【4月18日 鎌倉レポート2】宇賀福社(銭洗弁財天)、建長寺
●宇賀福〔うがふく〕神社(銭洗弁財天〔ぜにあらいべんざいてん〕)
この、銭洗弁財天として有名な宇賀福神社は、自然の中の山の中腹に鎮座しています。
この神社の構造は面白く、まず、胎内回帰のような岩のトンネルをくぐり抜けて境内に入ると、いくつかの社があって、さらに奥には泉の湧く洞窟があり、そこに宇賀福神が祀られているというかたちとなっていました。
ここは、平安末期、鎌倉の災害が続き貧困にあえぐ庶民のために、源頼朝が世の救済を祈願したところだといわれています。
社の縁起によると、1185年の巳の月、巳の日、鎌倉に入った源頼朝の夢枕に、一人の老人が現れ、「ここから西北の方に一つの谷があり、福の神が神仏に供えているという不思議な泉がある。今後この水を汲んで神仏をまつれば、人々は信仰心をおこし、国内は平穏に治まる。私は隠里の主である宇賀福神だ」と言うなり姿を消したのだそうです。
頼朝はその場所を調べさせ、岩窟を掘り、宇賀福神を祀り、その夢告のとおりに、その水を運んで神仏の供養を続けたところ、人々は富み栄えるようになったと言い伝えられています。
宇賀福神は、水の神、穀物の神、農業の神で、体は蛇で頭は人の形をしているといわれています。
ここでは、境内のいくつかの社を、灯明とお香を捧げながら、順に巡礼していきました。
いろいろな社の脇には、小川が流れ、水の聖地である様相を呈していました。
この社は、現在は「銭洗弁財天」の名で知られていますが、そう呼ばれるようになった由来として以下のような言い伝えがあるそうです。
1257年、北条時頼より「貨幣をこの水で洗い清めれば清浄の福銭になる」と聞いた人々が、この水で貨幣を洗ったところ、貨幣は、どんな時でもなくなったり、使い果たしたりすることはなく、借金はみな解決したりしたので、いつしかその水は「銭洗水」と呼ばれ、ここで銭を洗うと、汚れが取れて福を招く銭となり、お金が増えるといわれるようになったそうなのです。
ここではわたしたちもその風習にならい、その聖水でお金を洗い清めて、被害者賠償などの祈願をさせていただきました。
●建長寺(けんちょうじ)--禅宗の大本山
次におとずれたのは、北鎌倉にある禅寺・建長寺です。ここは、「鎌倉五山」の第一位で、臨済宗建長寺派の大本山となっています。
建長寺 総門
建長寺 三門
総門、三門をくぐり、境内を歩を進めていくと、いくつもの大きなお堂が建ち並んでいました。
まず、ご本尊の地蔵菩薩が安置されている仏殿がありました。わたしたちは順を追って、多くのお堂を、お香や真言などを捧げながら参拝していきました。
以前からこの地で地蔵菩薩が祀られていたことから、建長寺のご本尊も地蔵菩薩となっています(重要文化財)。なお、ご本尊のある仏殿は東京・芝の増上寺(2007年巡礼)から移築されたものです。
仏殿:本尊・地蔵菩薩が安置されている
柏槇(びゃくしん)。高僧とともに海を渡ってやってきた樹齢750年の古木
法堂 法の雨を降らせるという雲龍図が描かれています
建長寺の建立の由来は、鎌倉武士たちと密接に関わりがあると伝えられます。
殺生の世界、戦の世界に生きていた鎌倉武士たちは、宗教に救いを求める気持ちが強かったのですが、東国に居着く高徳の僧はいなかったそうです。そこで、鎌倉幕府五代執権・北条時頼は、建長5年(1253年)、中国の高僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を招いて、建長寺を建立し、これが日本で最初の禅寺(禅だけを修行する専門道場)となったそうです。
この蘭渓道隆は、中国宋時代の純粋で厳しい禅をそのまま導入し、建長寺は寺僧1000名を超すまでに発展していきました。そしてこの建長寺を中心にして、日本全国に禅宗が広まっていったのです。
境内には、何人もの禅僧の姿が見られ、禅の入門書などが販売されていて、一般の立ち入りを禁ずる西来庵という禅道場があり、実践的な厳しい修行道場という印象を受けました。
また、池辺に石や草木を配する禅寺らしき庭園などもありました。
方丈庭園
「方丈」法要や儀式を行う場所
次は、鎌倉五山の一つである、円覚寺へと向かいます。