【4月4日宗像五社2】鎮国寺――鎮護国家の根本道場・宗像五社を巡る
今回の巡礼は、宗像五社を巡る旅でした。
宗像五社とは、宗像大社の三社と、鎮国寺、織幡神社の五つをいい、古くから朝廷の尊崇が厚かった五社と知られています。
宗像大社辺津宮の後は、鎮国寺の参拝です。
◎屏風山鎮国寺
宗像大社から見て海の方角に向かって右手の屏風山に、鎮国寺があります。
鎮国寺は、弘法大師空海が、唐から密教をお持ち帰りになった後、日本で最初に、鎮護国家の根本道場として創建されたと伝わるお寺です。
※鎮国寺
宗像大社から鎮国寺までは車で10分ほどの距離にあり、向かう途中、玄界灘に流れるゆるやかな川の風景は、たいへん懐かしい日本の原風景のような心持ちのするところです。
9世紀初頭、弘法大師空海は、この宗像の地から玄界灘を通り、密教を学ぶために遣唐使船で唐へと旅立ちました。
この地は大陸との重要な海路の出発点にあたります。
さて、その航海の最中、大暴風雨の危機に遭われた弘法大師は、海の守護神である宗像大神や諸仏に祈りを捧げると、不動明王が現れ、嵐が止み無事に唐に着くことができたと伝わります。
無事密教の秘法を授かり、日本に持ち帰ることができた大師は、まず宗像大社に礼参されたといいます。
そのとき、今の鎮国寺のある屏風山に、五色の雲たなびいていたのでそこに向い、奥の院の岩窟にて修法を始めたところ、「この地こそは鎮護国家の根本道場たるべき霊地」というお告げを聞き、鎮国寺を建立したと伝えられています。
花と祈願の寺とも言われ、あちこちに花が咲き、うぐいすの鳴き声を聞くことができました。
まず最初は、護摩堂にて、お香を捧げて参拝させていただきました。
ここには、弘法大師の危機をお救いくださった不動明王の秘仏が祭られています。
※護摩堂
次に、五仏の祭られる本堂の参拝です。
※本堂
この本堂は、またの名を、「五仏堂」「本地堂」と言われていますが、その所以は、宗像三神の本地仏と織幡明神、許斐権現の本地仏の合計五つの仏さまをお祀りしていることからきています。
本地仏とは、仏教の仏や菩薩が、衆生を済度するために、神となって現れたとする本地垂迹説において、その本体の仏や菩薩のことをいいます。
神仏同体とする考え方です。
お堂のに入ると、そうそうたる仏像が祭られていました。
五仏のうちの三仏、大日如来、釈迦如来、薬師如来の三仏が、宗像三女神の本地仏としてご本尊とされています。
※五仏全景
右から、如意輪観音。
こちらは宗像五社の織幡明神の本地仏です。
次は釈迦如来。
こちらは、宗像大社中津宮の御祭神・湍津姫神(たぎつひめのかみ)の本地仏です。
真ん中は大日如来で、宗像大社沖津宮の御祭神・田心姫神(たごりひめのかみ)の本地仏です。
左から二番目は、薬師如来。
こちらは、宗像大社辺津宮の御祭神・市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)の本地仏です。
一番右は、阿弥陀如来。
許斐(このみ)権現の本地仏です。
この五仏の前で、しばし真言を唱え、このたびの大震災でお亡くなりになった方々のご冥福と、被災された方々の一日も早い心身の傷のご回復をお祈りさせていただきました。
そして、弘法大師空海が岩窟で鎮護国家の示唆をお受けになったという、奥の院へ足を運びました。
奥の院の入口から、八十八の石仏がお祀りされる小道をしばらくの間上っていきました。
かなり階段を上っていくと、奥の院に到着です。
奥の院は、岩窟の前に小さなお堂を建てた自然と一体の姿のお堂でした。
※奥の院
襖を開けて中に入り、しばらくの間、祈願をさせていただきました。
お堂の中は薄暗いものの、奥の岩窟がうっすらと見え、弘法大師空海が、鎮護国家の瞑想されていた時代が偲ばれました。
多くの方が参拝に訪れる、民衆に開かれたお寺でありながら、奥の院は静けさを保つ厳粛な雰囲気のするところでした。
次は【4月4日宗像五社3】織幡神社――宗像五社を巡る、に続きます。
( つづく )