オウム真理教の清算
オウム真理教時代の清算についてのコーナーです

ひかりの輪がオウムではない事実〈裁判資料から〉

【2】オウム脱却から「ひかりの輪」設立の経緯(時系列)
(2019年2月28日)

前の記事に引き続き、ひかりの輪が観察処分取り消しを求めて裁判所に提出した書類を、以下に掲載します(読みやすさやプライバシー等を考慮して、一部、削除したり伏字にしたりしている箇所があります)。

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【2】オウム脱却から「ひかりの輪」設立の経緯

2,上祐及びM派(上祐派・代表派)の時系列別言動


(1)1989年8月頃 上祐が、麻原はじめオウム真理教の衆院選出馬に反対。


衆議院選挙に出るという麻原の発言を受けて、選挙の是非を話し合う高弟(幹部信者)たちの会議が開かれ、ほとんどの弟子たちが麻原の考えに賛成した。だが、上祐は反対した。反対したのは、ほかには一人だけだった。上祐が反対したのは、到底選挙に勝てるとは思えなかったからである。こうしたこともあって、上祐は教団内から、「自分の考えが強すぎる。修行を進めるには、自分の考えを捨て、グル(=麻原)に帰依することが必要だ」と批判されることが少なくなかった。

1990年2月に衆院選が公示され、教団からは麻原と上祐ら計25人が立候補した。同月18日に投開票され、25人全員が落選した。結果は、惨敗だった。

これに対して、麻原は出家信者多数を集め、富士山の総本部道場で選挙を総括する会合を開いた。麻原はその場で、次のような主旨だと解釈できる講話をした。

「選挙の敗北は、選挙管理委員会による開票操作の陰謀だ。合法的な活動では、救済はできないことが明らかになった。ヴァジラヤーナ(テロ活動)が唯一の救済の選択だ」

この時点で、一般信者には「ヴァジラヤーナ」のことは知らされていないので、麻原の説法は抽象的な表現で行われたのだが、上祐には麻原が言っている意味がわかった。

これを聞いた上祐は納得できず、投開票の当日、部下の信者に指示し、出口調査を行った。100人以上の回答を得たが、麻原に投票した人は、一人もいなかった。そこで、上祐は麻原と大勢の信者の前で、この調査結果を説明した。

「調査結果からも今回の選挙の敗北は、陰謀だとは思えない」

この発言は当然、教団内で大きな波紋を呼んだ。上祐は意見を聞かれて、率直に自分の意見を言ったつもりだったが、麻原に帰依することが最重要とされる教団で、教祖と高弟の意見が真っ向から食い違った形になったからである。上祐の意見に賛成したのは、一般信者でたった一人だけだった。ほかの高弟たちは、陰謀説を支持するか、黙っているかであった。

この事実は、上祐著『オウム事件 17年目の告白』に詳細が述べられているが、有田芳生氏(オウム専門のジャーナリスト・参議院議員)が、当時の教団内部の議論の録音テープからも、以下の通り確認している。

有田:ただ、私は地下鉄サリン事件当時、麻原の指示に反対する上祐さんの声を聞いたことがあるんです。教団施設が警察の強制捜査を受けた際、私も現場に足を運んだのですが、上九一色村の倉庫に、大量のカセットテープが散乱していた。その中から、'90年の総選挙に出馬すべきかどうかという教団内部の議論の様子を録音したものを見つけたんです。そこに、選挙に出ることに反対する上祐さんの声が収められていた。(『週刊SPA!』2012年12月18日号より)

また、当時の議論の現場に居た幹部の野田成人も、以下の通り証言している。

そんな状況下で、ただ一人だけ陰謀説に異を唱えた人物がいる。当時正悟師の上祐だ。教祖が多数の信者を前にして「票のすり替えが行われた」と話す中、上祐は「自分独自の電話調査では、麻原彰晃に投票すると言った有権者は、100名中誰もいなかった」と反論した。200人以上の信者面前での反駁である。その時、場の雰囲気が凍りついたのを覚えている。(野田のブログ及び著書より)

以上のことからも、上祐は、この頃からすでに、現実的・合理的な思考に基づく独立心が強く、「自分の考え」を強く持ち、陰謀論を唱える麻原に帰依しきれない傾向を持っていたことを示している。

なお、上祐が、選挙の投票操作の陰謀論を否定したことは、間接的に、教団が武装化路線に集中することに反対する意味もあって重要であった。なぜならば、麻原は、選挙等による民主的・合法的な布教(マハーヤーナ路線)と、教団武装化(ヴァジラヤーナ路線)の二つを行いながら、この陰謀論によって、以下のように述べて、マハーヤーナを否定して、ヴァジラヤーナ路線に集中するように教団を導き、実際にそうしたからである。

「今回の選挙の結果は、はっきり言って惨敗、で、何が惨敗なのかというと、それは社会に負けたと。(略)つまり、選挙管理委員会を含めた大がかりなトリックがあったんじゃないか」「今の世の中はマハーヤーナ(合法的路線)では救済できないことが分かったのでこれからはヴァジラヤーナ(武装化路線)でいく」


(2)1989年9月 上祐が、麻原の毎日新聞社爆破計画や教団の敵対者のポア(殺害)に反対し、坂本弁護士事件の疑惑にも不満を呈する。

衆院選出馬にともない、教団が次第に社会の注目を集めるようになるとともに、一部マスコミが教団批判を始めるようになった。そのスタートを本格的に切ったのが、週刊誌『サンデー毎日』だった。

同誌は9月上旬から、教団批判のキャンペーン記事を連載した。これに対する麻原の反応は苛烈なもので、村井と相談するなどして毎日新聞社ビルを爆破するための下見をさせるなどしたことが、麻原への東京地裁判決で認定されているが、この計画を知った上祐は、麻原に対して、強く反対を訴えたのである。当時の教団幹部・野田成人も次のように述べている。

「尊師!これは人殺しです、不殺生戒に反します、教団が潰れます!」などと言えた人間は当時誰もいなかった。いや一人だけ可能性あるやつがいた、それは上祐だ。上祐は、「毎日新聞社にガソリンを積んたタンクローリーで突っ込むか」と麻原が言った時に「止めてください」と止めたことがある。(同氏のツイッターより)

また、坂本弁護士事件の前にも、教団の敵対者をポア(殺害)することに関して、強く反対し、自分が関知しないところ起きた坂本弁護士事件の疑惑に対しても、麻原に不満を表している。

麻原から(坂本の名前は出さずに)教団に批判的な存在をポア(殺害)することについて一度意見を求められた際に強く反対しており、そのため、坂本弁護士の殺害に関しては、同じく反対していた石井久子や上祐を除いて、麻原は殺害を謀議、坂本堤弁護士一家殺害事件を起こす。暴力行為ではなく自らの広報活動によって批判による影響を和らげるべきだと考えていた上祐は、教団が起こした事件だと察した際には不満を感じ麻原に電話するも、逆に事件を正当化するよう説得された。

(3)1990年 上祐が、麻原による熊本地検襲撃の発言に反対し、麻原の教団武装化計画に対して協力するも、葛藤が強かったこと。

1990年の国土法違反事件(熊本県波野村の不正土地売買)のときのこと、事件に関与した麻原の高弟たちに加え、一番弟子の石井久子まで逮捕されたとき、上祐は麻原と2人で麻原の自室にいた。麻原がいきなり、「こんなに弟子たちがやられて、熊本地検に重油を積んだトラックで突っ込んでやろうか」と叫んだ。驚いた上祐は、思わず相手がグルであることを忘れ、叫んだ。

「それはダメですよ! そんなことしたら教団が潰れてしまいます。逮捕されている者たちは、みんな辛抱しているんですよ!!」

最終解脱者で、「神の化身」である麻原に対して怒鳴ったのである。それを聞いた麻原は、不思議な反応を示した。数秒、呆然とした表情をしたあと、

「そうだ、そうだ。お前の言うとおりだ」

と嬉しそうに言った。

麻原に(弟子が)怒鳴ることも、その後の麻原の言動も異例だった。

また、上祐は、麻原が強い意志で進めた教団武装化計画に対しても、そもそもは否定的であり、この事実は、当時の教団内部での麻原や上祐らの高弟の会話の録音などから報道機関によって確認されている。

しかし、当時は麻原に対する盲信が強かったために、炭疽菌製造実験にはまとめ役として協力するに至っている。しかし、その経緯には、「1993年1月(亀戸異臭事件の前)に行われた以後のテロ活動に関する謀議では、参加はしていたものの肯定的でなかったことから麻原に叱責を受けたという」といった麻原の強い働きかけがあった結果であり、本人の内面での葛藤は強かった。

以上のことからも、この頃から上祐は、結果としては麻原への帰依を続けながらも、本来的・本質的には、違法行為をするヴァジラヤーナの活動に対して否定的であり、その点では麻原に反抗する傾向を持っていたことが明らかである。

(4)1995~1999年 一連の事件の発覚・麻原の逮捕と変調・予言の不的中などの結果、紆余曲折を経て、上祐が、麻原を相対化し始めた。

1995年に一連のオウム事件が発覚して麻原が逮捕され、現実として麻原の武力路線が破綻したため、上祐の中で、本来の合理的・合法的な傾向が再び強まり、緊急対策本部長として、教団の運営を主導すると、現実的・合法的な方向に教団を導こうとした(いわゆる上祐の「ソフト路線」と呼ばれる社会融和的な教団運営)。

その一環として、麻原に要請して、信者にこれ以上の破壊活動を禁じる指示を出させ、出頭しない逃亡犯を教団は匿わない意思を明確にするために除名するなどした。

獄中の麻原は、その上祐の方針を破防法対策として、しばらく容認していたが、やはりついには嫌われることとなり、1995年10月に国土利用計画法違反事件に絡む偽証の罪で上祐が逮捕されると、麻原は獄中から上祐のとった路線を強く否定し、上祐に教団運営に関与しないように命じ、教団に上祐色を一切なくし、路線転換するように強く指示した。

また、1996年には、麻原は再び従来の予言を繰り返し、神のような身体(いわゆる「陽身」)を得るとして、死刑にならず復活することを示唆したため、その影響を受けた獄中の上祐は、一時的に再び麻原に対する盲信を深め、1996年の自らの公判などで、麻原への帰依を表明するなどした。

しかし、1997年以降に、麻原のハルマゲドン予言が外れ、さらには麻原が不規則発言や奇行を始めて連絡がなくなったため、上祐の中で、様々な葛藤をしながらも、再び麻原の相対化が進み始めた。そして、この時期の葛藤・心境の変化について、上祐は、国土法違反に関わる偽証の罪で服役中に、自らの考えや心境をノートに記していた(いわゆる獄中ノート)。

公安調査庁等は、この獄中ノートの記載をもって、上祐が当時から「麻原隠し」を企図していたかのごとく主張するが、それは事実に反する。実際、このノートは全て刑務官が検閲するものであり、秘密ノートではない。さらには、麻原の予言が当たらないことから、麻原への疑念を膨らませていった上祐は、実際に、この獄中ノートに麻原への絶対的な帰依などを否定する内容を多く記載しているのである。それは以下の通りである。

「麻原を尊重しつつ、(中略)絶対化、唯一化しない(中略)ことも時と共に必要になってくるだろう」「尊師・神々への帰依の否定」「Vヤーナ的教義に関する全情報をシャットアウトすべし(中略)Vヤーナ関係の書籍は廃すしかない」「グル=予言絶対主義から脱却 予言を待つより、自分達で布教すべきである。オウムは進化すべきではないか。」「人間中心、地球生物中心でなく、解脱中心(信仰者中心主義)尊師~95の体制の欠点は、①尊師と弟子のつながりだけでなく②弟子と弟子のつながりの悪さである→ 噴出した。」「組織運営上、独裁権の欠如は良いところがある。オレについて来いではなく大義のために進もう ※ 尊師のケースはこの良さはなかった」

また、当時この上祐ノートを読んだA派の荒木浩は、後に上祐を糾弾するお話会でこの上祐ノートは麻原の死後のことも想定した検討がなされ麻原への帰依に反するとんでもないこととして、徹底批判を行っている。

こうして、獄中ノートの実態は、上祐が、麻原への帰依と否定の中で葛藤しながら、徐々に麻原・オウムの体制を相対化していくプロセスを表していると見るのが合理的である。ところが、公安調査庁等は、獄中ノートはそもそも刑務官が全てその内容を検査するものであるにもかかわらず、このノートの記載が、当局に対して密かに麻原の信仰を隠す団体を構想している証拠だとし、麻原を肯定する部分は上祐の本心の帰依を表し、麻原を否定する部分は仮装であると決めつけている。これが不合理であることは明らかである。

加えて、上祐は、1998年6月に、当時の教団広報担当に送った手紙の中で、破壊活動を行う意思がないことを明確にしている。「又、自分のことが一部報道で言われていたが、私自身も全くそうした事はするつもりはない。(中略)仮に、「尊師に指示されたら?」と言われても、どんな状況にあっても私も誰も破壊活動をすることは絶対にない。」「どんな状況にあっても破壊活動はしない」等と述べている。

(5)1998年 上祐が、獄中から教団に事件の謝罪表明・被害者賠償を勧める。

上祐は、オウム真理教事件の被害者に対して、教団が賠償金を支払うべきだと考え、獄中から教団に対して、繰り返しその意思を伝えた。しかし、それまでに獄中の麻原が被害者賠償を認めたことはない(公安調査庁等が主張するように破産手続に抗うなという指示以上のものはない)。
そのことは、以下の通り、前記教団幹部の野田が、著書やブログで明らかにしている。

① 1998年頃、上祐から「パソコン事業で稼いだお金は被害者の賠償に充てたらいい」と提案があった
1998年頃、上祐は獄中から、「パソコン事業で稼いだお金は、被害者の賠償に回したらいいのではないか」と提案してきました。(中略)まだこの時点では、私を含めた多くの幹部は、教団の真理と正当性を固く信じていましたし、予言が成就するであろうという確信から、事件に関する謝罪や賠償はおろか、その意味合いを深く検討することさえも避けていたのです。教団の独善的な考えで正当化していたわけです。

② 1998年頃、パソコン事業の活性化を知った上祐は獄中から「パソコン事業で儲けたお金を被害者賠償に充てたらいい」と進めてきました。しかし私は麻原の予言を信じていましたから、一切耳を貸しませんでした。00年までオウムの金庫番として、被害者賠償に最も強硬に反対し続けていったのです。

③ 1998年頃、上祐から事件の謝罪反省を「教団として見解を出すべき」と伝えた  そもそも事件の謝罪反省については、上祐氏が98年頃獄中から「教団として見解を出すべき」と伝えてきました。二ノ宮正悟師などはその上祐氏の見解に即座に賛成表明していました。しかし98年時点で教団見解発表とならなかったのは、まだ小生含めて複数の幹部が全く反省していない事情があったのです。一番腰が重かったのは小生であったと言っても過言ではありません。

④1998年頃、上祐から「儲けたお金を被害者賠償に充てたら」と勧められた
上祐氏は98年頃、獄中から「儲けたお金を被害者賠償に充てたら」と勧めてきましたが、私は耳を貸しませんでした。00年までオウムの金庫番として賠償に最も強硬に反対し、不動産などを購入しました。

(6)1999年12月~2000年2月 上祐が刑務所から出所、教団に復帰、アレフ体制の発足。

1999年12月に、上祐は出所し、教団に戻った。

上祐は、正悟師(当時の教団の最高幹部)や麻原の家族や渉外担当者と今後の対応を協議した。その結果が、2000年初頭の「アレフ(後に、アーレフ、Alephと名称変更)」体制の発足である。
当時の教団リーダーたちの意見は非常に悲観的で、まとまっていなかった。ある幹部は、新法の観察処分を教団が受け入れれば、国はすぐに再発防止処分をかけて教団を潰しにかかるだろうと考えていた。これが、陰謀論を信じやすい信者の傾向であった。上祐は「すぐさま再発防止処分がかかることはない」と主張した。

信者の多くが麻原の預言を信じ、社会と対立する方向に動いていた。麻原が、その獄中メッセージでも、従来のハルマゲドン的な預言を繰り返し、自分が神のごとき身体を得る預言をしていたからである。そのため、上祐は教団全体に、「預言は絶対視できない。麻原は全知全能ではない」と話した。

上祐の言葉にショックを受けた幹部がいたが、現実に預言は成就していなかったことや、後に述べるように、麻原を絶対視する傾向の強い麻原の家族が、上祐の復帰間もなく自らの犯罪(旭村事件)のために教団運営から(一時的に)外れる事態が生じ、上祐が主導的な立場を得たこともあって、内心は反発・反対する者も抑え込む形となった。

一方で、この2000年当時の教団では、麻原信仰を全く払拭するという発想は、上祐を含め、誰一人持つには至っていなかった。どの程度、麻原への信仰を目立たせなくするか、麻原と距離を取るかが焦点だった。

その結果として、

①麻原と教団の事件への組織的な関与を含め、謝罪して賠償をする。
②麻原の写真を祭壇から外し、シヴァ大神の絵を中心に据える。
③事件の原因となった危険な教義は否定・排除する。
④教団の名前を「オウム真理教」から「アレフ」に改める(後にアーレフ、Alephと改称)。

という方針が決まり、2000年2月4日、マスコミに発表した。

Aleph体制では、麻原信仰は続いたが、信者にとっては、麻原の否定した事件への関与を認め、多額の賠償を約束することは、相当な変化であった。

以上の上祐の行動の中でも、とりわけ「麻原は全知全能ではない」と教団全体に話していったこと、そして麻原と教団の事件への組織的な関与を含め、謝罪して賠償をしていったことは(賠償契約締結は2000年7月)、明白に麻原の意思に反する行為であったといえる。

というのは、麻原は、獄中メッセージでも、従来の予言を繰り返し、自分が神のような身体を得ることを主張し、弟子に対して自らを絶対者として位置づけることを続け、自らの事件への関与については(不規則発言の中でごく一部を認めた以外は)ほとんど認めることはなく、また、団体が自分と異なってそれを認めて謝罪し、賠償を行うことを許可したことは一切なかったからである。
また、上祐が、現実的・合理的な視点に立って、教団内部で、麻原の予言(ハルマゲドンが起き、その時自分がキリスト(王)になること)を否定したことや、麻原の死刑執行を前提とした主張をしたことは、当時の多くの出家信者が証言しており、上祐の説法を反訳した公安調査庁等提出の証拠からも明らかであり、その他の証言もある。

これを言い換えれば、公安調査庁等が主張するオウム真理教時代の「麻原を独裁的主権者とする祭政一致の専制国家を樹立する」という本団体の政治目的について、上祐ら「ひかりの輪」は、この時点で明確に否定していることが明らかである。上祐がこのような行動に出ることができたのは、この頃からすでに、上祐の内側から麻原への絶対的帰依の心が消失していたからにほかならない。

なお、麻原の写真を祭壇から外し、その公的な位置づけを教祖・代表ではなく優れた瞑想家に落として、一般社会に対して融和的なイメージを形成する意図はあっても、そもそも麻原の教え・教材は全面的に維持する内容であるから、公安調査庁等に対して、教団内部での麻原信仰を隠す意図などは全くなく、以前よりも麻原を目立たせなくすることが趣旨であった。よって、公安調査庁等が、このことを、観察処分を逃れるために当局に密かに麻原信仰を隠すという意味での麻原隠しの一環と呼ぶのは失当である。

その一方で、この後3年ほどして、上祐らの改革を止めることになるA派は、上祐らM派との分裂の後に、麻原を絶対とする路線に回帰し、その一環として、麻原の事件への関与を否定する陰謀説を用いて新しい信者を勧誘し、上祐が主導して締結した麻原の関与を認めた被害者賠償契約の更改を長年に渡って渋り、今現在に至っている。

さらに、麻原の超能力・復活・予言を信じて、麻原への帰依を深めれば、死刑にならずに復活すると教えている。2011年(平成23年)~2012年(平成24年)にかけての逃走被疑者(平田・菊地・高橋)の出頭や逮捕によって延期された麻原の死刑執行も、Aleph信者の麻原に対する帰依によって、麻原がその超能力によって生じさせたとして、麻原への一層の帰依を指導し、麻原の三女は、麻原の無罪(弟子の暴走)の可能性と、心神喪失(=死刑回避)を公に訴えて、麻原の延命に努めている。

(7)2000年初期 上祐が、アレフ規約制定にあたり、麻原の指示に絶対的に従うとした幹部信者を除名。

上祐が、アレフの規約を取り決めた際、麻原を相対化する要素の入ったその取り決めに従わず、「どんな指示でも、犯罪行為の指示でも麻原の指示に絶対的に従う」と明言し、いくら説得を重ねてもその態度を変えなかった幹部信者・◎◎◎◎(教団名◎◎◎◎)を教団から除名処分に付した。

後に、この上祐の処分に対して、A派幹部の荒木浩(Aleph広報部長)は、自身が主宰する「お話会」と称する勉強会において、「(上祐は)麻原尊師への帰依のある◎◎◎◎幹部を排除した、麻原の意思から外れた冷たい人間である」と公然と批判した。


(8)2000年1月 松本家の子女による、いわゆる「旭村事件」が発生。

この時期、麻原の妻子・松本家が教団から本格的に距離を置くようになったきっかけは、2000年1月に発生した「旭村事件」である。

これは、「魔境」とされた麻原の長女の支配下にある長男を実力で取り戻すという目的のため、三女や次女その他の付き添いの出家信者が、長女が居住していた旭村の住居のドアをバールで破壊して中に入り、阻止してきた出家信者に暴行を加えて制圧し、長男を外に連れ出したとされる事件である。

この事件は、警察によって直ちに住居侵入事件、傷害事件として立件され、三女はじめとする上記当事者が全員逮捕・起訴された。当事者や教団は、これは単なる兄弟喧嘩であって内輪の問題にすぎないと弁明した。しかし、裁判所は、内輪喧嘩で済む問題ではなく、共同生活権を喪失した者らによる住居侵入行為、傷害行為であって明確に違法であり、反社会的と断じて、当事者全員に有罪判決を言い渡した。

この結果として、松本家は教団から距離を置くようになり、2000年に発足した新教団アレフには加入せず、その構成員とはならなかった。そして、麻原の家族は、麻原を絶対とする危険な傾向が強かったが、彼らが教団活動から離れることで、一時的にではあるが、麻原を絶対としない上祐が教団の運営上、主導的な立場を得て、2002年には代表に就任するまでになる。

なお、この事件を引き起こした松本家の子女に対して、2004年末に始まった教団分裂後の上祐らのグループ(上祐派・M派)は、合法的な活動が麻原の意思であるなどとして、麻原の言葉を使って、松本家の子女を厳しく批判した。

しかし、麻原の言葉を使って批判したとはいえ、麻原によって、松本家の長男・次男の一部は麻原と同じ最終解脱者とさえ位置付けられており、子女全てが信者の上に置かれていたから、こうして松本家の子女を公然と批判することは、麻原の教え・指示に反する恐れがある行為であって、事実上の麻原の相対化の一環であった。

(9)2000年1月 教団に対して初の観察処分適用決定

公安審査委員会の決定により、団体規制法が、初めてAleph教団に適用された。

(10)2000年6月 ロシア人・シガチョフによる麻原奪還計画を、上祐が警察に通報し、入国したシガチョフと警察と協力して監視して阻止。

公安調査庁等の主張にもある通り、2000年6月、ロシア人元信者であるシガチョフらが、テロ行為によって麻原を奪還しようと企てた事件が発覚した。シガチョフは、他の数名のロシア信者と共に、爆発物を使ったテロ事件を起こして、日本政府に麻原の釈放を求めるという、奪還テロを計画し、その下見のために2000年3月に日本に入国するに至った。

これに対して、教団に復帰した上祐は、ロシアの元オウム信者からシガチョフの計画の情報を得て、入国を阻止するために、アレフの出家信者に入国管理当局に通報させるとともに、自ら警視庁公安部の知り合いの幹部に電話で通報した。そして、警視庁や他の県警と協力して、日本に入国したシガチョフを追跡・監視して、速やかに帰国に追い込み、事件を未然に防止した。

そして、上祐は、ロシアの元オウム信者を通して、ロシアのモスクワの警察や、シガチョフが拠点とするウラジオストックの警察にも、シガチョフの問題を通報しており、その結果、日本から帰国した後に、シガチョフは逮捕され、事件が完全解決するに至ったのである。

このことは、上祐の書籍にも詳しく述べられているが、オウム関係者の周知の事実で、社会にも広く認知されており、後に述べるようにシガチョフの動きを助長した三女を代弁するA派幹部の荒木の証言や、実際に入国したシガチョフを警察とともに追跡・監視して帰国に追い込んだ元出家信者の◎◎◎◎が監修した著作物でも確認できる。なお、上祐の通報を受けた警視庁公安部の当時の担当者に確認しても容易にわかるものである。

そして、この際に、上祐らは、麻原の意思するところは合法的な活動であり、シガチョフの行動は麻原の意思に反していると主張して、麻原とその言葉を用いた。しかし、麻原が、警察・国家権力を悪魔の手先と主張し、戦うべき相手と位置付け、裁判でも事件の関与を認めずに弾圧されていると主張しているにもかかわらず、麻原に帰依し、麻原を奪還するために行動し、麻原が全ての信者の上に置いた麻原の家族が称賛した信者を「悪魔の手先」と協力してまで抑え込んで、教団の合法化をはかったことは、この教団にとって、かつてないことであった。これが、麻原への帰依に基づく行為ではなく、自分の頭で考えた結果であることは明らかであり、麻原の相対化にほかならず、上祐らにおいて、本件観察処分上の政治上の主義が消滅した証しにほかならない。

しかるに、公安調査庁等は、この重要な事実を隠して、奪還未遂事件の事実だけを強調し、上祐がロシア人に麻原への帰依を指導しているなどという、事実に反する主張を繰り返していることは全く不当である。

ここで問題なのは、この事件に使われた資金は、当時の幹部信者・◎◎◎◎によって、日本の資金が渡されたものであって、その◎◎から連絡を受けた麻原の三女は、上祐が復帰する前の1999年ごろに、シガチョフの奪還計画を称賛していたことであった。この称賛の事実を書き留めていたロシア人関係者のメモが押収されており、そのため、ロシア当局は、上祐からは捜査協力を得たものの、上祐が復帰するまでは、日本の教団が事件に関与していると見て、そのように裁判で主張したという情報もあった。

実際のところ、三女が「(尊師の奪還を考えるほど)帰依のあるサマナ(出家信者)がいる」と喜んでいたということは、当時の教団最高幹部も語っている。その結果として、上祐が出所して、その事態を把握し、シガチョフの動きの阻止に動き始めるまでは、シガチョフに直接面会しての説得、警察への通報などの強力な手段はとられなかったのである。

そして、上祐が阻止に動き出した後、三女は、上祐に対して、「称賛するようなことを言ってしまったかもしれない」と打ち明けたため、上祐は、三女に要請し、前言を否定し、奪還計画を否定するメッセージをシガチョフ側に流すことにした。この点については、A派幹部の荒木も、裁判所に提出した陳述書の中で次のように述べていることが、公安調査庁作成の証拠からも明らかである。

1つ目は、2000年4月、原告(※三女のこと)が、上祐氏が滞在していた横浜支部にやってきて、メッセージビデオを収録したことです。これは、当時「教祖奪還」計画を企てている疑いがあるとして、日露の捜査当局からマークされていた元オウム真理教ロシア支部の信者(ドミトリー・シガチョフ氏ら)に対して、これを思いとどませるために、原告からの肉声のメッセージを伝えることを目的とするものでした。シガチョフ氏らは、オウム真理教当時、ロシア支部のリーダーだった上祐氏の説得は全く受け付けず、原告のいうことならば、もしかすれば聞き入れる可能性があるとのことでした。(p6)

この点で、シガチョフがかつてのロシアのリーダーだった上祐の言うことを聞き入れない状態と判断されたのは、上祐の説得以前に、三女がシガチョフの行動を称賛していたという事実、及び、麻原によって、三女ら麻原の子女が上祐ら全ての信者の上に置かれていたという事実があるためである。

しかし、この時は上祐の説得に応じた三女であったが、その後の2003年頃には、上祐と三女との電話での口論の中で、三女は、「帰依という面から見たら、シガチョフを称賛するのは当たり前だ」と激しい口調で強調し、反省する様子を見せなかった。

そして、その後の上祐派(M派)は、この三女の行動に対して、団体規制法どころか破防法適用案件となるおそれもあったとして厳しく批判したが、シガチョフを批判するだけでなく、麻原が自分達よりも上に置いた麻原の子女をあえてあからさまに批判することは、実際には、麻原の教えに背くことであり、事実上の麻原の相対化であった。

(11)2002年1月 上祐が教団代表に就任した。

(12)2003年1月 教団に対する第1回観察処分期間更新決定。

(13)2003年2,3月 上祐主導による教団改革の開始。出家信者全員と在家信者多数を集めた会合まで開いて、麻原を含めて教団が事件に関与したと明言し、麻原と教団が主張してきた国家権力の陰謀説を否定し、これに基づいて教団改革を提案し、(出家信者ではなく)在家信者の道場で、麻原の書籍等を目に見えるようには陳列しないなど、麻原を目立たせなくする方針などを決定した。

上祐は、2003年2月頃から教団改革を主導し始め、3月には、出家信者全員に加えて、全国の在家信者多数を集めた会合で、教団が実際に麻原を含め事件に関与したことを明言し、在家信者との濃密な質疑応答を行い、従来教団が説いていた国家権力の陰謀説を明確に否定した。

さらには、この際、上祐は、事件は麻原が関与したものだが、それは最終解脱者としての善行ではなく、事件は教団の悪業の現れであって、肯定すべきではなく反省するべきだと全員の前で明言し、麻原を直接的に否定・批判することは避けながらも、事件を否定することで麻原を相対化した。

この改革のポイントは、麻原信仰は維持するが、①社会対策として表面的に事件関与を認めながら、裏では陰謀説を含めた麻原信仰を保つのではなく、裏表なく麻原の事件関与を認めて、陰謀説を排除し、麻原が(無罪で)復活するとか、キリスト(王)となるといった予言を盲信せずに、その刑死の見通しを受け入れた現実的・合理的な教団運営を行い、②事件に関して、直接的に麻原を批判・否定はしないものの、麻原による聖なる行為とせずに、教団の悪業の現れとして否定・反省して、事件を指示した麻原を(間接的に)相対化する、③新しい信者に対する違和感を和らげるために、在家信者の道場を中心に、麻原の書籍などを目に見えるようには陳列せず、麻原を以前よりも目立たなくする形態をとることなどだった。

実際に上祐は、この改革に先立つ在家信者向けの説法で、麻原の刑死を現実のものとして受け入れることを促す話をすることに踏み切っていることが、公安調査庁等提出の証拠(平成15年1月26日の上祐の説法(横浜施設)とされるもの)からも、以下の通り確認される。

このことについては、今まで教団では曖昧にしていました。曖昧と言うと、その死刑判決がおりるだろうという見通しに関して曖昧にしていたと言うよりも、今後の麻原彰晃尊師がどんなふうな行方がどのようなものであるかということについてです。 いろんな人がいろんなことを言っているということができると思います。信徒、サマナの中では麻原尊師が戻ってきてほしいと考える人も少なからずいるでしょうし、または90年代にあった予言というもの、これが関係してくるのではないかと考える人もたくさんいることは間違いないと。 でも一方、現実を見た場合、それは非現実的ではないかという見方があることも間違いない。そういった曖昧な状態で将来に歩んでいくということはいろいろな意味で現段階では望ましくないというふうに思っています。 (中略)ハルマゲドンということ自体が(中略)非現実的であるとか、死刑というのが現実的な見通しであるとか、現実認識は確かにあったんだけど(中略)、私たちがアニメチックに何か非現実的なことを待っていて、そして何も努力しないのに世の中が変わってくれ、昔ことを忘れてくれ、というような状況じゃないんじゃないかな、と確信するようになった。だから今日それを話すようにした。

ただし、この当時の上祐は、まだ麻原信仰を完全には抜けておらず、代表である上祐が前面に立ち、在家信者の道場においては、麻原が目立たない形態に変えても、麻原の教材の大半は維持する(在家信者の道場では目につかない事務所に保管する)というものであった。

(14)2003年3月ごろから、麻原の家族が再び教団に関与し始め、上祐の改革を批判してストップをかけ始め、6月に、上祐は幹部(師以上・以下同)会合で、自身の改革は誤りだったと幹部信者全員の前でザンゲすることを強いられ、週末を除いては修行に入り、教団活動に関与することを禁じられる。いわゆる上祐失脚。上祐による教団改革の中止。

こうして上祐は、決して表向きではなく、裏表なく実質上麻原を相対化する教団改革を進めたが、2003年3月頃から、それまでは前記旭村事件や服役などで教団の運営から距離を置いていた麻原の妻と三女を中心とした松本家と、それに共鳴する幹部信者たちは、上祐の行おうとしている改革を「グル外し」と見て批判し、ストップをかけ始める。

そして、最終的に、自分達を全ての信者の上に置くとした麻原に与えられた権威を用いて幹部信者を含め、信者内の多数派を形成し、上祐を厳しく批判し、教団活動から排除していくことになった。

その理由は、まず、麻原の指示に反して、ないしは麻原の許可なく、麻原の事件関与を明確に認め、麻原・オウム真理教の主張してきた陰謀説を否定したことがある。

その証拠として、この教団改革に対する意見の違いによって生じたA派とM派という教団の分裂の中で、A派とM派の対立が決定的となった一因が、A派が事件の総括を拒否したことである。それは事件を麻原が関与したことと認めること、そして、それを反省することが、麻原の意思に反しており、麻原への帰依からして弟子がなすべきことではないという理由である。

さらに、A派は、上祐らが以前の教団改革の際に在家信者多数の前で裏表なく本気で麻原らの事件関与を認めた流れを払拭するために、改めて従来の陰謀説を流布して信者を教化しなおした。そして、今現在に至るまで、時とともにますます強化され、新しい信者に必ず事件の陰謀説を信じ込ませる教化をしている。

その一方で、麻原が事件に関与したことを認め、それを謝罪することを前提とした賠償契約の更改については、被害者団体が東京地裁に調停を申し立てて求め続けたものの、最初の契約自体を上祐が勝手に締結したものと位置付けて拒絶し、下記の通り、2017年12月に調停による解決の道を葬っている。

オウム真理教犯罪被害者支援機構は、アレフ、ひかりの輪と間で今後の賠償計画に関する交渉を続けてきました。 2009年7月6日、ひかりの輪(上佑グループ)との間で合意が成立しました。この合意によって、ひかりの輪は、破産手続で債権届出しなかった被害者(実質的には給付金の支給を受けた被害者でオウム真理教犯罪被害者支援機構に配当の申し出があった被害者ということになります)に対しても新たに債務を引き受けて賠償することになりました。賠償金の支払額は、ひかりの輪が年2回オウム真理教犯罪被害者支援機構に提出する財政状況等の報告書を元に最低額を協議して決めることになり、2009年は最低300万円、目標800万円となっています。 他方、アレフとはすでに8年以上にわたって交渉を行っているのにアレフ側から月々ないし年間の賠償予定額がいまだに示されない状態にあります。オウム真理教犯罪被害者支援機構は、2012年3月にアレフに対して民事調停を申し立て、東京地裁で調停が続けられてきました(調停の状況については第三者に公表しないというアレフの要請に応じて、これまでこのサイトでも記載は控えていました)が、その中でも裁判所(調停委員会)からの度重なる要請にもかかわらず、アレフは月々あるいは年間の支払額の案を一度も示さず、2017年11月に裁判所から支払額を示した調停案が提示されるや、アレフは対案や修正案さえ示さずにこれを拒否し、次の調停期日の2017年12月22日には、調停を不調に終わらせました。裁判所は、調停案に沿った調停に代わる決定を行いましたが、アレフはこれに対しても直ちに異議申立をし、調停での解決の道は葬られました。被害者の被害の完全賠償への道はまだまだ遠く前途多難です。(被害対策弁護団の弁護士のホームページより)

第二に、第一に基づいて、上祐の改革は、麻原の刑死を前提としたものであり、麻原の(無罪や超能力による)復活と予言を否定するなど、麻原の絶対性を否定する内容が多々あったことも、A派の反発を招いたことがある。そもそも麻原家族、特に三女は、麻原への執着が深く、麻原の死を嫌い、その復活を願う気持ちが強い。

A派の上祐批判の会合では、例えば、公安調査庁が証拠として提出している上祐の平成14年~15年前後のヴィヴェーカーナンダの話に関連して、麻原の死を前提とした上祐の講話に対する強い批判・反発が示されている。

そして、今現在に至るまで、A派は、麻原の超能力・復活・予言を信じて、麻原への帰依を深めれば、死刑にならずに復活すると教えている。実際に、2011年(平成23年)~2012年(平成24年)にかけての逃走被疑者(平田・菊地・高橋)の出頭や逮捕によって延期された麻原の死刑執行も、Aleph信者の麻原に対する帰依に答えた麻原が、その超能力によって生じさせたとしている。さらに、麻原の三女は、麻原の無罪(弟子の暴走)の可能性と、心神喪失(=死刑回避)を公に訴えて、麻原の延命に努めている。

第三に、麻原を目立たせなくする中で、教団内における上祐の権威が高まることが、松本家には、上祐が麻原に取って代わって教祖になろうとしているかのように映った。特に、上祐が、麻原が説いたことがない教えの解釈を多数示したり、グルでなければしてはならないイニシエーションをしたことが問題視された。

特に、オウム真理教では、麻原への絶対的帰依とは、行動・言葉・心において麻原と合一することであり、麻原の言葉通りの実践が重要な原則であるところ、上祐の行為は、様々な点において、それを事実上骨抜きにし、上祐自身の考えのために、グルやその教えを利用しながら、事実上、自分がグルになる行為であるとされた。その中には、その一部は最終解脱者であり、全ての信者の上に麻原が位置付けた麻原の子女を上祐らが尊重せず、従わないことも、麻原に対する(絶対的な)帰依に反するものとされた。これを言い変えれば、上祐が、麻原家族から教団を乗っ取るという見方にもつながった。

一方、実際の上祐には、確かにカリスマ的な振る舞いがあったものの、麻原のように自己を神格化しようとしたことはない。現実的・合理的・合法的な活動をするためには、絶対視されていた麻原を相対化しながら教団を維持・活性化するほかなく、そのためには、自分が麻原の一部を穴埋めする必要があった。何より、麻原を絶対として盲信し、違法行為を排除しない麻原家族に従ってはいられないという事情もあったのである。

そして、分裂後のA派は、ひたすら麻原の過去の教えのみを教材として活動している。

(15)2003年10月 上祐が教団から麻原色を排除したのは誤りとして、その責任を追及する内容の幹部会が複数回開かれる。そして、幹部の全会一致(という建前で)、改革への反省と松本家に対する尊重を迫り、修行に入るよう求める上祐宛ての「嘆願書」が上祐に提出される。また、同時期に、上祐を毒殺するという話が反上祐のグループの中で出された。

この時期、上祐を排除しようとする一部の者たちによって、上祐を毒殺するという話が浮上した。麻原の三女は、その著書に、次のように記している。

ある正悟師が「上祐なんて、毒殺してしまえばいい。簡単ですよ」と言ったことがあります。私はその言葉に、当然ですが明確に反対しました。しかし、彼はのちに、上祐さんに「あのくそ女は、上祐さんの毒殺を命じたんですよ!」と言い、上祐さんはそれを信じたようです。

また、オウム問題に詳しいジャーナリストで参議院議員の有田芳生氏も、自身のブログで、「上祐史浩暗殺計画の真偽と背景」と題して、この話題を取り上げている。

この件は、後になってそれを知った上祐が、三女にそれとなく質問するメールを送信していることが、公安調査庁等提出の証拠からも明らかになっている。

このように、上祐の毒殺まで検討されるなど、上祐と上祐に反対する者たちの対立は決定的で、とうてい修復不可能なものとなっていたのである。

(16)2003年10月 上祐が完全に修行入り。外部との連絡を絶たれ、幹部らの監視下で修行を強いられる。上祐が電話をかけたら、通話相手や通話内容をチェックされた。

(17)2003年10月 荒木がこのころから、「上祐の改革は誤りで、許されないグル外しだった」と訴える「お話会」を、出家信者対象に何十回も連続して開催。半ば教団の公式な会合として扱われ、出家信者は荒木の話を聞くように勧められた。

この間、教団運営は、いわゆる「麻原回帰」の傾向が強まったと公安調査庁から指摘される事態となる。少しでも上祐寄りの発言をする者は、厳しくチェックされ、注意を受けたり圧力をかけられたりした。

(18)2004年5月 三女が、入学拒否した大学に対して、自分は教団と無関係と虚偽の事実を述べて損害賠償請求訴訟を提起した。

和光大学から入学を拒否された三女は、2004年5月に、大学側の拒否の理由が教団との関係であったにもかかわらず、自分は教団とは無関係であるという虚偽の主張をして、同大学に対して、損害賠償請求訴訟を提起した。

(19)2004年9月 このころまでに、村岡を除く正悟師全員(当時は二ノ宮を含む)が、一方的な上祐批判には疑問を持つようになり、上祐と話し合いをするようになった。その結果、上祐は活動復帰の意思を固める。

この際に、上祐は、麻原の家族と二ノ宮が、前記(15)の上祐毒殺についての話をしていたことを知った。

さらには、後記の通り、この時期には、分派グループのケロヨンクラブで傷害致死事件が発生したにもかかわらず、麻原家族がその犯罪行為に対して法に則した対応をする動きを見せず、分派とはいえ同じ麻原の信者をかばう姿勢が感じられ、警察に協力した上祐らが逆に批判される状況も生じた。

そして、現在のAlephは、裏支配する家族と、表のトップの二ノ宮という体制であって、上祐の毒殺を議論した者たちにほかならない。そして、なによりも、麻原の家族を全ての信者の上に置くとした麻原の教え・指示に基づいて、Alephの組織としての姿勢は、そのトップである麻原の家族らの意向によってすべてが決まるのであって、上祐らに対する姿勢も、まさにそうである。

このような事情を見れば、公安調査庁等が、両団体が共同目的を共有し、共同の行動をとる可能性があるとか、同一の団体であると主張するのは全く不合理である。麻原家族と二ノ宮から見れば、上祐は毒を盛ることまで議論した対象であり、上祐から見れば、麻原家族と二ノ宮は自分に毒を盛ることまで議論した者であって、両者が将来に復縁するとか、共同の行動をとるという主張は、両者の対立関係の実態を無視した(ないし隠した)空理空論にほかならない。

(20)2004年9月 ケロヨン事件(分派グループによる傷害致死事件)が発生し、上祐らが警察と協力して解決。

2004年9月10日、教団から分派したケロヨンクラブという小グループの中で、竹刀で何度も殴打するなどの過激な修行が行われ、一人が死亡、一人は一命を取り留めるも重症となる事件が起きた(傷害致死事件)。そのグループでは、それ以前にも無理な修行で死亡者が出ていた。

グループは、死亡した者は自分で自分の足を叩いていて死亡したと偽装し、警察にも虚偽の供述をした。事故死扱いで、いったんは事件捜査が終結し、事件の隠蔽がなされたかに見えた。

しかし、良心の呵責に耐えかねたグループのメンバーが友人のAleph信者に告白し、同信者が、Alephの細川美香(現「ひかりの輪」副代表)に真相を訴えてきた。その報告を受けた上祐は、警察に相談の上、通報。さらにAleph法務部の広末晃敏(現「ひかりの輪」副代表)等に指示して、グループの関係者を説得、9月19日に警視庁石神井警察署に自首させたのである。

こうして、一度はグループによって隠蔽された事件が上祐らによって明るみにされ解決したのであるが、松本家は、これを警察に通報することに消極的だった。しかも、松本家側の信者は、警察に通報し自首させた上祐らの対応を批判した。今後も犠牲者が出かねない状況にもかかわらず、やはり松本家にとっては、人を死に追いやる信者よりも、警察のほうが敵なのかと上祐らは感じた。
この松本家(後のアーチャリー派・A派)の姿勢に関しては、荒木とともに、当時の教団内での松本家の代弁者とされ、M派批判の資料を作成していた中堅幹部の◎◎◎◎が、ケロヨン事件は犯罪ではないと強弁し、上祐らが迅速に警察関係者に通報したことを批判し、依然として犯罪を行った信者をかばい、犯罪防止においてさえ国家権力との協力を否定する趣旨の内容のメールを送った事実からも明らかである。

この点に関して、本来の麻原の教えは、警察やマスコミなどの国家権力は悪魔の手先であって教団の敵であり、それと戦って麻原が王になるというものであって、国家権力には協力ないし依存はしないというものである。公安調査庁等提出の証拠乙G3の資料17「各省庁の任務及び決意表明等」の「法務省」の項目にも、「警察、公安、行政に対し、徹底的に闘い、法的に教団を守るぞ」との記載があるほどである。

よって、信者の犯罪を防止するために、上祐が国家権力、しかも麻原を逮捕した警視庁・警察権力と協力したことは、そうした麻原の教えに反した行為である。実際に獄中からも、麻原は、国の福祉制度である生活保護を受給することさえ敗北になり、エネルギーを悪化させるとして否定している。

一方、別に詳しく述べるが、現在の「ひかりの輪」は、犯罪防止における警察への協力に限らず、現在の国家・社会が壊滅するとした麻原の予言に反して、麻原・オウム真理教の時代には拒否していた国民年金保険料の支払いを行うなど、一部の保険料支払いをしない国民さえよりもいっそう、今後数十年に渡っての生活設計を国と共有しており、麻原・オウムの社会観・未来観を完全に否定した行動をとっているのである。

なお、上祐がケロヨン事件に積極的に対応し、その事件後に上祐が松本家の指示に反して自らの意思で幽閉から脱出して、活動を再開する動きを始めたことは、公安調査庁作成の証拠(荒木浩の陳述書)にも、次のように記載されている。

折しも、2004年の9月、教団も元信者グループ(ケロヨンクラブ)内で起きた傷害致死事件に関連して警察の捜査が始まり、修行中にこれを耳にした上祐氏が、法務部等の信者に連絡を取って報告を受けるなど、非常時という名目で自ら対応に乗り出していました。わたしも、この事件に関連して何度か上祐氏から呼び出しを受け、同氏の自室(修行部屋)でミーティングをしたことがありますが、その際、上祐氏がどうやら復帰の心積もりをしているらしい様子を間近に見ていました。(p11~12)


(21)2004年11月 松本家が主導する教団指導部(後のA派)によって軟禁状態に置かれていた上祐が、活動復帰を一部幹部らに宣言する。これに対して、反上祐の幹部らが、上祐改革の誤りを反省しないまま上祐が勝手に修行を出て活動復帰するのは認められないと主張する書面を上祐らに提出した。

松本家による幽閉状態にあった上祐は、このケロヨン事件と同じ頃に、前記の通り、正悟師の活動復帰の要請も受けており(その中で上祐に毒を盛る話があったことも聞いて)、様々な意味で麻原の家族の教団運営に従うことはできないと考え、松本家の指示に反して、幽閉状態を脱出し、独自の活動を開始した。後の上祐派(M派)の始まりである。

そして、その脱出を決意する際に、麻原の三女に対して、違法行為が多発している問題を指摘し、さらに、ケロヨン事件は三女が1995年(平成7年)に過激な修行をさせて多くの出家信者に障害を負わせた「観念崩壊セミナー」とよく似ていると指摘して、批判するメールを送っていることが、公安調査庁作成の証拠(荒木浩陳述書)にも、以下の通り記載されている。こうして、麻原の子女に明確に背くM派の立ち上げも、違法行為の否定がその動機の一つであることが明らかである。

(今後は)改革をやろうとは思いません。むしろ、尊師への信仰は、今までより、サットヴァに出した方がよいと思っています。社会的に見ても、改革とその停止があった現在は、隠す方が逆に当局・一般人の猜疑心を招く面があると思います。尊師信仰を無理に隠すよりは、違法行為・犯罪行為を徹底的に捨断するべきだと思います。 もう今年で事件あと、9年経ったのに、未だに犯罪が減りません。長官狙撃事件はえん罪にしても、薬事法、ケロヨン事件と逆に今年は悪化しました。しかし、教団内で、犯罪の防止策が強化されたとは聞きません。そのような事件発生の後に、ミロクの住民対策で論争があったようですが、犯罪の再発防止策は何もとられていません。教団の人は、法律を長年軽視してきましたから(私もそうですが)、ルーズはために相当力を入れないと、いつまで経っても、逮捕がなくならず、風化しない恐れもあります。そうすると、ご家族の方も戻ることが出来ませんよね。この点は、しっかり改革(違法行為の払拭)すべきだと思います。伝え聞くと、逮捕するネタは沢山あるそうですから。 (中略) なお、私は、改革でグルをはずしたと言われるのは、ちょっと行き過ぎだと思います。私はグルを目立たせなくしようとはしましたが、はずしたとか否定したと言われるのは、どうかなと思います。実際、公安調査庁などの目から、とうていはずしたとか否定したとはとらえておらず、隠蔽しようとしたとしています(中略)。ともかく、グル信仰を無理に隠すのは、社会対策としてさえ効果が限定的だ、と現在は考えていますから、グル信仰を隠す改革はしません。(中略) そして、今年はあなたのカルマが現れているのではないかと思います。ケロヨンの事件は、多くの人が、あなたの観念崩壊セミナーと同じだと言っていますが、(ターラー師危なかったと聞きました)どうでしょうか。

この中で、上祐は、三女の観念崩壊セミナーとケロヨンクラブの事件を結び付けることで、三女ら家族が、ケロヨンクラブと、麻原への盲信と違法性において共通点があって、そのために、ケロヨン事件を隠蔽しようとしたことを暗に批判しているのである。

また、上祐は、この三女へのメールで、「私は、改革でグルをはずしたと言われるのは、ちょっと行き過ぎだと思います。私はグルを目立たせなくしようとはしましたが、はずしたとか否定したと言われるのは、どうかなと思います。」と述べ、麻原の教え・教材を残す予定だった当時の自らの改革計画が、麻原を目立たせなくしただけにすぎず、三女らが批判するように、麻原を外したり、被告が主張するように、当局に対して密かに麻原の信仰を隠そうとするものではなかった(麻原隠し)ことを述べている。

さらに、上祐は、「社会的に見ても、改革とその停止があった現在は、隠す方が逆に当局・一般人の猜疑心を招く面があると思います。尊師信仰を無理に隠すよりは、違法行為・犯罪行為を徹底的に捨断するべきだと思います。」「ともかく、グル信仰を無理に隠すのは、社会対策としてさえ効果が限定的だ、と現在は考えていますから、グル信仰を隠す改革はしません。(中略)」などと述べて、麻原への信仰があるのに、それを隠す改革は無理があって、社会対策としても効果がないから行わない、と明確に述べている。これを言い換えれば、その後、「ひかりの輪」が、麻原の教え・教材を全て破棄して脱会・独立したことは、麻原の信仰を隠す無理をしたものではなく、真に麻原への信仰を脱却した結果にほかならない。

(22)2004年11月 上祐を支持する信者(現「ひかりの輪」副代表・広末晃敏)ら4名が、2003年に中止を余儀なくされた上祐による教団改革は間違っておらず、反社会的な松本家による教団運営こそ間違っている等と訴える出家信者対象の会合「教団の問題について考える会」を初めて開催。組織的なM派は、このころ成立した。

この組織的なM派の発足と活動の開始に対して、後で詳しく述べるが、松本家が主導する教団指導部は反上祐の旗幟を鮮明にし、反上祐の動きをさらに組織化していき、A派(反上祐派)と呼ばれるようになった。A派は、M派に対して、勝手な会合を開かないようにと抗議書を送付した。

ただし、A派は自らを派閥とは認めず、正統派と自称したり、M派は単なる魔境のグループにすぎないと批判したりして、この後、徹底排斥していく。

(23)2004年12月 活動を再開した上祐に対して、A派幹部の荒木が再び、かつての上祐の改革は「グル外し」で誤っており、何の反省もない活動再開は決して許してはならない等と訴える「お話会」を出家信者対象に繰り返して開催。この「お話会」においては、1996年当時、麻原が「教団から上祐色を消せ」と教団に伝えてきたメッセージを紹介し、上祐の社会融和路線や改革を否定し、上祐を指導部から排除することが「グルの意思」であると主張された。

この点も、後で詳しく述べるが、この際の荒木の動きについては、公安調査庁作成の証拠(荒木浩陳述書)にも、次の通り記載されている。

その後、後述するとおり、2004年11月に上祐氏が長期修行を中断し、やがて教団の主導権を取り戻すための活動に巻き込まれないよう、主に出家者を対象とした勉強会を始めます。10名前後の信者を集めて、「お話会」と称して翌年6月頃までに20回以上開催しましたが、このときわたしの念頭にあったのは、「信頼できるサマナを70人集めて」という原告(※三女のこと)の言葉でした。(p11~12)


この荒木自身の記述から、荒木の動きの背後には、三女(松本家)がいたことは明らかである。

(24)2005年1月 このころからM派も、理解者を増やすために、出家信者対象の会合を開きはじめる。

会合の内容は、主に、オウム事件は確かに麻原・オウムが起こした事件であり(つまりA派が主張しているような国家権力の陰謀によって麻原・オウムが陥れられたものではなく)、事件は明らかに誤りであったということを直視するものであった。そのために、オウム事件に関する記録を皆で参照したり、事件に関与した出家信者の話を皆で聞いたりした。そして、麻原への盲信を排除すべきであることを確認していった。

これは、繰り返しになるが、麻原が教団内外で事件を過ちだと認めていないばかりか、自分自身が事件に関与したことさえ(その不規則発言を含めても全面的には)認めておらず、その一方で、獄中からも、ハルマゲドン的な予言や自身の復活を示唆するかのような神の身体の獲得を主張していたことに対して、明確に反する行為であって、麻原の危険な教えを払拭し、麻原を相対化する行為にほかならないことは明らかである。

この会合で勉強していった内容は、後から「真実を見る」と題するM派のブログにまとめられていった。なお、こうしたM派の努力に対して、公安調査庁等は、このブログ(真実を見る・真理の地球)の中で、自分の主張に都合の良い部分のみを抜き取って使っているが、それは不公正である。特にこのブログは多数人が見るものであり、当局に漏れだすことが確実な状況であるにもかかわらず、このブログの記載を証拠として、当局に対して密かに麻原信仰を隠した団体を構想していたと主張することは、全く失当である。

(25)2005年5月 教団最高幹部でA派の二ノ宮耕一が「公安調査庁は寄生虫」「権力を震え上がらせるだけの帰依を見せつけろ」等と在家信者のセミナー向けの説法で発言した。

この、二ノ宮のあまりに反社会的な発言に対しては、A派の危険な傾向を示すものとして、M派内部で問題視する声が上がった。そして、後に、M派として、この発言への抗議を表明していった。

また、後に、M派に所属する教団法務部の名義で、この発言を含むA派の反社会的行動を批判する旨の正式な通達を教団全体に発して、A派を牽制した。


(26)2005年5月 同年3月に上祐らが長野県の戸隠神社地域で個人的に修行していたことに対して、A派が、上祐らの行為は魔境の所業であるとして、出家信者や在家信者に対して喧伝、上祐攻撃を激化させる。

これは、原審の原告準備書面(1)・第5などで述べたとおり、麻原が、他の宗教に従うことを「外道」として批判していたことに関係する。すなわち、上祐らが麻原の認めない日本の神社仏閣を尊重することは、麻原が禁じた外道の実践にあたるために、上祐らは魔境であるということである。獄中メッセージにも同様の趣旨のものがある。

この点においても、上祐らが、麻原とその教えを相対化していった過程を見ることができる(現在の「ひかりの輪」では、外部監査委員でもある東北の修験道の先達の指導を受けていることもこれにあたる)。

(27)2005年6月 このころから、教団内分裂問題が、出家信者のみならず在家信者に対しても説明されはじめ、在家信者も派閥形成され始める。特にA派は、上祐の行為はグル外しであり「魔境」であるから、上祐や上祐を支持する出家信者と話してはならないと、在家信者に指導し始める。

上祐らを魔境として、上祐らとの接触を禁じることは、別に後で詳しく述べるように、この時期から始まり、2018年現在の今に至るまでの15年間、松本家とA派・Alephが一貫して取り続けている姿勢である。「ひかりの輪」は、同様の趣旨のAleph幹部の言動に関して、ごく最近の事例も立証している。

(28)2005年夏 このころ極めて頻繁にA派とM派において、それぞれ会合が開かれる。M派が会合でオウム事件の総括を進めていることに反発して、A派は100名以上を集めた会合で、刑事裁判における検察の主張は信用できない等として、オウム事件陰謀説をうかがわせる発表を行うなどした。また、重ねて上祐の行為はグル外しで許されないとして批判し、松本家を尊重すべきである旨を主張した。

(29)2005年8月 M派の船橋道場長(現「ひかりの輪」副代表の細川美香)がA派の教団運営に従わないこと(上祐支持をしていること)を理由に、道場長解任を通告されたが拒否したため、A派の幹部が大挙して船橋道場に来訪する騒動があった。こうして、M派の幹部は、A派主導の教団行事の運営から排除されるようになる。

こうした、教団内の両派の激しい対立は、後に読売新聞でも大きく報道された。

(30)2005年9月 A派が、上祐を教団代表職から罷免するために、役員会または会員総会を開催して多数の罷免賛成票を得る計画を立案する。

(31)2005年9月 M派は、その主張を文書やブログにまとめて、教団内にいっそう広く訴えていった。

この時期にM派がまとめた文書「代表派の主張の骨子」の冒頭に記された主な内容は、以下の通りである。いずれも、M派が理想と考える教団運営に関する主張である。

①合法的であるべきこと②事件を起こした教義の否定をすべきこと③事件については裁判所の判断に委ねるべきこと④形を変えても教団組織を維持すべきこと

このように、M派は、反社会的で違法性を帯びたA派の教団運営に異を唱え、あくまで合法的で社会的であるべきだと強く訴えたのである。

それが、シガチョフ事件やケロヨン事件等での松本家・A派の反社会的姿勢に対するM派の異議に端を発していることは、前記の通りである。

なお、これまで公安調査庁等は、上記④の趣旨の麻原のメッセージをM派が上記のように引用していることを指して、その後の「ひかりの輪」「ひかりの輪」は麻原の意思を受けた「形を変えた教団組織」として設立されたかのように主張しているので、念のため反論しておく。

これについては、上記「代表派の主張の骨子」の該当箇所を見れば、公安調査庁等の誤解にすぎないことが明らかとなる。すなわちM派は、上記④の麻原のメッセージを、以下のように解釈していた。

(尊師は)フォームを変えてでも教団組織を維持すべきである旨の考えを示された。このような尊師の基本的な考えは、事件前のヴァジラヤーナ路線ではなく、合法的なマハーヤーナ路線へ転換し、教団を維持することが重要である、という意思を示されたものであろう。これを踏まえて、私たちは、旧教団の非合法性を変えていかなければならないのである。

以上のとおりであるから、M派は、上記④のフォームを変えるという趣旨の麻原のメッセージについて、以前の違法手段を肯定する路線の教団と異なって、合法的な路線の教団に変えるべきという趣旨に解釈していたことが明らかである。

この点において重要なことは、合法的な教団に変えていくことができるように、麻原のメッセージを解釈している、ないしは麻原のメッセージを利用しているという事実である。こうして、繰り返しになるが、上祐らの初期の行動は、麻原の言葉を使って、教団を合法的・現実的なものに変えていくということであった。

一方、単に合法的であるだけでなく、麻原の過ちを指摘し、厳しく批判し、麻原の信者の脱会支援をして反麻原の活動を行っている現在の「ひかりの輪」「ひかりの輪」についていうならば、どう見ても麻原が認めた、許可した範疇だと解釈できるものではない。よって、「ひかりの輪」は、麻原が意思した「形を変えた教団組織」でないことは明らかである。この点は、原審の原告準備書面(1)・第5でも詳説したとおりである。

また、上記「代表派の主張の骨子」には、オウム真理教の政治上の目的を否定する趣旨の、次の記載もある。

武力によって尊師を日本の王・世界の王(キリスト)・絶対者にするために、社会と闘争し、一連の事件に至った旧教団の預言教義にもとづく実践は、今現在の状況をありのままに見て、今後は完全に脱却して、盲信・狂信を排除すべきである。(p13)


公安調査庁等は、本件更新処分の対象たる「本団体」の政治上の主義は、麻原を独裁的主権者とする祭政一致の専制国家の樹立であると主張しているものであるところ、M派は、そのような政治上の主義は「盲信・狂信」にすぎないとして排除すべきことを教団内で強く訴えていた。

そして前記の通り、その運営は合法的であるべきと主張していたので、換言すれば、M派は、本団体の政治上の主義・目的とその実現手段(武力行使による違法行為)の双方を明確に否定していたことが明らかだといえる。

よって、M派は、この段階で、すでに無差別大量殺人行為(政治上の主義若しくは施策を推進し、支持し、又はこれに反対する目的による殺人であって、不特定かつ多数の者を殺害し、又はその実行に着手してこれを遂げないもの)に及ぶ危険性はなかったということになるのである。
この点に関連して、2017年東京地裁判決も、現在の時点では、オウム真理教の教義が公安調査庁等の主張する政治上の主義と密接不可分に結びついているとは言い難いことや(判決p94~95)、A派・M派の対立に見るように、麻原への帰依の解釈も多様化したことを認定している通りである(判決p94)。

さらに、同時期にM派がまとめた文書「ご家族主導の教団運営の過ちについて」では、麻原の意思によって麻原に準じる高い地位が与えられていた松本家の子女らに対して、その行動の違法性(前記の旭村事件、シガチョフ事件、ケロヨン事件、三女の訴訟詐欺疑惑等)を根拠に、厳しい批判を行っている。これは、実質的に、麻原の定めた位階制度を否定し、すなわち麻原を否定するに等しい意見表明であった。

(32)2005年10月 M派の出家・在家信者2百数十名が、連名で、「宗教団体アーレフの活動が合法的、社会的に行なわれ、違法で反社会的なものとならないように要請します。」等と要請する文書を、A派が主導する教団執行部に提出した。

(33)2005年10月 教団大阪道場(大阪市西成区)の家主が、社会融和に反する発言を繰り返す幹部(二ノ宮)の影響下にある道場をこのまま賃貸することはできないとして不信感を抱き、契約解除を通告。道場内のA派信者は退去、移転(生野区へ)。家主は、上祐は信頼するというので、M派の信者の家主の善意でその後も居住させてもらった。

(34)2005年10月 教団経済の悪化をきっかけに、教団最高幹部・杉浦実らを仲介人として、A派とM派の代表者同士での話し合いが複数回行われるが、宗教観が違っているため平行線をたどる。その席上で、A派はあくまで、オウム事件はグル(麻原)のマハームドラー(麻原が弟子に与えた宗教的試練)であって、その総括を弟子が勝手に行うことはできない旨を繰り返し主張した。


(35)2006年1月 教団に対する第2回観察処分期間更新決定。

(36)2006年1月 このころ、A派が、M派の拠点である世田谷施設を、経済難を口実にして解約し、M派を解体する計画を持っていることが判明。

(37)2006年3月 上祐らがM派の少数のスタッフと共に京都・広隆寺の弥勒菩薩を初めて拝観し、麻原からの脱却をもたらす大きな心境の変化があった。

2006年3月は、上祐の宗教性に大きく影響を与えることが起こった時期であった。上祐は、以前から聖徳太子に関心があり、京都や奈良の太子ゆかりの仏閣を巡っていたときのことである。

広隆寺にあった有名な弥勒菩薩像を見たとき、上祐は非常に大きな感銘を受けた。その仏像に、上祐はかつてないほど神聖なものを感じた。それは、すべての生き物を見守る繊細な智恵、単純に透明なだけではなく、世俗の汚濁も包み込む深みを持った、無限大の慈悲の心だった。

麻原は自らを弥勒菩薩の化身とした。そして、上祐にその宗教名を与えた。しかし、この弥勒菩薩像は、あらゆる意味で麻原と対称的だった。

麻原は人間であり、性急にも今世紀末に真理の国を作り、自分がそのキリスト(王)になろうとし、教団を武装化して社会と闘争した。

それに対し、弥勒菩薩像は自然の木から作られ、有数の美しさで名高く、1300年の間静かに人々を見守り、上祐のように時期を得て参拝に来る者を待ち続けていた。寺のアナウンスでは、自己の未完を自覚し、時が来るまで、今後も延々と修行する謙虚な菩薩と位置付けられているとのことだった。

人間と自然、性急と忍耐、傲慢と謙虚、闘争と寂静。上祐は、この弥勒菩薩像の発するイメージこそが、麻原の過ちを修正する、真実の弥勒菩薩だと考えた。

この菩薩との出会いは、麻原信仰から脱却する決め手になった。オウム・Alephでは、信者が神聖と感じるような体験に導けることが、麻原が神の化身である証の一つだった。よって、麻原以外の存在によってオウム以上の体験をもたらされたことが、上祐が麻原を相対化する大きな力になったのである。

さらに弥勒像の前では、M派の多くのメンバーが似たような素晴らしい体験をした。上祐が広隆寺を参拝した後の同年(2006年)8月に、M派は「聖地巡礼」として広隆寺を訪れた。その際に参加メンバーに配られた資料には、次の記載がある。

この正大師(※上祐のこと)らの(広隆寺での)体験は、それ以降、訪問した多くの代表派のサマナ(※出家信者のこと)に広がり、その結果、(オウム・アーレフ)教団の外にも、教団と並ぶ、もしくはそれ以上に神聖な存在がある、という認識を生じさせた。

この上祐の体験は、公安調査庁等の提出した上祐の説法の証拠(乙B3-198号証:平成19年12月9日仙台)からも以下の通り確認することができる

その一つが京都の広隆寺に弥勒菩薩半跏思惟像を見に行った時なんです。弥勒菩薩半跏思惟像を見に行った時、自分は非常に神聖なエネルギーを、旧教団以上に神聖なエネルギーを感じました。(p28)

また、上祐は、2008年2月9日の説法でも、次のように述べている。

それでは2つ目に、この前各支部の主だった指導員の方と共に私が巡礼に行った場所、それは京都の広隆寺とそれから奈良天川、そして高野山なのですが、それについて若干報告させていただきたいと思います。これは京都広隆寺。一部の方にはかなりお馴染みとなった場所ですが、弥勒半跏思惟像を含めた仏像参拝に行きました。(中略)これは広隆寺で、先程ここで金剛杵を持って瞑想したと。ここには弥勒半跏思惟像と薬師如来と観音菩薩と蔵王権現などの仏像が聖徳太子、秦河勝の像と共にありまして(中略)。半跏思惟像を象徴とする弥勒菩薩や、それから金剛杵、これを象徴する金剛薩多とか、ないしはそういった密教の神格というもののエネルギーラインというものを使っていると自分は解釈しているわけですが、その両方に関わってくるのが日本の中では弘法大師空海ですね。

さらには、上祐の他の多くの講話および、同行したスタッフの証言でも確認することができる。
そして、当時、オウム・Aleph教団こそ絶対であり、それ以外に真理はなく外道という独善的な主張をしていた教団においては、教団の外にも教団と並ぶ、いやそれ以上に神聖な存在があると認めて公言することは、教団の誤った価値観が根底から覆っていなければ、到底不可能なことであった。特に、麻原は、広隆寺が属する弘法大師の真言宗や日本伝統宗派(やその仏像)を明確に否定している。よって、上祐らに、それだけの大きな変化がこの時期に起き始めていたことをこの事実は示している。

その後、上祐らは、この仏像を重ねて訪れる中で、Alephからの脱会と独立を検討していった(すなわち、2006年(平成18年)3月に初めて仏像に出会ってすぐに脱会・独立を決めたのではなく、それを検討し始めたということであり、後記の通り、具体的な決定がなされたのは同年11月である)。

それまでの上祐やM派は、麻原の言葉を用いて現実的・合法的な活動をしてきたが、弥勒像に出会って、それを重ねて訪れる中で、こうした麻原の言葉を用いるという形の依存(相対化された帰依)さえも徐々に消滅していって、観察処分を逃れることを目的に麻原信仰を隠すのではなく、真の意味で麻原への信仰・依存からの脱却を果たし、麻原の教え(教材)を破棄して、脱会・独立していく道程に入っていくことになったのである。

(38)2006年3,4月 A派とM派の代表者間で、経済問題を話し合う会合が開かれる。M派と一緒に住みたくない、M派の活動のために布施したくないというA派信者からの要望により、世田谷施設におけるA派居住区域とM派居住区域の分別と、M派会計の独立を7月まで完了することで合意。

(39)2006年2月から4月 松本家の裁判詐欺疑惑の高まりと松本家への脱会の宣言。

三女が2004年に提起した大学入学拒否に対する損害賠償請求(前記(18)記載)は、教団に関与していないという虚偽の証言をした三女が2006年2月に勝訴し、賠償金30万円を受け取ることになった。

しかし、実際には、上祐を排除するなど教団運営に深くかかわっていたことは、警察関係者にも知られており、2005年後半までには、警視庁公安部が捜査をしているという情報があり、M派は、この三女の行動を厳しく批判し、オウム真理教犯罪被害者支援機構の滝本太郎弁護士もブログで公に批判するに至った。

にもかかわらず、2006年4月には、三女ら麻原家族は、三女に続いて次男の入学拒否に関しても、同様の裁判を提起し、しかも5000万円という巨額の賠償金を求めた。

このような三女らに対して、上祐が反発したことが、2006年に上祐らがAlephを脱会する決意を固める一つの理由となった。

また、すでに三女に距離を置きつつあった野田成人は、この詐欺疑惑の問題で、三女の弁護士に、三女が教団に関与している旨を伝えて、弁護士から三女を自重させようとしたが、弁護士は全く取り合わなかったという。この弁護士は、その後麻原の私選弁護人にもなり、その裁判上の不手際によって弁護士会から懲戒処分を受けることになる人物で、三女と共に極端な考え方の持ち主のように思われた。

こうした状況を知った上祐にとっては、これ以上A派と共に活動することは、十分に合法的な活動をすることは不可能であり、ある意味で、麻原の家族と共犯関係ともいえる状況となる恐れがあった。すなわち、仮に、その裁判において、A派の教団幹部が証人として呼び出され(実際に三女の裁判でも教団幹部を召喚する考えもあったとされている)、麻原の家族の指示で偽証するならば、その時点でも、教団の代表は形式的には依然として上祐であり、それは国土法違反事件に関する偽証で逮捕された過去の自分の所行を間接的には(Alephという組織としては)繰り返す恐れがあることを意味した。

こうした状況に鑑み、次男の損害賠償訴訟の提起を知った後に、上祐は、松本家の代弁者である荒木浩を通して麻原家族に対して、そのような違法行為は「もはや容認できない」と明言し、自分達が脱会に踏み切る旨を伝えることになった。

(40)2006年4月 前月の3月27日に麻原の控訴が棄却となり、死刑の可能性が高まった。その後の在家信者の説法会で、上祐は、麻原の死刑が執行される可能性が圧倒的に高く、麻原が刑死せず、その復活や予言を信じるA派は妄想的であること、死刑の際に精神的にも、集団自殺などの違法行為で組織的にも崩壊する恐れがあって、そうではなく現実的・合理的・合法的な活動をするための別の団体の検討を始めていると説いた。

   また、この説法の中で、上祐は、前記の広隆寺の仏像の体験に鑑み、オウムでは麻原がなぞらえられることが多かった仏教の菩薩とは、神でもなく完全な存在でもなく、あくまで不完全で過ちを犯す存在であって、それを謙虚に自覚した者だと位置づけ、間接的にではあるが、麻原を明確に相対化した。


具体的には、この趣旨の講話は、公安調査庁作成の証拠(乙E58:2006年(平成18年)4月15日の小諸道場での講話)でも行われている。ところが、公安調査庁等は、遺憾にも、この講話の一部を抜き取る形で要約して引用し、あたかも上祐が、観察処分を逃れることを目的として、麻原の信仰を隠した団体の設立をしようとしたと主張しているのである。

しかし、公安調査庁等の上記証拠は、講話全体の反訳文が掲載されているので、その全体を見れば、上祐の講話の趣旨は、観察処分逃れの麻原隠しの団体を作ろうとしたものではなく、前記の通り、麻原の復活・予言を盲信するA派は、実際に死刑になった時に後追い自殺を含め精神的・組織的な崩壊を起こす恐れがあると考え、そうではない現実的・合理的で合法的で健全な活動ができる別の団体が必要であるという趣旨だとわかるので、以下に詳しく説明する。

第一に、上祐は、麻原への死刑が執行される可能性が圧倒的に高いという現実を直視するように信者らに説いている。これは重要な事実である。なぜならば、麻原は、逮捕前の予言において、ハルマゲドンが起きて自分がキリスト(王)として登場すると主張し、獄中のメッセージでも、自分が神のような身体を得ることを主張し、自分の復活を示唆していたからである。よって、麻原自身が復活せず死刑になると主張することは、現実的な視点に立った麻原の予言の否定であり、公安調査庁等が主張する本件の「政治上の主義」の明白な否定・破棄を意味するからである。それは、以下の通りである。

私は、A派の人たちが考えているような今後の展開というのは信じていません。A派の全てが考えているわけではなくて、ごく一部かもしれないが、要するに麻原尊師の奇跡的な復活というものを信じる、それを中心にするというのかもしれません。 A派の人たちは大抵そこまで信じていない人が多いし、予言も信じていない人も多いのですが、一部はそういう人たちもある。だから今でも一生懸命祈れば麻原尊師が復活して死刑執行にならないだろう、そういうふうに言います。その麻原尊師の裁判に関していうと、今の担当している当局の警察に関しては、情報の収集がかなり進んでいますから、今、高等裁判所です。高等裁判所の異議申し立てが棄却されるのが、このセミナーが終わったくらい。その後最高裁に特別抗告を行います。最高裁は、この大事件でしかも異例の形で終わるようなこともあるので慎重に審議するそうです。数ヶ月を要し、最長では、年末までかかるかもしれない。結局、今年中に裁判は全部終わるということです。しかし、その後、普通、再審請求というのがあるわけですね。再審請求というのは、これを無視して死刑執行をできなくもないのですが、普通、一回はその再審請求を受けて、それを終わらすと。それに一年くらいかかると見ていると。その期間には、要するにもう一度精神鑑定をやる。何故ならば実際に刑を執行する場合には、刑を執行するに値する状態なのか、本当におかしくなっていて、死刑を執行されたという自覚がなければ、受刑したということにはならないので、裁判をするためにも裁判を受ける訴訟能力があるかないかを調べなければならないということで、精神鑑定を行うということらしい。そういった形で、結局、短くて二年、長くて三年の間に執行しようというのが、今の現実の世の中で流れていることだということです。そういった事態にあたってね、我々が何を考えたらいいかということになるわけですが、要するにA派の人たちが信じるような未来、これに全てを賭けた場合は、それはそれが現実とならなかった場合に、一切が崩壊していくだろうということができるわけです。多分、A派の一部の人たちは、その現実を受け入れられないがために精神的に不安定になったり、まあ崩壊してしまったりしていく人もいるかも知れません。当局は、後追い自殺というものを心配しています。後追い自殺に関しては、私も繰り返し、たしなめているわけですが、精神的なショックが走った時にどうなるか分からない。実際、95年から96年、そのオウム真理教が破綻し、破防法がかかって教団が無くなるかもしれないという、その一年の間には、二人の人が自殺して、数名の人が病死したということが起こります。普通の年はオウム真理教の信者、サマナ全体で見ても、一人死ぬか死なないかだから、5,6人が死んだ、95年というのは異例の年でした。しかし、今後は教祖の死刑執行ということになりますから、相当なインパクト、これが走るんではないかと自分は考えています。  だから、A派的な信仰だけでいった場合、どうなるかというと、結局、先ほど言ったとおり、その自分たちの信仰観念が世の中に受け入れられない場合、自分たちの信仰概念を共有する人たちだけの世界に閉じこもる。そして、尊師、教祖の死刑という形で、自分の考えていることが現実と合わなくなってしまった場合、これは自分の信仰概念と現実が合わなくなってしまった場合、現実の世界の方を否定してしまう。この現実の世界で生きることを止めてしまう。そうしたら心、極端な行動に出る可能性もあると思って、特に心配しているわけです。これがまあA派的信仰で行った場合の精神的、物質的破綻なんじゃないかなと。で、そういった未来だけを信じていっていいのかどうかと。やはりそうじゃない可能性の方が現実的に圧倒的に多い以上は、もう一つ別のものを作って、そうじゃない道筋を作っておかなければ、全滅してしまうんではないかなというふうに思われる。(p16~17)

こうして、上祐は、A派のように麻原への絶対的な帰依を続けて、麻原の復活・予言の成就を盲信し、麻原の死刑で精神崩壊することを避けるために、麻原への絶対的帰依や、麻原の復活や予言の盲信を本当に破棄する団体・グループを作ることを説いていることがわかる。公安調査庁等が主張するように、麻原信仰を隠して、観察処分を免れることを目的としているのではないことは明らかである。

なお、公安調査庁等は、この講話の一部で、「一つの組織だと当然、観察処分にもかかりますし」と上祐が述べたと主張する。実際に上祐がそう言ったかは、公安調査庁等の証拠からは確認できないものの、仮にそう言っていたとしても、別団体の必要性は、本当に麻原の盲信を破棄することであって、観察処分に関しては、「一つの組織だと観察処分"も"かかりますし」と言っているにすぎない。

よって、観察処分を免れることを目的に、麻原信仰を隠した別団体を作ると言っているのでもなく、別団体ならば観察処分がかからなくなると断言しているのでもなく、単に、麻原絶対のA派と同じ団体であれば観察処分は長く続くだろうと予想しているにすぎないと解釈すべきものである。

さらに、上祐は、以下のように、麻原が刑死しないと考えるのは、仏教が説く無常の思想と異なり、妄想的であると述べているが、これは、麻原の復活・予言を信じ、麻原を独裁的主権者とする祭政一致の専制国家を樹立するという本団体の政治目的の実現を完全に破棄していることが明らかである。

さて、最後に麻原尊師の死刑というものに関して、どういうふうに考えるべきかということについて、皆さんにお話したいと思います。これは教団の中で様々な議論があります。A派の人たちは、この状況に対してあまり思考が出来ない。その現実に対してどう考えたらいいか分からない人が多いかも知れない。修行すれば変わるというふうに言っている人もいます。また、死刑執行がされない可能性を言っている人もいるようです。例えば面白いのでは、首を鍛えておけば絞首刑になっても大丈夫だとか、そういう考え方をするそうですが、現実問題、そういう場合繰り返し執行したり、塩化カリウムというものを注射して抵抗力をなくした形を取って死刑執行を行うということがあるそうです。プロレスラーなら死刑にならないというのはちょっと無理なんじゃないかなと思います。そういった意味ではそういった子供っぽい話をする人も出てくるんですね。要するに何らかの形で生き残ることがないかなっていうことを追求している。再審請求をしていくということは、考えるんじゃないかな。彼らにとっては、麻原尊師が死なないこと、ないしは、死んでも復活すること、ある種のキリスト教的な考え方、これがポイントなんです。キリスト教っていうのは、ある意味じゃ仏教と違います。仏教は釈迦神賢も死んだように無常を強調します。しかし、キリスト教っていうのは、教祖が死んで、その後復活した。そして、我々に救済の真理を与えた。そしてまたその教祖が再臨してくるんだっていう考え方を持っている。だからその教祖またはグルの無常性というものはあまり強調しない。そういった部分がある。まあここら辺の無常観を中心とした仏教と無常を前提にして真理を使おうとする仏教とキリスト教的な部分の違い。キリスト教のロマンとも言えるし、ある意味じゃ妄想とも言えるかもしれないが、自分は妄想の部分が強いと思っているわけですが、それを表している二つの特徴の違いではないかと思います。(p21~22)

こうして、麻原が刑死する可能性を信者に受け入れさせるということは、麻原を独裁的主権者とする祭政一致の専制国家を樹立するという本団体の政治目的の実現など、全く考えていないことが明らかだといえる。

第二に、上祐は、以下の通り、菩薩の不完全性と謙虚さについて述べているが、これは、その前月に、上記の通り広隆寺の弥勒菩薩像を拝観して得た気づきを語ったものである。換言すれば、オウム・Alephにおいては、えてして菩薩は、シヴァ神や麻原になぞらえられて、その完全性を象徴するかのような位置づけを与えられてきたが、実際の菩薩はそうではないと説くことを通じて、麻原の絶対性を徐々に否定していく意図を持ったものであった。

この観音菩薩、実際、この教団に馴染みがないかというと、非常に馴染みのあるもので、観音菩薩自身、実際はシヴァ大神の化身とされています。また、観音菩薩は、様々な姿形をもってこの世に現れる、人間の救済者だとされてます。 ですから、観音菩薩の化身とされるものには、チベットのダライラマ法王ですね、それから日本においては、これは、この教団の書籍にも出てきますが、聖徳太子、これをもって観音菩薩の化身としている部分があります。(中略) 実際、この観音菩薩、救世漢音、久世観音とも言われて、あらゆる救済者の象徴であると言われています。そして三十三の姿、別の姿を持ってね、千の手段をもって救済するとも言われており、三十三観音や千手観音というような言葉も皆さんきいたことがおありになるかも知れない。そういう意味では、偉大な人間の救済者は、すべて観音菩薩であるということもできます。そいうった意味で次期菩薩、次期如来として(聴取不能)とされている弥勒菩薩に関しても、その弥勒菩薩と観音菩薩を混同し、同一視する傾向も日本の仏教の中にはあるようです。(p8) (中略) 観音菩薩の瞑想は残念ながら、残念ながらっていうことはないな。A派の人たちと違って、麻原尊師を観想するものじゃない。だから代表派は社会的に観想して、これから幅広く受け入れられる教えを展開していきましょうということにもなる。 観音菩薩、これは菩薩です。菩薩というのは未完成なんです。だから、菩薩の中にも過ちもあります。菩薩は如来ではありません。シヴァ大神でもない。シヴァ大神の化身でもないし、キリストでもない。人間は未完成な上に悪業を含み、日本人であろうが、中国人であろうが、アメリカ人であろうが、イスラム教徒であろうが、そしてオウム真理教の信者であろうがなかろうが、皆、同じように間違いを犯し、悪業を犯し、そこで、反省をなし、成長していくものだと自分は思うんです。菩薩というのはまだ自分が未完成であって、人間であって神ではなく、自分が神や神の民として、他の人々の上に立って行動するべきではないという謙虚さ、そして謙虚さに基づく寛大さ、これを秘めている存在だと自分は思っている。だから、如来の瞑想ではなくて、菩薩の瞑想、これを実践したいなというふうに思っている。 そして、様々な思いがこれからの連休セミナー、その後の行動にもある訳ですが、この自分たち以外の他人を皆人間というのは過ちを犯し、その中で人間として最上の実践をする、それにはどうしたらいいか。それは謙虚さ、懺悔、そして他を許す心、寛大さ、それに基づく慈悲の実践ではないかと思いながら、観音の菩薩、ないしは弥勒の菩薩というものを(聴取不能)。弥勒菩薩、未完の菩薩と言われています。まだ完成していない。しかし完成していないことを自覚している無智の智、謙虚さ、懺悔、これが菩薩の最高の功徳と言えるかも知れない。宗教が自分たちが絶対だと信じ、傲慢と信じ、過ちをおかしたようであっても反省せず、互いが互いを傷つけ合ってきた、この2千年間。 キリスト教がイスラム教がユダヤ教が大日本帝国教が中国共産党がチベット密教が、誰が正しく、誰が間違っているかということではなくて、人間はみな未完成で、過ちを犯し、互いに傷つけ合うことを自覚して、懺悔して、謙虚になって、他の苦しみを理解して、他の過ちには寛大になって、慈悲をもって生きるべきだということが、菩薩の道ではないかなというふうに思うんです。菩薩は如来になるんだから偉いんだっていうことではなくて、菩薩は神ではなく人間であって、それを自覚をした謙虚さと懺悔。そしてそれに基づく他の過ちに対する寛大性や受容力から本当の如来の道が開ける。だからこそ、菩薩から如来になるんじゃないかという意味合いが未完の菩薩である弥勒ないしは、如来ではない観音菩薩の菩薩という言葉に秘められているんじゃないかと。そういうことも言えるんじゃないかと思います。(p38-39)

なお、この上祐の講話を見れば、「ひかりの輪」が弥勒菩薩や観音菩薩(三仏)を麻原と同一視していると公安調査庁等が主張することも無意味であることがわかる。それは逆に、それら菩薩が不完全で、シヴァ神の化身ではないのだから、麻原も絶対ではなく、シヴァ神の化身ではないことを意味するからである。

まとめるならば、この時期の上祐らが、別団体を検討し始めたのは、観察処分逃れのために当局に秘して麻原を隠す団体を作るためではなく、①旭村事件、シガチョフ事件、ケロヨン事件などで積み重なった違法行為を容認する麻原家族の姿勢を背景として、家族の訴訟詐欺の違法行為に巻き込まれる恐れや、②麻原の死刑が現実のものとなる中で、麻原への狂信・盲信と違法行為を容認するA派が精神的・組織的な崩壊を起こす懸念があり、それと同じ団体で活動するならば、自分達が望む現実的・合理的な視点による合法的で健全な活動はできないという切実な必要性によるものであった。

すなわち、A派の麻原の盲信と非合法的な活動の路線と、M派の合理的・現実的で合法的な活動の路線の対立がこの時点で極まって、同じ団体ではM派の活動は不可能となったのである。
仮に、単に観察処分を免れるという目的であるならば、その時点で、観察処分が初めて適用された
2000年(平成12年)から6年間、Alephは曲がりなりにも存在していたのであるから、上祐らが、脱会して新団体を発足するまでの必要性はなかったと思われる。

(41)2006年4,5月 上記の両派の合意情報が一部曲がった形で外部に流出し、上祐が新教団設立に動いているとの報道がさかんになされる。

報道とともに、公安調査庁等も、具体的な根拠・証拠が一切なく、単なる憶測によって、2006年4月に新団体の設立を決定したと主張しているが、これは事実に反する。

実際には、新団体の構想を議論し始めた段階であり、新団体の骨格が形成され、Alephからのおよその脱会の時期が決まったのは、同年11月に麻原・オウムの全ての教え・教材の破棄を決定した時点である。この事実は、公安調査庁等提出の証拠にも、(新しい団体に関して)代表派(M派・上祐派)の中で議論をしている、と述べていることからも明らかである。

そして、仮に公安調査庁等がいうように、上祐らが、麻原の意思として麻原隠しの別団体の創設をすることをこの時点で決めたのであれば、上祐らが、その後の11月頃に、麻原の教え・教材全てを破棄する決定に至った話し合いを繰り返す必要はなかったはずである。麻原隠しの別団体であれば、議論の余地なく、麻原の教え・教材は破棄しなければならないからである。

しかし、別団体の構想から遅れて半年、麻原の教材を全て破棄する決定に至った話し合いを11月頃にして、その実現を、脱会した年(2007年(平成19年))の3月までに実行するとしたことは、麻原の教材破棄が、この時点で加速を始めていた真実の麻原信仰からの脱却に向けた心境の変化とともに進んでいるからである証左にほかならない。

(42)2006年5月 上祐が、教団内の出家信者(A派含む)に対して、直接、上祐が新教団を発足させようとしているとの報道内容の真偽や、M派の思想について述べる説明会を開いた。

この上祐による説明会は、2006年5月14日に、世田谷施設(現「ひかりの輪」東京本部教室)で行われた。その際の上祐の発言が、おそらく公安調査庁の協力者によって録音されたものと思われ、その反訳文が、公安調査庁作成の証拠(乙B3-133号証)に掲載されている。 上祐の発言の主な内容は、以下の通り、様々な意味で、麻原の絶対性・麻原の教えを明確に否定するものになっている。

◎麻原を信じなければ救済されないということはない
新教団は神々が意思しているはずだと。なぜならば、地球、この21世紀、この日本で、尊師を信じなきゃ、もう救済されないんだっていうことを、神々が決定されるとは思えない、そういう風に思うんです。だから、そういう風に信じれば、いろいろなものを与えられるんじゃないかってことになってくるわけです。うん。だって三宝がやるんですよ。私じゃないんです。三宝が意識すればいろんなものが与えられると思うんです。(同p5)

◎麻原の現人神(あらひとがみ)信仰は危険
イスラムの聖職者だって、お布施受けて、慕われてね、カルマを受けて、で、自爆テロやりなさいっていうこともあると思う。そういった意味じゃ、古来日本の仏教は、違った道を採りました。つまり人を偶像対象にしない(中略)キリスト教、ユダヤ今日、イスラム教はみんな現人神信仰ですね。(中略) 現人神信仰は危険だってことは、私は言っておきたいんです。実際そうじゃないかな。95年までが尊師で、(中略)現人神信仰っていうのは、宗教的に考えると、歴史上はね、危険なんです。人は無常ですから。(同p5~6)

◎オウム真理教の位階制度を熾烈に批判
世の中に絶対なものはないですよ。完璧なものはない。オウム真理教のシステムだって、皆さん現実に見たように完璧じゃない。それはみんな知っているはずです。それを先ほどのあるサマナによると、祈れば尊師は帰ってくるんです、というような形で、完璧に思いたい気持ちはわかる。でもその背景には現実を受け入れて、たくましく、最初は厳しいけども、後は楽になる真実の道を歩むことを怠っているんじゃないかな。皆さんの前に広がった現実を見て下さい。尊師は今、不規則発言で、精神鑑定とか言われています。尊師の長女のアジタナーター・ドゥルガーは精神病気です。一番弟子と言われたマハー・ケイマ正大師も精神病院に通っています。どうしてですか。(同p8)

◎オウム・アレフ教団が魔境
魔境とは何か。それは自分を神と錯覚すること。で、この教団が魔境じゃないのか。自分を神と錯覚したんじゃないのか。いや、違う、そう言っている正大師(※上祐のこと)だけが魔境だ。そうかもしれない。でも、社会から見たらあなたたち全体が魔境。どっちが正しいかは、この21世紀が決めます。(同p10)

◎麻原だけからイニシエーションは生み出されるものではない
三宝というのは、イニシエーションっていうのは、慈悲の心から生み出されるものであって、麻原尊師だけから生み出されるものじゃないから(中略)(同p11)

◎麻原の位階制度はあまりにも単純
ただ、何ていうか、あまりにも単純だと思うのです。ラージャ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガの師、マハー・ムドラーの正悟師、マイトレーヤ正大師、そして、何とかかんとか、尊師。7段階のシステムで人間がぱーっと神になってしまって。例えば、正悟師以上、正大師以上は何をやっても良いとか。ヴァジラヤーナの実践ができるとか。それほど簡単なものじゃない。そんなんだったらこんな状態になってない。実際、さっき言ったように正大師や正悟師と言われた人たちの半分以上は、みんなやめちゃってるわけだよな。そんなステージ制度、もっと真剣に考え直さなければいけない。もちろん、それに価値はあるんです。だから、さっきと同じなんだよな、神秘体験にも価値がある、それはグルイズムにも価値はある。ただ、イコール神じゃないんだと。神秘体験は神の体験じゃあない。グルは神ではないんだと。正大師というステージも、それは人が、そういったヨーガで価値を認めるけども、イコール完全な神になっていくような、すごく短い道なんじゃないんだと。そこはちょっと行きすぎている。バランスを逸している。そういうふうに感じるんです。 だから、自分の失敗、失敗しかないですよ、俺は。ある時、カンカー・レーヴァタ正悟師に、「正大師は良いかもしれないけど、他の人は」って言われたけど、私はね、私は失敗者だと思うんですよ。宗教家として。大乗のヨーガの成就者じゃなくて失敗者。だから、後は失敗を成功のもとに変える懺悔、しょく罪の実践者になるしかないよなと。(同p13~14) (中略)それとも今までのものが、皆さんの事実、今までのものが最高なんだと引っ張っていきますか。予言も当たらないけど、そういうものを見ずに。こういうふうになっちゃったけど、それも見ずに。色んな物が崩壊してます。尊師が逮捕され、長女がああなって、一番弟子はああなって、一番最初に巡り会ったサクラー正悟師は、言わなかったけど、今はもう脳疾患で半分駄目です。これからもいろんな問題が起こると思います、精神的な。そういう宗教です。(中略)これだけ矛盾があります。何かしませんか、皆さん。それとも、やっぱり正しいんだと思って引っ張っていくのか。自分はそれはもうできないと思います。そして、新たな道を少しずつ見出しているので、それを太くしていくしかないな。(同p15)

◎麻原の解釈したキリスト・絶対者の弥勒菩薩(マイトレーヤ)は、オウム教団の問題を表しており、上祐が目指すものは、完全ではなくて、不完全な存在としての菩薩であること。
これは、一部が抜き取られて、上祐が麻原を弥勒菩薩の化身とみなしているという公安調査庁の主張の根拠とされているが(控訴理由書のp66))になっているが、その全体をよく見れば、上祐は麻原・旧教団の解釈したキリスト・絶対者としての弥勒菩薩の概念を問題であると位置付け、それを否定する内容となっていることが明らかである。(麻原から)自立するだけです(同p16) (中略)上祐)ホーリーネーム、そんな続けられるわけないじゃん。(中略)新しい教団でマイトレーヤ正大師って言われてどうすんの。何も変わってないって言われちゃうよ。出家した構成員)どういう風に言われるのか。上祐)わからない。本名もありますし (中略)出家した構成員)尊師にいただいたホーリーネームは捨てる、決別するという意味ですか。上祐)それで良いと思います。(中略) ただマイトレーヤ、弥勒っていうのは非常に面白いものだと思います。ここはMIROKUと呼ばれています。そして、私はマイトレーヤ正大師と呼ばれて、尊師はマイトレーヤの化身になっています。 マイトレーヤは、本当にこの教団の二つの側面を表しています。ある意味じゃ、一つ目は古い、それは要するに次期如来としてほとんど神に近い。そして、尊師がその化身でキリストだと。尊師は絶対者でキリストで、キリスト教で言えばキリスト。(中略)だから、この教団は、さっき言った問題点を表している(※注釈:さっき言った問題点とは、麻原を含め人を神とする、絶対者とするという問題)。これが一つ目のもの。 もう一つは本当の弥勒の意味。未完というのは「未完の菩薩」っていう。不完全なんです。まだ悪業があるんです。間違いを犯すんです。時期如来としての現人神としてのマイトレーヤか、それと未完の菩薩でまだまだ謙虚に修行をしなくてはいけなくて、一生懸命考えている弥勒か。どちらになるのか。 旧教団と新教団の二つ。両方ともマイトレーヤかもしれない。そのホーリーネームを得たことは、自分の悪業と善業の双方を表していると思うんです。これからは、要するにキリスト、現人神としてのマイトレーヤじゃなくて、未完であること、自分は完全じゃないこと、自分は間違いを含んでいるんだということを前提に、努力し続けるマイトレーヤになりたいと思っている。(中略)よく考えてください。どちらの弥勒が本当か。(同p16~17)

◎麻原の絶対視は自分達の絶対視、やめる必要がある
人はいろいろな間違いを犯すんで、この教団だけじゃなくて、他の教団も間違いを犯している。みんな同じような間違いを犯すもんだ。そう思うんですよね。(中略)グルは絶対だってすると、自分たちが絶対になっちゃってるんだと。誰かを絶対信じると言うことは、自分の判断能力が絶対だということでしょ。よく考えて。さっきのサマナの問答で出てきたんだけど。尊師を絶対だと信じるということは、自分の判断能力が絶対だということじゃないですか。自分の判断能力が絶対じゃあかったら、誰かが絶対だとわかるわけがない。そういうことはやめて、(中略)そんな風に考えて、自分達を特別視することを止める必要はあると思います。(同p17~19)

◎人ははまると馬鹿なこと(一教団が政権取ること)をやってしまう
私は要するにお父さんとお母さんがいてね、大日本帝国の話をしてくれたんですよ。「馬鹿だよね。あんな強いアメリカに、戦って勝てるわけないんだよ。無謀なのに。」だから私も思っていた、「馬鹿だな」って俺たちの親父たちの世代。でも、10年後、20年後、オウム真理教に入って、客観的に見ると世間の人に言われます。「一教団が政権取れるわけないだろう、武力革命で。何でそんな馬鹿なことをやったんだ」何の言葉もないです、人は、やっぱりはまるとそういうことをやるんだな、そう思わざるを得ないです。父親と母親以上に賢くはなかったなと。「頭良い」と呼ばれている私の実態です。(p18~19)

◎裸一貫にならねば、誰かに頼っていては、真っ当な道を行けない
ですから、今日私が申し上げているのは理想であって目標なんで、具体的な計画というところまでは言えない、言えないっていうのは、偉そうなことは言えないってことです。それは、最後にちょっと確認しておきたいと思います。ちょっと先走っていたと思います、行動が。私自身が先走っているのかもしれない。私自身が先走った表現をしたのかもしれない。理想としては、目標としては7月以降、年内にっていうような表現をしたんじゃないかと思うんです。それは、理想としては、目標としてはっていう意味であって、現実にできるかどうかは、それは、それをやろうとする人たちの決意というかな、心の熟成がどれくらいによるかによります。M派の中でもいろいろ大変です。本当にここまでやるんですかって話です。でもね、裸一貫にならないと、やっぱり、真っ当な道行けないんです。何かに頼っていると、それによって人間、堕落してしまう部分もあるし。だから今、やっぱ色々大変で。ゆっくり、ゆっくりっていうか、焦らず、急がば回れ、で行かなければならないなと。荒木君も知っているように、私は徳川家康が好きですから。急ぐべからず。ですから、どういうふうになるか分からないんです。広報担当者として、そういうふうなニュアンスで取ってくれます。ほんとうに。早いかもしれないけど急がば回れの精神だからそんなに早くはなれません。(p20)

以上の通り、上祐は、多数のAleph信者に対して、麻原の絶対視をやめること、麻原となぞらえられた弥勒菩薩も本来不完全な存在であること、麻原の創設した位階制度は考え直さねばならないもので、麻原が作ったオウム・Aleph教団自体が「魔境」だと断言していることが、公安調査庁作成の上記証拠からも明らかなのである。

(43)2006年7月 M派とA派が、居住区域及び会計を完全に分離した。

(44)2006年9月15日 麻原の死刑判決が確定し、上祐らM派が死刑判決は当然などと報道各社にコメントした。

麻原の死刑判決確定に対して、上祐らM派は、以下の通りコメントした(いずれも2006年9月15日の報道からの抜粋)。その際に、麻原の死刑を当然のものとしたM派の者たちの言動は、日本の王となるという麻原の予言の明確な否定・破棄であって、言い換えれば、公安調査庁等が主張する本件の政治上の主義の明確な否定でもあった。

◎日経速報ニュース:上祐代表、死刑「当然」
オウム真理教(アーレフ)の上祐史浩代表(43)は15日、東京都内で記者会見し、「(死刑確定の)結果は当然。元代表が裁かれただけでなく信者が元代表を神格化したことにも問題があり、信者も同罪と反省して新しい道を歩むべきだ。依存からの脱却を加速させたい」と、松本智津夫死刑囚との決別を強調した。(後略)

◎朝日新聞速報ニュース:教団、ぬぐえぬ影響 松本被告死刑確定
(前略)「死んでゆくものは仕方がない」。上祐代表はセミナーで、こんな発言もした。これは、松本被告を指すのか、教団の将来を言うのか。(後略)

◎NNN:オウム松本被告の死刑確定 教団がコメント
オウム真理教・松本智津夫被告の死刑判決が確定したことについて、教団は15日午後、コメントを出した。 現在、教団は内部分裂状態にあり、東京・世田谷区の教団施設でも上祐代表を支持する信者と反上祐グループの信者が別の建物に住んでいる。また、セミナーなどの宗教活動も別々に行われている。 松本被告の死刑を受けて15日午後、上祐派・広末法務部長は「人である教祖を神としたことが事件の原因になった点では、元代表に限らず、多くの信者に責任があることを深く反省し、今後は真実の道を切り開いていきたいと思います」とコメントした。(後略)

◎MBS(TBS系):麻原被告死刑確定 大阪の上裕派信者の反応は...
オウム真理教・松本智津夫被告(51)の死刑が確定しました。アーレフと名前を変えた教団で今も信仰を続ける大阪の信者は、「当然のこと」とあっさりとした反応です。(中略)「当然じゃないですか。ある意味死刑では足りないかもしれないですね」(アーレフ大阪道場・◎◎◎◎広報担当) アーレフ大阪道場では7人の信者が集団生活していますが、特に反応はなかったということです。

以上のとおり、麻原が起こしたオウム事件を直視し、その誤りを総括し、麻原への絶対視をやめていた上祐及びM派にとっては、麻原の死刑判決確定は当然のものとして、冷静に受け止められていたのである。

(45)2006年11月 M派において、麻原の著作をはじめとするオウム真理教・Alephの教材(以下、旧教材と記す)の全面破棄を決定する。

M派では、2006年11月の会合において、スタッフは全ての旧教材を、翌2007年2月末日までに破棄することを決定した。

M派は、依然Alephに属していたとはいえ、その考えは、すでに麻原から脱却していく方向で固まっていた。2004年11月以降、一連のオウム事件を直視・反省して、教団のあり方を改めていこうという考えのスタッフが上祐のもとに集まり、M派を結成してからというもの、麻原の著作等の扱いについては、たびたび議論の俎上に上がっていたが、この11月の会合で、ようやく全面破棄の方針に踏み切るに至った。

それまでの間、オウム事件の詳細を研究したり、その原因を議論したり、事件が社会にもたらした惨禍を直視したりする勉強会を繰り返してきた結果、特定の人間を特別視・神格化するというオウム真理教の誤った実践を決して繰り返してはならないという意識を、M派のメンバーが確定的に共有できるようになっていた。

その結果、麻原の書籍等の旧教材を使用したり、たとえ使用はしなくても保持したりし続けることは、麻原への依存を維持・強化することにつながりかねず、個人崇拝から脱却し、全ての人々の中に等しく仏性を見ていこうというM派の目指す実践に反することになると考え、旧教材の全面破棄を決めたのである。

この頃、話し合いが繰り返し行われ、旧教材破棄の期限を、前記の通り翌2007年2月末日までに決めたことから、破棄完了後間もなくAlephを脱会、新団体設立に動くことを視野に入れ始めていたということである(実際に、2007年3月に脱会、同年5月に新団体〈「ひかりの輪」〉発足となる)。

(46)2007年1月 上祐が、違法な活動を促すような麻原の言葉があっても、それを文字通りに解釈してはならず、自分で論理でもって判断せよと述べて、麻原への絶対的な帰依を否定し、自立を宣言・推奨する趣旨の講話を行った。

上記のような趣旨の講話を上祐が行ったことは、公安調査庁作成の証拠(乙F10号証)から明らかである。それは、2007年(平成19年)1月21日の大阪における上祐の講話である。その主要部分は、以下の通りである。

で、それはちょっと突っ込んで言うと、「経典の言葉を文字どおりに解釈しない」という意味も出てきます。釈迦は対機説法が非常に得意だったので、いろいろなことを言っています。釈迦の言動を見てみると、ある時は死に行く信者に対して、その信者が自分の体を拝もうとしたとき、釈迦を拝もうとした時に、「私の体は無常で、消え去っていくものだから私を拝んではならない。法に帰依せよ」と言っています。一方で、皆さんがよく知っているアーナンダの話においては、「私は1カルパ生きることができる」。ある意味では不死身の人間であるかのようなことを言っている。こういったことに関しては文字どおりに受け取るとどうなるか。これは大変なことになる。矛盾してしまう。教団では、A派の考え方では、「グルは懇願すれば無限に生きることができる」というような考え方、復活もあるというような考え方もあるが、それはこういった経典の文字どおりの解釈によった、まあ要するに非現実的な信仰の結果なわけですが、それはともかく、例えばこういうときにはアーナンダの傲慢さをいさめるために、1カルパの身体といった誇張した表現をとったのだろうといったような柔軟な解釈をしないと釈迦牟尼がほかで行っていることとアーナンダに言ったことが矛盾してきて、よく分からなくなってしまう。そういうことが仏典にはよくあります。タントラの仏典などは非常に、ある意味では、そういった過激は言葉があるわけですね。例えば、「仏陀を殺せ」とか。「殺せ。しからば解脱する」とか。そういったものもある。皆さんも五仏の法則ということで、そういった法則があるということは御存じでしょう。そういったものに対して、例えば、ダライラマ法皇などは、「それは文字どおりの解釈と文字どおりでない解釈というものがあって、文字どおりでない解釈をしなければならない」というふうに言っています。 ですから、経典においても、大乗の経典を見ていると、経典を文字どおり解釈するのではなくて、方便として見る。ないしは、例えとして見るという、そういった判断が必要で、その判断をするのは、結局は自分で論理でもって判断する以外にはないということになります。(p11~12)

このように、上祐及びM派は、前記の通り、合法的な教団運営等を展開するにあたって、最初は麻原の言葉を引用して利用していたが、次第に「麻原の言葉通り」の実践(=麻原への絶対的な帰依)を公に否定していったことがわかるのである。これは、麻原の相対化がさらに進んだことを示している。

一方、原審での原告準備書面(1)・第5で詳しく述べたとおり、オウム真理教の教義において、麻原の指示に従って弟子が殺人を犯す原因ともなった麻原への絶対的帰依の教義においては、弟子が麻原の言葉通りの実践をすることを原則としている。よって、この時点で、上祐らは、麻原への絶対的帰依を明確に否定し、オウムの危険性を乗り越えたことになる。

(47)2007年3月~5月 M派のAleph脱会から「ひかりの輪」設立へ

2007年3月にM派はAlephを脱会し、準備期間を経て、同年5月に「ひかりの輪」を発足させた。その期間中および、「ひかりの輪」発足から翌年(2008年)までの時期の上祐の講話や執筆記事には、新団体(「ひかりの輪」)の理念が詳細に説かれているので、次項「3」に、テーマ別に抜粋して引用する。
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