そのため、教団はアーチャリー派と、上祐派に分裂し、お互いに激しく対立するようになる。
「上祐さんが、"尊師のことを全面に出さないように"と、在家・出家の両方の信者を集めて呼びかける一方、三女は"上祐のことを放置しすぎた"と後悔していました。麻原一族は上祐さんに危機感を募らせ、実力で抑えにかかったのです」
その結果、上祐氏は、修行と言う名目で世田谷区のマンションに閉じ込められ、見張り番までつけられてしまう。ところが04年、上祐氏は監禁されていたマンションを脱出、自分を慕う信者を集めると各地の道場を支配下に置き始める。アーチャリー派との溝はもはや修復しがたいところまで深くなっていた。
(中略)その結果(中略)権限を剥奪された村岡氏は、説法会の仕事も回ってこなくなり、沖縄の道場やさいたま市の施設などに送られ、本部から遠ざけられる。3年前からは前述の吉川市のアパートで"飼い殺し"状態に。」
④ 杉浦×(当時の中間派の正悟師(最高幹部)の一人)の証言(証拠)
「私は、平成19年7月に教団を脱会しましたが、脱会の大きな理由は、松本知子さん(明香里)と教義のことなどで対立し、知子さんから疎んじられたことで、教団の役職を外され、居場所がなくなっていったことです。(中略)
平成16年頃、「ファイナルスピーチ」「パーフェクトスピーチ」の編集をしていた際、社会融和を図るため、事件に繋がる記述には、言葉を換えることまではしないまでも注釈を付けていました。(中略)翻訳の部分は正していました。しかし、知子さんは「グルの言葉は絶対だ。正す必要はない」と言い、知子さんと電話で激しい口論をしました。」
⑤ A派の幹部信者が、教団全体で上祐らを厳しく批判(証拠)
A派は、上祐について「麻原外し」「上祐グル化」「麻原から定められていたことを守らない」と徹底批判を展開し、同時期に作成・配布されたA派の資料「マイトレーヤ正大師の非公式な活動に対する疑問の声」(証拠)では、以下のように書かれている。
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【1】2002~3年の改革の失敗とマイトレーヤ正大師が修行に入られた経緯
上祐は、2002~3年に改革に失敗、虹や大黒天などの話を持ち出し、上祐の体験(啓示)に基づく独自の日本の聖地巡りを行った。
・出家信者が麻原を意識しづらくなり、麻原への思いを抑圧するようになり、心が不安定になった。
・祝福されていない出来事が頻発した。
・宗教性を歪曲してまで社会対策を行ったが失敗した。
・「本来グル(※麻原)しか行ってはいけない行為(経典の解釈等)」を行い(A派は「上祐グル化」と認識)、「教えの純粋性を損なった」
・グルとその系統(※麻原の子供たちのこと)を尊重する意識の欠如
【2】2004年マイトレーヤ正大師が修行から出られたことの経緯と問題
(1) 修行から出られたきっかけと独走状態
2004年の10月、一部の正悟師方の勧めもあり、活動を再開しようとしたが、多くの師や正悟師の反対に遭い水面下での活動を再開。
しかし、2005年の5月には非公式でサマナ説法会を行い、6月には非公式で信徒説法会までされようとした。
修行に専念せず、改革と同じような活動を再開した上祐のことを、ご家族(※麻原の家族のこと)の方は大変悲しまれている。
・2004年11月に上祐は、麗華を「魔境」と批判した。
・その結果、修行入りになったが、修行に専念せず、2005年の5月には非公式に活動を再開し、独走状態に。
(2) 活動を再開されても変わらない改革路線(尊師外しとグル化問題)
①戸隠神社礼拝問題
・活動再開後も、「グル外し」と「上祐グル化」の改革路線は変わらない。
・2005年の3月に上祐とその一行10名が、戸隠神社の鳥居の前で立位礼拝をしたということが分かり、教団内で大問題になった。
【資料・神社礼拝についての尊師説法】
・戸隠神社礼拝と新教義の展開で、麻原以外の信仰形態を取る改革を推進する意図が明らかに。
・尊師から定められていたことを守らない運営方針
・教団改革は失敗したにも関わらず、その総括を行うことなく、全く同じことを繰り返そうとしていることが問題。
②ご家族に対する敬意のなさ
(3) 上祐や上祐派の人と接することによる数多くの変調体験
不調を来す人が少なからずいるというのはおかしい。多くの人が共通の体験。果たして、上祐派の人達にグルのエネルギーがきちんと降り注がれているのか疑問
【資料・変調を来した体験談】
【3】本来のあるべき教団運営
(1) 霊的な道筋を大切にする
上祐派の方々は、教団を残すことを強調しているが、後継者の方々を尊重せずにして、どういう教団を残そうとされているのだろうか?
目指すべきは、しっかりとした霊的な道筋を受け継いだ教団作りではなかろうか?
◎94年通達
「すべてのステージの上に皇子を置く」
◎96年尊師メッセージ
「鏡暉を中心とした子供たちを私と観想してください。それによって、あなた方の道筋は確保されるでしょう」
尊師の王権継承者(二代目)は、お子様方であるとしっかりと「お言葉」に残されている。今の状況下では教団に戻って来れないが、いずれは戻ってこれるような教団作りをこれから私達が努力していくべきではなかろうか?」
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そして、上祐のような「過ち」を犯さないためには、「原則に立ち返る~尊師の説いたことや定められたことを忠実に」「また、真の意味での救済=解脱・悟り(煩悩破壊)へ至るためには、尊師に対する帰依なくしてあり得ない。(中略)信仰の面では絶対尊師は外せない。」「尊師の意思を外さず、しかも強固な教団作りをするには、このように尊師の説かれたことや定められたことをしっかり守り、原則に立ち返ることが重要」と述べている。この証拠を見れば、麻原の言葉通りの実践をしなかった上祐を批判したことがわかる。
⑥ M派資料からも確認できる、A派がM派を厳しく批判・排除した事実
さらに、2006年5月頃にM派が作成・配付した資料(証拠)においても、A派がM派を「グル外し」「グルを裏切る行為」「魔境」「グルを人間と言うのは言語道断」と厳しく批判・排除した事実・経緯がまとめられている。
旧来の教団(A派):グルを人間ととらえてはならない。現世の常識を超越した神のごとき存在(現人神、生き神的存在)である。グルへの帰依によらねば解脱・悟りが得られないのであるから、その言葉は絶対的なものとして尊重し、一字一句たりとも曲げてはならず、何事にも優先してグルへの帰依を貫くべきである。代表派の主張は、グル外しであり、グルを裏切る行為であり、魔境の所業。グルを人間という代表派は言語道断である。グルに対する扱いがあまりにも軽すぎる。
⑦ A派の機関誌「進化」で上祐らの考えを厳しく批判(証拠)(一審の判決p47~48)
A派は、上祐らM派が活動し始めていた2005年(平成17年)5月~6月、教団機関誌において、M派の活動への批判を念頭に置き、教団機関誌「進化」に、一審の判決に引用された内容を記している(証拠)。
この機関誌の中で、A派は、「◎法則における厳密さ・正しい教えを残す責任 教えの保持-グルの言葉から外れないように」と題した記事で、真理に対する帰依とは、麻原の言葉に対する帰依であるとし、「麻原を介して提供されたもののみを拠り所にする」「厳密性・純粋性を保持する」ようにすることの重要性を述べている。
「この世にグルという存在を抜きにしてそれらの教えがもたらされることは、教団の歴史においてただの一度もなかったのである(中略)わたしたちはグルが説かれた煩悩破壊という最高の世界に至るための教えを、歪めてしまうことなく、時代を超えて継承していかねばならない。それがグルの願いなのである。(進化vol.52)
「真理をこの世に残すに当たってまず大切になってくるのは、グルが説かれた教えの厳密性・純粋性を保持するということである。つまり、真理の教えにしろ経典(仏典)の翻訳にしろ、グルを介して提供されたもののみを拠り所とする-わかりやすく言えば、グルの言葉から外れないようにする-ということなのだ。(進化vol.53)」
「このことは、「真理に対する帰依」の意味合いのところでも取り上げたように、それが「グルの言葉に対する帰依」であることからもおわかりいただけるのではないでしょうか?」
さらには、「グルの教えを正しく伝える ○間違ったことを多くの人に伝えることの恐ろしさ」という項目をあげ、グル(麻原)の言葉から外れると大変なことになるという話が続いており、時期的に見て麻原の言葉から外れているM派の活動を暗に厳しく批判している。
この内容をもって、一審の判決では、A派が「松本への絶対的帰依の重要性と教義の変更が不可能であることを説いている。」と認定されている(一審の判決p48)。
⑧ 上祐史浩の証言・上祐史浩個人の総括より(証拠)
○松本家の反対で、教団改革が停止される(2003年後半)
私は改革を進めようとしたが、一言でいえば、信者の麻原信仰と、それを維持しようとする麻原の家族によって、2003年の4月頃からブレーキが掛かり始めた。
教団改革を止めた麻原の家族の中心は、麻原の妻・三女・次女であるが、この辺の動きは、当時正悟師という最高幹部の地位にあった野田成人が、月刊誌(『現代』2008年01月01日号)で告白している。
それによると、麻原の家族が、私に秘して、彼ら正悟師に連絡をし、私を教団運営から外すための協力を求められたという。
その結果、麻原家族と、その要求を受け入れた正悟師達の意見の結果として、2003年の6月頃から、私は、教団運営を離れて、いわゆる籠もった形の修行に入らざるを得ない状況となった(いわゆる世間で上祐の幽閉と呼ばれる)。そして、10月の末からは、一切の教団運営から退き、信者の前から姿を消す形になった。
今思えば、仮に、この時点で、私が、強い意思を持って、自分の考えを貫いて、教団運営から身を引かずに、自分に賛同する人たちと共に、自分の道を歩んだならば、後に麻原信仰を脱却していく者達は、より多かったと思う。しかし、その当時 の私は、徐々に変化を始めていたとはいえ、依然として、麻原への依存が残っており、そのために、麻原の家族に従う考え方からも脱却できていなかった。
特に、私が妥協しなければ、教団の中に闘争が起こり、教団分裂に至ることは必然であり、オウムの教義では、教団分裂は無間地獄に落ちる悪業とされていた。また、麻原の家族は、父親譲りの表現で、「戦争だ」「戦う」という言葉で、明確に警告していた。(中略)
そして、家族とそれに従う信者達は、2003年の6月以降、具体的な教団運営において、私に賛同する者や、明確に反対しない者について、「魔境である」、 「悪魔に取り憑かれている」と批判し、教団活動から排斥した。また、信者に対しては、私達と接触しないように圧力をかけ、接触すれば批判し、活動から排斥することもあった。
⑨ 宗形真紀子の証言(「A派(反上祐派)荒木浩のお話会の詳細内容(2004年1月17日)」
1)宗形の証言1(証拠)
当時のアーレフ内で、勉強会や説法が行えるのは、オウム真理教の位階制度で、「成就者」とされた、正大師、正悟師、師というステージの者に限られており、これに当てはまらない荒木が、出家信者に対して勉強会を行うことは、これまでの教団内で極めて異例のことでしたが、荒木は、2003年6月に、上祐が麻原家三女・松本麗華の指示により、修行という名目で教団活動から外れてから、「お話会」という名の「上祐批判」を、単独で2004年1月17日までに少なくとも20回以上行っています。
この事実は、さまざまな場所で、上祐派を除く多くの出家信者が参加しているため、周知の事実となっています。
この異例な指導が容認された背景には、その背後に、麻原家という後ろ盾があることを、正悟師、師の上層部が知っており、異例な行いを容認していたためである。
なお、当時まで上祐の秘書をしていた私は、2004年1月17日当日、当時八潮施設の責任者であった野田成人に対し、正悟師である当人が、異例の荒木のお話会を、八潮施設の集中修行に入っている信者の修行を中断させてまで容認・推奨したことについて、麻原家の指示だから推奨している旨を確認しています。
この日、八潮施設一階の通称「男性師部屋」にて、約30人くらいの人数が、2階で行われている修行を中断して、お話会に参加しました。修行を中断してまで行うことは、通常はありません。
荒木は、上祐が、改革という名の下に、いかに麻原を外し、否定し、麻原の意思でない外道の活動を行うという悪業を積んだことにより、上祐の周りの信者ともども魔境に墜ち、教団に災いをもたらしたかについて説明する年表を参加者に配布し、その内容が麻原家の三女麗華も同じように言っていることをほのめかしながらそれをもとに解説を行いました。
2004年1月17日のお話会の内容を、当日とったノートのメモをもとに説明します。
ア 上祐が2002年1月に代表に就任すると同時に、プライド・権力欲の虜となり、麻原になり替わろうとする「グル化」を押し進め、2002年には以下の麻原の意思に反することを行った。
◎麻原の意思から外れている
・「どんな指示でも、犯罪行為の指示でも麻原の指示に絶対的に従う」と明言した幹部信者を除名した上祐は、麻原への帰依のある幹部を排除したこと、麻原が許可していなかった、気学・姓名判断・インド占星学などの占いを使ったこと、麻原が推奨していない日本のさまざまな神社仏閣や自然を旅したことは、外道の実践であり、麻原の意思から外れている。
◎麻原に対する不遜な行為をした
・上祐は、本来、グルである麻原からしかイニシエーション(エネルギー移入)を受けられない出家信者に対して、その立場を超えて、エネルギー移入を行ったことは、麻原と出家信者に対する不遜な行為である。
・上祐がインドの聖者ヴィヴェーカーナンダが自分と似ている話などをして、自己を神格化しようとしたことは、麻原に対する不遜な行為である。
◎麻原の死後のことを言うのはとんでもない帰依に反すること
・麻原がまだ生きているときに、死後のことを想定し何かをいうのはとんでもない麻原の帰依に反することだ。
◎麻原の絶対性を否定するとんでもない悪業
・上祐は、『ファイナルスピーチ』の改ざんの際、重要な「麻原が最終解脱者であり、未来においてマイトレーヤ真理勝者として降誕する」旨の内容を削除したことは、麻原の絶対性を否定するとんでもない悪業だ。今その編集をやり直し始めている。
◎麻原を外し、自らがグル化した
・上祐の書籍や機関誌やイニシエーションのポスターにおいて、強烈なインパクトのある大きな上祐の写真を目立たせたのは、麻原を外し、自らが「グル化」の証である。
イ 荒木は、2003年1月~4月にかけて行われた上祐の教団改革について、上祐が服役中から秘かに企んでいた「麻原外し・麻原否定」を正当化するためのものだと、以下のような趣旨の内容で激しく批判を行った。
◎麻原の死後のことを言うのはとんでもない帰依に反すること
上祐は、麻原を外すことについては、拘留中にノート何冊にもまとめてもともと計画されていたことであり、出家信者の様子を見ながら徐々に実行していったものである。自分はそのノートを見せてもらって詳しく読んでいるので知っている。そのノートには、麻原の死後のことも想定した検討がなされているが、麻原がまだ生きているときに、死後のことを想定し何かをいうのはとんでもない、麻原の帰依に反することである。
(※「ひかりの輪」補足:この上祐の勾留中のノートとは、国証拠の上祐ノートである)
◎大義名分を使い「麻原外し」を実行していった
上祐はいよいよ2003年1月から教団改革に踏み切り、「麻原外し」をいくつかの大義名分を使って実行していった。
◎麻原の言葉を無視し、「麻原外し」をする自らを正当化するために利用した
2月11日と23日に行われた「信徒サマージャ」と「サマナサマージャ」という教団改革の全体会合で上祐が行った「空と四無量心」の説法は、麻原外しを正当化するために使われた内容で、しかも、空についての話は、麻原がしてはいけないと語っていた内容にも関わらず、麻原の言葉を無視して、自らを正当化するために利用した。
◎一字一句麻原の決めた言葉通りに正確に扱わず、造語を作った
本来編集部では、麻原の説法にない言葉は一切使わず、一字一句麻原の決めた言葉通りに正確に扱うが、上祐はそれを無視して、麻原の説法にない偉大なる完全なる絶対なる空という造語を作った。
◎上祐は「麻原外し」の大義名分として、麻原の説法中の言葉の意味を変えた
そして、「四無量心」の概念を「国民に対する愛」という意味で使い、「麻原外し」の大義名分として、国民に対する愛の実践のために、麻原の写真などをなくし、本質の空を観想しようと語った。
◎麻原外し、麻原否定だ、麻原への帰依でない
・すべての上祐の行った行為は、「グル隠し」が、「グル外し」になり、結果的に「グル否定」になったという声を麻原家がかなり言っている。
・すべての上祐の行った行為は、「麻原を外し、教団の安定を求めるという自己保全の悪業」であり、「麻原への帰依ではなかった」。
◎上祐の行いは、麻原の意思から外れた悪業で、教団に災いを招いた
・上祐が「麻原の意思から外れた悪業」を積み、その報いが今、教団に悪業の返りとして返ってきて、教団にさまざまな「災い」が起きている。
・特に、2002年10月の大黒柱の天啓後に富士山で虹を見たり、乗鞍の大黒岳での経験後に大阪道場を取得できたことを、上祐は「祝福」と語っていたが、現実は、特に大阪を中心として、いかに多くの「災い」が起こっているか認識してほしい。
(※具体的な災いについては証拠の年表等を参照(証拠))。
なお、このお話会に、麗華から直々に修行入りを命じられ修行中であったM派の宗形がなぜ参加できたのかの詳細は(証拠)で示す。
2)宗形の証言2(証拠)
○三女から、教団活動を排除され、隔離される
それから一ヶ月ほど経った2003年の6月に、さらに、予想外の出来事が起こりました。ある日突然、わたしに、麻原家の三女から、携帯電話に電話があり、上祐と一緒に、教団活動から外れ、修行に入るよう命じられました。
上祐は実質、麻原家(三女ら)により監視役をつけられ自室マンションに閉じこもる、謹慎のような処遇となりました。三女は、携帯電話で、わたしに対し、一方的で、強い口調で怒鳴り続け、以下の内容の話がありました。
・上祐は、悪魔が取り憑いている。
・プライド魔境、権力魔境、性欲魔境である。
・上祐は、グルに成り代わろうとする野望を持って自らのグル化をすすめ、教団改革と称して、グルの絶対性を否定したり、グルが禁じた「外道」の神社仏閣に行ったり、グルと違う「外道」の教えを説いたりして、グルの意思を外している。
・当然、それを精力的に手伝っていた宗形も、同じように、グルの意思を外し、悪魔が取り憑いた魔境に陥っている。
・上祐が魔境に入ったのは、宗形のせいだ。
・正悟師はその意見に合意し、全員従っている。
・だから、教団活動を外れて修行に入ってもらう
わたしは、 最初は、その突然の、話し合いの余地のない理不尽なやり方に、まったく納得がいかず苦しみました。
上祐が教団に戻ってくる前は、「崩壊寸前の教団を立て直すことができるのは上祐しかいない」とすがりつくように頼り、その後、上祐のおかげで、崩壊寸前の教団をなんとか立て直すことができたにもかかわらず、その恩を仇で返すような行動に出たように感じられて、わたしはとてもショックを受けました。
三女に対し、上記のようなことを述べて、激しく反発しましたが、三女は、以下のようにわたしに言いました。
「宗形も、上祐も、尊師の意思を外している「魔境」に入って、尊師への帰依が足りなくなっているから、今は修行に入って、尊師を観想し、尊師にすがって救ってもらうしかない」
その後、すぐに、三女の指示で、わたしが、上祐と連絡を取り合うことのないよう、持っていた携帯電話やお金やパソコンなどを没収され、何も行動が起こせないようにした状態で、上祐が幽閉されることになった東京・世田谷から、長野県の郊外にある施設へと隔離されました。
長野に移った後も、三女との電話では、わたしが「麻原への帰依」を取り戻すように、麻原に帰依するための「帰依マントラ」を唱えるよう指示があったり、麻原を観想するよう指示があったりしました。
上祐が幽閉中には、三女からの指示を受けた同居する世話役の信者らにより、上祐の日常の動向や、外部との交信を監視され、携帯電話の通話記録までチェックされていました。
○荒木浩が三女と麻原の妻の指示を受けて行動
わたしが教団活動から排除されてしばらくすると、教団の中では、上祐への反発が、いっそう激化していきました。上祐やわたしなどのいないところで「上祐や わたしなどが、いかに麻原の意思を外した魔境であるか」と糾弾する「お話し会」という活動などが活発化していきました。
その中心人物は、信じられないことに、少し前まで一緒に上祐の下で秘書をしていた荒木でした。「どうして荒木君が?」と耳を疑いましたが、以下の荒木のお話会に参加した後、荒木氏に、直接、三女と麻原妻の指示により、行動を起こしていることを確認しました。
⑩ 細川美香の証言・オウムの総括(証拠)
○三女からの電話
2003年に入ると、今までのアーレフのやり方では、よくないのではないかということにより、改革がスタートしてきました。これは麻原色をなくしていく、 というものでした。この改革は、初めこそ、勢いに乗っていましたが、改革への反発が生じはじめ、徐々に動きが鈍くなっていき、ついには、頓挫することになりました。
そして、私にとっては、その頓挫は、突然に起こったのです。2003年の6月の下旬のことです。
その日は、烏山本部に道場のリーダー格の人が集まり、上祐代表とミーティングを行っていました。ミーティングが終わり、その帰り道に仲間の一人と喫茶店に入り、法則の話など、いろんな話をしていたところ、携帯電話が鳴りました。
その電話に出てみると、聞き慣れない声で、「お姉さん、誰だかわかる?」と言われました。初めはわからなかったので、「誰でしょう、よくわかりません。」と答えました。そして、沈黙何十秒後に、「もしかして、アーチャリー正大師ですか?」といったところ、「忘れてしまうなんて、お姉さんひどいね」と言われたので、「そんなの無理ないですよ、7年以上話をしていないわけですから」と言いました。
○三女の「尊師との縁を傷つけたから、このままだと地獄に落ちる」という脅し
アーチャリー正大師とは、麻原の三女で、松本麗華さんのことです。彼女はなにか周りをひどく警戒しているようで、周りに誰かいないかを確認してから、話を始めました。その内容は、まずは、私の個人的な話から始まり、そのことについて、
「お姉さんは、尊師(麻原)との縁を傷つけた。このままだと地獄に堕ちるから、このマントラを唱えたほうが良い」
と言われました。それは、脅しと同じような感じでした。
○三女から、直接会って話がしたいと呼ばれる
その後、三女は、 「シャクティーパットの影響で、上祐代表の調子が悪い、おかしい」「上祐代表を修行に入れたい」「そのために協力して欲しいことがある」 ということでした。
「できれば、直接会って話をしたい」ということでしたので、指定された場所に向かいました。(中略)駅に着いて、アーチャリー正大師を待っている間、生きた心地がしませんでした。なぜなら、この6月には、私のとって大きな変化出来事がありましたが、それについても悩んでいる時期でもあり、アーチャリー正大師の話次第では、どうなるかわからない、と思ったからなのです。「ああ、私はなんてカルマが悪いんだろう」と、半分、泣きそうになる気持ちを抑え、緊張しながら、彼女が来るのを待っていました。
○三女と二人で駅で会う
そして、約7年ぶりにアーチャリー正大師と再会しました。彼女は背が伸びており、女性らしくなっていました。駅の改札を出て、あまり人目につかないところ で、立ち話で2時間くらいだったでしょうか、話を聞きました。その内容は、ひたすら上祐代表の悪口(と思えた)でした。彼女の話は、私が腑に落ちない点が いくつかあったのですが、ここで逆らっても仕方がない、と思い、ひたすら話を聞いていました。
幾分、話をしているうちに、私の緊張も取れていき、十分、話を伝えきれたと思った彼女は、「お姉さん、だいぶ理解したみたいだね。」と言い、「次は、もっとびっくりさせてあげる」と言われ、私を次の場所に連れて行きました。
○カラオケボックスで、麻原妻と二女、村岡、二ノ宮が待っていた
再び電車に乗り、とある駅で降り、そこからしばらく歩いて着いた場所は、カラオケボックスでした。そのまま促され、部屋に入ると、そこには、なんと、次女であるカーリー、麻原の奥さんである、知子さん(現松本明香里)がいたのです。そして、二宮さん、その時、一緒にいた仲間も、すでにその部屋にいました。私たちは久し振りの再会に、多少の世間話や、昔話をしました。その後、現状の話を少しされました。 そして、まだ、「今から人がここに来るから、呼ぶまで、違う部屋で待機しているように」と言われました。
違う部屋に行き、もう一人の仲間と待っていたら、村岡さんが来ました。彼女はこの成り行きを知っているようで、余裕な感じを受けました。呼ばれるまで、カラオケを歌ったり、話をしていました。しばらくすると、先ほどの部屋に呼ばれましたので、行ってみると、そこには数名の道場活動の師の人達がいました。
○三女からの指示
そして、三女が、上祐代表の問題点をいくつか話をし、最後に、「今日、ここで話をしたことは、決して誰にも言わないように。この場所に集まった人達同士でも話をしないように。上祐代表にも、もちろん言わないように」と、きつく言われたのです。
○三女から、長男・次男にお布施するよう言われる
さらに、「せっかくだから、長男、次男に対して、お布施ができる良い機会だから、みんなお布施したらどう」と言われました。私はそれについては、抵抗があったものの、他のみんなが素直にお布施するのを見て、「ここでしないのも、今後、活動がしづらくなるから、形だけでもしておこう」と思い、お布施をしました。(中略)
○三女から、チェックが入る(中略)そして、次の日の朝、ミーティングで上祐代表に会いましたが、昨日の事がバレたら困ると思い、まともに、顔を見ることができませんでした(中略)烏山に着き、上祐代表に会い、私は自分の体験したこと、そこから出た疑念について、質問しました。そして、しばらく話しをした後、違う部屋で待機しているように言われ、待っていました。
そこで待っているとき、三女から何度も携帯に電話が入りましたが、一度も出ませんでした。そして、その日のお昼過ぎ、二宮氏が電話を私に持ってきて、出るように言われたので、出てみたところ、三女からでした。
三女は、私に、「なぜ電話にでなかったか」を聞き、次に、三女に会った人たちがその直後に事故を起こした件について、「上祐代表にその話をしたのは私なのか」と聞かれたので、「そうです」と答えました。」
⑪ 廣末晃敏の証言・オウムの総括(証拠)
2004年、三女から私の携帯電話に電話がかかってきました。少なくとも3度にわたり、合計5~6時間ほどの会話となりました。
その頃の私は、オウム事件を直視しようという上祐に対する批判はおかしいと思って、上祐を擁護する意見を教団内の電子会議室に書き込んだり、隔離されていた上祐とひそかに連絡をとりあったりしていました。その動きを察知した三女からの電話でした。
最初は「お兄さん、私が誰だかわかる?」と問いかけてきました。私は話しぶりからすぐに三女だとわかりました。そして、おおむね以下のような趣旨の話を三女は続けました。
◎あなたは自分が何をしているのかわかっているのか?
◎上祐は教団を乗っ取ろうとしているのだ。
◎上祐はシャクティーパットの影響でおかしくなった。
◎上祐には修行をしてもらい、麻原尊師への帰依を取りもどしてもらわなければならない。
◎だから、上祐に接触してはならない。
◎あなたはエネルギーが強くて周囲の人を巻き込む可能性があるから、そういう動きをしていることが心配だ。
◎上祐に会わないという約束をしてほしい。
◎私から電話があったということは絶対に内緒にすること。以上の話に対して、納得できない私がいろいろ反論や質問を重ねたからかもしれませんが、三女はその後も繰り返し私に電話をかけてきて、その回数は前記の通り、少なくとも3回にわたりました。
⑫ 水野愛子の証言・オウムの総括(証拠)
○麻原妻と三女の影響力
しかし、麻原の家族を中心として、麻原への信仰が強い者たちが、麻原を外していく上祐氏の改革に強く反対するようになり、6月下旬(2003年)、上祐氏は突然、長期修行入りという形を取った事実上の幽閉、失脚となってしまいました。それほどまでに、家族、特に妻(松本明香里)と三女(松本麗華)らの権力は強かったのです。
私は、突然、二宮氏に呼び出され「マイトレーヤ正大師が大魔境です」と告げられ、一瞬言葉 を失うほど驚きました。それまで、「上祐教でいいんだ」といっていたほどの改革派で、上祐氏のパートナーとして、麻原色をなくした導きを推奨してきた二宮 氏の発言とはとうてい思えませんでした。
○三女からの電話
その頃、他の師たちは三女に呼び出されて、知子夫人や複数の正悟師たちから、上祐氏が魔境である旨をこんこんと諭されたということでしたが、私は三女から一度だけ電話があり、
「グルとの縁を相当に傷つけている。懺悔した方がよい」と言われました。
上祐氏はその後10月頃までは月に一度の支部説法会には出てきていましたが、そのほかは一切の連絡を絶たれ、パソコンも携帯電話も取り上げられ、警備と称しての監視が続けられたということでした。
私は上祐氏に傾倒していて同じく「魔境」とされ、9月頃から京都道場での修行を命じられました。それまで担当していた経理やお金、携帯電話も部署のサマナ (オウム用語:アレフの出家者)の管理となり(私が上祐氏と連絡をとらないよう)、私の動向は監視されているのがわかりました。
24時間なにをしたかの報告を、毎日二宮氏にファクスで送らなければならなかったのですが、なかなか心が向かず修行できないでいると、「なんで修行できないんだ」と怒られたり、抜き打ちで視察されることもあり、ますますやる気をなくしていきました。
○荒木浩の上祐批判は、麻原家族の指示
その後、麻原の妻から、村岡氏を通じて、仕事の指示の変更があったりと麻原の家族が仕事の指示をするようになりました。
また、麻原が決めたステージ制度が絶対の教団の中で、かなりの下である荒木浩氏が、数段階上のステージである上祐を批判するお話会、を教団内で大々的でき たのかは、麻原の家族の指示だったからでした。上祐氏排斥は「グルの意思」だとまで言われました。これらの強制的なやりかたは、教団上層部の本質が変わっていないと感じさせました。
家族は形式上は脱会してはいましたが、教団の意思決定には大いに関わっていたことは、サマナなら誰でも知っていることでした。
なお、この水野の動向が監視されていたことは国の証拠(証拠「SVP師=スッパヴァーサー師:水野のAleph時代の宗教名」)に記載されている。
⑬ 吉田恵子の証言・オウムの総括(証拠)
2004年9月に、アレフの二ノ宮幹部から、アーチャリー派と上祐派のどちらにつくのか激しく迫られる電話がありました。それに即答できずにいると、激しく怒鳴られました。
翌日、二ノ宮氏と江藤幹部に、カラオケボックスに呼び出され、わたしの機嫌をとるかのように食事などの接待があり、気持ちがほぐれて来た頃、二ノ宮氏は、三女と電話で話をし、私の様子を三女に報告していました。その場で、携帯電話が渡され、三女から話がありました。わたしは三女の家庭教師をしていたこともあります。
三女は、
「マイさん(上祐)、魔境なのよ、おかしいの。修行に入らなきゃいけないのよ」と言うので、
「上のほうでまとまれないのでしょうか?」と聞くと、
「それは無理!」と言われ、困っていると、
「どっちにつくんだ、すぐ決めろ!」
と怒鳴られ、しばらくの間、怒鳴られ続けました。
一通り三女の怒りが収まったころ、三女は、その場で決められなかった私に対し、
「お姉さん、修行に入ったら?教学(麻原に帰依する教え)をしっかりしたほうがいいよ、こもって修行して。リトリートにとにかく籠もって、誰の電話もでちゃいけない」と指示をしました。
その後、わたしの監視役に江藤氏がつけられ、監視されながら、二度ほど、わたしの様子を確認するために、三女から電話がかかってきましたが、私が三女側に付くと即答できなかったために、自分の側に付かないとわかって以降は、電話がかかってくることはなくなりました。
(3)「ひかりの輪」の発足以降も、今現在に至るまで、約15年間にわたって、現Alephは、麻原の家族を頂点とする教団組織を挙げて、上祐ら・「ひかりの輪」をグル否定・魔境として批判し、信者に拒絶を指導しており、一方の「ひかりの輪」は、別に述べたように、麻原・Alephの批判や、その信者の脱会支援を含めた、Alephに対する反対活動を行なっており、両者は対立関係を深めている。
この点に関して、これらの事実を示す証言の証拠(証拠)をさらに追加し、特に、
・Aleph代表派・M派の時代(主に2005~2007年頃)の証言、
・「ひかりの輪」の発足以降の約5年間(2007年5月~2011年ごろ)の証言、
・最近の約5年間(2012~2017年)の証言、
の三つの時期に分けて、以下の通り、立証を深める。
① Aleph代表派(=M派)の時代(主に2005~7年3月頃)の証言(証拠)
◎A派・Alephの幹部信者の×××××が「上祐らは魔境で、地獄で苦しむビジョンを見たと語る」
2006年~7年3月頃、アレフ福岡支部長の×××××から、数回の説得があり、「M派の上祐は魔境であり、苦しんでいるビジョンを見た。彼はグルの王権継承者ではなく、それはリンポチェ猊下(※麻原の息子)」などと語り、M派との連絡を絶つために、携帯電話のアドレス等を変更するよう促された。(ひかりの輪会員の××の証言)
◎Alephの東京道場の支部長・幹部信者の×××××、××××、××が「上祐ら・M派に行けば地獄に落ちる」と主張し、接触しないように厳しく指導(2005年5月頃)
Alephの西荻道場で、×××××、××××、××から何度も
「M派に行ったら、死んだときに恐ろしい目にあい、永遠に地獄から抜け出せない」、
「いくらM派と接触して、何を言ってきても、彼らは魔境になっているから、自分でも言っていることがわかっていない」、
「M派の言っていることを信じて行動したら大変なことになる」、
「M派に誘われても、言ってはいけない。携帯電話は出ないもしくは着信拒否にするように」、
「あなたがM派に行ったら救済はできないし、もうどうしようもない」、
「M派には行かないように。行ったら尊師(麻原)との縁が切れる。縁が切れたらおしまいだ。上祐さんは完璧に尊師と縁が切れているから」、「M派の人達と一言でも口をきいたら、カルマ交換になる。話をしなくても、聞いているだけでデータが入ってくるため、接触もいけない。話をしたりしたら絶対にいけない」
などと言われた。
その後、M派の勉強会に参加したことがアレフ側にわかったようで、「魔境」扱い、狂っていると思われていたようで、東京道場に入れてもらえなくなった。(ひかりの輪会員の×××××の証言)
◎Alephの東京道場の幹部信者の××××、××××が、「(上祐らのように)麻原の家族に逆らうと地獄に落ち、上祐ら・M派に会わないよう」に指導(2005年頃)
2003年末から、上祐さんは信徒の前に現れなくなり、「シャクティーパットのやりすぎで皆の前に出られる状態ではなくなっている」と教団から説明があった。
2005年頃、幹部の××××に呼び出され、「東京道場で活動していたアレフ幹部の××はM派の活動をしている。声をかけられも、××、M派の人に会わないように。決してM派の話を聞きに行ってはならない」と告げられた。
その頃、東京道場に行くと、「上のステージの人(麻原の子女)に逆らうと地獄に落ちるという趣旨のビデオ、「私は大丈夫」とM派の話を聞きに行ってはいけないと戒める趣旨のビデオを繰り返し見せられた。
しかし、M派の話を聞き、オウム事件を直視する活動に賛同するようなったことがアレフ幹部に知られると、××××に東京道場の面談室に呼び出され問いただされたが、「話にならないですね」と言われ、その後、東京道場内で他の会員からもあまり話しかけられなくなり、自然と通わなくなった(ひかりの輪会員の××の証言)
◎Alephの大阪道場長である幹部信者の××××らの幹部信者が「上祐らは魔境、話をするな」と約束させた(2005年頃)
Alephの幹部が上祐さんを魔境とする指導が終わっており、自分がM派と言ったら嫌悪され、道場長の××から「上祐の話をするな」と強制的に約束させられ、無断でその会話を録音された。
名前が思い出せないが、××以外の師2名も上祐が魔境との認識だった。上祐派であるだけで、ぼく自身も冷たく制限され孤立していった。ひかりの輪の××××も魔境とされ、上祐派幹部の多くが、Alephから排除された(ひかりの輪会員の××の証言)
◎Aleph名古屋道場長の幹部信者の××××が「上祐らに接触しないよう」に命じ、接触を続けると、名古屋教室から排除
A派から、私が上祐派の勉強会に接触をしていると思われた時点で、Aleph名古屋道場から排除された。
名古屋の道場長の××××から「代表派の話を他の会員にしないように」と言われた。
私の実名が書かれた張り紙で、私と話をしないようにと貼られ、名古屋道場から排除された。それ以降、頻繁だったお誘いの連絡は、一切来なくなった(ひかりの輪会員の××の証言)
◎Alephの大阪道場の幹部信者の××××や×が「上祐らは魔境で会ってはいけない」と指導
アレフ大阪道場で、
「上祐、上祐派は魔境でおかしいことを言っているから信じてはいけない、上祐派と会ってはいけない、連絡が来たらすぐに知らせるように」と××××、×から言われた。
いかに上祐派がおかしなことをやっているかの資料が配付された(戸隠神社に行ったことなど)。その後、×からも同様のことを聞かされた。それ以降アレフに行っていない(ひかりの輪の会員の××の証言)
◎Alephの名古屋教室の道場長の幹部信者の××が上祐らを魔境と批判し、接触しないように指導(2005年頃)
名古屋の××に、上祐が戸隠神社に行ったりとおかしなことをして魔境である、上祐派と接触しないように言われた。私が上祐派とわかると、道場に入れてもらえないようになり、アレフを辞めた。(ひかりの輪の会員の××の証言)
◎Alephの福岡教室の道場長・幹部信者の×××××が「上祐らは魔境、無間地獄に落ちる」と言い、接触しないように指導(2005~7年頃)
福岡の×××××が「彼らは魔境である」「無間地獄に落ちる」「グルとの縁を傷つけている」「M派に接触しないように」と言われた。何度も聞かされ、そこまで悪口をいうのかとげんなりした。くどいほど、M派に接触しないように言われた。(ひかりの輪の会員の××の証言)
◎Alephの大阪・広島担当の幹部信者の×や××が「上祐らは魔境で地獄に落ちる」から、接触しないように指導(2005~6年頃)
広島市で、×や××××から「M派と関われば魔境になる。上祐は魔境で地獄に落ちるから関わるな!」「M派から電話連絡があれば出てはならない」等言われた(××の証言)
◎Alephの東京道場の道場庁の××・××・××らが「M派は麻原の意思に反した外道」であり、接触をしないように指導したこと(2005年の夏以降)
東京道場で、××××、××××から、「M派の××の誘いを受けましたか?」と聞かれ、受けた、いい印象だった、と答えると、「そんな話を聞いても仕方がない、意味がない」と言われ、「M派の話を聞かないように」と圧力を受けた。
その後、幹部の××××からも「ぶれないように(麻原の意思に反しないように)」と高圧的な態度で言われた。××はM派は外道であると認識していた。A派はM派を「オウム・アレフ以外の宗教」「麻原の意思に反した団体」と認識していたことは明らか。(ひかりの輪の会員の××の証言)
◎福岡の道場長・幹部信者の×××××から、上祐らに接触していため「無間地獄に落ちる」と脅された(2005年頃)
アレフ福岡道場で、×××××より「M派は無間地獄で魔境に墜ちる」「グルとの縁が切れて地獄に落ちる、魔境になる」と脅されていた。脱会時も引き留められ、「グルとの縁が切れて地獄に落ちる、魔境になる」と何度も言われた。(××の証言)
福岡の×××××から「グルの意思に反することや否定すると、無間地獄に落ちてしまいますよ」「グルとの縁が切れてしまいますよ」と脅しとも受け止められることを言われた(ひかりの輪の会員の××の証言)
② ひかりの輪発足からの5年間(2007~2013年)(証拠)
◎Aleph東京の幹部信者の××や札幌の幹部信者の××が「上祐らは魔境で、精神異常が出ている」として批判(2008年頃)
アレフの出家信者の××××氏や、札幌支部の××氏とメールでやりとりするようになり、アレフの情報を得ようと、上祐氏ともメールのやりとりをした結果、入会寸前でアレフに入ることを思いとどまった。
××は、
「アレフの方から、ひかりの輪、上祐氏は、魔境と呼ばれている。上祐の教え子も精神異常が出たり、入会はおすすめできない。上祐氏独自の理論で展開しており、解脱のための高度な修業法は教えてくれない」
「上祐氏の考え方は本質的に間違えている」
「Alephに入会したらよいです。そのときは上祐さんは忘れたほうがいいです」
と言ったが、上祐らと接触続けて、入会を思いとどまると、××は、、
「洗脳されましたね。あれほど、切りなさいと言ったのに・・・」
「上祐さんはアレフを出たときから成就者ではなくなってしまいました」
と言い、「これ以上、上祐さんと連絡するなら残念ですが、私とは縁が切れます」
と言って、自分と会うことも拒絶した
(Alephに入会寸前のところ、上祐の脱会支援で思いとどまった××の証言)
◎Aleph最高幹部二宮や、幹部信者の××・××・××・××・××らが、「上祐らを魔境、悪魔扱い」し、ひかりの輪に接触しないように指導(2007年~8年頃)
八潮の光音天でのセミナーで、二ノ宮耕一氏が、「上祐君は魔境に入った」と言っていた。
西荻窪道場や光音天は、4人のアレフの幹部達(××××、××××、××××、××××など)が、当然のようにひかりの輪を「悪魔」呼ばわりして、アレフの信徒がひかりの輪の人と接したりしたら、何時間でもお説教をされるという状況でした。
東京本部の××××は「もし、ひかりの輪の人たちから脱会の勧誘があったら連絡しないでくれと言うように」指導していました。(2009年頃、Alephに排除された、現ひかりの輪会員の××の証言)
◎Aleph京都道場の出家信者がひかりの輪を「魔境」と批判(2007年~2008年頃)
Aleph京都道場の出家信者が「ひかりの輪は魔境である」という話を繰り返ししていた(ひかりの輪の会員の××の証言)
◎Alephの東京道場長の幹部信者の××や××が「上祐らは魔境で、会わないように」指導(2009年頃)
東京本部の××師補から「上祐氏は魔境だから修行に入っている」と言われ、2008年に、東京道場の道場長・××××から「ひかりの輪の人に会ったのではないか」と問い詰められ、「魔境だからひかりの輪の人には会わないように」と指示された。(××の証言)
◎Alephの金沢同場長の幹部信者の×××××が、「ひかりの輪は魔境で接触しないように」指導(2011年頃)
警察がきたことで、何かアレフの関係で出来事があったのかと思い、久しぶりに昔の知人であったアレフの信徒に電話すると「Alephの金沢道場の×××××から、ひかりの輪は魔境だから、ひかりの輪の人から連絡があっても関わらないように言われているので話ができない」と言われ、話をすることができなかった(ひかりの輪の会員の××の証言)
◎Alephの幹部信者の××が、麻原を批判する上祐らに接触しないように指導(2013年3月頃)
アレフの覆面ヨガ教室・Alephの××(※××××のこと)に、「ひかりの輪の上祐さんは麻原さんのことを批判しているから、上祐さんが言っていることを見たり、読んだりしたらいけない(ひかりの輪のHPも含む)」と言われました。(ひかりの輪で脱会支援を受け脱会した××の証言)
◎Aleph出家信者がひかりの輪を「魔境」と否定(2013年頃)
アレフの覆面ヨガ教室の先生の女性(Aleph出家信者)から、「ひかりの輪は魔境である」と聞きました。(ひかりの輪で、Aleph(の覆面ヨガ教室)からの脱会支援を受け脱会した××の証言)
③ 最近の約5年間(2013~2017年)の証言(証拠)
◎Alephの福岡道場の幹部信者の×××や××が「ひかりの輪は大魔境・地獄に落ちる」と批判(2016年)
アレフで5年間信者で活動していたSは、福岡の道場で、アレフ福岡道場で、大阪からたまに来る師の×××××や××(男性の出家者)が、「ひかりの輪は大魔境です。あの人たちは地獄に落ちる。グルとの縁を傷つけている」と批判をしていたと聞いた。
そのSが、自分でアレフに導いたHの脱会支援をした際には、Hも「ひかりの輪は魔境。かかわらないように。地獄に落ちる」という批判を数回にわたって聞いた(元Alephの福岡道場の会員のS)
◎Alephの名古屋道場の出家信者らが、「ひかりの輪は魔境」と批判(2017年4月頃)
Alephの出家信者である×と、信徒の女性2名が、ひかりの輪で、Alephの脱会相談を受けて脱会することにした者(××)に、
「彼らは魔境に墜ちた人達だから彼らの言うことをまともに聞いてはいけない」
と厳しく批判(ひかりの輪で脱会支援を受け脱会した××の証言)
◎Alephの福岡幹部信者が、ひかりの輪を「変な道」と批判(2017年7月頃)
福岡の出家信者・×××××が「最近新しい人がひかりの輪に相談して、すぐやめちゃうんですよね。変な道にいっちゃって残念だったよね」と聞いた。
×××は、新しい人が、ひかりの輪の脱会支援で止めることに、非常に迷惑そうにしていた(ひかりの輪が脱会支援し、Alephを脱会した男性R・Iの証言)
◎Alephの福岡道場の幹部信者の×××××がひかりの輪との接触を批判(2017年4月~5月)
アレフの福岡道場の×××××が、ひかりの輪の××に相談して、アレフを辞めること決めたKKに対して「えーどうしてそんなところに相談しちゃったの」となど厳しく批判(ひかりの輪の脱会支援を受けた脱会したKKの証言(証拠))
◎2018年の最新の事例
Aleph幹部複数が、××××に、ひかりの輪との接触を厳しく禁じたこと。しかも、かつて麻原・オウムが悪魔とみなして敵対視しサリンの散布を試みた創価学会(証拠)との接触は許し、ひかりの輪との接触を厳に禁じており、今やひかりの輪がAlephにとって、「創価学会以上の最大の悪魔」と見られていることがわかる(証拠)。
しかしながら、それでもAlephと「ひかりの輪」は同一団体であるという国の主張に基づけば、Alephと創価学会は、Alephと「ひかりの輪」よりもさらに密接な同一団体ということになる。そのような主張が常識から大きくかけ離れた理不尽なものであることは、論をまたない。
(4)A派が上祐らを「グル外し」「麻原の意思に反する」「グル否定」と厳しく批判・排除した事実は極めて重い。
まず、仮に、上祐らの言動が、公安調査庁が主張するような単なる麻原隠しであったり、麻原の意思に基づいたものであるならば、麻原の意思を実践するA派が、上祐ら(および上祐らに一定の理解を示した中間派を含め)を、これほどまでに激しく批判し、教団活動から徹底して排除し、脱会・除名に追い込むはずがない。これは、オウムの教義上、麻原への帰依として大きな悪業になるために、できないはずである。
さらに、Aleph教団の出家信者こそが、麻原・オウム教義の第一の専門家であって、A派は、その中で圧倒的多数=出家信者の8割を占めていることも重要である(当時)。
上祐らM派は、2割ほどに過ぎず(「ひかりの輪」「ひかりの輪」の発足時のメンバーでAlephの元出家信者は56名で、アレフ全体では300名ほど)、当時のアレフの圧倒的多数が、上祐らM派の行動は、麻原の意思・麻原への帰依ではなく、自分達の意思のために麻原を用いた(利用した)ものであり、利用するという形での依存が残っているにすぎないと判断したのである。
この点に関して、たとえオウム・Alephを調査しているとはいっても基本的には部外者にすぎない公安調査庁が、自分たちなりの解釈で上祐らの行動を解釈したとしても、それはA派に及ぶものではなく、過ちといわざるを得ない。
ここでの重要なポイントは、すでに述べたとおり、「麻原への(絶対的な)帰依」とは、通常は大きな悪業とされる殺人や麻原への不敬行為を行う場合は、厳密に「麻原の言葉通りに」に実行しなければならず、さもなければ大悪業になるというのがオウムの教義である。言い換えれば、弟子たちが勝手な解釈をすることは「絶対的な帰依」とはならないということである。
そして、国も認めるように、麻原を頂点とするオウム・Alephの位階制度に基づいて行動するAleph信者は、もっぱら麻原の家族の意思に従って活動することが麻原への帰依となり、そうしないいわゆる中間派はAlephから排除され、Aleph組織全体が結果として反上祐らの体制となる構造がある。
麻原の家族が、国が認めるように上祐を激しく批判・排除し、魔境と言い、上祐らと接するなというので、それを麻原への帰依の一環として、Aleph組織全体がそのように行動することは議論の余地がない。