瞑想法
ひかりの輪で行っている瞑想法のコーナーです。仏教的瞑想法、瞑想用の聖音・お香・音楽などをご紹介。

ひかりの輪の瞑想講座の教本のご紹介

④真言読経瞑想:ひかりの輪の瞑想体系

 以下は、真言読経瞑想について解説した、「2023年 夏期セミナー特別教本『21世紀のための仏教の幸福哲学 縄文以来の宗教と政治・瞑想解説実践編』」の第3章です。

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第3章 ひかりの輪の真言読経瞑想:実践編


1.はじめに

 本稿は、ひかりの輪が行う仏教の真言(しんごん)(マントラ)を用いた瞑想(真言瞑想)や、基本法則を簡潔に表した経文を用いた瞑想(読経瞑想)の実践的な解説書である。実際に実習する際は、ひかりの輪で定期的に行っている「瞑想タイム」に参加することをお勧めする(今のところ、毎週木曜日と日曜日の夜21時30分から30分間ほど、インターネット会議システムで各参加者の皆さんを接続して行っている)。
 なお、初心者の方は、これを読む前に「初めて瞑想タイムに参加される皆様へ」と題する解説書、ないしは2022年~23年年末年始セミナー特別教本の第3章「ひかりの輪の真言読経瞑想の解説」を読むことをお勧めする。そちらの方が、初心者向けに、瞑想内容に関連する知識を丁寧に提供して、解説をしているからである。
 ただし、瞑想を実際に実践する上で必要なことは、本稿にもすべて書いてあるので、こちらを先に読んでも差し支えない(実際に瞑想をする時には、あまりたくさんの知識があっても使えない面もあるからである)。
 なお、前提として、この真言・読経の瞑想を含め、ひかりの輪の学習は、仏教やヨーガの技法を用いることはあっても、特定の神仏・人物・経典・宗派を神格化・絶対視する宗教ではなく、心理学的・科学的な裏付けを背景とした心身のコントロール法などである。 
また、実習する上で、不明な点があったら、うのみにすることなく、遠慮なく指導員等に質問するなどして、自分でもよく吟味した上で行うようにしていただきたい。


2.瞑想の前の準備:部屋・環境、服装、姿勢を整える

 第一に、部屋の換気をし、室内の物品を整理する。理想は2カ所で換気し、空気が入る所と出る所を作る。室内の物品を整理整頓する。

 第二に、服装を整える。体を締め付けない服装にする。ベルト・バンド・時計などは外す。特に、ベルトを外すことで、腹式呼吸を容易にする。服装は、伸び縮みする柔らかなものが理想。寒くなければ、靴下なども脱いでおく。

 第三に、姿勢を整える。座り方は安定したものにする。仏教・座禅・ヨーガの専門的な座法が理想だが、安定すれば、正座・あぐら、さらには椅子に腰かけてもかまわない。背筋を伸ばし、腰を入れて、軽く胸を張り、頭・首・背中・尾てい骨が、一直線になるようにする。椅子を使う場合は深く腰掛ける。体重を背骨が支えるようにし、首・肩・腕などの力を抜く。

 第四に、上半身の体操を行う。まず、首・肩・腕の筋肉をほぐし、普段の緊張を抜く。ゆっくりと首や肩を回す。首は、時計回りと反時計回りに交互に回す。これを数セット行う。
次に、肩は、両肩にそれぞれ両手の先を当てた形で、前回し、後ろ回しを交互に行う。回す前に息を吸い、回しながら息を吐くと、よりリラックスすることができる。これを数セット行う。肩の力を抜くために、いったん持ち上げてから落とす方法もある。さらに、肩から先の腕や手をぶらぶらさせて、力を抜く。
 次に、上半身を左右にゆっくりとねじる。背筋は真直ぐにしたままで、まず右側にねじり、元に戻し、次に左側にねじり、元に戻す。その際、ねじる前に息を吸い、ねじりながら息を吐き、ねじり終わったら自然呼吸をしながら、少しの間その姿勢を維持し、その後、息を吸いながら、上半身を元に戻す。こうして左右双方へのねじりを数セット行う。

 最後に改めて座法を整える。両方の手のひらを上に向けて両ひざの上にのせて、肩・腕・手の力を抜く。その後、手はそのままでもいいが、両手をお腹の前に持ってきて、手のひらを上に向けたまま、左手の上に右手をのせて、足の上に置くやり方もある(仏教の座禅の手の組み方で「定印(じょういん)」という)。

 顔は前に向ける。視線はケースバイケースであるが、下記の視覚的なシンボルを用いた瞑想をする場合は、シンボルの画像・動画・図画の方を見る。そうでない場合は、目を半眼にして、視線は少し落とす(ないしは眠たくない場合は目をつぶるやり方もある)。視線・眼球は動かさないで固定する。


3.身体的瞑想の基本:4・8の呼吸瞑想

①安定した座り方で座る。ヨーガ・仏教の座法が組めれば組む。しかし、組めなくても安定していればよい。正座・胡坐(あぐら)でもよいし、椅子に腰かけてもよい。
②背筋を伸ばして、肩の力を抜く。顔は前を向け、腰を入れて、胸は軽く張る。
③腹を絞るようにして、口から息を十分に吐きだす。
この吐き出した反動で、④において息を十分に吸い込めるようにする。
④鼻から、息を4秒ほどかけて吸う。③で息を吐き出した反動を意識するとよいだろう。
⑤口から、息を8秒ほどかけて、ゆっくりと長く吐きだす。
⑥息を吐き切ったら、一瞬でいいので、息を止めた後、④に戻って息を鼻から吸う。
さて、この際の注意事項は以下のとおりである。これが瞑想に関係する。

①目・視線は動かさない。動かすと心が動く。
②目はつぶるか、禅の瞑想のように、半眼(半分閉じる)で視線を下に落とす。視線を下に落としてもいいが、顔は下に向けずに前に向けたまま。緊張が強い人は、目をつぶった方がリラックスできる。
③息を吐く時に、心身がリラックスするので、それを意識的に感じるようにする。
④手は、左手の上に右手を置いて、それを足の上に置く(仏教で定印といわれる)。もしくは、それぞれの手をそれぞれの膝の上に置く。自分でやってみて選択すればいい。
⑤この呼吸法によって、特にゆっくりと息を出し、その時にリラックス感に意識を集中すると、思考や感情が静まった、雑念の無い、無念無想の状態に入りやすい。静まった鮮明な意識が瞑想状態である。これを実現するようにする。


4.シンボル瞑想の実践

①まず、姿勢を整える。

 座り方は安定したものにする。仏教・座禅・ヨーガの専門的な座法が理想だが、安定すれば、正座・あぐら、さらには椅子に腰かけてもかまわない。
背筋を伸ばし、腰を入れて、軽く胸を張り、頭・首・背中・尾てい骨が、一直線になるようにする。椅子を使う場合は深く腰掛ける。体重を背骨が支えるようにし、首・肩・腕などの力を抜く。両方の手のひらを上に向けて両ひざの上にのせて、肩・腕・手の力を抜く。その後、手はそのままでもいいが、両手をお腹の前に持ってきて、手のひらを上に向けたまま、左手の上に右手をのせて、足の上に置くやり方もある(仏教の座禅の手の組み方で「定印(じょういん)」という)。
 顔は前に向け、シンボルの画像・動画・図画の方を見る。そうでない場合は、目を半眼にして、視線は少し落とす(ないしは眠たくない場合は目をつぶるやり方もある)。視線・眼球は動かさないで固定する。

②シンボル瞑想を行う。

 三宝真言を唱える。ゆっくりと低めの声で唱えると心が静まる。眠気がある時は、逆に、速く高めの音で唱えた方が、集中力が出る。目は、シンボル画像を見る。ひかりの輪で行うシンボル瞑想は、①聖地の雄大な大自然の画像(この中に光輪(ハロ=halo)も)や、②仏像や仏画や曼荼羅の画像がある。
心の持ち方については、いくつかのやり方がある。一つは、心が静まり広がるイメージをすること。鮮明な静まった広大な意識は、悟りの境地である。
 他には、仏陀の悟りに至るための教えのエッセンスと思うものを思索する。例えば、四法印の無常・無我など。このためには、普段から仏法を学び、そのエッセンスについて思索している必要があるだろう。


5.四法印の瞑想

 次は、四法印の読経瞑想である。四法印は、仏教を象徴する4つの法則。具体的な経文は以下の通り。
 
諸行(しょぎょう)無常(むじょう) (すべてのものは、無常である)
諸法(しょほう)無我(むが) (すべての事物は、私・私のものではない)
一切(いっさい)皆(かい)苦(く) (すべては不安定であり、とらわれれば苦である)
涅槃(ねはん)寂静(じゃくじょう) (煩悩を滅した悟りの境地は、静かで平安である)

 第一に、事前に、漢訳仏教用語の意味を理解しておく。「諸行」とは、「すべての存在・現象」という意味である。「諸法」とは、「すべての物事であり、観念的な存在を含めたすべての思考の対象となるもの」をいう。諸行は、実際に存在する現象であるが、諸法は、人の思考の中にだけある観念も含む。「無我」は、「私ではない、私のものではない、私の本質ではない」という意味の仏教の専門用語である。「涅槃」とは、「悟りの境地」という意味で、原意は「煩悩の炎を吹き消した状態」。サンスクリット語ではニルヴァーナと言うが、それを音写したのが涅槃である。「寂静」とは、「静かで平安である」という意味だ。

 第二に、正しい姿勢で唱える。唱える時は声を出すのが一般的だが、心の中で唱える方法もある。この際、すでに述べた、さまざまなシンボルを見る方法もあるし、なにも見ずに、唱えている法則に集中する方法もある。いずれにせよ、単に唱えるだけでなく、その意味をよく踏まえながら唱える。
 この読経瞑想を行えば、さまざまな物事に過剰にとらわれなくなり、心が静まって平安となり、自分自身にもとらわれがなくなって解放され、意識が広がってくる。すなわち、静まって安定した、広がった意識になる。また、そのようになるように努める。悟りの境地とは、静まった広がった鮮明な意識と定義することもできる。
 ひかりの輪は、この経文の読経をしながら、この教えを説いた仏教開祖の釈迦牟尼生き写しとされる京都・清凉寺の「生身(しょうしん)釈迦如来像」(日本三大如来)の写真画像を見ることにしている。

 第三に、経文を唱えながら、その教えを具体的に自分に当てはめて考える。それによって煩悩を静めて、鮮明で、静まった、自分にとらわれない広がった意識に至るように努める。具体的な瞑想の事例を以下に述べる。


6.諸行無常の瞑想例

 全てのものは無常である。自分も生まれては、刻一刻と年を取り、死に近づいて、ついには死ぬ。家族、友人、知人を含め、すべての人は老い病み死ぬ。イエスや仏陀さえも死んだように、死なない人は一人もない。人はあたかも、この世という名前の拘置所の死刑囚のよう。嫌いな人も、好きな人と同様に、時を経て去っていく。憎んで、わざわざ攻撃しなくても、自ずと消え去っていく。イケメンも美人も、老いれば醜くなり、去っていく。王様もセレブも乞食も、死ねば皆が骨になって去っていく。
 財物・地位・名誉を得ても、老い病み死ぬ中で、必ず失い、他のものになる。それらは、旅人のようにやってきては去っていく。グルメも粗食も、味わうのは一瞬で、皆が同じく糞尿になる。あらゆる快楽も、ほんの一時やってきては去っていき、あとには何も残らない。世界の万物すべては絶えず変化し、生じては滅する。この地球自体も、生まれて、時とともに滅する運命にある。
 自分の心もまた、無常である。自己中心的な煩悩的な欲求を求めて、仮に得ても、喜びは一時的なもので、もっと欲しくなり、得られない不安、得たものを失う不安や、失う苦しみ、互いに求め、奪い合う関係にある他に対する怒り・憎しみ・妬みなどの苦しみが絶えず生じ、喜びがさまざまな苦しみに、無常にも変わっていく。こうして、一切の煩悩的な喜びは、無常にも、苦しみに変わっていく。


7.諸法無我の瞑想例

 すべては、私、私のもの、私の本質ではない。一切は無常であるから、本当の意味で、私のものではないし、私ではない。自分の体さえ、生まれるが、死んでいく。それは、一時的に天から預かったものであり、自分のものではなく、天にお返しするものである。自分の心さえも無常であり、さまざまな思考や感情がやってきては去っていき、私のものではなく、私ではない(思考や感情を経験する主体である純粋な意識が、私である)。
 私達の体を構成する分子の中で、永久に私の体にとどまるものはない。飲食や呼吸で、絶えず外界から分子が入り、排泄や発汗や呼吸を通して、絶えず外に出ていく。数年で体内の分子はすべて入れ替わる。分子レベルで見れば、私だけの体(にとどまる分子)などない。
 多くの分子が絶えず生き物の中に入っては出ていき、自然の中を循環している。ここまでが私で、ここから私ではないという境界は実在しない。
 他者から独立した自分などなく、万物はつながって一体であり、自己とは別の他者、他者とは別の自己などない。自分と外界の境界も実在しない。この世界の万物はつながって一体であり、絶えず循環しあって、私のものでも、他人のものでもなく、誰のものでもなく、他とは別の自分も、自分とは別の他人もなく、自分も他人も実在しない。


8.一切皆苦の瞑想例

 この世界の一切は、不安定で、不満足なもので、不完全である。この世界の何を得ても、それによって永久に満足できるものはなく、永久に自分のものにできるものはない。何を得たとしても、しばらくすればそれに飽きて満足はできず、もっと欲しくなる。にもかかわらず、欲しいものをいつも得られるわけではなく、得られず苦しむことが多い。
 さらに、得たものには飽きてもっと欲しくなる一方で、それを失うのは苦しみであり、失う不安や、守るためのストレスがある。しかし、何に関しても、やはりいつかは失う。何を得ても、老い病み死ぬ中で、失わないものはない。自分の体でさえ、刻一刻と老いて、死んで失う。生きるとは、徐々に死んでいくことだ。ましてや、財物・地位・名誉・異性などは、いうまでもなく、得ても必ず失い、苦しみの原因になる。
 にもかかわらず、互いに「他人よりもっと」と求め、奪い合うから、互いへの怒り、憎しみ、やっかみ、妬みが生じる。奪っては奪われ、嫌っては嫌われる。そして、時とともに老いる中で、求めても得られない、得ていたものを失う、奪い合っても負けることが増えていく。老いる中で、苦しみが徐々に増えていく。そのあげくに死んでいく。
 こうして、自己中心的な欲求・煩悩を持って生きる限り、満ち足りることは決してない一方で、得られぬ欲求不満、失う不安、他への怒り・憎しみなどのさまざまな苦しみが生じて、それらの苦しみが時とともに徐々に増えていく。こうして、煩悩を持って生きる限り、むなしい徒労の繰り返しの中で、徐々に苦しみが増えていく。一切が苦しみに帰結する。


9.涅槃寂静の瞑想

 涅槃寂静という経文の意味するところは、悟りの境地は真の平安・安らぎであるという意味である。よって、その瞑想としては、文字通り、意識は鮮明なままで、心が静まって、平安な状態になるようにイメージする。
 ただし、実際にその意識状態になるためには、その前の無常・無我・苦の瞑想を十分に行って、煩悩的な欲求を静めておく必要があるだろう。


10.四無量心の瞑想

 まず、四無量心(四つの広大な利他の心)の経文は以下の通り。

他の幸福を願い   他に幸福を与え
他の苦しみを悲しみ 他の苦しみを抜く
他の幸福を喜び   自己の苦しみを超え
万人万物に平等心を持つ

 第一に、事前に四無量心に関する教えをよく教学しておく。基本的なことを説明すると、

①「慈」とは、サンスクリット語ではマイトリーといい、他の幸福を願う心と、他に幸福を与える行動である。
②「悲」は、同じくカルナーといい、他の苦しみを悲しみ、その苦しみを取り除く行動
である。
③「喜」は、同じくムディターといい、他の幸福を妬まずに、喜ぶ心の働きである。
④「捨」は、同じくウペクシャーといい、平静で平等な心の働きであり、自分の苦しみに動じない(自分の苦しみに無関心である)という意味がある。

 第二に、正しい姿勢で唱える。唱える時は声を出すのが一般的だが、心の中で唱える方法もある。この際、すでに述べた、さまざまなシンボルを見る方法もあるし、なにも見ずに、唱えている法則に集中する方法もある。いずれにせよ、単に唱えるだけでなく、その意味をよく踏まえながら唱える。
 この読経瞑想を行えば、さまざまな物事に過剰にとらわれなくなり、心が静まって平安となり、自分自身にもとらわれがなくなって解放され、意識が広がってくる。すなわち、静まって安定した、広がった意識になる。また、そのようになるように努める。悟りの境地とは、静まった広がった鮮明な意識と定義することもできる。
 なお、ひかりの輪では、この読経をする際に、四無量心の体得者である仏陀菩薩の写真画像を見ることにしている(例えば、京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像など)

 第三に、経文を唱えながら、その教えについて、具体的に自分に当てはめて考える。それによって煩悩を静めて、静まった広がった大きな愛の意識=仏の四無量心に近づくように努める。
 次に、四無量心の瞑想を深めるための重要なポイントを解説する。

11.四無量心は自分自身を利する(利他は利己であること)

 仏教の教えでは、この四無量心の利他の心と行動は、これを実践する本人こそを幸福にすると説かれる。他の幸福を願って幸福を与えることが自分を幸福にし、他の苦しみを悲しみ、その苦しみを取り除くことが、自分の苦しみを取り除くことにつながるのである。すなわち、自他の幸福は一体であるという教えだ。
 一般には、大きな声では言えないが、幸福は、そもそも奪い合いであり、幸福になるには、他と争って奪い勝たなければならないという考えもあるかもしれない。よって、批判されたり罰されたりすることがない限りは、自己中心的な生き方をすることで、自分が幸福になると考えている人も少なくないかもしれない。
 しかし、先ほど、四法印の一切皆苦などの教えで検討したように、よく考えてみれば、「今よりもっと、他人よりもっと」と際限なく求めて、他人と争う生き方をしても、長期的には、人は、心理的にも、現実的にも、幸福になれないというのが、この人生とこの世界の仕組みである。
 そして、そうした間違った考え方は、狭くて短い視野で物事を見る「無智」によって生じていると仏教は説く。無智の意識があると、全体的に長期的に、幸福を考えることができず、自己中心的に近視眼的に幸福を考えるために、長期的には、幸福にならずに不幸になってしまう間違った生き方をするのである。
 長期的に考えると、自分と他人の幸福は一体であり、他を利することが自分を利することになることがわかる。短期的に近視眼的に物事を考えると、他人が幸福になれば自分が不幸になり、自分が幸福になるためには、他人が不幸になっても仕方がないという錯覚が生じて、他から幸福を奪うような生き方が、自分の幸福になるように錯覚してしまうのである。
 そして、前にも多少述べたが、これは、最新の脳科学の知見でも確認されている。具体的には、人間の脳には、社会脳という機能があって、他への感謝や利他の心や行為は、心身の健康や記憶力・目標達成力といった知力を高める幸福ホルモンを体内で分泌させる一方で、過剰な他者への嫌悪・恐怖・攻撃は、心身の健康や記憶力・目標達成力などの知力を損なうストレスホルモンを分泌させることがわかっているという。こうして、科学的に見ても、利他こそが、最も賢明な利己なのである。


12.苦しみを乗り越えた、好き嫌いを超えた平等心

 次に、四無量心の「捨」(ウペクシャー)は、平静で平等な心の働きであり、これは苦しみを乗り越えた不動の心(自分の苦しみに無関心な心)という意味がある。そして、苦しみを乗り越えることが、人に対する好き嫌い、執着や憎しみを超えて、万人を平等に愛する平等心を培うことになる。というのは、人は苦しみ・不快を与える人・出来事を憎み、喜び・快を与える人・出来事に執着する。これによって好き嫌い・執着と憎しみが生じ、分け隔てをする心が生じて、平等心を妨げる。
 そこで、苦しみを乗り越えて、平等心を得るためには、前に述べた苦楽表裏の教えが重要となる。すなわち、喜びの裏に苦しみがあると同様に、苦しみの裏にも喜びがあるという道理を理解して、苦しみを喜びに変える智慧を培うことである。その結果、一時的な喜びや苦しみに一喜一憂しない、安定した絶えず前向きな心の働き、生き方を身に着けることができる。
 これまでの仏陀の教えの検討から、苦しみや喜びは、比較の対象・とらわれが作り出している実体のないものであることを考えてきた。言い換えれば、苦しみが強いということは、とらわれが強いということである。これを逆に考えるならば、苦しみの経験とは、自分の中のとらわれを乗り越えて、悟りを深めるための愛の鞭であるということができる。悟りを深めるならば、苦しみが減るからである。これまでに検討したように、苦しみは外的な条件だけで決まるのではなく、その人の内面の心のとらわれ等の内的な条件との組み合わせで決まる。よって、内的な条件を改善すれば、すなわち、とらわれを乗り越えて、悟りを深めれば、苦しみが減り、喜びが増えるのである。仏陀も、人は苦しみの経験から、仏陀の教えに関心を持つと説いている。
 さらに、自分の苦しみの経験は、同じ苦しみを持つ他人を理解して同情し、その苦しみを取りのぞく手助けをする上で役立つ。わかりやすくいえば、他の苦しみが理解できる優しさ、慈悲の心を培う手助けとなる。これは、自分の苦しみは、決して自分だけのものではなく、多くの他人も共有しており、この世の人の苦しみを知る経験であり、自分の財産となる貴重な経験ということである。よって、苦しみの経験に対して、それを「悪いことだ」とばかり考えるのではなくて、「これは、自分を成長させ、悟りの深まりを助け、優しさ・慈悲を培うことを助ける好機・チャンスである」と考えるとよいと思う。わかりやすく言えば、長期的な、将来の大きな幸福をもたらす試練・訓練の機会である。
 次に、苦しみの裏にある喜びの具体的な事例を挙げてみたいと思う。例えば、批判されることはつらいことではあるが、それは自分の価値を否定したり、減少させたりすることではない。見捨てられていれば、批判はされない。期待があるから批判されるのである。
 また、批判がなければ、人は自分の問題に気づかないことが多い。よって、批判に素直に感謝し、反省・改善すれば、自分が成長するきっかけとなる。だとすれば、批判は将来の称賛の源である。こうして、批判は、自分の価値を否定したり、減少させたりするものではなく、自分の価値をむしろ認めた上でのものであり、向上させるものであると考えることができる。こうして、繰り返しになるが、幸福・不幸とは、すべての物の見方、視点、気持ちの持ち方で、変わってくるものである。
 病気についてもそうである。よく一病息災というが、これは一つぐらい持病があった方が、体を気遣うために、健康になり、長生きするという意味である。病気は、それまでの自分の生き方、生活習慣、ものの考え方などを見つめ直して改善する機会にすることができる。一方、病気になったことを嘆いてばかりいれば、それによって自分を損なうことになる。
 ある精神科医は、うつ病などの病気になったことを受け入れずに、十分な治療をしない人が少なくない問題を指摘しているが、彼によれば、病気が早く治る人は、病気になったことを受け入れ、適切な治療をし、その中で病気に感謝するようになる人だという。
 なお、脳科学的にいえば、感謝をすると、エンドルフィンというホルモンが分泌されるという。これは、モルヒネよりも何倍も高い鎮痛効果があり、痛みやストレスを緩和し、細胞の更新・新陳代謝を促し、抗がん効果もあって、心身の癒し・健康を増進するホルモンであるという。こうして、脳科学の視点から見ても、何かの出来事を悪いとばかり考えると、それによって苦しみは増すことになり、それを喜びと解釈し直して、それに感謝することは、苦しみを乗り越える助けとなることがわかる。
 また、何かの挫折・失敗の苦しみに関していえば、それを、成功へのステップと考える人が、長期的には成功する人になる。いわゆる失敗は、それでは成功しないということを知ることであるから、その意味で、成功へのステップなのである。そして、失敗を成功へのステップと考える人は、成功に向けた努力を続ける人だということだ。
 そうではなくて、失敗を悪いことばかりだと考える人は、努力をやめてしまい、そのために、成功することがない。成功する人は、失敗・成功を繰り返して、継続的に努力する人である。本田技研の創始者である本田宗一郎氏は、多くの人は「すぐに成功したい」と考えるが、自分にとって成功とは、失敗と自己反省の連続の結果であるという趣旨のことを述べている。1000回の実験を経て白熱電球を発明したエジソンは、999回の失敗に関しては、「それは失敗ではなく、成功へのステップだ」と述べている。
 世の中には「失敗しないための~」と題する本が多く出版されているが、「全く失敗せずに、すぐに成功したい」という考え方は、「継続的な努力をなして、多くの失敗や成功の経験を経て自分を向上・成長させていこう」という考え方がない。その背景には、今の自分を守ろうとする過剰な自己愛があり、自己向上のための継続的な努力を避けようとするものだ。
 これは、「今すぐ成功したい、失敗したくない」「今すぐ勝ちたい、負けたくない」、「今の自分を認めてほしい」という心の働きと、「失敗したり成功したり、勝ったり負けたりする中で、継続的に努力して成長していこう」という心の働きの違いである。前者は、苦しみを嫌がりすぎるために、成長できず、長期的には苦しみが増えてしまう。後者は、苦しみから逃げずに、それを乗り越える継続的な努力をするために成長し、長期的に幸福が増えていく。

参考資料:ひかりの輪オリジナルの読経瞑想

 ひかりの輪では、仏陀(目覚めた人、悟った人)の科学的で客観的な世界観(智慧)と、それに基づく万物を愛する心の境地を現代語でわかりやすく表現した言葉を以下のように作り、それを瞑想している
 
 ◎三(さん)悟(ご)心(しん)経(ぎょう)(三つの悟りの心の教え)
  万物恩恵 万物感謝
  万物神仏 万物尊重
  万物一体 万物愛和

 ◎三(さん)悟(ご)智(ち)経(きょう)(三つの悟りの智慧の教え)
  苦楽一体 万物感謝
  優劣一体 万物尊重
  自他一体 万物愛和

 ◎三(さん)縁(えん)起(ぎ)経(きょう)(三つの縁起の教え)
  万物関連 万物一体
  万物同根 万物一体
  万物循環 万物一体

 最後に、先ほど紹介した「三悟心経」の経文の意味・解釈を紹介しておきたい。まず、これは、繰り返しになるが、悟った人の世界観・心の働き、仏陀の境地を表したものである。なお、三悟心経とは「悟った人の心の境地を現す三つの教え」といったほどの意味である。

 まず、「万物恩恵・万物感謝」については、万物は、私たちが悟りを得るための貴重な経験・恩恵であるという意味である。普通の人には、この世界は、恩恵もあれば被害もあり、得もあれば損もあると映る。
 しかし、これは、普通の人には、人生の目標・喜びが、財物・地位・名誉・成功・勝利などを「今よりもっと、他人よりもっと」と求めて得ること、「ゲット」することにあるからである。そして、この場合、この世界は、他人と競い合って幸福を得る場であり、一種の「戦場」の側面がある。
 一方、強く悟りの境地に向かおうとする者には、人生の目標は、「悟り」を得ること、精神的な成長であり、この世界は、悟りを得るための「道場」である。その中で、さまざまな人々・出来事を経験し、具体的には、喜びや苦しみ、損や得、勝ちや負け、優しさや厳しさ、善や悪などのさまざまな経験をして、それを通して、苦楽表裏・自他一体・優劣表裏といった仏陀の教え=この世界の実相・道理を悟る場である。さまざまな人々は、そのための道場の稽古相手といってもいいだろう。

 次の「万物神仏・万物尊重」も、同じような意味を別の表現で表したものである。さまざまな人々・出来事の経験は、仏陀の教え=この世の実相・道理を教えてくれる教師である。よって、万物は悟りに導く教師であり、その意味で、万物は神仏としている。
 なお、四法印の「一切皆苦」は、いかなるものにとらわれ求めても、それは不完全で、不安定で、不満足であるという教えであった。これを言い換えれば、万物は、一切皆苦を教えてくれる教師であるとも考えることができる。よって、一切は苦であると同時に、一切は教師・神仏ということができる。
 また、仏教の教えには「敵こそ(敵をも)教師」というものもある。敵対者の与える苦しみも、前に述べたように、悟りを促す愛の鞭であり、導きであるということだろう。同じように、良いことをする人に限らず、悪いことをする人も、自分の反面教師として学びの対象にしようとすれば、やはり教師と考えることができるのである。

 最後の「万物一体・万物愛和」に関しては、まず「万物一体」というのは、自と他の真の在り方、自と他の真の幸福は一体であり、苦と楽や優と劣も、実際には表裏一体であるという意味である。これを悟った状態が仏陀の智慧である。そして、その智慧からは自ずと万物を愛し、万物と調和する心が生じる。これが、万物愛和の意味である。

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