瞑想法
ひかりの輪で行っている瞑想法のコーナーです。仏教的瞑想法、瞑想用の聖音・お香・音楽などをご紹介。

ひかりの輪の瞑想講座の教本のご紹介

⑧大自然の瞑想(AWE体験)

 以下は、大自然の瞑想(AWE体験)について解説した、「2021年 GWセミナー特別教本『自律神経を制御する呼吸法 大自然・大宇宙の瞑想』」の第2章です。

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第2章 大自然・大宇宙の体験と、悟りの瞑想


1.大自然や大宇宙の体験が、悟りの境地をもたらす可能性

 雄大で悠久な大自然を目の前にする体験「Awe(オウ)体験」によって、さまざまな心身の向上が見られ、その特徴が仏教・ヨーガの悟りの境地に見られる自我・エゴの減少、意識の拡大、智慧の増大などとよく似ていることを、前回の特別教本で述べた。
 さらに、宇宙飛行士が宇宙船に乗って宇宙に出て、地球や宇宙を見る体験(宇宙体験)も、同様に宗教的な体験とよく似た精神状態をもたらすことが知られている。
 雄大・悠久な大自然や無限の大宇宙の体験を合わせて、巨大体験・無限体験などと呼ぶとして、こうした大いなる体験が、なぜ悟りの境地にも似た人の意識の向上をもたらすかについて考察し、伝統的なヨーガ・仏教の教義に照らし合わせながら検討した上で、それを我々の日常生活や悟りの境地の獲得に、いかに生かせるかを検討したい。


2.雄大な大自然の体験「Awe体験」の復習

 前回の年末年始セミナーの特別教本で、脳科学者が研究するAwe体験について述べた。大草原や大海原、あるいは星空など、雄大な自然を前にして圧倒される経験を「Awe体験」といい、世界の脳科学者が研究していることを述べた。それは、仏道やヨーガの修行が体得することを目指す、エゴ・我欲の減少と、慈悲、心の深い安定と集中の禅定、物事を正しく見る智慧の状態に通じるものがあり、実際に古来、仏道やヨーガの修行者は、大自然の中で修行をしてきた。
 もう少し具体的に言えば、果てしなく広がる大草原の地平線、雲や青空、大海原と水平線、山の頂などから360度広がる他の山々の連なりや雲海、無数の星が輝く無限の大宇宙の夜空などを体験して、大自然や大宇宙の悠久さや広大さを前に、その広大さに畏敬の念を感じ(Awe体験のaweとは畏敬(の念)という意味がある)、「自分はなんて小さな存在なのだろう」と思う体験である。
 カナダ・トロント大学のステラー博士は、延べ977人の被験者の協力を得て、Awe体験で、世界が違って見えること、生かされている感じがすること、自分が最小化されて自我・エゴが減少し、謙虚な気持ちや、素直な感謝の気持ち、「世の中のため、誰かのために役立ちたい」という前向きな思い、愛・利他の心が強くなることを見出した。その際に、脳は、通常よりはるかに活性化しているという。
 また、心身の健康も促進する。同じくステラー博士の研究によれば、Awe体験を頻繁にしている人は、身体の慢性的な炎症を示すインターロイキン6の濃度が低く保たれており、寿命が延びる可能性が判明した。カリフォルニア大学の研究では、Awe体験が「サイトカイン」と呼ばれる物質を低下させる効果があり、それが増加すると、食欲や思考力の低下、気分のムラ、鬱病の原因の一つにもなるという。
 こうした科学者の研究を待つまでもなく、大自然に接して心が広がり、リラックスしたという体験をした人は少なくないだろう。心が広がるとともに、心身の緊張が解け、大きくゆっくりと息をするようになる。自然と、望ましい呼吸の仕方=呼吸法の状態になる。
 さらに、脳の働きが活性化することも、多くの研究から明らかになってきたという。アメリカのジョン・テンプルトン財団の研究によれば、Awe体験をしている人は、他人の話に流されにくくなり、詐欺などを見破る力、騙されない思考力を持つようになるという。また、自己中心的で刹那的な欲望ではなく、長期的な視点で、他者・社会全体の利益を考えられるようになるという。 
 また、Awe体験が強く起こる際に、時間の感覚の変容があるという。世界がゆっくり動いているように見えたり、逆に、深い集中のために、あっという間に長い時間が過ぎていたように感じたりするという体験である。これは、Awe体験が、心理学でいう「フロー(ゾーン)状態」を引き起こすからだと考えられている。これは、人間がその時にしていることに完全に浸り、精力的に集中している状態であり、ピークエクスペリエンス、無我の境地、忘我状態などとも呼ばれる。スポーツ選手などが、ゾーン状態に入り、最高のパフォーマンスを発揮する時には、非常に深く集中し、雑念がなく、無思考のままに最善の動きをしているが、その際に、球技でいえば、本来は猛スピードで動くボールが、ゆっくりと見えるといった体験があるという。
 アメリカ・アリゾナ州立大学のシオタ博士は、Awe体験の効果についてまとめて、①マインドフルネスを行ったように、何ごともありのままに受け取ることができるようになる、②心と身体をリラックスさせる、③好奇心を引き出す、④人と心のつながりを作る、⑤利他の心を引き出す、⑥身体を健康にする、⑦創造性を引き出す、⑧希望に満ちた状態になる、⑨幸福感が高まる、⑩嫉妬心などネガティブな感情が少なくなる――などとしている。
 こうして、広大な大自然や大宇宙の悠久さを体験することは、単に心が洗われるだとか、気分転換になるだけでなく、心身ともに本質的に望ましい影響があると思われる。


3.宇宙体験:宇宙飛行士の大宇宙の体験

 大自然の体験を上回る無限の体験が、宇宙飛行士による大宇宙の体験であろう。そして、宇宙体験をした宇宙飛行士に、強烈で精神的な変化・インパクトが生じることを、1980年代半ばまでの、主に米国のNASAの宇宙飛行士を取材して紹介したのが、『宇宙からの帰還』(立花隆著)である。
 その中には、ジム・アーウィンのように、月面で自分のすぐそばに神がいると感じ、神との交感(したと感じる内的・神秘的)体験をし、その後、キリスト教の伝道師となった者もいる。アーウィンによれば、彼が設立した宗教組織に他の3人の元宇宙飛行士が参加しており、宇宙飛行士たちに共通していることは、「すべての人がより広い視野のもとに世界を見るようになった」ことだという。
 アーウィンはキリスト教の伝道師となったが、「人間は、皆同じ地球人であり、国の違い、種族の違い、肌の違いを超えて同じだ」と主張し、「他の宗教を批判しようと思わない」と言う。ドン・アイズリも、「眼下に地球を見ていると(諸国間の紛争が)本当に信じられないくらいにばかげている」、「宇宙からは(種族や民族などの)表面的な違いは、みんな消し飛んで、(皆が)同じもの(=人間という同じ種)と感じる」、「同じだという認識がないから争いが起こる」と感じたという。
 朝鮮戦争を現に戦い、軍人として生きてきたウォーリー・シラーも、地球の外からベトナム戦争(の戦火の光景)を見た後は、「宇宙から見ると、国境なんてどこにもなく、民族同士が戦火を交えることが何とも悲しく思えてきた」と言い、「自然の中にいると心がなごむ。人間は自然の一部なんだ」と思うようになったという。
 ジーン・サーナンも、宇宙体験で得た一番大きな内面的なものは「神の存在の認識だ。神の名は宗教によって違うが、対象は同じだ」として、宗教の違いを超える感覚を得たという。さらに、人類の宇宙進出は、国家間の対立抗争がばかげているとの認識を生じさせると予想しているという。
 エド・ギブソンも「宇宙から地球を見ると、国境線が全く見えず、諸国家の分立と対立抗争が全く滑稽に見え、諸宗教間の対立がバカらしく見えてくる」と言う。そして、他にも多くの宇宙飛行士が、宇宙体験の結果、「各宗教は神の名前が違うだけで、本質的には同じもの」という見解を述べているという。
 ジェリー・カーは、「宇宙で人間や地球が、とるに足らない存在であること」「宇宙の万物に秩序があり、すべてが調和しバランスがとれているパターンがあること」を発見し、そのパターンを神と考えていると言う。
 こうして、宇宙飛行士たちの共通認識として、①自分たちは地球人であり、②宇宙には調和が内在し、③政治・宗教・思想上の対立抗争は愚かである――などがあるという。
 エド・ミッチェルは、宇宙体験の際に、神との一体感を感じる至福の神秘体験をし、個々の生命を含めたすべては一体であり、人間と神と自然も一体であり、一体なる全体は完璧で、秩序・調和があり、愛に満ち、神とは宇宙精神であると感じたと言う。
 そして、彼は、これを「宇宙感覚」と呼ぶが、これが神秘的宗教体験の特徴であるという。つまり、イエスや仏陀などの歴史上の偉大な精神的先駆者は、地上にいて宇宙感覚を持つことができたが、実際の宇宙に出れば、偉人のような修練を経ずに、凡人でも宇宙感覚を得ることができ、人類は宇宙進出によって新たな進化を遂げ、新しい時代を迎えると考えているという。
 ラッセル・シュワイカートは、宇宙体験によって、後に生物学者のラブロックが提唱した「ガイア」としての地球を実感したという。ガイアの思想とは、地球は、一つの生きた有機体、一つの巨大な生命体であって、その中の人間などの生き物は、その細胞の一部、ないしはそれに寄生する微生物のようなものだととらえるものである。
 ラブロックによれば、地球を生命体とみなすことは、現代科学の観察の結果と一致するという。ガイアとはギリシャ語で、地母(ちぼ)神(しん)の名前で、古代人の神話的な世界観では、太陽神と地母神が人間の父と母であり、大地は人間の「母なる大地」として生ける存在であった。
 さて、1980年代半ばまでの米国の宇宙飛行士の宇宙体験を紹介したが、1990年代以降は、日本人の宇宙飛行士も数多く誕生したので、その宇宙体験を次に紹介したい(『宇宙から帰ってきた日本人』稲泉連著、文藝春秋より)。
 結論から最初に言えば、日本人の宇宙飛行士の多くが、シュワイカートと同じように、地球を生き物であるとか、一体のシステムであると感じる体験をしている。
 日本人初の宇宙飛行士である秋山豊(とよ)寛(ひろ)は、「地球全体が命の塊であるように感じられた。その思いは自分でも意外なほどに自然に生じた」と言う。古川聡も「地球自体が一つのシステムで、我々もその一部なんだ、自分達は地球人だという実感」があったと言う。
 山崎直子も、「その様子を見ていると、地球自体が一つの生き物のように感じられてきたんです。本当にそれ自体が一つの生命であるかのように思えて」と言う。
 毛利衛(まもる)も、宇宙から地球を見た時に、それが一つの生命体のように感じたが、さらに、人間は地球という生命を構成する細胞の一つともいえるのではないかと考え、全ては連続する全体の一部であるという「ユニバソロジ」という世界観を提唱するに至った。
 そして、金井宣(のり)茂(しげ)も、エド・ミッチェルと同じように、「誰しもが宇宙に行くようになった時、ガンダムの人類の革新じゃないですけど、人類全体として、宇宙に対する考え方や、地球に対する見方ががらりと変わる時がいつか訪れる」と言う。
 なお、キリスト教の信仰が乏しい日本人の宇宙飛行士は、米国の宇宙飛行士に比べて、神の存在を感じる者は少ないが、特定の宗教は持っていない医師の古川聡は「地球が存在することが奇跡のように感じられ、もしかしたら、地球が何者かによって作られたものだとしても、決しておかしくないな、超越した存在があってもおかしくないぞ」と感じたと言う。
 ここまでの宇宙体験の特徴を見ると、人種・民族・国家といったさまざまな区別・差別の意識が弱くなって、皆が類似する同一のものであるという認識と、それに基づいて対立を否定し、調和を重視する価値観が強まり、さらには、人間は地球の一部であり、地球も大きな生命体であり、万物を一体と見る一元的な世界観が強まるということができるだろう。
 そして、仏教の教えの中核は、自と他を(過剰に)区別をする無智を超えて、万物が相互に依存し合って一体であると悟る智慧と、万物を愛する大慈悲を培うことであるが、宇宙体験がもたらす精神的な変化は、これとよく一致している。さらに、エド・ミッチェルが言う、神や万物との一体感を感じる宇宙感覚の神秘体験も、仏教・ヨーガの悟りを深める瞑想体験である「宇宙意識」や、「大我」「大慈悲心」といった境地に通じるものである。
 また、地球(大地)を、その中に多くの生き物を宿す、生ける大いなる母と見なし、その思想をギリシャの地母神の名前である「ガイア」で象徴することは、後に述べる日本の「大地母神」や、仏教の「地蔵菩薩」の思想に、文字通りよく類似している。そして、この思想・世界観は、仏教の大慈悲・四無量心といった悟りの境地に近づくことを助けるものである。


4.大自然・大宇宙の体験が促す「無常」「無我」の仏教の「智慧」 

 こうして、雄大で悠久な大自然や大宇宙を体験することが、仏教の悟りの境地に近づく助けとなる原因を考えてみたい。
 まず、仏教では、人は、物事をありのままに見ることができない痴(無智)の状態にあり、その逆に、物事をありのままに見る高度な認識力を「智慧」という。この「痴(無智)」が、人のさまざまな苦しみの原因となる煩悩の根源であり、煩悩とは、無智に基づく間違ったとらわれであって、具体的には、過剰な欲望や嫌悪・怒りなどである。そして、この痴(無智)は、最もわかりやすくいえば、「今の自分さえよければいい」という考えであると表現できる。
 これに対して仏陀は、すべての物事は移り変わるという「無常」の教えを説き、今だけではなく、未来を含めた長期的な視点を重視することを諭す。また、慈悲の教えを説き、自分・自分のものに過剰にとらわれない「無我」の教えを説き、他者・万物の幸福を考えることが自分の真の幸福につながると説いた。逆に言えば、悟っていない普通の人は、無常・無我の法則・道理を理解しておらず、その意味で無智・錯覚の中にあり、そのために、間違ったとらわれ(煩悩)が生じ、苦しむというのである。
 この無常・無我は、仏教の根本的な思想・哲学であり、それは、三(さん)法(ぼう)印(いん)ないし四(し)法(ほう)印(いん)と呼ばれる教えにまとめられている。この四法印とは、仏教が象徴する以下の重要な4つの法則のことである(なお、印とは象徴という意味である)

 諸(しょ)行(ぎょう)無(む)常(じょう):あらゆる存在は移り変わる。
 諸(しょ)法(ほう)無(む)我(が):あらゆる物事は、私、私のものではない(永久不変の実体がない)。
 一(いっ)切(さい)皆(かい)苦(く):あらゆる存在は(過剰にとらわれれば)苦しみ(不安定・不完全・不満足)である。
 涅(ね)槃(はん)寂(じゃく)静(じょう):そうしたとわられ=煩悩を滅した悟りの境地は、真の平安・安らぎである。
 (※上記の「一切皆苦」を除いた三つを三法印という)

 そして、重要なことは、Awe体験は、この仏教が説く「無常」や「無我」の境地の体得を助けるものである。言い換えれば、無常を理解した長期的な視点、無我=自分ばかりにとらわれない利他的な視点・意識を、Awe体験は促進するということができる。
 なぜかというと、前に述べたように、雄大で悠久な大自然・大宇宙を深く体験すると、それを前にして、自分が非常にちっぽけな存在であることを実感して、エゴ・自我執着が和らいで、雄大な自然を前に、自ずと心が広がって、利他心が増大する。
 さらに、大自然の悠久さを前にして、人間の存在・諸行の無常性・儚(はかな)さを感じ、目先の利益ばかり追い求める心は和らいで、長期的で本質的な幸福に、心が向かうようになる。空・海・大地・山々といった大自然は、人間よりもはるかに長く存在し、それと比較すれば、人間の所業は、束の間の出来事である。「国破れて山河あり」という言葉もある(人のつくる国はすぐに興亡するが、山や川といった大自然は残り続ける)。
 こうして、自分よりも広大で長大な大自然に接して、同化する中で、人の意識も、広大で長大になっていく。そして、仏教の教えでは、最高の心理的な発達を遂げた仏陀の意識は、全宇宙の全空間と全時間に合一しているという。


5.古来、仏道・ヨーガの修行者は大自然の中で修行した

 私の仏道修行の経験を重ねてみると、仏道修行が求める仏陀の心である大慈悲・四無量心は、全ての生きもの・世界の万物を、等しく愛する広大無辺な利他の心である。それは、意識の拡大とも表現される。そして、雄大な大自然を見て、視野が広がるとともに、心が広がることを経験した人は少なくないだろう。
 その意味で、大自然に接することは、慈悲の心を求める仏道修行の助けになる。いや、単なる助けというよりは、その土台となるほど重要な要素ではないかと思われる。実際に、古来、多くの仏道・ヨーガの修行者は、大自然の中で修行してきた。仏陀は、聖なる川のガンジス地方の広大な自然の中で修行し、布教をした。インドのヨーガ行者やチベットの仏道修行者は、ヒマラヤで修行した。空海・最澄なども、山籠もりの修行をしている。
 逆に今、中国共産党の弾圧で、チベットのヒマラヤの大地を失ったチベット仏教の修行者が、本来の教えの体得を維持できるかを危ぶむ関係者もいる。宗教は、単にその経典の言葉によって成立するものではなく、それが生まれ育った国土・大地といった環境が、その母のような存在であり、必要不可欠ではないかという見解もある。


6.仏教・ヨーガの宇宙観:宇宙・世界は神仏(の大慈悲)の現れ

 仏道・ヨーガの思想では、この世界・大自然・宇宙が、大いなる愛をもって、私たちをはぐくみ育てる神仏であるという思想がある。
 例えば、大乗仏教の大日経では、胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅(まんだら)というものが説かれる。すなわち、この宇宙は、仏の子供であるすべての生きものを育み育てる、大いなる母なる仏の母胎(子宮)の中であるというものである。胎蔵とは、母胎・子宮の意味であり、曼荼羅は(仏の現れである)、宇宙を意味する。
 また、日本の伝統文化には「大(だい)地(ち)母(ぼ)神(しん)」といって、多くの生きものを育む大地を「母なる神」と見る思想がある。これとほぼ同じ思想が「お地蔵様」として親しまれている仏教の地蔵菩薩の思想である。地蔵菩薩は、サンスクリット語では「クシティガルバ」というが、これは大地の子宮という意味であり、大地がすべての命を育む力を蔵するように、苦しむ人々を、その無限の大慈悲の心で包み込み救うことから名付けられたとされる。
 これに関連して、心理学者のカール・ユングは、都市生活を送る現代の女性が母性を失っている傾向があるのは、母性の源である大自然と切り離されているためだと考えた。人の子を産む人の母も、大自然によって育まれているという意味で、人間にとって、大自然は、母の母なのである。
 キリスト教にも、父なる天と母なる大地という有名な思想がある。いずれも大自然が、人をはじめとする生き物を生んで育む親だと解釈する思想である。大地に限らず、天・空からは、生命に必要不可欠な陽の光と熱と、雨による水が、すべての生き物に等しく注がれる。また、海こそは、大地よりも以前から生命の源であり、広大・深遠な水の中に無数の生き物を育む様は、まさに生命を育む神仏の母胎・子宮のイメージに近いだろう。
 なお、科学者は、夜に広がる綺麗なネオンの都会の夜景などを見ても、Awe体験が起きることはなく、人の脳がAwe体験を起こす原理は、未だに人知を超えた部分があると言う。よって、大自然に接した人の心が広がり、利他の心を取り戻すのは、単に視界が広がったり、その場の気・エネルギーが純粋だったりするからだけではないように思える。それこそが、大自然の本質だからなのかもしれない。


7.同じ本質を持つヨーガ・ヒンドゥー教の宇宙観

 さらに、古典ヨーガのサーンキャ哲学でも、この世界・宇宙は、すべて自(じ)性(しょう)(プラクリティ)という根源的な原理が展開したものだと説く。そして、その自性は、すべての生き物の本質である真我(純粋精神)を、この世界の苦楽を含めたさまざまな体験を経て、それを超越する悟り・解脱に導くために、自らを展開して世界・宇宙を作ったという。
 つまり、この宇宙は、私たちの意識・精神が、悟り・解脱を得るための試練の場・道場であり、それに導こうとする自性(プラクリティ)の慈悲の現れであるということである。これを言い換えるならば、さまざまな苦しみ・喜びを含めた世界の森羅万象・すべての体験は、世界を作った神仏が、我々に与える悟り・解脱への導きであると解釈もできる。
 また、近代の偉大なヨーガ修行者・ヒンドゥー教の指導者であるラーマクリシュナ・パラマハンサは、真の悟りの道として、すべての人を神の現れと見て奉仕する教えを説いたという(ヴィジュニアーナ・カルマヨーガなどといわれる)。その一番弟子のヴィヴェーカーナンダも、その教えを重視し、「全ての人を神の現れと見る人は、自分も神の一部であることを悟る」と説き、現代人は、カルマヨーガによってこそ、最も速やかに解脱をすると強調した。


8.仏の現れとしての宇宙を現わす仏教の曼陀羅

 ヨーガだけでなく、大乗仏教にも、先ほど述べた大日経・胎蔵界曼荼羅の思想に加えて、それと並び重視される金(こん)剛(ごう)頂(ちょう)経(きょう)という経典があり、金剛界曼荼羅の思想が説かれている。これは、この世界・宇宙は、すべて根源仏である大日如来の現れというものである。
 チベット仏教では、その最高の悟りのための修行体系として、無上ヨーガタントラというものが説かれるが、その中の母タントラという教えは、この世界そのものが、涅槃(悟りの境地・ニルヴァーナ)というものであり、そのために曼荼羅(仏の現れである宇宙を現した図画)を観想して瞑想する。
 これは、このさまざまな苦しみのある人間の世界を含めた六道輪廻の世界が、実は(仏陀の悟りの境地から見れば)、仏の浄土や、悟りの境地・世界である涅槃(ニルヴァーナ)でもあるという教えであり、「輪(りん)廻(ね)即(そく)浄(じょう)土(ど)」、「輪(りん)廻(ね)即(そく)涅(ね)槃(はん)」ともいわれる。大乗仏教の最高の境地、仏陀の境地と呼ばれるものである。


9.大自然を見ながら行う仏教の瞑想

 こうしたことを踏まえると、仏教的な悟りの境地に近づくために有効な瞑想法として、視覚的に大自然を見ながら、仏教の教え(四法印や四無量心)を瞑想することがある。その場合、実際の生の大自然の中に身を置いてそうすることができるならば、それが一番いい。
 しかし、現代人の多くは都会に住み、Awe体験ができるような大自然に触れる機会は、なかなか持てないという問題がある。しかし、オランダ・アムステルダム大学のフォンエルク博士らは、大自然の広大さ・美しさが感じられる画像・動画を見ることでも、軽微なAwe体験ができるとしている。これは、私やひかりの輪の体験でも同様であり、それを定期的な瞑想修行の機会に生かしている。画像・動画を大画面にして見ることができれば、なおのこと効果的だろう。
 これらを踏まえて、ひかりの輪では、実際の雄大で悠久な大自然を体験する機会を持つために、聖地自然巡りを定期的に企画・開催している。さらに、その際体験した光景を動画・写真に撮影して、都会にある教室のモニターや、ネット配信によって見ることができるようにしている。こうすることで、実際の自然の中で体験したことが、その動画を見ることで蘇ってくるという利点もある。
 また、人によっては、自宅の近くに、遠方の山々や海などを見渡すことができる高台などがある人もいるだろう。また、自宅近くの徒歩で行ける場所ではなくても、休日などに1時間ほど足を延ばせば、雄大な自然を見ることができる場所は、少なからずあるのではなかろうか。


10.広大な大地と一体となる瞑想

 大自然と一体となった意識状態に近づく場合に、最もやりやすいのが、大地との一体感を感じることではないかと思う。いきなり宇宙全体と一体であるという感覚は難しいだろうが、人間が足をつける大地は、人間にとって最も身近な雄大な自然であり、大地(と海)にこそ、最も多くの生命体が存在し、大地に育まれている。そのために、大地母神とか地蔵菩薩という信仰文化が広がっているのではないだろうか。
 そこで、自分と大地が一体であるとイメージして、それを通して、意識が大地に広がっていく感覚を培うのである。なお、地蔵菩薩の信仰の中で、道端に祭られるお地蔵様は、大地に立てられた石棒の形をとる。これは、そもそも男根形石棒である日本古来の道(どう)祖(そ)神(じん)が仏教化したものともいわれている。さらにさかのぼれば、縄文時代の環状列石(ストーンサークル)の、大地に環状に広がった石群の中で垂直に立つ立石(りっせき)にもつながるかもしれない。これは、人間が大地と一体で、大地の一部であるというイメージである。
 実際に、人間の目には、大地に根を生やした木や草や石棒などと異なって、人間の体は足を含めて大地と一体化していないように見える。しかし、科学のミクロの目で見れば、大地の上には濃密な空気の海があり、人間はその海の中に浸って一体化している。肺や皮膚の呼吸・飲食・排泄・発汗などによって、絶えず体外の分子と体内の分子は交換されており、どこまでが自分であり、どこからが自分ではないという明確な境界線は、科学的には存在していない。
 同じように、どこからが山であり、どこまでが平地なのかとか、どこからが海であり、どこまでが陸なのかも、明確な境界はない。人の思考の中では、異なる言葉で表される物は、あたかも他から独立した別の存在であるかのような印象で感じられるが、実際には、科学的な目で見れば、仏教の思想(縁起の法)が説くように、万物は一体となって存在して絶えず変化していて、他から完全に独立した固定的な存在は何一つない。それは、突き詰めれば、どこまでが大地で、どこからが天なのかということも、科学的に言えば、明確な境界を設けることはできず、両者は実際にはつながり合って、絶えず変化している(天地一体)。
 そして、このように、すそ野が大きく広がる雄大な山や、広々とした大地にどっしりと根を生やした大木などは、自分と大地が一体であると瞑想することを助けるイメージになるかもしれない。実際に、そうした山の例としては、富士山、浅間山、阿蘇山などがあるかもしれない。富士山は、その地の仏教的な信仰(例えば村山修験道)においては、宇宙の根源仏とされる大日如来と解釈された。阿蘇山は、その山容が、釈迦牟尼が入滅した時の姿=釈迦涅槃像と似ていることで有名である。


11.大自然と一体となる呼吸の瞑想法

 大自然の中に行ったとしても変化が起きない場合もある。そうした場合は、依然として、都会の日常生活での思考に支配されている可能性がある。たとえば、いつもと同じように、仕事や人間関係上の悩みごとを考えている。そして、本質的にいえば、自分のことばかり考えている状態である。
 こうしたことを抑制し、大自然の恩恵を受けるためには、全く何もしないで自然の光景を見るのではなく、心身に肯定的な影響をもたらす体の使い方をする方が望ましい。例えば、呼吸法である。第1章で紹介した呼吸法には、脳の島皮質や下前頭回を活性化して、自律神経や心拍を調整し、欲望や雑念を抑える効果があることを紹介した。
 そして、呼吸法の際、息を入れる時に大自然が自分の中に入り、息を出す時に自分が大自然の中に入るとイメージすると、周辺の大自然との一体感を得やすいと思う。そして、これは、真言密教の入(にゅう)我(が)我(が)入(にゅう)の思想・瞑想法と通じるものがある。
 入我我入とは、仏の三(さん)密(みつ)(身(しん)・口(く)・意(い)の三業(さんごう))の働きが修行者の身に入り、修行者の三業が仏に入って、仏の三密と修行者の三業が一体になること、ないしはその観法(観想法)である。これは、一つの最高の境地・世界とされる。
 そして、前に述べた通り、大乗仏教には、大自然・大宇宙そのものを仏と見る思想がある。だとすれば、大自然の中で、大自然を仏と見ながら呼吸法をし、仏である大自然との一体感を感じれば、入我我入の瞑想の境地に通じる効果もあるだろう。


12.山と一体となる修験道・山岳仏教の瞑想法

 また、都会的な雑念を払う方法としては、歩くことも有効だと思う。全身の筋肉がほぐれ、血流が改善、体温が上昇し、脳の働きも良くなる。歩く前にストレッチ(ヨーガ体操・アーサナ)を行い、筋肉をほぐして、体の力を抜いて歩くようにする。
さらに、呼吸法をしながら歩いてみる。深い呼吸を保ちながら歩くことで、多くの酸素が吸収されて細胞が活性化し、疲労を回避することができ、ゆっくり吐くことで、心身がいっそうリラックスする。
 そして、歩く際に、足の裏側が大地に着く点を意識すると、足を通じて、自分が大地と一体になった感覚を得やすくなり、大地を通して意識が広がっていく感覚を得ることができる。そして、無数の生き物を分け隔てなく育む大地は、前に述べたように、大地母神や地蔵菩薩の信仰のように、神仏の慈悲の現れとも解釈できるから、歩行瞑想を通して、神仏である大自然と一体になったとイメージすることもできるだろう。
 また、単に平地を歩くのではなく、登山をするのも一つの方法である。修験道(山岳仏教)では、無用な思考を抑制して、山を母なる仏の母胎(子宮)と見なし、黙々と山に登り、山と一体になろうとする。
 雑念を抑制する上では、登山の最中は、身体的な負担から、仕事や人間関係といった余計なことを考える余力がないことが、逆に好都合である。また、体を動かす結果として、自ずと体はほぐれ、血流は改善し、体温は向上する。
 ただし、登山前にストレッチをして、事前に体をほぐしておいた方がよいだろう。そして、登山し始めたら、体の力を抜いて、ヨーガの呼吸法のようにゆっくりした深い呼吸をしながら、同じペースで淡々と登っていく。その際に、なるべく「自分は早く山頂に着きたい」といった焦り・我欲を捨てて、焦らず弛まず、同じペースで淡々と登っていくと、山と一体になった感覚が得られ、山の大地のエネルギーを得る感覚が生じると思う。


[参考文献]
・『東洋経済オンライン』「大自然に触れた人の脳が驚くほど活性化する訳」(2020年11月5日)
https://news.yahoo.co.jp/articles/84643257e72eb7a42b3e776399aafe0226e6f17a
・『note』「子供達の創造性と健康を加速させる『Awe体験』とは」(2020年10月23日)
https://note.com/adachihanahata/n/ncf8fcea8aea8
・『宇宙からの帰還』立花隆著、中央文庫
・『宇宙から帰ってきた日本人』稲泉連著、文藝春秋

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