第301回『悟りの境地を阻む日常の中の錯覚とは』(2016年9月25日 東京 65min)
(2016年9月27日)
私たちの日常の意識には多くの錯覚があり、人の世界の感じ方と実際の世界の在り方には大きな違いがあり、それが悟りの境地を阻んでいる。これが、仏教が説く全ての煩悩と苦しみの原因である「無智」である。この点に関して、具体的に以下の三つの視点から解説している。
1.悟りの境地は万人を恩人、万物を恩恵と見て、万人・万物に感謝を持ち、恩人である万人に恩返しする意味で、利他=菩薩道の実践を行う。
普通の人は、自分のものは喜び、他人のものは苦しみ(妬ましい)、誰のものでもないものには無関心という、一種の思い込み=色眼鏡で世界を見ている。同じものでも、自分のものか、他人のものかで、全く印象が変わってしまう。
しかし、色眼鏡を取り除いて純粋なまなざしで世界を見ると、万物恩恵・万物感謝という心境に至る。
2.悟りの境地には、万物が等しく尊いと映る(万物が平等な仏性の顕現)。
普通の人は、優れたもの・劣ったものを安直に2分化するが、実際には、長所と短所は裏表であり、他に勝つ能力と他への優しさ、煩悩と菩提心も表裏(大煩悩・大解脱)。現代人は、他生物や自然よりも優れていると思い込むが、仏教では、人間は悟ることもあれば、他の生き物にはない大きな罪をなす両面性があり、戦争=同士討ち=共食いが多く、地球を滅ぼしかねない。
悟った視点からは、万物に学ぶべき長所があり、他に見える欠点は自分の反面教師であり、万物は自分の潜在的な長所や短所を映し出す鏡であって、仏に準ずる学び(合い)の対象である。
3.悟りの境地は、万物を一体と気づいており、それ故に、自ずと万物を愛する心境に至る。普通の人は、自分の五感や言葉による思考を信じ切っているために、実際には一体である万物をばらばらだと錯覚し、自と他、時と他の幸福を区別して、自分だけに過剰に執着(自我執着)して苦しんでいる。