⑤輪の読経瞑想:一元意識への瞑想(三悟心経・三悟智経・三縁起経の瞑想)
以下は、「輪の読経瞑想」の5種類の読経瞑想について解説した、「テーマ別教本《第9集》『ひかりの輪の「輪の思想」3』」の第3です。
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第3 輪の法則に関する読経瞑想
(2013年夏期セミナー特別教本《改訂版》『現代を生きる智恵 輪の思想と最新科学』第4章:一部改訂)
先ほど述べた三つの輪の法則の内容と意味合いについては、過去の特別教本に委ねたい。特に、最初の「三悟の法則」に関しては、『三悟心経の集中修行』(2012)などによくまとめてある。
本書で解説するのは、その輪の法則のエッセンスについて、現代人でもわかる言葉で簡潔に表現し、瞑想・修習しやすくした「読経瞑想」である。これは、基本として、四字ないし二字熟語の連続で構成され、リズミカルな読経となるように工夫されている。以下に、読経瞑想用の経文を紹介する。
1.三悟心経
万物恩恵(ばんぶつおんけい)、万物感謝(ばんぶつかんしゃ)
万物仏(ばんぶつほとけ)、万物尊重(ばんぶつそんちょう)
万物一体(ばんぶついったい)、万物愛和(ばんぶつあいわ)
これは、以前から紹介している経文である。三つの悟りとは、万物への感謝・万物への尊重・万物への愛のことであり、「三悟心経」とは、その三悟の教えの中心の法則という意味である。「般若心経」が般若経の中心の経を表すことに習ったものである。
この三悟心経は、先ほど述べた輪の法則の一つである「三悟の輪の法則」に基づいた教えであり、その法則の詳細については、前に述べたとおり、特別教本を参照されたい。ここでは、その中で、特にポイントとなる考え方を述べておく。
(1)「万物恩恵・万物感謝」
これは、文字通り、「万物を恩恵と見て、万物に感謝する」という意味である。
しかし、前にも述べたとおり、「誰もが、万物を恩恵と考え、万物に感謝すべきだ」と主張しているものでもなければ、それを絶対的真理だと断定し、信じないことは過ちであると主張するものではない。
これは、森羅万象・万物は、見方・考え方によっては、恩恵と見ることができ、感謝の対象にすることができることを意味しているのである。よって、万物を愛する心、いわゆる仏陀の大慈悲・神の博愛のような境地に近づきたいならば、この考え方が役に立つ。
そこで、次に、具体的に、万物を恩恵と見て、感謝するものの考え方を例示する。
①自分の恵みの大きさに気づき、それを支える万物に感謝する
まず、苦楽は相対的なものである。楽を求めれば際限がなく、楽への貪り・とらわれが増大して、楽に慣れきってしまうと、少しのことでも苦しみになる。すなわち、楽があるから苦があり、苦があるから楽があり、苦楽は(輪のように)一体になっている。
そして、この際限のない欲求のために普段は気づいていないが、自分がすでに得ている恵みは、実際には膨大なものである。これによく気づいて、それを支えているのが、この世界の万物であることを考えるならば、万物を恩恵と見て感謝することができるだろう。
例えば、イエスや仏陀の時代の人々が、突然、現代社会にタイムトラベルしたならば、彼らには、この社会がどのように感じられるだろうか。おそらくは、仏の浄土かキリスト千年王国といった理想郷に見える可能性があるだろう。
男女・民族・階級の差別がなく、個人の自由を認め合う民主主義社会、原子から宇宙までの様々な科学的な知識、衣・食・住・医療・交通機関の先進技術を見れば、彼らの時代にはイエスや仏陀が初めて説いた人間の平等性を子供さえが当然の倫理として理解しており、イエスや仏陀さえ知らない宇宙の真相を誰もが幅広く理解し、イエスや仏陀さえできなかった病気の治療や空中の飛行といった奇跡を、科学技術によって、誰もがやすやすとなしているのである。
彼らには、この社会で目にするあらゆるものが、奇跡的とも感じられ、万物恩恵・万物感謝の心境になるだろう。こう考えてみると、ホモサピエンスの数十万年の歴史の最先端にあり、しかも、現在65億の人間の中でも、安全・長寿・豊かの三拍子がそろった日本社会に住む者は、無数の膨大な恩恵を得ていることに気づく。
②苦の裏の恩恵に気づき、苦楽双方の森羅万象に感謝する
苦しみの裏にも、視点を変えれば、様々な楽・利益・恩恵がある。例えば、苦しみの原因である過剰な貪り・執着を弱める契機になったり、自分の苦しみを通して、他の苦しみを理解する心(慈悲)を養ったりと、自分を鍛えて成長させる愛の鞭の側面がある。これに気づいて、苦と楽の双方の森羅万象=万物を恩恵と見て万物に感謝することができる。
③宇宙・万物こそが最大の恩恵だと気づいて感謝する
上記の①や②の思索をしていくと、人の本当の幸福は、果てしなく求めることではなく、他と苦楽を分かち合う(慈悲)ことによるものという考えが出てくる。その視点に立てば、お金や名誉などといった自分だけのものではなくて、万人が共有する大自然・大宇宙=万物こそが、ちっぽけな自分だけのものを遥かに上回る、最大の宝・最大の恩恵だと気づいて、万物を恩恵と見て、万物に感謝することができる。
(2)「万物仏・万物尊重」
これは、万人・万物を仏と見て、尊重する心を培うものである。先ほどと同様に、これは、誰もが、万人・万物を仏と考えるべきであると主張しているのでもなければ、こう信じないことは間違っていると主張するものではない。
これは、見方・考え方によっては、万人・万物を仏のように尊重する心を培うことができるという意味なのである。とはいえ、良い人も悪い人もいると考える現代の常識から見るならば、違和感があるだろう。
しかし、大乗仏教では、万人・万物の優劣を比較しない思想を有している。そして、万人・万物を平等な仏性の顕現と考えるのである。なお、ここで仏性とは、未来に仏陀になる可能性のことを言う。さらに、悟りの境地に至ると、この世界が仏の浄土であり、すべての人・生き物が仏に見えるという教えもある。
この大乗仏教の思想にヒントを得て、万人を仏の如く尊重する心を培うものの考え方が、「万物仏・万物尊重」である。では、具体的にはどのように考えるかについて以下に述べる。
①万人が、未来の仏である
先ほど、苦楽は比較と述べたが、優劣・善悪も、全く同様に、比較の問題である。例えば、どんなに良い人でも、それ以上に良い人ばかりの集団の中に置けば、相対的に悪い人に見える。どんなに悪い人でも、それ以上に悪い人ばかりの集団の中に置けば、仏のように善い人に見える。これが比較で苦楽・優劣・善悪を決める人間の心理である。実際に、辞書を見れば、善・優とは、比較して優れている様であり、悪・劣は、比較して劣っているさまであると定義されている。
先ほども述べたが、イエスや仏陀の時代の人々が、突然、現代社会にタイムトラベルしたならば、彼らには、この社会が、仏の浄土のような理想郷に見え、平等主義の民主社会の原則に基づいて、全知の如き科学的な知識と、奇跡の如き科学技術の力を持って生きている我々全てが、仏のような人間の集団であると見えたとしても、不思議ではないだろう。
この視点は、人の優劣の判断が比較によることを気づかせるだけでなく、長期的な大きな視点から見れば、人類が一体となって進化する存在であるという理解が深まり、人類全体に対する尊重・愛の心を培うことを助けるものだと思う。そして、先ほど述べた、優劣の比較をせずに、万人・万物を尊重することを説く大乗仏教の思想の意味合いが、少しはわかるのではないだろうか。
これに関連するのが、大乗仏教が説く、万人が未来に仏陀になる可能性を有するという思想だ。これは、万人が何生も生まれ変わる中で、未来に仏となっていく可能性があるという思想であるが、輪廻転生の信仰を前提とせずに、私たちの来世は私たちの次世代であると科学的に考えれば、これは、人類が徐々に進化し、未来のいつか、仏の集いの如き社会を形成する可能性があるという思想とも解釈できる。
最後に、仏教では、人が未来に仏になる存在ならば、今は、仏の子・仏の胎児であると考える。そして、人間の子が人間であるように、仏の子は仏であると考えれば、万人を仏と見て、万人を尊重することができるだろう。
②万人・万物が(仏のように)学びの対象・教師である
この社会には、良いことをしている人もいれば、悪いことをしている人もいる。しかし、見方を変えれば、良いことをしているならば自分の見習うべき教師であり、悪いことをしていれば自分の反面教師であるなどと見ることができる。その意味で、仏と同様に、自分にとって尊い学びの対象と考える。
この考え方は他のケースに適用できる。人は教えながら学ぶものだから、自分の生徒も自分の教師であり、敵対する者も、見方を変えれば、お互いの悪いところを責めてつぶし合い、良いところを学び、盗み合うという切磋琢磨の対象=好敵手と見ることもできる。自己を傷つける者も、自己愛を乗り越える手助けだと考えれば、イエスが「汝の敵を愛せ」と説き、仏陀が「敵こそ教師」と説いた意味がわかってくる。
なお、この視点も、①と同様に、人々・人類が、互いに学び合って、一体となって成長する存在だという理解を与える。
③万人・万物が、大いなる仏である
大乗仏教では、森羅万象・万物を仏の現れと考えるとともに、宇宙全体も巨大な仏の現れと考える思想がある。すなわち、宇宙のあらゆる微少な部分も仏であり、宇宙全体も仏であるという思想である。
そして、上記の①の延長上として、一体となって進化している人類全体を「未来に仏になる一つの大きな生命体」と見るならば、万人・万物を大いなる仏と見ることができる。この大いなる生命体=人類という種は、百年足らずで死ぬ個々の人間と違って、世代交代しながら延々と生き続け、個々の人間では到底及ばない智恵・力・精神性を獲得する偉大な存在であり、それゆえに、大いなる仏である。
また、上記の②の延長上として、私たちが経験している宇宙の万物が、その経験を通して、私たち一人一人を(および人類全体を)徐々に悟りに導く働きを持った、一人の大いなる仏であると考えることもできるだろう。
なお、人類全体や宇宙全体を一体と見なす考え方を理解するには、次の「万物一体・万物愛和」の法則や、それに関連した「三縁の法則」を参照されたい。人類であれ、宇宙であれ、万人・万物が相互に依存し合って一体・不可分であることを理解できるだろう。
そして、①ないし②のいずれにしても、そのように考えれば、万人・万物を大いなる仏と見て、万物を尊重することができるだろう。
(3)「万物一体・万物愛和」
これは、万物を一体と見ることで、自分だけではなく、他者・万物を自分と同じように愛する心を培う考え方である。
そして、万物を一体と見る具体的な考え方としては、それは、後で述べる「三縁の法則」および、その法則を簡潔に表した三縁起経で具体的に述べる。それを簡単に説明すれば、①万物が相互に関連していること、②万物が同根であること、③万物が循環していること、である。
2.三悟智経(さんごちきょう)
苦楽一体、万物感謝
優劣一体、万物尊重
自他一体、万物愛和
「三悟智経」とは、「三つの悟りのための智慧の教え」という意味である。よって、三悟智経とは、万物への感謝・万物への尊重・万物への愛の三つの悟りを現わす、三つの輪の法則(三つの一元法則)を意味している。
具体的には、苦楽・優劣・自他は、別々のように見えて、実際には輪のように一体であり、それゆえに、万物を感謝・尊重・愛すべきであるという教えである。
なお、「三悟心経」と「三悟智経」は、どちらも「三悟の輪の法則」を簡潔に表現したものである。両者の違いは、前者が、万物に対する見方・心の持ち方を中心とするのに対し、後者は、その見方・心の持ち方を修習すべき根拠として、苦楽・優劣・自他が一体という世界観を含んでいることである。
よって、その教えのエッセンスは、三悟心経のところで述べたものと同じであるから、ここでは、特にポイントとなる考え方をまとめておくにとどめる。
(1)「苦楽一体・万物感謝」
苦と楽が輪のように一体であることを考え、万物に感謝する教えである。苦と楽が一体であることと、万物に感謝することの間の関係は、すでに三悟心経のところで述べたので、繰り返しになるが、以下の通りである。
①自分の恵みに気づいて万物に感謝
楽を際限なく貪れば、その裏には苦が生じる。よって、足るを知るために、すでに自分が得ている楽が、実際には非常に膨大であることを考え、それを支えている万物に感謝する。
②苦の裏の楽を知り、苦楽万物に感謝
苦の裏には楽がある。苦の経験で、苦の原因となっている楽の貪り・とらわれ・執着を弱めたり、他の苦しみを理解する慈悲を培ったりすることができる。これに気づいて、苦楽双方の万物に感謝する。
③真の楽は分かち合いと気づき、万物が最高のものと気づく
楽と苦が輪のように一体であることに気づくと、真の楽とは、楽を貪り、苦を厭うことではなく、楽も苦も他と分かち合う(=慈悲)ことによって生じることに気づく。すると、万人が共有するこの宇宙の万物が最大の宝と気づくので、万物に感謝する。
(2)「優劣一体・万物尊重」
ここでの「優劣一体」とは、第一に、三悟心経のところで述べたように、優劣というものが比較によるものであって、優と劣は独立して存在せず、常に一体・セットで存在するという考え方がある。それに基づいて、いかに万人・万物を尊重するかは、すでに三悟心経のところで述べた。
よって、ここでは、もう一つの別の「優劣一体」の意味合いについて述べる。それは、人の優劣・長所短所が裏表であり、輪のように一体であるということである。そして、それを考えて、万人・万物を尊重するものである。具体的には以下の通りである。
①優れた点・長所の裏には、劣った点・短所がある
何かの長所があると、そのために慢心を抱きがちであるが、それは堕落の道となる。実際、自分の長所は、自分だけの力ではなく、他者・万物に支えられたものである。
また、慈悲の体得の視点からは、何かの長所を有することは、その長所を持っていない人の苦しみはわからないという短所でもある。こうして短所と長所は裏表である。
また、これは他人の長所に対する妬みについても役立つ考えである。妬みの対象は実際には自分が思うほどに幸福ではなく、その人に比較して自分が劣っている面があったとしても、その短所の裏には、先ほど述べたように、長所があるわけである。
このように考えて、慢心・妬みに陥らず、万人・万物を尊重する心を持つのである。
②劣った点・短所の裏には優れた点・長所がある
何かの短所があると、そのために卑屈になりがちであるが、それを乗り越える努力をすれば成長するし、同じ欠点を持つ人を手助けできる能力が生じる。
また、慈悲の体得の視点からは、何かの短所を有することは、同じ短所を持っている人の苦しみが理解できるという長所でもある。
また、これは、他人の短所について軽蔑する心を乗り越えるためにも役立つ考えである。自分の方が優れていると思っても、その長所の裏には短所があるからである。
このように考えて、卑屈・軽蔑に陥らず、万人・万物を尊重する心を持つのである。
③分かち合いこそ真の道と気づいて
優と劣が輪のように一体である中で、真に優れた者になる道とは、他に勝つことのみを欲するのではなく、互いの優劣・長所短所を分かち合うことである。すなわち、お互いの長所を学び合い、短所を反面教師として学び合い、他と共に成長しようとすることである(すなわち仏教が説く大慈悲・四無量心の実践である)。この意味で、私たちは、万人・万物を学びの対象として尊重すべきである。
この点に関連して、現代社会が重視する「競争」とは、本来は、勝って幸福になる者と、負けて不幸になる者を分けるものではなく、全体の向上のために、互いの長所を学び合い、短所をつぶし合う、切磋琢磨の過程であるべきだろう。また、個々人が自分の個性を見いだし、自分なりの道を見いだす過程でもあるべきだ。そうした競争は、慈悲の一形態とも解釈できるだろう。
(3)「自他一体・万物愛和」
まず、自と他が一体である根拠については、三縁起経で詳しく述べる。ここで簡略に言えば、①自と他は相互に関連しており、②自と他は同根であり、③自と他の構成要素は循環していることである。
そして、自と他が一体だと気づくならば、自分だけでなく、他を含めた万物を自分と同じように愛する心を持ちやすくなる。この際に、他者・万物を愛するとは、具体的には、他と苦楽を分かち合う(仏教が説く大慈悲・四無量心の実践)ことであろう。
そして、この他との苦楽の分かち合いは、後に三縁起経で詳しく述べるが、①自と他は物心両面で一体であり、②自と他の真の幸福は一体であり、③自と他の真の成長も一体であるという考え方によって深めることができる。
3.三縁起経(さんえんぎきょう)
万物関連、万物一体
万物同根(どうこん)、万物一体
万物循環、万物一体
「三縁起経」とは、三縁の輪の法則という意味である。三縁とは、万物が関連していること、万物が同根であること、万物が循環していることという、万物が一体であると主張する法則を意味する。
具体的には、
①万物の関連性の思想
例えば、縁起の法が説く万物が相互依存であるという教えなど。
②万物の同根性の思想
例えば、毘慮遮那仏(びるしゃなぶつ)を宇宙万物の根源と位置づける教え、
唯識思想が説く、万物の根元である根本意識である阿頼耶識(あらやしき)などの教え。
③万物の循環性・周期性の思想
例えば、宇宙の根本原理を周期的な運動とする教え。
という三つの教えである。
これらは、万物が一体である(一元である)という世界観の根拠となるものである。よって、万物が一体であることを深く修習するために有効な瞑想である。なお、この三縁の輪の法則(三縁の一元法則)の詳細については、ひかりの輪の特別教本を参照されたい。
なお、仏教の経典が説く、万物が一体である教えを挙げたが、そのそれぞれに関して、最新の科学が、同じ事実を発見しているので、それについて簡単に述べる。
①万物の相互の関連性
主に量子力学・分子生物学などの世界観。
②万物の同根性
ビッグバン宇宙論(万物がビッグバンから生まれた)。
③万物の循環性
分子生物学の人間観や、宇宙物理学の星々の生成と消滅など。
次に、万物を一体と見て、万物を愛する心を強めようとする際には、次の三つの意味で、万物が一体であることに注意すると、効果的である。
①万人が物心において一体であること
万物が物理的に関連しあっているとともに、人と人の精神も関連しあっていること。これは、以下の②と③の土台となるものである。
②万人の幸福は一体であること
真の幸福は、他とのお金や名誉の奪い合いによるものではなく、他との苦楽の分かち合い(仏教が説く大慈悲・四無量心の実践)によって得られるものであること。
そして、この延長上として、万人が共有している宇宙の万物・大自然こそが、最大の恩恵・幸福と考えることもできる。
③万人の成長は一体であること
真の成長(ないし真に優れた者になる道)とは、他に勝つことばかり欲するのではなく、互いの優劣・長所短所を分かち合うことである。すなわち、お互いの長所を学び合い、短所を反面教師として学び合い、他と共に成長しようとすることである(仏教が説く大慈悲・四無量心の実践)。
そして、この延長上として、人類を一つの大いなる生命体と見て、それこそが最も偉大な生命体と見ることもできるだろう。
4.三性理経(さんしょうりきょう)
仏性・教え・一体・仏陀
自力・他力・一体・仏陀
直感・理性・一体・仏陀
潜在・顕在・一体・仏陀
悟り・利他・一体・仏陀
慈悲・法力・一体・仏陀
(1)三性と二極一元論
「三性」とは、男性原理と女性原理と中性原理を意味する。男性原理と女性原理が統合・バランスされたものが、中性原理である。男性原理と女性原理を説く思想は、大乗仏教の智慧と方便、道教の陰陽、さらには心理学の一部などに見られる。
これは、男性原理と女性原理という対極的な二者が、実際は相互に依存しており一体で、その統合・バランスが重要であると説く思想である。ひかりの輪では、これを「二極一元論(ないしは二元論的一元論)」と名付けている。
そして、その中で重要なのは、悟りをもたらす女性原理と男性原理の統合である。そして、悟りに近づく上で、統合すべき男性原理と女性原理のセットを並べたものが、上記の「三性理経」である。三性理経とは、男性・女性・中性の三原理が輪のように一体という意味である。これは深い教えであり、理解は必ずしも容易ではないが、重要な法則である。
なお、この二極一元論の詳細については、ひかりの輪の特別教本を参照されたい。
(2)「仏性」と「教え」の統合
チベット仏教の一部では、人の内側にある「仏性」を女性原理と見て、人の外側にある「教え」を男性原理と見て、この両者の合体が、悟り・仏陀の境地を生み出すとする解釈がある。
ここで、「仏性」とは、人が未来に仏陀になる可能性、人の中に潜在する仏陀の性質を意味する。わかりやすく言えば、人の中に潜在する神聖な意識・慈悲の心・良心である。そして、神聖な意識を引き出すものが「教え」である。
教えには、様々な形態がある。例えば、言葉による教え、象徴による教え、以心伝心による教えなどがある。宗教の崇拝対象となる名前や姿形を持つ神仏・仏像などは、象徴による教えとも解釈できる。
これを言い換えれば、内側の仏性も、外側の教えも、単独では、仏陀の境地をもたらさず、絶対の存在ではないということである。よって、各宗教の崇拝対象は、神聖な意識を引き出す意味では尊いが、言い換えれば、個々人で違ってよく、唯一絶対のものはない。様々な名前や形を持つ神仏や経典や仏像は、あくまで象徴であって、それ自体が唯一絶対の存在ではない。
なお、仏陀の境地に至った意識は、内側と外側の区別を超え、宇宙と一体化し、宇宙に遍満した意識である。なお、この点の詳細は、ひかりの輪の特別教本を参照されたい。
(3)「自力」と「他力」の統合
また、自分の努力で悟るという「自力」の考え方と、神仏に願って救われるという「他力」の考え方がある。しかし、万物を一体と見る輪の法則では、自力と他力は、一体のものである。
何ごとも自分だけの力で達成できるものはなく、万物の支えがあってこそである。よって、自力のみに頼る者は、傲慢の問題がある。また、他力とは、自分の努力をした者に働くものである。よって、努力せずに他力を期待する者は、怠惰の問題がある。そもそも、自と他を含めた万物が一体である以上、自力と他力も一体と考えるのが合理的である。
また、これと関連して、自と他の区別を超えた慈悲の悟りと、その悟りのために諸現象をコントロールする法力も、一体であることは後に述べる。
(4)「直感」と「理性」の統合
脳科学や心理学では、人の右脳が、直感・感性・イメージ・潜在意識(無意識)を司り、左脳が、論理・理性・言語・分析・表層意識を司るとする。
そして、一部の心理学では、右脳の働きを女性原理、左脳の働きを男性原理として、この女性原理と男性原理の統合を、人格の完成(宗教でいう悟り)と解釈する考え方がある。
例えば、女性原理である直感・感性だけに片寄ると、主観的になりすぎる場合がある。これは教祖の直感力が絶対視され、それに盲従するタイプの宗教においてよく起こる問題である。よって、直感力によって迷走・暴走しないように、理性・論理的な思考による客観性を合わせ持つ必要がある。
また、論理的思考・理性は万能ではない。論理的思考は低速であり、また処理できるデータは少ない。直感力・ひらめきを司る右脳は、大量・全体のデータを瞬時に同時・並列に処理する性質があり、従来のデータに基づく論理的な思考だけでは打開できない行き詰まりを、突破する可能性を秘めており、科学者の新発見などの際にも見られることがある。
こうして、両者の統合こそが、人間の発揮しうる最高の知性=仏陀の知性ということになる。
(5)潜在意識と顕在意識の統合
潜在意識は無意識ともいわれ、通常は自覚されていない意識である。一方、顕在意識は、通常、私たちが自分だと思っている意識であり、自と他の区別があり、自覚された意識である。
そして、この潜在意識と顕在意識の統合を進めるためには、顕在意識が、都合が悪いために無視したり、忘却したりして、潜在意識に隠している自己の要素をよく自覚することが必要である。言い換えれば、潜在意識の顕在化、無意識の意識化である。
これを進めると、自分と他人のつながり・類似性を理解することができる。というのは、「自分とは違う」と感じる他人も、潜在意識に隠していた自分の要素と類似しているからである。この結果として、自と他を区別する意識が和らいでいく。
そして、これを究極まで推し進めれば、自と他の区別を超え、精神的に宇宙全体と一体化したような状態(「無限の宇宙が本当の自分」という感覚)に至る。というのは、潜在意識の最奥には、集合無意識という、万人が共有する、自他の区別のない、広大な意識があるとされているからである。
これは、仏教の唯識思想が説く阿頼耶識という根本意識とよく似た概念である。また、これは、宗教が説く大慈悲・博愛の心の働きであり、自他の区別を超えているために、他の幸福を自分の幸福のように喜び、他の苦しみを自分の苦しみのように悲しむ意識状態である。
なお、この点の詳細は、ひかりの輪の特別教本を参照されたい。
(6)悟りと利他(智慧と方便)の統合
大乗仏教では、仏陀の悟りの境地を得るには、女性原理とされる智慧(事物に実体がないという空の瞑想・悟り)と、男性原理とされる方便(利他の行い、利他の手段)の双方が必要であると説かれる。
この二つはお互いを深め合う関係で、人は、利他の行いの影響の下で、空を悟った智慧を深めることができ、空を悟る智慧に基づいて、利他の意思を固める。
また、両者の統合は、現世(輪廻)にも、非現世(涅槃(ねはん))にも片寄らない精神状態の実現とされる。空を悟る瞑想(智慧)は、現世から離れる性質があり、利他の行いは、現世に向かう性質を持つ。
利他の行い(方便)は尊いが、現世の事物に執着が生じてはならないから、執着を超えた空の悟り(智慧)を併せ持たなければならない。空の悟り(智慧)だけでは他を導けず、利他の行い・利他の手段(方便)が必要である。究極的には、自己の悟りの境地さえも、他者の状態と無関係ではなく、利他の行為は、自己の悟りも安定させる。
なお、この智慧と方便の詳細については、ひかりの輪の特別教本を参照されたい。
(7)慈悲と法力の一体性
また、潜在意識と顕在意識が統合された状態、すなわち、自と他の区別を超えた(慈悲の)悟りが深まると、意識が統合されるから、その人の意識全体の力によって、自分の願う方向に現象を動かすことができると考えられる。いわゆる強い精神集中が可能となる。雑念を排除した強い精神集中は「火事場の馬鹿力」といわれるように強力な力を発揮する。
また、ヒンドゥー教などのインド思想では、自と他の区別を超えて広がった慈悲の意識は、外界の現象に働きかける力が強くなり、その人の運命を変えやすくなるともされる。これらの考えを言い換えるならば、慈悲の悟りによって、自分の内側に潜在する神仏の如き力(=法力)を引き出すことができると表現できるのではないだろうか。
一方、慈悲が乏しく、我欲が強い人の場合は、悟りを深めずに、現象を動かす力のみを求めて、魔的な霊力の開発に陥る落とし穴にはまる。逆に、慈悲の悟りに到達したならば、その人は、その法力を真に利他に役立つ場合にしか発揮しようとせず、極めて謙抑的(けんよくてき)になるとされる。
なお、仏教においては、この教えの象徴が、聖徳太子がその化身とされる如(にょ)意(い)輪(りん)観音菩薩が持つ如(にょ)意(い)宝(ほう)珠(じゅ)という法具だと考えられている。この菩薩が左手(女性原理)に持つ法輪は、仏法=慈悲の悟りの象徴であり、右手(=男性原理)に持つ如意宝珠は、自在に願いをかなえる仏の法力の象徴である。その両者を一体として体得しているのが、如意輪観音菩薩ということだと思われる。
5.十二宝経(じゅうにほうきょう):十二の修行上の宝(大切なもの)
神仏・法則・先達(せんだつ)・法友
教学・功徳・行法・聖地
感謝・反省・決意・祈願
ひかりの輪が説く修行・修養の実践において大切にすべきものを12にまとめたものである。
第一に、「神仏・法則・先達・法友」は、仏教が尊ぶことを説く三宝=「仏・法・僧」に習ったものである。
まず、「仏・法・僧」の中の「仏」の代わりに、「神仏」と表現して、普遍的なものとした。
ここでの「神仏」とは、抽象的な概念であって、特定の宗教的な信仰を必要としないものである。より詳しく説明すると、ひかりの輪では、人の中の神聖な意識・慈悲・仏性・良心などを「人の内側の神仏」と解釈・表現したり、宇宙の「万物」を「神仏」と解釈・表現したりしており、「神仏」という言葉は使っているが、特定の宗教的な信仰を必要としないものである。
次に、「法則」については、具体的には、輪の法則を意味するが、これは、すでに説明したので、省略する。
最後に、「先達」と「法友」についてであるが、これは、精神的な修行に限らず、どんな学習でも、その道の先輩や同じ道を歩む友人との切磋琢磨が重要であることを意味している。
なお、これは、「仏・法・僧」の中の「僧」に習ったものである。「僧」の原語は、サンガであるが、サンガの原意・本意は、集い・集団という意味である。これを踏まえて、「先達」と「法友」と表現した。
次に、「教学・功徳・行法・聖地」は、ひかりの輪の学習・実践の柱のことである。すなわち、①正しい考え方を学ぶこと(学習・教学)、②正しい行為をなすこと(善行・功徳)、③身体・五感から浄化すること(行法)、④環境を浄化すること(聖地)である。すなわち、思考・行動・身体・環境の、四つの側面の浄化を説くものだ。
最後に、「感謝・反省、努力・祈願」は、日々の実践の要点である。これは、①良かったことに感謝し、②悪かったことを反省し、③良いことを伸ばし、悪いことを減らす努力をする決意をし、④その達成を祈願するということである。
なお、決意と祈願をセットにしているのは、前に述べたとおり、他力に片寄る過剰な依存心と、自力に片寄る傲慢の双方を避けるためである。
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以下は、三悟心経の誘導瞑想について解説した、「テーマ別教本《第8集》『ひかりの輪の「輪の思想」2』」の第3です。
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第7 三悟心経の思索と瞑想
(2012年~13年 年末年始セミナー特別教本《改訂版》『悟りの道・思索と瞑想 万物への感謝・尊重・愛』第2章)
この章では、三悟心経の教えに即して、私が行った誘導瞑想をテキストにしたものをご紹介し、法則の思索の一つの事例としたい。
なお、これは、DVD教材になっている実際の誘導瞑想に基づいて改訂したものなので、DVDの瞑想とは一部内容が異なるものであることをご了解されたい。
1.万物に感謝する教えの誘導瞑想の事例
「万物恩恵・万物感謝」
それでは、三悟心経の読経瞑想、特に今日は万物に感謝する教え「万物恩恵、万物感謝」これを中心とした読経瞑想をやっていきたいと思います。あいだあいだで私が、皆さんが読経しているあいだに、教えのレビュー、これを行いますので、それもお聞きになりながら読経を続けていただきたいと思います。
では、まず合掌をします。まず読経のときの姿勢ですが、安定した座法を組んで、背筋を伸ばし、肩の力は抜きます。そして、目は半眼で舌先を上あごに軽くつけます。そして、手は定印、左手の上に右手を置きます、そして、そこに金剛杵をお持ちの方はそれを乗せてください。
万物に感謝する教え、経文は「万物恩恵、万物感謝」これをまず無心に唱えていきます。それでは、始めさせていただきます。
(読経)
◎恵みへの感謝
読経を続けながら、聞いてください。
私たちは、際限なく今以上のものを欲する心、貪りのために、常に満ち足りることが少なく、絶えず不満、後悔、 不安、怒り、妬み、悲しみといった苦しみを抱えています。
この心の働きを乗り越えるために重要なのが、感謝の実践です。
今以上のものを未来に求めたり、ないしは、今のものを未来に失ったりするのではないかという不安。これは、今すでに与えられている恵み、この恵みの大きさに気づくことによって乗り越えることができます。よって、恵みに対する感謝、この瞑想をします。
恵みに感謝するために、自分の境遇を、人類、世界、宇宙全体から客観的に見てみましょう。私たちは無数の生きものの中から、知的生命体であるわずか65億の人間に生まれ、そして、さらにその中で1億余りしかいない、豊か、安全、長寿、三拍子そろった日本人に生まれています。
さらに日本人の物の豊かさに加えて、心の豊かさのための教えである、仏陀のダルマ、これにも巡り会っています。これだけでもある意味、宝くじに当たったような幸運、これに恵まれているわけです。
普段「もっと、もっと」と求めたりして、近しい人と比較するなどして気づくことがない、自分に与えられているこの膨大な恵み、これについて改めてよく考え認識して、自分が得ている恵みの大きさ、これについて瞑想しましょう。
そして、自分の得ている恵みの大きさ、これに気づいたら、それを支えているものは私たちの親族、友人、知人に限らず、すべての人々、生きもの、地球、そして宇宙、その万物であることに気づきます。こうして万物に与えられている恵みに気づいて、「万物恩恵、万物感謝」。
(読経)
自分が与えられている恵みについてよく考え瞑想し、それを支えている、与えている宇宙万物、これに対する「感謝」の瞑想をします。
(読経)
それでは、恵みに感謝する瞑想を、もうひとつ深めてみます。
先ほどは、世界全体から自分の境遇、いかに恵まれているか、これを瞑想しました。
今度は、人類の歴史全体から見て、現代を生きる我々がいかに恵まれているか、これについて瞑想します。
私たちの毎日の日常は、私たちにとってこそ、さまざまな不満の対象になりがちですが、古代人から見れば夢のような生活です。
皆さんを取り巻く万物、着物にしても、そして、住居にしても、そして、交通機関にしても、ありとあらゆるもの、そして、思想、哲学、民主主義の社会制度。どれをとっても古代人にとっては夢のようなもので、彼らがこの世界を見れば、極楽浄土とさえ感じるものでしょう。
そのような我々の日常の万物は、人類の長い歴史の中で、先人が血と汗の結晶で我々に与えてくれた大変な恩恵です。
日常、自分を取り巻いている万物が、そのような大変な恩恵であることに改めて思いを寄せ、「万物恩恵、万物感謝」の瞑想を深めます。
(読経)
普段の日常では全く忘却してしまっている、自分の得ている大いなる膨大な巨大な恵み。
無数の生きものの中から日本人に生まれ、そして、仏陀の教えにも恵まれているこの恵み。
そして、人類の長い歴史の中の頂点に立って、先人の血と汗の結晶の恵み、これを得ているこの境遇。自分を取り巻く万物が恩恵であり、万物が感謝の対象だという瞑想を深めます。
(読経)
このように自分の得ている膨大な恵み、これについてよく考えて、それを万物に感謝する瞑想をすると、貪りの心が静まってきます。
日頃、日常、些細なこと、これで不満を持ったり、不安を持ったりする。これだけ恵まれているのに、「もっと欲しい」という貪りの心で、または「今あるものをちょっとでも失いたくない」という小さな心で、不満や不安が生じる。そういった心が静まってきます。
心が静まって、そして、自分の恵みを支えている宇宙万物に対する感謝、大きな温かい心、これが生じてきます。
静まった大きな温かい心、これを瞑想します。静まった大きな温かい心を瞑想します。
貪りが静まると心が安定し、感謝の心が広がると、心が温かくなります。静まった大きく温かい心、これを瞑想します。
(読経)
貪りが静まり、心が静まり、感謝が広がり、心が広がると、貪りの裏側に自分が犯していた無慈悲、これに対する反省、これが生じてきます。
自分のことばかり考え、「もっと、もっと」と求めているうちに、この世界に共に住んでいる、自分たちよりもはるかに恵まれない人たち、無数の人たちに対して極めて無慈悲であった。そういった自分、これに気づきます。
貪りの裏に無慈悲あり。この無慈悲に対する反省をしましょう。
それは日本ではなく、途上国の人々かもしれません。それは家も何も無い、家も着物も無い人間以外の生きものたちかもしれません。そしてさらには、自分たちの友人知人の中にも、自分よりもはるかに恵まれない境遇、これを生きて皆さんを羨んでいる人たち、これもいることでしょう。
そういった人たちのことを一顧だにしなかったこれまでの自分、無慈悲な自分を反省しながら、また貪りを静め、恵みに感謝する瞑想を行います。
(読経)
感謝によって貪りが静まり、そして、感謝によって心が広がって、この清浄な心から、自分の過去の無慈悲、これを反省します。
そして、その反省から、「今後、感謝に加えて分かち合いの実践をしよう」、「感謝に加えて、慈悲の実践をしよう」と瞑想します。感謝と分かち合いの心をこめて。
(読経)
このように、自分の得ている膨大な恵みに気づくことによって、皆さんの心は貪り、これを静め、そして、慈悲を取り戻し、健全な心を回復していきます。
貪りが弱まり静まった心。感謝が広がり、大きく温かくなった心を瞑想してください。
(読経)
貪り、無慈悲によって、自分は不満、不安、後悔、その他の苦しみに悩んでいた。
それに気づき、感謝と分かち合い、感謝と慈悲によって本当の幸福の道、これを歩むことができると瞑想します。
(読経)
いったん終了します。それでは、感謝によって貪りが静まり、感謝によって大きく広がった心、これをイメージしながら、しばらく黙想してください。数分、黙想します。
(黙想)
◎苦しみへの感謝
それでは、「万物恩恵、万物感謝」の瞑想を再び始めます。
次は、万物の中で、恵みだけではなく、苦しみにも感謝する、そういった瞑想を中心に行っていきます。同じように定印を組んで肩の力を抜いて始めてください。
(読経)
苦しみにも感謝、それはなぜか。先ほどの瞑想で、貪り、無慈悲の心によって喜びではなく、かえってさまざまな苦しみを抱えているという真実に私たちは気づきました。
だとするならば、私たちが日頃経験している苦しみは、そのような貪りや無慈悲の過ちを、私たちに教えてくれる愛の鞭、神仏としての万物の叱咤とも考えることができます。言い直せば、苦しみを経験してこそ初めて、貪り・無慈悲の過ちに気づくことができる。そういった智慧を得ることができます。
また、苦しみを経験してこそ、自分の苦しみの経験から他の苦しみを理解する慈悲、これを培うことができる。こうして苦しみは智慧と慈悲の源にもなります。
よって、日頃、快楽を貪り求め、苦しみはいたずらに厭う、こういった習慣があること、これを改めて、苦しみの裏側にもある恩恵に気づいて、苦しみに感謝する瞑想をします。恵みにも感謝、そして、苦しみにも感謝。
(読経)
日常生活で、我々は苦しみをいたずらに厭い、快楽ばかり求める傾向があります。
しかし、そのようにしても、さまざまな苦しみから完全に逃げることはできません。むしろ、逃げようとすればするほど、苦しみは増大してきます。
よって、苦しみの裏側にある恩恵、これに気づいて、苦しみに感謝することで、苦しみを喜びに変えていきます。
恵みにも感謝、そして、苦しみにも感謝。よって、「万物恩恵、万物感謝」。
(読経)
先ほど瞑想したように、私たちは、気づいてみれば大変な恵みの中に生きています。そうした私たちに、仮に何の苦しみも無かったら、それは本当に素晴らしいことでしょうか。
苦しみを試練として自分が鍛えられる側面を、全く失ってしまうことは本当に素晴らしいことでしょうか。
苦しみは、先ほど述べたように智慧と慈悲をもたらす貴重な恩恵の側面があります。よって、恵みに加えて苦しみにも感謝し、すべてを前向きに受け止めます。
(読経)
このようにして、私たちの日常の恵みも苦しみも、すべてが、森羅万象が感謝の対象になれば、私たちは至福の境地、これに至ることができます。苦にも楽にも偏らず、すべてが恩恵、すべてが感謝。
(読経)
それではさらに深く、自分たちの、私たちの日常生活に当てはめて、苦しみ、これを喜びに変えていきましょう。
例えば、病気の苦しみ、その裏にも恩恵があります。病を得て、心の持ち方、生活習慣を改め体を労わるならば、それによってむしろ、健康、長寿を得る機会とすることができます。いわゆる一病息災。これは私たちの日頃の不摂生、そして、貪りの反省となります。
また、病気になって初めて、自分を支えるさまざまな人の恩恵に気づくことも多い。その意味では、感謝の心を培うのが病気の恩恵ということもできます。
また、最近の日本人が抱える将来の経済の不安、こういった経済的不安も、安全、豊か、長寿、三拍子そろった恵まれた日本の社会に生まれる我々にとっては、貪りや浪費、これを反省して質素倹約を培う機会。また、普段忘却している途上国などの貧しい人たちを顧みる機会。そういった、貪り少なく大きな温かい心を培う機会となります。
さらには自己所有物ではなくて、大自然など皆が共有している真の宝、これに気づく機会ともなるでしょう。
日頃、我々の心を悩ませる他者の批判。しかし、正しい批判は自分の未来のためになる。
今の自分に、今の自分の欠点に気づかせてくれる機会です。間違った批判は忍耐力を養い、長期的には自分の評価を高める機会となります。こうして批判を嫌がる心は「今すぐ評価されたい」というある意味での甘え、怠惰の現れで、これを反省する機会になります。
(読経)
失敗、挫折の苦しみも、その裏に恩恵があります。失敗、挫折をしても、努力を続ける限りは、それは、成功、成長へのステップ。むしろ真の成功は、失敗と自己反省から生まれます。失敗は成功のもと。失敗は、これでは成功しないということを知ったという成功へのステップです。こうして、すぐに成功を望む甘え、怠惰を反省する機会。これが失敗、挫折の恩恵ということができます。
(読経)
日常生活では、身の周りに、自分が尊敬できない、悪いことをしている人もいます。しかし、そういった存在を無用な存在と見て嫌うのではなく、謙虚になれば、それが自分の反面教師であり、自分が同じ間違いを避けるための貴重な助力者であることがわかります。
こうした反面教師なくして、自力だけで間違いを避けることが難しいのが、やはり無智な面が多々ある人間というものです。そうした場合は、自分の慢心、これを改め、謙虚さを培う良い機会とすることができるでしょう。
自分の幸福を邪魔するような、そのように見える妬みの対象、この苦しみ。彼らは一見、邪魔な存在に見えますが、またこれも謙虚になれば、彼らこそ、自分の成長を助ける存在。切磋琢磨し、共に成長するための存在です。
人は自分だけの努力、自分だけで成長することは難しい。切磋琢磨の中で、共に一体となって成長していくものです。こうして、日常生活のさまざまな苦しみの原因、これを見て、その裏側に恩恵、感謝の対象があることに気づきます。
こうして、恵みに加え苦しみにも感謝。さまざまな苦しみを喜びと捉え直して感謝します。
(読経)
それではまた再び、黙想に入ります。恵みにも苦しみにも、すべての出来事に感謝する瞑想をしてきました。その心を保ったまま、そのイメージを保ったまま瞑想をしてください。
(黙想)
◎宇宙万物への感謝
それでは再び、万物恩恵、万物感謝の瞑想を、今度は究極的な視点、悟りの視点から行いたいと思います。ではまず肩の力を抜いて、同じように、定印で唱え始めます。
(読経)
先ほど瞑想したように、貪りと奪い合いではなく、感謝と分かち合いが、真の幸福の道です。貪りと奪い合いは、さまざまな苦しみをもたらし、一見、喜びと感じられるものの裏側には、さまざまな苦しみが現れます。
一方、恵みに感謝し、苦しみに感謝する、そういった感謝の心は、心を静め、大きく広げ、私たちに真の幸福を与えます。感謝と分かち合い、これが真の幸福の道。
(読経)
感謝を深めて貪りを静め、奪い合いを静めて足るを知り、そして、分かち合いによって苦楽、これを共にする。これが真の幸福の道。すなわち、万人は、共に幸福になる。万人は、苦楽を分かち合いながら、本当の意味で幸福になる。万人は、互いに愛し合うことによって幸福になる。万人の幸福は一体であると瞑想しましょう。
(読経)
このように瞑想していくと、一つの重要なことに気づきます。万人の幸福は一体。人は共に幸福になる。その究極に万人、万物が共有しているこの無限の宇宙こそが、最大の恩恵、最大の宝であるということに気づきます。
自分だけが持っているものや、他よりも自分が優位に立つことによって幸福になるのではなく、万人が分かち合っているもの、今、分かち合っているもの、その究極である無限の宇宙、これこそが真の宝と気づくこと。これが真の幸福の道。究極の幸福の道。そう瞑想しましょう。
(読経)
真の宝は、真の恩恵は、皆が共有しているものにある。無限の宇宙は、これ以上なく広大で最も大きなもの。無限の宇宙は、これ以上なく美しく、そして、神秘的なもの。無限の宇宙は、さまざまな星々のきらめきを抱き、そして、生命という神秘を抱えるもの。
この無限の宇宙の広大さ、美しさ、神秘性、これに比べるならば、自分だけのもの、自分だけのお金、自分だけの家、自分だけの車、自分だけの名誉や地位、これがいかほどの価値を持つか。お金は紙くず、ダイヤは炭素の化合物。家、それは無限の宇宙から見れば塵ほどにも価値が無い。
真に価値のあるものは、自分だけが持っている自己所有の対象ではなく、皆が共有する、この無限の宇宙、宇宙の万物。このように考えて、真の自分の宝、真の自分の家、真の自分の家族、そして真の自分自身は宇宙である、無限の宇宙であると瞑想します。
(読経)
私たちは、皆が分かち合っている無限の宇宙こそが、真の宝であるにもかかわらず、無知、貪りといった煩悩によって、自分と他人の幸福を分け、自分だけが持っているもの、それを貪り求めることによって幸福になると錯覚をしてきました。
今その無知、これを乗り越え、貪りを乗り越え、それによる苦しみを乗り越え、万人万物が共有している真の宝、無限の宇宙こそ真の恩恵、最大の恩恵と気づきます。
(読経)
お金、地位、名誉といったものは、いくら求めても満ち足りることがなく、老い、病み、死ぬ中で失っていきます。しかし、無限の宇宙は、今、すでに私たちと共にあり、私たちはその一部でさえあります。
そして、宇宙は、私たちが死んだ後も、その宇宙に溶け込んでいく私たちの体、これと共にあります。また、生まれる前も、その宇宙の一部が、私たちの体を構成することになっていました。こうして、無限の宇宙、万人が共有する無限の宇宙は、過去から現在、未来と、永久に私たちと共にあります。
(読経)
こうして、無限の宇宙は完全であり、かつ永久不変のもの。無限の宇宙は完全であり、永久に私たちと共にあるものです。
(読経)
そして、私たちはその無限の宇宙の一部。私たちと宇宙は一体。この最大の恩恵、最大の宝、無限の宇宙に溶け込んでいく瞑想をします。
(読経)
自分と無限の宇宙が一体となって、自分が無限の宇宙に広がったと瞑想します。
(読経)
それでは、読経をやめて、無限の宇宙と一体となったとイメージし、瞑想をしながらしばらく黙想します。
(黙想)
それでは、最後に短く、再び、「万物恩恵、万物感謝」を締めくくりに唱えます。
(読経)
それでは、合掌をお願いします。聖音で瞑想を終了します。
2.万物を尊重する教えの誘導瞑想の事例
「万物仏・万物尊重」
それでは今日は、三悟心経の中の万物を尊重する教え「万物仏・万物尊重」、これを行いたいと思います。いつもの通り、安定した座法を組んでいただいて、背筋は伸ばし、肩の力は抜いてください。
長く唱えることになりますので、今日は、蓮華印ではなくて金剛定印で結構ですから、左手の上に右手を乗せて、金剛杵を置きます。目は半眼で、舌先は、上あごに軽くつけ、視線は軽く下に落とします。顔まで全く下を向いてしまいますと、背筋がまっすぐ一直線になりませんので、顔はほぼ前を向くという程度にしておいて下さい。以上は、ヴァイローチャナ、大日如来の七(しち)宝(ほう)と言われる、正しい座り方、瞑想の仕方です。
それでは、お経は、「万物仏・万物尊重」になります。それでは唱え始めましょう。
(読経)
唱えながら聞いてください。読経に瞑想を加えていきます。
◎すべての人は、未来の仏、仏の子であること
まず、すべての人は仏性を有す、未来の仏、仏の子である、という点について考えます。
釈迦牟尼もそうだったように、普通の人、凡夫が、いろいろな経験を経て仏陀になる、これが、仏教の教義の中核です。
人は悪業をなすが、それは悪業をなしたいからではなく、悪業が幸福に至ると錯覚しているからであって、悪業で実際、さまざまな苦しみを経験して行き詰まれば、その後、正法、善行の実践に目覚め、解脱し、仏陀となる、これが、お釈迦様の説いた教えでした。
もちろんこれは、短い人生の中で、すべての人が仏陀になるわけではありませんが、輪廻転生の中で、さまざまな生を繰り返す中で、仏陀になっていく、という大乗仏教の思想です(仏教の開祖のお釈迦様は輪廻を絶対視しなかったと言われるが、その後にできた大乗仏教は、ヒンドゥー教の思想の影響も受けて、輪廻が中心教義の一つとなった)。
この輪廻転生の思想を信じない立場の人でも、自分の過去世や来世を、自分の前世代、次世代と置き換えてみて、人類を一人の人として見れば、人類がさまざまな間違いから、少しずつ成長、進化してきたことが理解できると思います。
古代人から見れば、今の現代社会というのは、ある意味、仏の浄土、極楽浄土ということができると思います。イエスや仏陀の時代、革新的な思想であった万人が平等という教えは、現代では、皆が共有する思想になっています。イエスや仏陀の時代、不可能であったさまざまなことが、科学技術の力によって可能になっています。
そして、この延長上として、未来においては、現代の我々から見ても仏の浄土と思われるような社会がやってくるだろうと考えれば、今の人類社会は、仏の集団、仏の世界の先祖である、ということもできるでしょう。
こうして、人類社会を仏の集団となるものと考えると、その意味で、万人が、未来の仏、仏の子であって、仏であり、尊重すべき存在であるということができます。
(読経)
普段、この現代社会に生きていますと、先人の血と汗の結晶のさまざまな恩恵、これを当然のこととして、今までの人類の進歩を忘れがちです。それを、あらためて思い出し、それに対する感謝をなして、その恩返しとして、いっそう良い社会を次世代にもたらそうと考えましょう。
そして、この意味で、人類は、仏の集団・仏の浄土に向かっていると考え、人間存在に対する肯定的なイメージ、すなわち、未来の仏、仏の子というイメージを瞑想します。
(読経)
善悪は比較の問題ですから、現代人にとっては、現代社会が素晴らしくても、それを当然のものと考えるために、感謝・尊重の対象になりにくいと思います。そこで、人類の歴史全体を見て、いかに人類が進化してきたかをよく瞑想し、人類・人間存在に対する肯定的な見方、未来の仏、仏の子としての見方を瞑想します。
(読経)
それでは次に、万人がみな、平等に尊いということ、すなわち、それぞれが、それぞれの役割を持っていて、互いに助け合う関係にある、といった点について瞑想していきます。
これは、仏教的には、万人がみな、平等な仏性の顕現とも表現される教えです。そのためには、まず、現代社会の優劣の価値観を脱却します。すなわち、学力や財力などのみで、人々を優れた人、劣った人に二分化する価値観・習慣を脱却します。
社会の優劣の価値観は無常です。人類の歴史はめまぐるしく変わってきました。200年前は士農工商、これが優劣の価値観でした。500年前の戦国時代は、力こそが優れた者の条件でした。力ずくの世界でした。
今の社会で優秀とされるのは、学力、体力、財力、容姿といったものですが、こうした基準も永久に続くものではありません。200年後、400年後、優れた人、劣った人、といった基準は、大きく変わっているでしょう。
よって、一時的で一面的な優劣の価値観を超えて、多面的で総合的な優劣の価値観で、ものを考えるように努めます。そうすると、お金や物の豊かさだけではなく、心の豊かさの重要性、これが出てきます。この心の豊かさとは、他に学力や財力で勝つといった優秀性ではなく、他の幸福を喜ぶ、他の幸福を助ける、他の苦しみに共感し、それを取り除くといったものです。他と苦楽を分かち合う心です。他に勝つのではなく、他を愛する、助ける、支えることによる幸福があります。これが心の幸福です。
(読経)
そうすると、人には皆、長所や短所があって、その違いは、優劣ではなく、個性、さらに言えば、役割の違いということに気づきます。
例えば、何かに優れていると、それに劣っている人の気持ちを理解し、その苦しみを取り除くことは、実体験をもってはできません。何かに優れていると、その逆に、優れた他を支え励ます立場や役割、これは難しい。こうして、長所の裏に短所あり、短所の裏に長所ありということがわかります。
(読経)
こうして、人はそれぞれ、優劣ではなく、それぞれの役割を持っていて、それぞれの長所、短所を持って、平等な価値を持った、未来の仏、仏の子である、といった気づきが生じます。これについて瞑想しながら読経します。
(読経)
人と人の違いは、優劣ではなく、個性、役割の違い。お互いがお互いの短所、長所、これを補い合って、みんなが助け合いながら、幸福になる。これが人と人の真の関係。
(読経)
万人が平等に未来の仏である、そういったことに気づいたならば、次に、万人に対して何をなすべきか、これを考えましょう。
万人を仏として尊重する、それに基づいてなすべきことは、万人の成長を助けることでしょう。それが自分の成長を助けることにもなります。互いの成長を助け合う実践です。
(読経)
万人を尊重し、万人が成長する手助け、慈悲の実践を行ないます。万人を尊重し、万人の成長のお手伝いをします。
(読経)
具体的には、他人の優れた点を見ては、それを妬まずに心から喜び励まします。一方、他人がいかに優れているように見えても、必ず欠点を共有しているものと考え、依存しすぎずに、その人の慢心を防ぐようにします。
他人の欠点を見ては、その欠点に巻き込まれて真似することなく、その欠点の裏側にある長所、これを引き出すように助けてあげるようにします。
こうして、人の良い所を伸ばして、その裏側の短所を防ぎ、人の欠点を真似することなく、その裏にある長所を引き出すように努めます。こうして他の成長のお手伝いをして、それによって、自分も他に支えられて成長し、幸福になるのです。
(読経)
他人が、慢心などによって、その長所を欠点にすることなく、長所を伸ばし続ければ、それによって、自分も助けられて成長します。他人の短所を自分が悪い意味で真似することなく、その裏側にある長所が引き出されれば、それに支えられて助けられて、自分も成長します。
こうして、万人は互いに助け合って成長する、助け合って幸福になる関係であると考え、万物を仏として尊重し、万人を助ける実践を行います。
(読経)
万人を未来の仏として平等に尊重する心、それに基づいて、万人の成長を助ける心。言い換えると、万人の尊重と万人への慈悲。これが真の幸福と成長の道です。
それでは、万人に対する尊重をイメージしながら黙想しましょう。そのために、余力があれば、万人が仏であるといった観想、仏様として万人を観想していただいても結構です。
(黙想)
黙想を終了します。
◎万人が、仏のように、自分の学びの対象であること
では、万人を尊重する瞑想の第二部を解説します。これは、万人を自分の学びの対象と考えることです。万人が自分の学びの対象であるという瞑想です。
それで、その前に、まず、万物仏・万物尊重を唱えましょう。
(読経)
では、万人が学びの対象であるという瞑想に入ります。
人は、さまざまな善行や悪行をなします。そして、他人の悪行は、腹立たしく感じるものですが、慢心を控えて謙虚になって、その人を自分の反面教師と考えれば、その人は自分の助力者とも解釈できます。
また、他人の善行については、場合によっては、妬みが生じる場合もあります。自分より優れた人を見て妬む場合があります。しかし、素直な目で見れば、その人は自分の見本であり、助力者です。
こうして慢心と妬みを控えて、謙虚さと向上心をもって他を見れば、他の悪行は自己の反面教師、善行は教師となります。その意味で、謙虚さと向上心を持ってみれば、他人は自分の助力者、自分が学ぶ対象と映ってきます。
実際、反面教師なくして自分の力だけで悪行を回避することが完全にできるでしょうか。反面教師の他人があってこそ、自分が悪行を回避している場合が多分にあるはずです。
そのように考え、悪行をなしている他に対して、慢心を背景とした軽蔑や嫌悪を超えて、謙虚さを持って、反面教師として、自己の内省・自省をしましょう。
また、優れた他人、善行をなしている他人については、場合によっては妬みの心を持ち、自分の幸福の邪魔だと考えてしまいます。しかし、真実は、そういった優れた人がいてこそ、自分も成長できます。すなわち、自分にとって切磋琢磨の対象です。優れた他なくして、自分ひとりの力で、どのぐらい向上できるでしょうか。
こうして、反面教師や優れた他人がいなかったならば、本当に成長することができるかについて考え、他の善行も悪行も、自分の学びの対象と考えます。
こうして、万人・万物が、学びの対象であると瞑想します。その意味で、万物は仏のごとく、私たちに教えてくれる存在であり、万物を仏として尊重する考え方に行き着きます。
その意味で、万物仏・万物尊重を唱えます。
(読経)
では、具体的に、自分の日常における軽蔑の対象を思い浮かべて、貴重な反面教師と捉え直してみます。
また、日常の妬みの対象を思い出して、貴重な助力者、切磋琢磨の対象と考えてみましょう。
(読経)
そのようにして、万人が自分の学びの対象として、仏のごとく、価値のある存在だと修習します。
(読経)
こうして万人万物は、互いに学びの対象です。
この点についてもう少し深く考えてみましょう。人類の歴史を見れば、人は、他人の善行、悪行を学びの対象としてきたことがわかります。言い換えれば、人類の歴史には多くの争いがありましたが、長期的な視点で見ると、自分たちでも気づかないうちに、互いから学び合い、成長してきました。
例えば、歴史上の先人の成功や失敗、良い行為や悪い行為から学んできました。考え方が異なり、敵対する者達からも、長期的には、その良い所は見習い、悪いところは反面教師としてきました。こうして、結果として、人々は、互いから学び合いながら、成長してきたのではないでしょうか。
(読経)
さらに、現代の社会の特徴である競争というものも、互いの良いところを学び合い、悪いところをつぶし合う切磋琢磨のプロセスとも考えられます。こうして、人々は、時には互いに融和し、時には対立し、時には競争しながら、互いに学び合いながら、成長してきました。よって、万人を学びの対象として尊重し、万物仏・万物尊重を唱えます。
(読経)
さて、次の瞑想に入ります。こうして他から学んだならば、その恩返しとして、他に与え返す実践をします。他の悪行を反面教師として自分が学び、自分の内省・反省が深まると智恵が深まります。その智恵によって、他の悪行を取り除くお手伝いをできるだけするのです。これは自分の利益にもなります。自分の反省に加え、他の悪業を取り除く手伝いをすることで、自分の中の問題を完全に取り除くことができるからです。
また、他の優れた点からは、それを妬まずに積極的に学んで、それを多くの人に与える、多くの人と分かち合う実践をします。他から良いところを学び取り、それを教え与えると、その良い点は、自分の中でさらに確立していきます。
(読経)
こうして他から学ぶことに加え、その恩返しとして、分かち合いの実践をします。他の悪行を反面教師として学び、他の悪行を取り除いて、自分の悪行を根絶する。他の長所から学び、多くの人に教え・分かち合うことで、自分が学んだものを、いっそう確定するのです。こうして、学んで分かち合う実践をします。
(読経)
こうして万人・万物を学びの対象とします。自分の教師ないし反面教師とします。そして、学んで教えることも、また自己の学びにつながると考えます。
日常で、我々が巡り会うすべての人々について、仏と同等に貴重な学びの対象として尊重し、さらに、教え合うことによって、また互いに成長する。そのように瞑想します。
(読経)
それでは黙想に入ります。
まず、万人が、人類が、未来の仏と考えます。そのように見る、大きな明るい温かい心を持つようにします。
次に、さらに、万人・万物が、自己の学びの対象、共に成長する対象と考えます。そのように見る、大きな明るい温かい心をイメージして瞑想します。
(黙想)
◎人類全体が、一人の大いなる未来の仏であること
それでは黙想を終了します。次に、万物仏・万物尊重の瞑想の第三部を行います。
ここでは、先ほど実践した、万人が互いに学び合いながら、一体となって成長しているという気づきに基づいて、人類が、一体として成長する、一つの大いなる生命体であると考えます。すなわち、人類が、一人の大いなる未来の仏であると考えます。それではまず、万物仏・万物尊重を唱えましょう。
(読経)
では、人類が、一つの大いなる未来の仏という瞑想をする前に、先ほどの瞑想を復習します。
まず、人々の間に優劣はなく、役割の違いがあって、お互いがお互いを助け合う関係だと学びました。人にはそれぞれ長所と短所があって、その長所の裏に短所があり、その短所の裏に長所があります。ですから、人と人とは互いに助け合う、補い合う関係にあります。
何かに優れた者は、劣った者の気持ちを理解し、その苦しみを取り除いたりすることはなかなかできません。同じように劣った者の方が上手くできます。また、自分が優れている者は、優れた他を支えるといった実践はなかなかできません。こうして、長所と短所、これは裏表です。
その一例として、煩悩の強い者が解脱すると、その解脱も大きいという教えがあります。大煩悩・大解脱という教えです。煩悩が強いというのは、本質的にエネルギーが強いのです。ですから、無智が晴れて解脱したならば、強いエネルギーによって、強い慈悲を持つようになるという教えです。
こうして、人と人は、本質的には、長期的には、お互いを補い合う関係になり、それぞれに役割があり、助け合いながら成長していくものだという瞑想を深めましょう。
(読経)
では、もう一つの教えを復習します。それは、万人万物が、互いに学びの対象である、教師、反面教師として、学びの対象である瞑想です。こうして、さまざまな意味で、万人万物は、互いに助け合いながら、補い合いながら、一体となって成長しているという瞑想を深めます。
人々は一体となって成長している。人類は、一体となって成長していると瞑想します。
(読経)
互いの短所を補い合いながら、互いの長所を学び合いながら、互いの悪行を反面教師として反省しながら、互いの善行を見習い合いながら、一体となって成長していると瞑想します。
(読経)
現代社会の競争も、また互いの良さを学び合い、悪さ、これを潰し合う、そういった切磋琢磨のプロセスだと考えられます。
こうして、万人・万物、人類は、一体となって成長していると瞑想し続けます。
(読経)
こうして、万物の成長は一体。皆は共に成長し、共に進化しています。
そこで、こうして一体となって成長している人類というものを、一つの大いなる生命体、一つの大いなる未来の仏と考えます。人類という一人の仏がいる、ないしは、宇宙という一つの仏がいると瞑想します。人類社会は、一人の大いなる仏である。宇宙は、無限の宇宙は、一つの大いなる仏である。皆が一体となって成長している、大いなる仏であると瞑想します。
(読経)
これは、小宇宙と大宇宙のシンクロです。小宇宙は、人間の体、その中には、色々な細胞があります。それと同じように、大宇宙には、その細胞としてさまざまな生きものがいます。それらが一体となって成長しています。
よって、人類社会が、一つの大いなる人間、大いなる生命体、大いなる仏。宇宙全体が、一つの大いなる人、大いなる仏。その意味で、万物が仏です。万物が一つの大いなる仏という意味で、万物が仏です。
(読経)
皆さんが生きる人類社会も、一人の進化し続ける、大いなる仏の子、未来の仏とイメージします。皆さんはその細胞の一部です。
すべての人々、すべての細胞は、互いにつながり合って、一体となって成長していきます。
(読経)
その中で我々は、我々のそれぞれの役割を果たし、そして、他がそれぞれの役割を果たすお手伝いをする。その意味で、万物仏・万物尊重と唱えましょう。
(読経)
こうして、それぞれの人々が、それぞれ未来の仏であるとともに、万人が一体として、一人の仏だと瞑想します。それぞれの人が、未来の仏、仏の子であるとともに、その人々の集まり、すなわち人類全体が一人の大いなる仏、仏の子と瞑想します。
人類社会という巨大な仏、宇宙という巨大な仏をイメージします。
(読経)
それでは黙想します。
地球、人類社会、そして宇宙全体、これが一人の大いなる仏であって、その細胞であるわれわれ一人一人は、互いに学び合いながら、助け合いながら、一体として成長しているとイメージします。自分は、大いなる仏である大宇宙の細胞のようなもの。他の細胞と助け合いながら、一体となって生きて成長します。
それでは黙想を終了し、締めくくりに、万物仏・万物尊重を唱えます。
(読経)
それでは、合掌して終了します。聖音は、悟りの教えの象徴です。
3.万物を愛する教えの誘導瞑想の事例
「万物一体・万物愛和」
それでは、合掌お願いします。聖音をもって読経瞑想を始めたいと思います。
まず座法を確認します。安定した座法で座って肩の力を抜き、手印は、今日は長くなりますので、金剛定印で結構です。左手の上に右手を置いて、その上に金剛杵を置きます。目は半眼で舌先は上顎に軽く当て、視線は軽く下に落とします。
顔は、あまり下を見ずに軽く顎を引くぐらいにしてください。あまり下向きにならない感じに。背中・首・頭は一直線になるように、背筋を伸ばすことが重要です。
では、「万物一体・万物愛和」、この経文を唱えていきます。それでは始めましょう。
(読経「万物一体・万物愛和」)
読経しながら聞いてください。
宇宙の実相は、自分と他人を含めた万物は一体です。しかし、人は、自分と他人を分け、比較するために、さまざまな苦しみが生じます。卑屈・妬み・怒り、他に対する過剰な依存などの苦しみ。しかし、万物が一体だと悟れば、このようなさまざまな苦しみや否定的な感情は一掃されます。
(読経)
◎万物一体と悟る三つの瞑想
万物が一体だと気づくために、三つの瞑想のポイントがあります。一つ目は、万物が相互依存であること。いかなる存在も、他から独立して存在してはいません。皆が万物に支えられて存在しています。
宇宙の万物は、すべて宇宙の万物によって生み出された、宇宙の万物の一部です。
(読経)
二つ目は、宇宙の万物は、同じ一つの根源を持っていること。科学的に言えば、ビッグバン、今の宇宙にあるすべてのものは、歴史的に一つの根源から生まれました。
(読経)
同じ一つの宇宙の始まり、ビッグバンから生まれた宇宙の万物は、同じ木の幹の枝のように同根で同胞ということができます。皆が同胞家族のようなものです。万物は同根で、同族で、一体です。
(読経)
第三に、万物は互いに循環しています。互いに互いを交換し合っている。特に生命体の体を構成する分子は、外界のものと絶え間なく入れ替わっています。だから、自分と他の生命体の間で、体を構成する分子が入れ替わっているのです。
こうして、我々は、地球生命圏の中を循環・還流する無数の分子、これを他の生きもの、他の人々と共有しています。この意味で、自分だけの体などありません。無数の分子を共有している一つのつながった大きな生命体のようなもの、これが我々の実相です。
(読経)
体を構成する分子の循環は、我々の意識にも関連します。意識に関連する脳の分子も、自分と他者の間で循環しているからです。さらに、我々の思考を作るさまざまな情報についても、自分と他人の間で頻繁に交換されています。その意味で、自分だけの思考、自分だけの要素で作られた思考・知識などはありません。
こうして、肉体的・物理的な要素も循環し、精神的な要素も循環しています。自分だけの体、自分だけの考えはなく、万物が循環し、一体として存在していることを瞑想しましょう。
(読経)
万物は相互依存であり、同根であり、循環し合っている。このように見て、万物が一体であると瞑想し、自分の意識を宇宙の万物まで広げていきます。
そして、自分は宇宙と一体、宇宙万物と一体と瞑想します。
(読経)
意識を宇宙全体に広げて、大きな大きな意識になったと瞑想します。
(読経)
万物が一体であり、私というものは、一体である万物の不可分な一部です。言い換えれば、真の自分とは宇宙万物ということもできます。
宇宙万物が真の自分である。真の自分は宇宙万物に広がっていると考えながら読経します。
(読経)
それでは黙想に移ります。読経をやめ、宇宙万物が一体とイメージし、宇宙万物が自分だとイメージし、心を大きく広げて、瞑想します。
(黙想)
それでは黙想・瞑想を終了しまして、再び、万物一体・万物愛和、これを唱えつつ、別の観点から、思索してみたいと思います。それでは、始めましょう。
(読経)
それでは、我々の日常生活で現れるさまざまな否定的感情を、万物一体の教えで浄化していきたいと思います。例えば、日常では悪いことをしている人を思い浮かべて、怒りを弱めていきます。そうしながら、万物一体・万物愛和。
(読経)
さらに、そういった悪行をなしている者、嫌悪や軽蔑の対象、それは自分と一体の世界にある以上、自分にも潜在的には似たような要素がある可能性があります。悪行をなす者は、自分の潜在的悪行を映し出す鏡の可能性があります。
慢心・軽蔑に陥ると、そう気づきませんが、謙虚な気持ちになって考えれば、自分にも似た要素がある。そう気づいて反面教師として受け止めていきます。反面教師として学んで、その対象を愛します。
(読経)
次に、自分の悪行・欠点、これによって我々は卑屈に陥ります。しかし 万物一体であるならば、自分だけの欠点、自分だけの過ち、自分だけの失敗などありません。宇宙に生きる多くの生きもの、多くの人々が、それを共有しています。
よって、その自分の欠点を乗り越えるならば、同じような欠点や苦しみを持つ人、これを救うための、自分の貴重な財産となります。自分の欠点、これを自分の長所・財産に変えることができます。
このように、欠点も万物一体と考えるなら、卑屈に陥らず、努力によって自分の長所と変える気持ちを持ちます。日常悩んでいる自分の欠点、これを長所に変えていこうという決意を持って、万物一体・万物愛和。
(読経)
次に日常生活の妬みの対象、優れた人を見ると、我々には妬みの感情が湧きます。自分の幸福の邪魔者のように、錯覚してしまうのです。
しかし、万物一体の教えに基づいて考えると、そのような優れた他人は、自分たちの見本、自分たちが見習って、自分たちも同じような優れた性質を身につけるための助力者であることが、わかります。他人の徳と自分たちの徳を区別せずに、妬みを超えて、万物一体・万物愛和。
(読経)
人は、そもそも優れた他者、好敵手と、健全な切磋琢磨によって成長する。皆は一体となって成長します。そのようにも考えて、万物一体の教えで、妬みを超えて、万物一体・万物愛和。
(読経)
このように、万物一体・万物愛和の教えによって、日常の軽蔑・嫌悪の対象、妬みの対象、そして自分の中の卑屈、こういったものを浄化していきます。
軽蔑・嫌悪の対象は、貴重な反面教師、自分と一体。優れた対象は、自分の助力者。皆の成長は一体。自分の欠点も自分のものだけでなく万物一体。それを克服すれば万人万物に貢献するものとなります。
(読経)
このように万人万物が、自分とつながっている一体のものと考えて、日頃の否定的な感情を乗り越えます。そして万人万物を愛する大きな心、万人万物に感謝する大きな心を培います。
(読経)
それでは、また黙想をします。
(黙想)
◎万人の幸福は一体だと悟る瞑想
黙想を終了します。
さて、万物一体・万物愛和という教えは、万人の幸福も一体であり、万人は共に幸福になることを意味しています。これを意識しながら、まず再び、読経しましょう。
(読経)
万人は共に幸福になる。万物が一体であるならば、万人の幸福も一体です。感謝の瞑想によって、私たちは、真の幸福は、貪りと奪い合いでなく、逆に、感謝と分かち合いによって得られることに気づきました。
すなわち、他と苦楽を分かち合うことにより、真に幸福になるのです。このことからも、自分と他人の幸福は一体であり、自分と他人は共に幸福に向かうものだとわかります。
(読経)
また、尊重の瞑想によって、私たちは、他の悪行を反面教師として学んだ上で、他の悪行を取り除く手伝いをして、自分も学ぶものであることを瞑想しました。他の悪行を取り除くことは、自分の中の悪行を取り除くことにつながるのです。
同じように、他の善行から学び、その善行を多くの人に教えて分かち合うこと、さらに自分も学び、善行を深めることができます。他から学び、他に教えて、教えることで自分も学ぶ。こうして、自分と他人の幸福は循環し、一体となって増大していきます。
(読経)
また、最高の幸福、無限の幸福というものを考えてみても、自分と他人は一体となっていることがわかります。なぜならば、宇宙のすべての幸福を得る唯一の道は、他人の幸福をそのままに自分の幸福とすることだからです。
他人から幸福を奪って、自分の幸福を増やそうとしても、奪い合いに陥ります。他の幸福を、そのままに自分の幸福とする意識の改革によってのみ、すべての幸福を得ることができます。その意味でも、自分と他の幸福は一体であり、万人の幸福は一体です。
(読経)
こうして最高の幸福・無限の幸福とは、宇宙のすべての幸福を喜ぶこと、宇宙万物の幸福を分かち合うことによって得られます。
言い換えれば、完全な苦しみの滅尽は、すべての人の苦しみを取り除くお手伝いをすることによって得られます。この社会で誰かが不幸であれば、この社会に同じように住む我々も、同じ不幸に出合う可能性があります。すべての他人の苦しみを、取り除こうとする愛を持ってこそ、自分も本当に、苦しみから解放されるのです。この意味でも、万物の、万人の幸福は一体です。
(読経)
◎万人が共に幸福になる大慈悲の瞑想
こうして、我々は共に幸福になり、共に不幸となります。万人の幸福は一体、万人と共に幸福になろうとすることが、真の幸福の道です。
(読経)
よって、仏教が説く菩薩・仏陀の実践、大慈悲の実践があります。万人と共に幸福になる実践です。具体的には、慈・悲・喜・捨の四つの心、四無量心と呼ばれています。
他と幸福を分かち合う慈の心、他の苦しみを悲しみ取り除く悲の心、他の幸福を喜ぶ喜の心、そして万人を平等に扱う捨の心。万人と苦楽を分かち合って、共に幸福を増大させ、苦しみを減少させる、大慈悲、四無量心の実践です。
(読経)
万人の幸福は一体。我々は、共に幸福になる。互いの苦楽から学び合い、互いに苦楽を分かち合って、一体となって幸福となる。これが、真の幸福の法。よって、他に幸福を与え、他の苦しみを取り除き、苦楽を分かち合いましょう。
(読経)
それでは再び黙想に入りましょう。今、学んだこと、万人の幸福は一体、万人と共に幸福になる、万人と苦楽を分かち合って、真の幸福に至るといったことを考えつつ、黙想します。
(黙想)
それでは、最後の締めくくりの読経瞑想を行います。同じように 万物一体・万物愛和、を唱えます。
(読経)
この万物を愛する教えは、二つのポイントがありました。一つは、万物が一体であること、言い換えると宇宙万物が真の自分と解釈できること。
二つ目は、万人万物の幸福が一体であること、言い換えれば万人と共に幸福になること。この二つのポイントを、同時に合わせて瞑想してみましょう。
まず、真の自分は、宇宙万物だと考えて、意識を宇宙万物に広げていきます。これが瞑想の究極です。
次に、同時に皆さんの宇宙に広がった意識が包んでいる宇宙のすべての生きもの、すべての人々について考え、彼らと自分は共に、幸福になっていくのだと考えます。これが、日常生活での実践の究極です。
真の自分は、無限の宇宙に広がっていると悟りつつ、日常生活では、すべての人と共に幸福になろうとする生き方をしていくこと。これが、智慧と慈悲とか、空と四無量心とか、智慧と方便などと呼ばれる、仏陀の悟りの境地です。
繰り返します。真の自分は無限の宇宙と悟りつつ、毎日の生活では、なるべく多くの人と苦楽を分かち合って、共に幸福になるように努める。このように瞑想をしてみます。
(読経)
真の自分は、宇宙万物に広がっていると悟りながら、毎日の生活でなるべく多くの人と苦楽を分かち合い、共に幸福になるように努める。智慧と慈悲、空と四無量心、これが仏陀の境地、それが真の意味での、万物一体・万物愛和。
(読経)
それでは、そろそろ瞑想を締めくくります。万物一体・万物愛和、万物一体・万物愛和、万物一体・万物愛和。それでは合掌お願いします。